【短編小説(BL)】遠くて近い 11000字
[HL:新年会で出会った高輪叶人は、当然俺のことなんて知らない]
BLOVEの短編コンで準グランプリとったやつなんだけど、これを改稿してあと5日で12万字かこうとおもってる景気づけ。少し長いから目次つける。
第1話 名詞の交換
「あの、さ。この後少し時間ないかな」
「え?」
目の前の綺麗な男が所在なさげに口を開いた。
少しだけ目元が赤い。少しだけ酔っ払っている。どこにでもあるリクルートスーツな俺と違い、高輪叶人は細身のストライプ柄のシャツに紺の上下とそれっぽく装ってはいるけれど、少し長めの艷やかな髪と彫刻のように整った華奢げな顔貌はこの名刺が飛び交う雑然としたパーティ、もといこの賀詞交換会には酷く場違いだった。
けれどもそれももうすぐ終わりで、お開きになるタイミング。締めの挨拶が始まったのにあわせてその場を離れ、なぜだかまっすぐに俺のところに歩いてきた。
畑違いなこの場所に高輪叶人が現れるとは、ちっとも思っていなかった。俺に声をかける理由もない。ないはずだ。
この後?
その言葉に酷く動揺していた。そして高輪叶人はわずかに首を振る。
「ごめん。不躾だったよね。忘れてほしい」
「嫌というわけでは」
踵を返そうとする姿に思わず言葉を接いだ。
「自分も少し飲みたいので」
酒は供されている。けれどもこの会は俺にとって就活の一環のようなものだから、軽々に飲めなかったのは事実だ。企業が新年会を主催するこの時期、2回生の俺は大学が産学連携する会社を回っていた。この通信機器の会社は俺にとって数ある中の1つで、たまたま時間が空いていた。それだけの場所だった。
つまり俺と高輪叶人がここで会うのは偶然に偶然が重なった結果でしかない。多分この機会を逃せばもう話すことはない。二度と。そう思ったから。
「よかった」
ホッとしたようなこの微笑みを、これほど間近で向けられる機会があるとも思っていなかった。酷く心臓が波打つ。それがきっと、表情に少し出たのだろうか。その眉が柔らかく弓形を形作る。
「奢りだから安心して」
「別に奢りじゃなくても」
「君、神津大の学生でしょ? 俺は数学の高輪。一応院生だからさ。ええと」
「2年の三蓼です。高輪さんのことは知ってます」
「……そっか。有名だもんね」
そう言って高輪叶人は期待でも外れたかのような、そして困ったように微笑んだ。目の下に浮いた陰からは、少し疲れているようにみえた。
高輪叶人は有名だ。数学科の俊才で、金融機関に引っ張りだこと聞く。そして半年前に帰宅途中に刺されて生死の境を彷徨い、一命をとりとめた。動機は様々に憶測されていたが、犯人は捕まっていない。
高輪叶人はもともと飲み会に出るような機会も少ない人間だったためか、先程までも周りに人だかりができていた。きっと事件のことを聞かれていたのだろう。
「大丈夫なんですか? お酒」
「ああ、少しだけならね。怪我してからなんだかすっかり弱くなった」
そう呟いて高輪叶人は肩をすくめた。
昼過ぎに始まった講演会に続く新年会が終わったのは丁度夕方で、ビルを出れば未だ残光が世界を薄っすらと照らしている。ざわざわと人であふれる通りを抜け、更に細い路地を歩むうちに次第に世界は次第に明度を落とし、落ち着きを取り戻していく。
ちょうど日が落ちるのと同時にたどり着いたのは、薄闇に隠れるようにひっそり佇む小さなバーだった。店内には暖かく柔らかいジャズが流れ、漸く外が寒かったことに気づく。見渡せば客は誰もおらず、ダークブラウンの艷やかなバーカウンターの奥にはたくさんの瓶が静かに並び、淡い照明を照り返していた。
「若本さん、少し早かったかな」
グレーのチェスターコートを掛けながら高輪叶人がカウンターの内側に呼びかければ、初老の男が目を細める。
