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小説書きのための映画観測:今、何の話をしているのか。『逆火』

こんにちは。
いつもの140字の映画レビューとは別に、現在公開中の映画の考察をします。僕は一応小説書きなので、読書も映画もテーマはたいてい小説に使えるか、です。
そんなわけで今回は『逆火』。今、何の話をしているのかを考えるために。


映画情報(From公式HP)

映画監督を夢見る助監督の野島の次の仕事は、貧困のヤングケアラーでありながらも成功したARISAの自伝小説の映画化であった。ところが、周辺で話を聞くうちに彼女に “ある疑惑”が浮かび上がる。
この女は、悲劇のヒロインか、それとも犯罪者なのかー?
名声を気にする監督、大ごとにしたくないプロデューサーといった撮影を中断したくない面々が、真実を追求する野島に圧力をかけてくる。やがて疑惑の火は、家族をも巻き込み野島の日常が崩れ始める…。

公式HP

140字な感想:それぞれの正義。

このコーナーは考察したいから書くわけで、映画が面白いから紹介するのではない。でもこの映画は面白かった。しかし最後、困惑した人も多いだろう。著作権が怖いので中身の指摘は最小限。

考察:物語の登場人物の焦点深度

注意:基本的にネタバレはなるべく公式HP程度に収めるつもりではある。
注意:僕の勝手な考察なので、違うかもしれない。

今回はテーマ上、多少のネタバレやむを得ない回です。なるべく迂回しようとは思っていますが、本編をご覧になる予定のある方は観てからお越しになるのを推奨します。

 さて、この映画のテーマは『正義とは何か』。
 青臭くも思えるけれどそこは譲れない本人の信条、つまり本人の正義という大切なことをテーマにしている。その点でそれぞれの役者の表現は自然体で、観客に様々な問いかけを投げかけるとても素晴らしい映画だった。
 それはさておき、今回の考察テーマはこの映画で表現された『悲劇のヒロインか犯罪者か』という正義、これを仮に『正義A』と呼ぶが、正義A自体とは直接は関係ない。この映画で多くの観客は、おそらく最後の場面でいささかの困惑に襲われるだろう。この困惑をもたらす事実のベースとなる概念を仮に『正義B』と呼ぶが、テーマとしてはこちらの方。
 監督はおそらくこの困惑こそがどんでん返し的な一つの結論であり、観客に深い心の動きや考察を与えると考えたと思われるけど、たいていの観客には「あれは何だったろうね」的なハテナでスルーしてしまって、意図が伝わらない構成だったのではないか。

 何故伝わらないのか、それが問題だ。小説を書くとき、特に社会派小説を書く場面で言いたいことが伝わらないというのは悲劇以外の何物でもない。なおこの映画は特に正義Aの部分はよく伝わるので、そんなに悲劇ではないと思う。
 理由として端的に述べれば、劇中で正義Bが観客の盲点に入ってしまったからだろうと推測する。
 正義Bの結論に至る示唆、というか可能性自体は極めて明確に表示されてはいたし、結構な割合で画面にも描かれていた。けれどある時点で、つまりクライマックスに近づき、正義か否かというギリギリの二極対立がクローズアップされるほどに、正義Bの可能性が視聴者の頭から見えにくくなってしまう。そしてこの映画で正義Bの問題が表面化するのは正義Aが解決した後なのだ。正義Aが解決することによって正義の問題は完了した。それならば正義Bの問題は、果たして観客にとって正義の問題とうつるのか。
 なるべくネタバレにならないように、映画の内容と無関係な全く別の例えを試みる。

 殺人事件が起こる。現場はあるホテルだ。警察が現れ、探偵が現れ、被害者や不審者の目撃証言の聞き込みが進むが犯人像は一向に浮かび上がらない。そして疑わしき人物を追跡し、要約のことで一人が浮かび上がる。
 彼を糾弾する警察、これで決定か……というラストに探偵は真犯人を突き止める。それは誰も予想しない人物だった。映画冒頭1分時点で被害者がホテルに入った時にドアをあけた描写しか出てきてないドアマンだった……!

