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本雑綱目 67 Books Esoterica 8 修験道の本

今回は『Books Esoterica 8 修験道の本』です。サブタイは多分『神と仏が融合する山界曼荼羅』。
学研プラス、ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4056004151。
NDC分類では188、哲学>各宗に分類しています。

これは乱数メーカーを用いて手元にある約5000冊の本から1冊を選んで読んでみる、ついでに小説に使えるかとか考えてみようという雑な企画です。

★図書分類順索引

1.読前印象
 このシリーズは様々な民俗とか宗教的なことをライトに記載している本だけど、揃えると黒歴史感を醸造する不思議なシリーズ。結構もってるんだけど、古本でも買うのがなんか恥ずかしいのは何故なんだぜ。
 ごちゃごちゃ書いてある表紙をみると、修験道の開祖とされている役小角から始まり各地の修験道やそれとよく紐づけられる鬼や天狗といった存在と、本地垂迹とあるから様々な神格の変化(山は古来から神または神の住む地とみなされるものだけど、その神の内容は結構変化する)についてなどが書いてある、のかな。
 僕の今の興味は表紙に出てるなら八天狗、本地垂迹、富士講あたりかなあ。
 とりあえず開いてみよう~。

2.目次と前書きチェック
 目次は『山界の神秘学』、『役小角の伝説』、『修験道の修行世界』、『異形の修験者列伝』、『修験道・全史』、『山界曼荼羅の世界』、『秘技・呪法の世界』、『修験道オカルティズム』になる。
 やっぱりバッタモン臭いよ……。意図的なんだろうけど。修験道は地域性がとても強いので、一度全体的な何か(それでも個別性強そうだな)を把握したほうが良い気がしていて、その目的のためにこの本はライトで良さそうなんだけど、このシリーズ言ってることが不安になる部分がちょくちょくあるんだよな。書く時は事後調査は一応するけど詳しくないと間違いに気付けないんだよね。
 『修験道の修行世界』、異形の修験者列伝のうち『藤原角行・食行身禄・村上光清』と『林実利』、『修験道・全史』、『修験道オカルティズム』を読もうかと。ちょっと多い。

3.中身
『修験道の修行世界』について。
 修行の目的は超能力の獲得で、だからこそ科学力で誰でも超能力(人力を超えた力、つまり蒸気機関や電力機関等)が使えるようになった明治以降は必要性が薄くなった気がしている。それでこの本では最終目標を即身成仏においているのだ。修験者が即身仏になる理由は色々と説があるんだけどさ、それは違うのでは。
 修験道の基本と言われる様々な修行やそれによって派生した民俗芸能などが紹介されている。この本は基本的に外形から入る本なので中身はいまいち信用しきれないところはあるものの、そもそも修験道の修行って普通に生きていて縁がまったくないものだから、ざっとどんなものがあるかを把握するにはわりと役に立った感。
 聖護院の閼伽の写真があるのとても貴重。

『藤原角行・食行身禄・村上光清』と『林実利』について。
 角行がキリシタンの疑いをかけられてたのは初めて知った。確かに衆生救済みたいなことは呟いていたけど、なんとなく角行のイメージって学生運動の人が焼身自殺したみたいな尖った感じなんだけどなあ。それを裏でプロデュースする村上光清。
 各人1~2頁程度の紹介文。林実利についてはもう少し詳しく知りたいので、気が向いたら調べることにしよう。