「少々早いですが結構ですよ。新年ですから」
「ありがとう。ラムを凄く薄く。三蓼さんは?」
「ハイボールで。ここはよく来るんですか?」
「うん。そうだね、もう5年くらいかな」
そうして会話が途切れた。
俺と高輪叶人の間には共通の話題はおそらく1つしかない。事件のこと。
同じ神津大学理学部に所属してはいるものの、未だ2年の俺は一般教養をウロウロしているだけで数学科に進むつもりもない。高輪叶人は基本的に研究室から出てこない。だから本当に接点がない、はずだ。
「煙草、吸っていいよね?」
気がつけば高輪叶人の前には小さな黒曜石の灰皿が置かれていて、煙草と同じように細長い指がライターを掴んでいた。けれどもその煙草を挟む左手は、妙にフラフラとおぼつかない。なんだか目眩がした。いつかのように。
「ええ、どうぞ」
「三蓼さんもどうぞ」
高輪叶人が意味ありげな様子で俺をじっと見て、はにかんだ。薄明かりに照らされた高輪叶人は人間離れして綺麗に見える。ポケットの煙草ケースから1本取り出して火をつけた。
「まさかそれで俺を誘ったんですか?」
「そう。あの場所で電子でない煙草を吸ってたのは三蓼さんだけだったから。最近紙タバコはますます立場が弱いよね。それに……そういえば俺を見ようともしなかったからかな」
「見ようとも?」
「うん。正直辟易してる。三蓼さんは今更聞かないよね? あのこと」
高輪叶人は少しだけオドオドと、上目遣いで俺を見る。微妙な陰影はその仕草を随分幼く見せる。こんなに表情が変わる人だとは思っていなかった。酔っているせいもあるかもしれない。
あのこと。指しているのは事件について、だろう。それが俺と高輪叶人の唯一の、共通する話題だ。けれども俺はその話題に触れようとは思わなかった。第一、高輪叶人自身が辟易した様子を見せていて、望んでなさそうだった。
「聞きませんが、他に話題がありません」
「……話題。それもそうか。えっと、三蓼さんは産学連携に興味が?」
その無理やりひねり出したような話題こそ、興味の無さを示す申し訳程度のものだ。
「就活半分です。興味ある分野で参加できるものは実績作りに積極的に」
「そっか。俺はもともと院に進むつもりだったから」
そうしてやっぱり、話題は途切れた。
数学の話をふられても俺は理解ができない。俺の習った基礎知識なんて高輪叶人にとっては基礎の基礎で、話題にすらならないだろう。
高輪叶人のグラスの氷がカラリと音を立てる。多分この小さな酒宴の目的は、あんまりな新年会の口直し。それほど高輪叶人の周りには人が集まっていた。多分、ここに長居する雰囲気でもない。
俺は何でついて来たんだろう。目の前のハイボールもその表面に汗をかいている。なんとなく、手を取る気にならない。飲んでしまえば、きっと嫌なことを聞いてしまいそうだ。
第2話 情報の交換
「飲めないの?」
「そんなことはないんですが、飲むと酔っ払いそうで」
高輪叶人からハハハと乾いた笑いが漏れた。飲むと酔う。それは当たり前の話だ。これが高輪叶人でなければきっとそんな心配はしないだろう。隣を見ればまた少し酒が減っている。灰皿には2本、吸い殻が転がっている。俺はなるべく顔を見ずに、その指先だけを見ていることに気がついた。
「出る時に飲むことにします」
「そっか。なんか迷惑かけちゃったね」
「いえ……飲みたかったのは本当です。そういえば、どうして新年会に?」
見ていた限りでは、誰かに積極的に話しかけているような様子はなかった。
「ああ。この会社とは一緒に仕事しててさ。通信速度を安定させるプログラムに俺が協力してる。ほんとは新年会までくる義理はなかったんだけどね」
途端、高輪叶人の顔色が曇る。
「……嫌な話題ならいいです」
会での高輪叶人は酷くつまらなさそうだった。