例1

 誰やねん。ドアマンって誰やねん。
 このドアマンが真実冒頭1分に3秒くらい画面に見切れたドアマンなら、小説なら『ドアマンが丁重に出迎えた』くらいの描写しか見当たらないなら、普通の人はドン引きする。そしてしらける。
 何故ならこの映画の主眼は、殺人事件の犯人を求める推理だろうからだ。
 読者は誰が犯人かという推理こそを楽しむのであり、確かに画面には登場したけれどノーヒントに等しい人間が犯人として現れたら、推理の意味が不存在になる。駄作の烙印を押されることは間違いない。まあ仮にこれがホラーコメディな『寺育ちのTさんの話』ならTさんが突然ドアをぶち破って現れても問題ない。それもジャンルに想定された楽しみ方の範囲内だからだ。
 つまり映画なり小説なり、ストーリーを前提とした作品にはそのジャンルが想定するある程度のお約束やセオリーが存在し、観客はそれを前提に鑑賞する。このお約束を無視した展開を持ってきても、セオリー通りの面白さは得られない。

 なお本映画自体は推理要素はあるものの、それは主にヒューマンドラマ的なものでそもそも推理映画ではない。だから上記の例にはあたらない。
 しかし似たような構造の欠落があるため最後の予想が困難で、しかもそれがわりと中心的なテーマであるために、最後に視聴者が混乱に見舞われる構造になっている。
 この映画において、先の例の殺人事件の『犯人は誰か』と同意義のものは、正義Aが『正義かどうか』だ。そして正義Bとして語られるものは、通常正義かどうかという線上での議論はなされない。むしろ一般的には、正義Bは正義か否かという二元論では語ってはいけないとされる分野の問題だ。特に肝心のヒューマンドラマ分野においては、正義Bを正義かどうかの二択で語られることはほぼない。だからギリギリの状況で正義Aを追求する中で、通常の正義と直結しないこの正義Bは頭の中から欠落してしまう。なお、正義Aの方も正義かどうかは当然グラデはあり、主役が悩んでいるのもそのグラデだからこそなんだけど、迫られるものは上映するか否かという二択だから、視点はそこに依る。
 そして確かに最後に訪れた正義Bの結末を見れば、それは結論の二元的に正義ではなかったかもしれない。けれどそれは結果論にすぎない。積極的に選択した正義Aの結論と、主役が最後まで留保した結果生まれてしまった正義Bの結論は、その思考の方向性が真逆なものだから、同一の問題とは認識しにくい構造になっているように思える。
 もう一つ映画と関係ない例示をしよう。

 あなたは優秀なひよこ鑑定士で、とてもノルマが厳しい工場で働いています。毎日オス、メス、オス、メスと忙しく仕分けています。
 ある日、オスのひよこだけどニワトリじゃない似たヒヨコ(シャモとか?)がまじっていました。どうしていいかよくわからずに後で扱いを確認しようと、とりあえずオスの箱に入れました。その日はいつもより忙しく、次々に送られてくるヒヨコに忙殺され、監督の怒号はいつもの3倍増しで、早くわけろ早くわけろとせかされ、もうヒヨコがオスかメスかにしか意識が向かなくなり、いつしかシャモ?のヒヨコについては記憶から忘れ去ります。そして就業間際に怒られるんです。
「おい、オスのヒヨコの箱にヒヨコじゃないのが混ざってたぞ」
「え?」

例2

 ひよこ鑑定士の正義Aはオスとメスを分けることである。そして正義Bとしては、シャモではなくニワトリのオスとメスを分けることである。本来シャモはオスかメスかははどうでもいいのだ。そして極限状態でギリギリにより分けていけば、ひよこ鑑定士の視点は正義Aたるオスかメスかにフォーカスしすぎ、想定していないシャモ問題の正義Bについては視界から消えていく。そもそもここはニワトリのひよこ工場で、シャモのオスメスをわけるところじゃないんだ。だから最後に、シャモが混ざっているといわれても困惑するばかりだ。
 ちょっとわかりにくい例示だが、ネタバレを極力防ぐためとご理解ください。

