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【妄言】迷惑な人に「他人の迷惑を考えろ」と言うのは無意味じゃないかということの意味について。

テーマ:一般的にこの文脈は他人の迷惑を気にしない奴は[悪い奴]または[どこかおかしい]から話したって無駄だという意味で用いられている気がするが、そうではなくむしろ言ってるほうが他人を理解してないんじゃないか、ということについて。

注意書き。
「Thinking Time」は深夜にだらだら連ねたどうでもいい駄文をまとめたシリーズで、僕の頭に浮かんだことですから根拠とかは有りませんし、おおよそは妄言です。それに多くが結論があるわけでもない投げっぱなしです。また、テーマにかかわらず政治的主張や何かの陣営に与することを意図するものでは全くなく、そう解釈される場合は僕が歴史上の事実(思想ではない)をそのように認識しているだけか、僕の書き方が悪いということです。異論はとてもみとめるし、だいたいはすごく回りくどい。


1.あなたは箸の持ち方を覚えているか

 大抵の日本人なら何言ってるのって感じだろけど、「箸の持ち方」を言語化することは極めて難しい、はず。なぜならそれはすでに言語化が必要がないほど習得され、あるいは言語を取得する前に習得され、無意識レベルにプリセットされているからだ。箸が使えるようになれば、いちいち指先の動きを意識しながら飯を食う人間は……少ない。いないとは言わない。
 自転車の乗り方なんかもそうだけど、一度習得してしまえれば習得前にどうして乗れなかったかがわからなくなる。つまりそれは一定の行動が自身の中で最適化されたということだろう。
 そんなわけで、人はその生活を、自分で思っているより自動化された行動に頼っている。

 そして「考え方」も同じと思う。
 人は都度、「一から考える」をするわけではない。ある程度まではプリセットを利用してスキップし、問題部分だけ各々の方法で「考える」という行動をとる。そのための一定の適切な考え方(飛ばし方)がプリセット(学習)されてしまえば、無意識にその思考方法をとり、それ以外の考え方が存在するということが見えにくくなる。特にすっ飛ばしてしまう部分については。
 そんな馬鹿なという意見もまた当然である。世の中には数え切れないくらいの考え方がある。そしてそれも真実だ。けれど、複数の考え方があることを常に意識し続けるには訓練が必要で、複数の考え方があると改めて思い出す機会があった場合に初めて他人が自分と異なる思考を持つという結論を思い出し、そしてそれがまたプリセットされてある程度スキップされるようになれば、それはやっぱり見えにくくなるわけだ。

 問題はこの「見えにくくなる」という点だ。プリセットされて自分の中で当然となった思考方法、しかもすでにとうの昔にの昔に学習が終わったものでありそして多くの人間が習得しているものであれば特に、他人が習得していることを期待する。
 だからきっと「他人のことを考える」ことを学習していない人間の存在には思い至らない、ことがある。

2.他人のことを考えるという行為はかなり高度な所業のはず

 「他人のことを考える」ことが市民権を得た世界で俺は生きている、と認識している。つまり日本人であればたいていは、多少なりとも「他人のことを考え」て生活している、と相互に認識している。これが日本人的な常識であり、ウィルス的に言えば集団免疫を獲得しているような状態。しかし諸外国をみれば、これが必ずしも当然でないことも認識しうるだろう。
 しかし日本ではこれが常識になっているわけだから、日本人は当然「他人のことを考え」るはずだ。なのに時折ニュースを騒がす他人の迷惑を考えない人間や、日常で出くわす協調性のない人間、というのがいて、多くの人が「もう少し他人のことを考えればいいのに」と呟く。しかしそれは、それほど単純なことだろうか。

 諸外国では一般的ではない、ことの意味を考える。
 つまりこの「他人のことを考える」ことは、人間であれば生来的に獲得されるものではない。つまり学習によって獲得されるものだ。だから当然、「他人のことを考える」ことを学習していなければ、他人のことを考えるはずがない。幼児は他人のことを考えないが、社会生活を営むうちに考えるようになる。これは時間経過によって「大人になるから」ではなく、そのように社会によって矯正されるからだと思う(フーコー的に言えば特に)。

 そもそも人は厳密な意味で「他人のことを考える」という行為を日常的に行えるものだろうか。それは実に複雑怪奇で高度な行為である。例えば誰かがこう言う。
 「俺の考えていることを当ててみろ」
 よく漫画なんかで聞くセリフですね。特定の人物がどう考えるかを検討するには、自分の頭の中にその他人のプリセットを作り、その人の思考がどのような動きをするのかシミュレートする。過去の記録や発言、人間関係や信頼度、利益や損失、長期短期的視点が必要だ。戦略ゲーとかテーブルゲームとかをやっている人、あるいは恋愛の真っ最中で頭がこんがらがってる人なら共感しやすいかもしれないが、鼻血がでそうなほど脳の負担になる。特定他人の考えを推測することは、実に困難な作業だ。
 これはこれで一つの技術だとも思うのだけれど、会う人間毎に思考のシミュレートをやっていれば頭がショートする。だから「他人のことを考える」と一般的に呼ばれる内容は、思考ではなく行動のシミュレートに違いない。