「まあ……いや、そうだな、会いたい人がいたんだ」
「会いたい人?」
「そう、会えなかったけどね、多分」
「多分」
高輪叶人が人を探す。
それは現在、とても難しいことだ。高輪叶人は刺されてから発見が遅れた。病院で息を吹き返した時、いくつかの障害が生じていた。右腕の肘から先の麻痺、味覚障害、それから相貌失認。人の顔が見分けられない。だから余計、最近では研究室に引きこもって素性の知れるメールやビデオ会議でやりとりをしていると聞く。
「うん。それで、その、三蓼さんが少し似てる気がした、からかな」
その言葉はずっと、グラスに向けられていた。そうして少しだけ、緊張しているように見えた。
「俺に?」
「そう。三蓼さんに会ったのは初めてだよね?」
言葉に詰まる。ふと高輪叶人を見れば、そのわずかに細められた目は探るように俺を見つめていた。次第に動悸が上がっていく。この目は果たして、俺を映しているんだろうか。
俺は高輪叶人に会ったことがある。
「高輪さんを見かけたことはありますが、話すのは今が初めてです」
「見かけた? どこで?」
「理学部塔の屋上の喫煙スペースで」
理学部塔屋上の端っこに屋外用の灰皿が置かれている。とくに喫煙スペースとは書かれていないけれど、行けば誰かが煙草を吸っている。そこからは思いの外遠くまでが見渡せた。地上10階なのに腰高の柵でしか囲われていないからだ。空に開け放たれたその場所は、建物内にある喫煙スペースとは一線を画していた。
俺の答えは想定外だったんだろう、高輪叶人は混乱したように目を彷徨わせた。
「そうだったかな。ごめん、覚えてない。そうか、わからない」
「俺は高輪さんと話したことはないです。そんなに頻繁には行かないから」
「そっか」
実際に行ったのは1回だけだ。
その時の印象は酷く鮮烈だった。
いつだったか、多分1年のときの春。妙に空が暗く薄青く、雲ひとつなかった。高輪叶人が細い煙草を右手に挟んで時折口に含み、そして煙を吐き出していた。その白い煙の端っこはいつのまにか背後の暗い空に溶け、高輪叶人はそれを目で追っていた。そうして煙草の煙が消えるように、今にもこの世界から消えてしまいそうに映った。その姿に酷く魅了された。
一目惚れとか、そういうものでもないのだと思う。その時の俺は何故だか、高輪叶人がこの世界の全てのように思えた。
だから俺はそれ以降、理学部塔の屋上には行っていない。恐ろしくなったからだ。何かが。
だからいつも、隣の工学部塔までいってその屋上で煙草を吸う。時折高輪叶人が煙草を吸っているのが見えた。この50メートルほどの距離が、そして間に存在する分厚い空気の層が、わけのわからず鳴り響く心臓の音を拡散してくれる。この距離は煙草の煙を見えなくする。
そうして今、目の前で薄く白い煙が高輪叶人の口から棚引いている。だから思わず目をそらした。
同じ喫煙所を使う人間というのはいつのまにやら顔見知りになるものだ。それで工学部塔の連中にあの科学部塔の屋上で煙草を吸っているのが高輪叶人だと教えてもらった。そして高輪叶人のいるところにはなるべく立ち入らないようにした。とはいっても理学部の屋上と研究室以外は足を向けないそうだから、研究室のある理学部の上層階にいかなければ会うこともない。
俺の前のグラスの氷もカタリと音を立てた。きっともう大分、薄まっている。
そうして話題も尽きた。
「今日はありがとう」
「いえ、こちらこそ」
灰皿には既に吸い殻が3本転がっていた。吸口から少し先までの長さ。左手で吸うのはきっとまだ、慣れていないんだろう。そうして高輪叶人は首を傾げた。
「三蓼さんは不思議だね。また誘ってもいいかな」
「どうして?」
思わずその言葉が口をつく。
「事件のことを聞かないからですか?」
「……そうだな、そのタイプは好ましい。けど今更だ」