 この映画の正義Aへのアプローチは素晴らしい。主役は正義、非正義、正義、非正義と冷や汗を流し、飯も食えなくなり、発狂しそうになりながらも突き進む裏で、視聴者の認識からは正義かどうかという判定にそもそも乗らない正義Bに関連するものごとは、狭まる視界からフェードアウトする。
 監督は正義Bは正義に関することだと疑いもしなかったのかもしれないし、正義の問題だと十分示唆したと認識しているのかもしれない。
 おそらくこの正義Bにつながる一連の論点が、この映画において正義につながるのだというメッセージがあれば、もう少し最後の印象は違ったのかもしれない。
 確かに映画の中で結論に至る前にも、正義Bは正義でない行いのように表示されているけれど、少なくとも主人公はその判断をひたすら保留していたようにも思える。それゆえ、正義Aが解決してほっとした時に急に正義Bにフォーカスされても、観客はそれが『正義の問題である』という認識を持ちずらい。
 この正義Bが映画のメインテーマと直接の関係があるものだと認識できなかった場合、「いったい何だったのかしら」という感想で終了するのだろうと想う。むしろ「何でいまさら」とすら思うかもしれない。何故なら正義の問題、メインとなっている正義Aの問題は完了して、観客の頭のなかで正義の有無という問題は解決してしまっているからだ。

 さて、ここまで書いたことは全て僕の感想です。僕も1回見ただけなので僕の勘違いの可能性も大いにあるし、みんな実は全部正義の問題だと捉えたかもしれない。まあ別に勘違いだってそれはそれでかまわない。創作物にはこういう落とし穴があると気が付いたことに意味がある。

 この教訓から得られる示唆は、物語の登場人物はその重要性が高ければ高いほど、少なくとも中盤くらいまでにはその役割を明示しなければならないということだ。例えば例1の殺人事件の例でも、ドアマンが見切れているところでニヤリと不審に笑っていれば、あるいはたくさんの従業員を複数回意味ありげに配置したりすれば、最後にドアマンが犯人だといわれたときにこれらの光景が思い浮び、読後感は少しは違ったかもしれない。

 読者も観客も、ジャンルに基づく一定のセオリーやらお約束やらがある前提で小説や映画に接する。そして観客の期待が裏切られる場合、そのセオリーから外れ過ぎず、可能性が推測される場合は、面白いどんでん返しだ、とか奇想天外だ、と評される。土台から崩れて観客の期待を灰燼に帰した場合は駄作の冠をかぶることになる。
 このどんでん返しも奇想天外も、当然ながらその帰結がストーリー上起こりうるものであることが前提だ。時空の狭間から魔王がでてきたら、大抵の物語は解決するだろうけれど面白くはない。

 つまり話を作るにあたって、散らばった情報を集めて帰納法的に犯人に結論付けることだけではなく、読者がその結論からさかのぼって一続きに犯人にたどり着けなければならない。そうでなければ、読者として理解ができなくなる。何故なら通常ありうべき途中が抜けているから。
 その結論に論理的につながるように登場人物は配置されているか、特に複雑な考察を読者に求めるならば、その考察が成り立つように、可能なら他の余地がないようにきちんと筋道をみせなければならない。
 抜けているなら補完すればいい。必須の逃走経路が書かれていないならその描写を、素手で殺すにはやせっぽちすぎるならマーシャルアーツの使い手であるような描写を、つまり読者が十分に原因効果を理解できるように、理屈や事実を丁寧につなげていく必要があるだろう。
 そしてこれは、推理小説以外にもあてはまる。
 この登場人物は何をしているのか。どうしてそんなことをしているのか。ここを説得的に書かなければ、共感は得られないだろう。そして何故そんなことになっているのか理解が及ばないときは、ひょっとしたら想定していない『常識』が欠けているのかもしれない。例えばこの問題は普通、こんな論点で議論されないだろ、とかね。

あとがき

 なんかエアな文章で申し訳ないんだけど、これネタバレかいたらいかんやつなんやもん。だから上記からさらに捻った真に雑な考察のthreadsを置いていきます。適当に考えながら書いてるので、いろいろ雑い。

https://www.threads.com/@tempp012/post/DLFwqWxy8Gd

 このthreadsは僕が映画を見た比較的直近にメモ代わりにしているもので、しばらくたったら140字のレビューにしています。
 そんな感じでたまに今公開中の映画の考察をしてみるです。

◆このエッセイが含まれる映画考察

◆140字の映画レビュー

#映画が好き #映画 #映画感想文 #映画レビュー #映画考察 #ネタバレ


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