『修験道・全史』について。
 修験道の開祖は役小角ということになっているが、地元(?)の葛城山が最も古い修験道の山である。葛城氏が新羅百済から連れてきた人が土着して韓人社会が生まれ、陰陽道や道教が広まる。小角の頃には葛城山の主神である一言主神は土佐に流され、祀ることを禁じられていた。そこで小角は呪禁道(仙術的な)を行った。その後葛城山の修験が盛んになると小角を創始者とあおいだ。平安になり私度僧(無許可僧)が山に入り、病快癒等の世俗利益を解決する役割を担う。その後、僧聖宝が金峯山で仏堂を建てたり設備を整えて金峯修験の基礎を作る。同様の動きが各地で起こり、権力や本地垂迹によって中心の神を変化しながら修験の環境が整ってきた。
 山に住む人々(山人)と人里に住む人々常民の間を山伏が取り持ち、文化を浸透させてゆく。
 鎌倉時代に入り増誉が白河上皇から聖護院を賜り熊野に修験を立て、熊野の山伏が配下に入る。南北朝以降様々な儀式が整う。吉野では金峯山を中心に醍醐派が教団を作っていく。その他、出羽や英彦山の修験についてなど、基本的に権力構造と歴史マターの話。
 中世以降修験道は遊行の禁止等の変化を余儀なくされ、江戸時代には民間呪術師として低俗な宗教と扱われるようになり、明治に入り神仏分離の流れで日本の神祇とインドの神仏の関係が断絶し、修験は廃止と天台・真言宗への帰入を命じられて激減した。江戸時代の現世利益を追求する習合宗教としての活力が教派神道に大きな影響を与える。戦後信教の自由が認められると相次いで独立した。、滝行は精神療法や霊能開発の手段として一般に行われるようになった。
 修験が仏教以前の土着神祇を受け継いできたから仏教を廃すればいつでも神道に宗旨替えできるという考えは頭になかったので目から鱗。基本的に中世以降、修験道はわりと正しく胡散臭い仙人として扱われてる気がする(この本では特に)。現世利益を求めると言えば胡散臭いが、当時は普通の医者も今から見たら胡散臭いものも多かったので、加持祈祷の上位互換くらいにはご利益があったんじゃないかな(主観)。修験道史チャートは整理に便利かもしれない(僕的には肝心の村山がないけど)。

『修験道オカルティズム』について。
 古代、神南備信仰と仏教の山中浄土が融合して山岳信仰になった。仏教理論に限界を感じ堕落を厭った僧が山に入り、道教の神仙や法華経の捨身浄化を背景に霊験の獲得を目指す。山岳信仰と仏教が混ざる中で本地垂迹が生じ、産土神や山上を大日如来等の仏神に結びつけ権現というよくわからないスタイルが爆誕し、密教の宇宙感である曼荼羅に基づいた如来が本地仏として再配置される。
 不動明王はサンスクリットではアチャラナータ(シヴァ神)で密教が習合されてからは大日如来の憤怒Verで、修験者は不動明王となり調伏して衆生を救済する、と考えるとものすごい混乱するんだけど、孔雀王読み直そうかなっていう気になってきた。よく考えたら道教自体がこの程度のメタモルフォーゼを内包しているわけだし。
 天狗について、日本書紀の流星説はその音から来ていたはずなのと、中国でも狐じゃなくて犬(狗)だったような。根拠とする先代旧事本紀大成経伝は江戸時代ですでに偽書扱いで幕府が罰してたから、やっぱりこの本は牽強付会のきらいがあるな。

 全体的に、読みづらかった。何でだろうと考えると、多分固有名詞を並べているからだ。特に全史のあたりはそうだが、誰が誰の系譜でみたいな情報がずっと並べ立てられていて目が滑る。僕が修験道史にあんまり詳しくないからかもしれないけれど。この本は多分複数の著者でかかれていると思うけれど、著者感で温度が結構違う気がしてきた。
 小説に使えるかというと各地の歴史などは記載されているので、どこかの修験道を書こうというときにざっと眺めるには悪くない。けれども資料がいまいち信用が置けない。それから修験は地域性が強いから、それを平板に並べるとそもそも独自性が全部潰れて余計に使えないんじゃないかという危惧はある。

4.結び
 修験が胡散臭いのは、人が霊能力を持てると認識することが、今は昔より遥かに困難であるからだ。昔は超能力が存在したかは置いといて、そもそも明確な判定が不可能曖昧ゆえに実在したと認識したり、プラシボ効果的によって実際に効果があったりしただろうから、そもそも今と比べても仕方がない。仏教だって入ってきたときは最新科学扱いだったんだから、捉え方はその時時の時代感を前提にしないといけない。そしてその次代感を前提としても、修験道は江戸時代にはすでに胡散臭みがあったんだろうなという印象。
 胡散臭みが出るようになったのは厳密にはいつからなんだろうね。
 次回は大熊喜邦著『江戸建築叢話』です。
 と思うのだけど、読書ストックが減ってきたので別のエッセイを投げ込むかもしれませんが、あしからず。
 ではまた明日! 多分!

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