「今更?」
「そういえば何でかな。何で聞かない?」
何で。
「聞かれたくないんでしょう?」
「あぁ。……とても面倒なんだよ。同じ問答を繰り返すのがさ。一層のことプリンタで打ち出して配って回ろうかと思うくらいには」
その声はイラついていた。その陶器のような眉間にわずかに皺がよる。それがとても不思議に見えた。
「でも結局は調べればすぐわかるようなことを尋ねられるのが嫌なんであって、事件のことについて話すことはそんなに嫌でもない。というか犯人について一番知りたいのは俺なのにな。三蓼さんは何か知りたいことがある?」
高輪叶人の目元はわずかに赤い。
「そう……ですね」
高輪叶人の言う意味をよく考える。
事件について話すのは嫌ではないが、同じことを繰り返し話すことには辟易している。つまり話題に上らない、報道されていないことなら答えても良いという趣旨なのだろうか。
何故わざわざそんなことを俺に聞く。口の中でため息が滞留する。俺には聞きたいことがある。けれども聞かなくてもよいことだ。刺されて何か、変化はあったか。それこそ山というほど聞かれたことだろう。
「特にありません」
「そうか」
漏れたその呟きは、僅かな落胆が滲んでいたように感じられた。それこそ何故だ?
「聞いてほしいことでも?」
第3話 思い出の交換
「聞いてほしい?」
高輪叶人は少しだけ視線を彷徨わせる。
「そうだな、知りたいことはいくらでもある。何故俺を刺したのか。みんな俺に聞くけれど、そんなこと知らないよ。刺したやつに聞いてくれって思う。だろ?」
その言葉は、高輪叶人に刺される心当たりがないことを示していた。きっとおそらく、それが最も投げかけられた問いなのだろう。けれども高輪叶人は自分で自分を刺したわけじゃない。だから刺した理由なんてわからない。
「ねえ、三蓼さん。三蓼さんはなんで俺は刺されたんだと思う?」
高輪叶人の瞳が煙草から再び俺に移る。振り向くと同時に白くたなびく煙の軌道も変化した。そうして心臓の鼓動が高鳴るのを感じる。不意にあの空が思い浮かぶ。
ああ、何故ついてきてしまったんだろう。好奇心? それとも。
空というものは手に入るものなのだろうか。それは世界をどこまでも繋げている。目を閉じればあの日の空が鮮やかに目の奥に浮かぶ。それは何も変わらなかった。
「怨恨とか、恋愛とか言われてますね」
「誰かに恨まれる覚えはない。ここのところ誰かと付き合ったこともないんだ」
「空が明るかったから?」
「空? それなら太陽のせいかもしれないな。昔の映画にそんなのがある」
高輪叶人は太陽を見上げるように顎を少し上げた。
太陽。あの空に太陽はあっただろうか。空一面が等しく暗かった。目眩がするように。だからきっと、太陽はなかった。そんなはずはないのに。ああ。そうか。高輪叶人の瞳はあのときの灰色の空と同じ色だ。だから嘘はつきたくなかった。あの空の色は俺の中の大切な何かを塗り替えた。後戻りができないほどに。
高輪叶人は新しい煙草を取り出して指に挟む。屋上ではいつも2本だった。いつもより随分多い。高輪叶人は刺された動機が気になっているんだろうか。当然といえば当然だ。
高輪叶人は思いついたように煙草を一旦灰皿に置き、ライターをポケットに仕舞う。
「三蓼さん、火、頂戴?」
「火?」
「そう」
「ライターをお持ちでは?」
「うん。最近紙煙草を吸う人って本当に少なくてね。だから久しぶりにこういうのやってみたくて。もうやる機会がないかもしれないし」
高輪叶人は唇に煙草を挟み、俺に顔を近づける。その先端が俺の煙草の先にふれ、ジジと小さな音がしてスモーキーな香りが漂った。高輪叶人の瞳がじっと俺を見つめている。俺はまるで磔にでもなったかのように微動だにできず見守った。そうして高輪叶人は2度ほど瞬きをして、俺の目の前に白い煙の残滓だけ残して遠ざかる。