 例えば食堂で前に並んでいる人に割り込んではならない。
 日本人は前の人に割り込まない。理由としては自分が割り込まれたくないからとか、割り込むとちっともすすまないからとか色々考えらえるけれど、それぞれの場面毎に集団的な最適解が集積されることによって特定の行動が推奨される場合、そのシミュレート結果が「他人のことを考える」の実体である、と思う。つまりこの「他人」とは、眼の前や割り込まれそうな特定の誰かではなく、集合的な「他人」というよくわからない存在を示す。
 その集合的な「他人」が現れる典型的な場面は、軍隊や工場などである。大量の人間によって繰り返される作業がある場面において、マニュアルには書かれていなくともこういう時はこうしたほうがいい、という集合知が発生することがある。それが結果的に全体の生産性を高め、つまりまわりまわって「他人のため」になる。こういった職場毎の独自な小さなルールというものはよく小規模に発生する。例えば新しい書類は一番下に入れる、とか、旅行に行ったらお土産を買ってくる、とか。
 つまり「他人のことを考える」ことを常識にしておくと、いろいろ便利なので、内容はさておきそのように「他人のことを考える」ことが日本人の考え方にプリセットされるようになった。家庭や学校の教育によって。

3.ねえ、あなたって他人のことを考えてるの? 本当に?

 そもそも論として、日本で一般的に広く「他人のことを考える」を行うようになるあるいはその概念が発生したのはおそらく昭和中期ごろからだろうと思う。
 昭和中期以前のドラマでは、当然のように他人のことを考えない人間(今から見れば)、というものが多く存在する。つまりこの技術が習得され始めたのはおそらくそのころだ。

 理由は国民の質が均質化されたからだろう。一億総なんたら世界というやつだ。集団就職し、満員電車にのり、大学に入って新卒入社し、国民的アイドルが現れ、力道山やジャイアント馬場がリングで戦うのを観戦し、バブルにあわせて土地を買う。つまり多くの日本人が同じ行為をとったことによって、自分と他人の行動の差が極めて近似した時期がある。一億層中流という思想だ。僕はもう少し後の世代なので実際のところよくわからなくはあるが、そこでは「自分の行動の価値観」と「他人の価値観」が極めて似通い、自分と他人を間違えて「自分が考える良きこと」が「他人が考える良きこと」が同じであると勘違いしたのではないか。
 つまり、自分が他人のことを考えられるというある意味傲慢な思想を持つようになったのではないか。傲慢とか書いたけど、当時はそれはプラスな影響をもたらしたのは間違いない。

 じゃあ一億総中流が広まらなかったらそうならなかったのかというと、おそらくそうだろうなと想像する。これはこの国にいる限りすべてが同じ(ある意味平等)という強固な概念呪いであり希望だ。このフレームワークは社会階級差の発生し始めた縄文末から江戸末までの時代には存在しないもので、今の主流はそろそろ身分的な士農工商不存在だったような気はするけれど、お上は偉く非人やサンカはハブられるといった非均質な区別があったところを様々な意味(宗教や商業・広告も含めて)で均質化した時代であると思う。集団就職というのは地域と言語すらを混ぜた特異な地点かもしれない。
 そんなわけで昭和中期時点で本来「自分と同じ価値概念を持つ集団」のはずの概念が、ほぼ「すべての日本人」を指す概念として、日本人の「考え方」の中にプリセットされ、「他人」という言葉に内蔵された。この「他人」の定義は前提なので、この部分の内容をいちいち考えることもなくスキップされてしまう。

 以上のまとめ。
 「他人のことを考える」の「他人」は厳密には「自分及び単に共通の価値観を持つ類似集団」である。この用語が用いられる場合の他人は、だいたいは全日本人が想定されている。それを前提とした「他人のことを考える」行為は一億総中流時代を経て取得されるようになった生活を利便にする技術であり、それは自分と他人が等しい考え方をすることを前提としてたいていの日本人に獲得され、それゆえにたいていの日本人にとって常識となった。

4.空気なんて読めないよ、どこにかいてあるのさ

 ではなぜ、「他人のことを考えない」人間がいるのか。
 あるいは、「他人のことを考えない」ことは果たして悪いことか。
 これまで長々と書いたのは、「他人のことを考えない」ことが一般的に「悪い」行為だと認識されるからだ。いわゆる常識的に。俺はここに疑問を感じる。

 他人のことを考えるかどうか、はおそらく善悪の問題ではない。まして頭の良し悪しや当事者の性格、反社かどうかとは全く関係ない事象であると思う。層として被ることが多いから単純にその人間が悪いとみられることが多いけれど、これは技術の獲得の問題だろう。や、詐欺師とかはそこをわかってわざとやってくるから全くいないこともないんだけどさ。