「ごめん、突然だったよね。気を悪くしないで」
高輪叶人はわずかに微笑み、けれども目は離されなかった。新たな煙が吐き出され、それを負うように手元のハイボールに目を移す。氷は最早その上の方にわずかに浮いているくらいだ。
「いえ、俺もこんなふうに火をつけたのは初めてなので」
「そう? そっか。そういや三蓼さんは俺より若いよな。もともと不良とかじゃないなら、吸い始めてそんなに経ってない?」
高輪叶人は院生2年だったはずだ。それでも俺とは4つほどしか離れていないだろう。
「まぁ、そうですね」
「実は俺さ、煙草吸うのやめようか悩んでるんだ」
その言葉に酷く動揺した。俺にとって高輪叶人のイメージは屋上で煙草を吸う姿だからだ。
「それは、どうして?」
「刺されてから味覚が無くなってね。匂いは感じるんだけど舌で味を感じないからさ、妙にぼけちゃって片手落ちな感じなんだよ」
高輪叶人はそう呟いて唇から煙草を離して舌を出す。
「煙草が唯一の趣味みたいなものだったんだ。もともと食べものには興味がなかったから味がわからないのは構わないんだけど、煙草まで味がわかんなくなるとは思わなかった」
「それは……ご愁傷さまです」
「ね、それってどういうつもりで言ってる?」
その少し攻撃的な言葉に思わずびくりと顔を上げて振り向けば、高輪叶人は薄っすらとほほえみ、再び白い煙を吐き出した。バーの内側に煙が広がっていく。
「気に触ったならすみません」
慌てて謝罪が口をついた。けれども何か変なことを言っただろうか。
「ああ、俺は別に怒ってるわけじゃない。三蓼さんにも、それから俺を刺した人にも」
犯人にも? それはおかしい。高輪叶人は刺されて、そして様々なものを失った。けれどもよく考えれば高輪叶人の様子はかつてと変わらず、どこか泰然として見えた。そしてそれはとても眩しく映り、安堵だか不満だか評し難い気分が心を占める。
「強いんですね」
「そんなことはないんだよ。ただ、単純にどうしてそう思ったのか気になっただけ。でもやめようと思うと代わりに何して良いのかわかんなくてさ」
「代わり、ですか?」
「そう、口が寂しいっていうか、手が寂しいっていうかね。そうだな、それが俺を刺した人が俺から奪おうとしているものかもしれないね」
そう呟いて高輪叶人は口元で煙草を支えていた指を外してふらふらと動かした。
そんなはずはないだろう。高輪叶人の障害は時間の経過による出血過多によってもたらされたものだと聞いた。つまり高輪叶人はその傷害によって死亡した可能性はそもそも高く、それゆえ犯人は殺人未遂として捜索されている。障害についても今の結果は偶然で、足や聴覚の麻痺になる可能性も同等に存在したはずだ。
「ねぇ、三蓼さんは俺が刺されたときのことを知りたくない?」
思わず体が固まった。すべての時間が止まったように感じられた。けれども高輪叶人の唇から流れた白い煙によって、その瞳が全く動いていないだけだと気がついた。
「それは聞いていいことなんですか? それこそたくさん聞かれて辟易していることでは?」
「そうだね。でも三蓼さんは特別だから」
高輪叶人はそう呟いて、返事も待たずに口を開く。
事件の日、高輪叶人は家に帰る途中だっだ。
夕方の午後4時頃、もともと人の少ない高架下の暗がりで背中を刺された。そうして犯人は逃走した。その時間は未だ高架下の自動点灯式の電灯は点っておらず、不幸なことに高輪叶人が倒れたのは影になる場所だった。発見されたのは刺突されてからずいぶん時間がたってから、電灯が灯った後だった。
「冬のアスファルトってすごく冷たいんだよ。例えばそのグラスの氷。氷に触ったときみたいに顔と手が地面にくっついて動かせなくなった。まあそれは血が流れすぎて体が動かなくなったのを総幹事だだけって話だけど。右腕を下にして倒れたから右腕が動かなくなったんだと思ったけど、そういうわけでもないみたいだね」
「そう、なんですか」
「それで血は流れる瞬間だけ暖かくてさ、でもその分体がどんどん冷えてく。血が出てる背中じゃなくて何故だか手足の先から。それでだんだん何がなんだかわからなくなってさ。まるで世界が逆さまになるような感じだった」
まるで映画の感想でも話すような、他人事のような淡々とした告白に俺は酷く混乱した。それは想像していた以上に生々しい、刺されてからのその後だ。
「警察にはそれだけしか言わなかった」
「それだけ?」
第4話 煙の交換
「そう。その帰結として、俺は犯人が誰だか全くわからないことになっている」
「ことになっている?」
「まあ厳密にはわからなかったんだけどさ。俺は俺を刺した人と話したんだよ、ちょっとだけ」
嘘だ。そんなはずはない。会話などなかった。
「とはいっても俺が話しかけただけなんだけどね。『なんで』ってさ。返事はなかったよ」
なんで。それは誰もが持つ疑問だろう。何故高輪叶人が何故刺されたか。それはきっと、空が明るかったからだ。
「ところでさ、三蓼さんの煙草って何の銘柄? シガーケースにいれる人って初めて見たよ」
高輪叶人は不意に煙草を指から離して俺の煙草を指差す。
「あ、ああ。これは外国産です。友人がタイでよく買ってきてくれて、けどあっちの国はパッケージが手術とか死体の画像だからヤバくて人前で出せないので」
「ああ、なるほど」
そう呟いて高輪叶人は意味ありげに薄っすらと微笑んだ。
「それでね。俺はさっきも言った通り俺を刺した人に興味があるんだ。なんで俺を刺したのかってさ、その返事が聞きたくて」
「そう……ですか」
「俺は今、目もまともに働かないし舌も駄目になった。何かを区別しようとする時にまともに働くのは耳と鼻だけだ」
どきりと心臓が波打つ。
「犯人は確かに何も答えなかった。でも俺を刺したまま、しばらく俺の背中にいた。すぐ後ろにね。それでその煙草の匂いがしたんだよ。三蓼さん、何で俺を刺したんだ?」
心臓がばくりと音を立てた。煙草をくわえた口元が酷く乾く。
嘘をつくべきか。
煙草の匂いなんてあやふやなものだ。判別なんてつくはずがない。それにあの日から随分時間が経っている。当時の匂いなどすでに霧散し、俺に結びつけることなど不可能だ。それにこの煙草は日本には直接入っていないが、タイではよくある煙草だ。他に吸う人間もいるだろう。
けれど。
「何で俺が犯人だと思うんですか?」
「手当たり次第でいろんな会に顔を出したよ。野次馬ばかりで辟易したけどね。三蓼さん、いや、俺を刺した人は俺を殺しそこねた。ならきっと生きてる俺のことが気になると思ったんだ」
「あそこに行ったのはたまたまですよ。あなたがいるとは思わなかった。俺は不自然でしたか?」
「さあ。俺には話しかけなかったけど三蓼さんから視線は感じた。でも俺はそれなりに有名だから、見られるのは仕方ない。三蓼さん以外にも見てる人はいたし」
あの場には三十人位は人がいたはずだ。顔のわからない高輪叶人は俺を同定し続けていたのだろうか、まさか。
「紙煙草吸ってる人がずっと俺を見てたんだよ。他には紙煙草吸ってる人いなかったし。だから誘ってみた。でも三蓼さんは事件のことを聞かなかったから、最初は違うと思った」
高輪叶人から細い煙が漂う。頭の中にかすみがかかる。
「でもあんまりに聞かなさすぎて変だなって思った時、あの匂いを思い出したんだ。電子煙草じゃない匂いだった。三蓼さんの煙草の匂いだ。なんで?」
やはり不確かな話だ。今も俺が目の前から消えれば、きっと高輪叶人は俺を見つけることはできないだろう。三蓼も偽名だから。けれども俺は嘘をつきたくなかった。高輪叶人の少し灰色味がかった瞳が俺をまっすぐに見つめていたから。