 前述のとおり、「他人のことを考える」ためにはその他人の所属する「一定の共通の価値観を持つ集団の価値概念」を習得することが必要である。ところが「一億総中流」と雑に括られその対象がすべての日本人に拡張された時代と異なり、最近では様々に階層に名前が付けられて分断され続けている。今は階層概念(上級国民、Vtuber、社畜、生活保護、ニート、信者と多様化している)が異なれば、その基底となる価値概念が異なってくる。つまり指摘される「他人」にそもそも目の前の人間が入っていない可能性がある。そうすると、その目の前の「他人」の中に「自分と同じ価値概念を持つ集団」を当てはめようとすることはそもそもお門違いだし、「他人の迷惑を考えろ」というのはそもそも無意味だ。だって他人感、つまり習得している「一定の共通の価値観を持つ集団の価値概念」が異なるから。
 例えば「他人のことを考えない」といわれがちないわゆる不良や不法の民と呼ばれる人々も、その所属する集団内ではきちんと「他人のことを考えている」からだ。彼らはわざと自身が平均的な人間であると考える有閑マダムから見た「他人のことを考えない」行動をとっているわけではなく、単純に獲得すべき技術の「他人」の範囲がずれていて、その価値概念の中にいないだけだろう。

 空気を読めっていわれてもさ、普段吸ってる空気が違うと読めないよ。
 そして現在、かつての全体主義的な空気は否定されて個人主義的な空気が広がっている。だから冷静に考えると、いろいろな考え方があるということは思い出せる。けれどすでに「考え方」として旧来の他人感があまねく日本人すべてに該当されるものとしてプリセットされてしまっているため、そして自分の価値概念が全日本人が共通する価値概念であると誤解してしまう、という状況が発生する。目の前の他人が自分と同じ価値概念を持っていると期待してしまう、のだ、と思う。

5.全体主義な個人主義という奇妙

 とはいえ、俺は目の前の他人が自分と同じ価値概念を持っていると期待することを否定したいわけじゃない。それはそれで価値観だしさ。今の個人主義的なある意味自己責任とでもいえるような空気も、全体主義的なある意味成功した共産主義といわれた空気も、どっちがいいとかは好き好きだと思う。それこそ思想信条の自由、頭で考えてる限りは何したっていい内心の自由ってやつ。内心の限りでは。

 ただ妙だなと思うのは、個人主義を標榜する人の中にこの全体主義的な価値均一概念に基づいて、他人(という名の自分)が快適に暮らせるように他人の迷惑を考えろ(そして自分の快適だと思う行動をすることが当然だ)と考えている輩が結構いるんだよな。そういえば日本では「集団の中の個人」と「個人が集まった集団」の区別が明確な人って少ないんじゃないかと思うんだ。頭の中で考えてるならどっちでもいいんだけど、同じ集団にいると思われて意見を押し付けられても困るのだ。

 この現象は実は昔からあって、典型的なのは「今どきの若いもんは」ってやつ。自分の後の存在は自分と同じ考え方をするという誤解は、それこそ何千年も昔から存在するのだ。実際は年代によって、というよりは幼少期に育ったプリセットによって「他人」の幅が変わるはずなのだけど。
 それでなんていうかぁ、「あなたのためよ」っていって押し付けてくる人がうざいのは、既に共通する「他人」の範囲がズレているのに同じだと思っているわけでしかもそれに疑いがないからだ。この疑いがないタイプは自分は違うんですよと説明しても、常識的に違うはずがないと否定されて話が通じない。だいたいがお前の所属するごく小さな集団の良きことにすぎないんだけど。これも「他人のことを考えろ」の一つのパターンである。あるいは話し合いを主張する奴の中には時間を無駄に費やして相手の意思を挫いて自分の意見を通そうとする奴が一定いる。それは自分の中の「他人」の範囲ではそうすることが良いことなので、ここをきちんと説明すれば相手も必ず納得するはずだという価値概念を無意識に押し付ている。ややもすると自分の良き価値概念に同意しない相手が悪いと認識されて軋轢が生まれることがある。面倒くさい。
 そして今後もますます集団は分断は促進され、この価値概念のズレはさらに大きくなるだろうし、その他人感はすでに自分と同じ価値概念を持っていない可能性が高いのに反射的に同じであると考えて「他人の迷惑を考えろ」と思うことも増えるだろう。他人のプリセットのおかしさを指摘するのは極めて難しい。

 だからそもそも、他人に自分と同じ価値概念を持っていることを期待してその考えを当然のように無視するんじゃなく、他人が何を考えているのか純粋に聞いてみるべきじゃなかろうか。違うことを認識して初めて、話し合いが可能になるのだ(同じなら話し合いは成立しないしそもそも不要)。

#思考実験  #駄文 #人間関係 #呟き

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