「空が明るかったからです」
あの日、世界はたった2色だった。
洞窟の中のような真っ黒な高架下。その外側の紫みがかったキラキラと揺らめく灰色の空。黄昏の奇妙に明るい風合いはまるでこの世のものとは思われなかった。高輪叶人はその時、歩き煙草をしていた。高架の影で真っ黒に染まったシルエットが少し上を向いて煙草を口から離して煙を吐く。その時の白い煙はいつものように棚引くまでもなくそのまま空に溶けていた。たから黒い部分はそのまま地面に溶けていき、空に接する部分はそのまま空に溶けていき、高輪叶人がいなくなってしまうように思えた。
だから、刺した。いなくならないように。まるで虫にピンを指すようにこの世から消えてしまわないように。
その時は、それが当然に思えた。今でもその時のことは覚えている。いつからそんな事を考えていたんだろう。わからない。鞄の底にはいつもナイフを忍ばせていた。そのまま消えてなくなりそうな高輪叶人。人が空気に溶けるはずがない。でも俺の認識はそうじゃなかった。
「酷く理不尽な理由だ」
「そうですね」
「それで三蓼さんは何を得られたの?」
「何も」
高輪叶人は俺の目を覗き込む。少しの混乱の他には何も感じ取れなかった。
否定すればよかったのかもしれない。高輪叶人は人の顔を認識できない。だから俺を同定できない。しらばっくれれば証拠も何もない。そう思ってついてきたはずだった。
触れたハイボールは酷く湿っていた。
「俺は生きてる」
死んでほしいとは思っていなかった。会うつもりもなかった。俺が高輪叶人を刺したとき、いや、刺した後にようやく殺してしまっては本末転倒だと気がついた。だから工学部棟の屋上に上がるのもやめた。頭の中に蓋をして、閉じ込めて、なかったことにした。俺の中から高輪叶人の全てをなかったことにしようとした。それも、ひどく自分勝手で理不尽なことだ。
「とても痛かった」
「……」
「まあ、今は痛くはないけどね。もう空は明るくないの?」
淡々とした問い。思い浮かぶのはあの酷く灰色じみた空。何も変わらない。そしてそれと同じ色の瞳。
「まあ、俺は刺した人を別に恨んでないから気にしなくていいよ、困ってないしな」
「……困ってない?」
右手と味覚と認識を失ったのに? 今も右手はぷらりと垂れ下がっている。
「そうだなぁ。数学科というのは省エネなものでね。頭が働けばそれでいいんだよ。右手がなくても左手でできないことはない。味覚はもとより食事にあまり興味はない。人間の見分けもあまり興味がない。だから、困ってない。三蓼さんの行為は無意味だ」
俺を観察する空色の瞳は何の感情もこぼしてはいなかった。悔しさも、怒りも、嘲りも、なにも。ただ記憶の中にある空のように、相変わらず俺と隔絶して、泰然としていた。
それはきっと、予想していたことだ。
変わらない。変えようとしても、変わらない。俺は高輪叶人に何の影響も与えない。多分この瞳を失っていたとしても、それは目に見えるこの色を失わせたというだけで、既に俺の記憶に焼きつけられたあの景色とこの瞳の記憶はもはや、変わることはないだろう。
「三蓼さんが俺を殺していたとしても、やはり意味はない。俺はそこで考えるのをやめるってだけだ。だから気にすることはないよ。俺も誰かに言うつもりもないし」
高輪叶人は残りのラムを飲んで立ち上がる。
「空が明るかったから刺された、で納得したんですか?」
「した」
「何故?」
思わず零れた俺の問いかけも無意味で、高輪叶人はコートを羽織るのを止めることはできない。
「俺は空が明るかったから刺された。それが事実なら、それだけだ。俺の疑問は解消された」
俺に対する興味が急速に失われていくのを感じた。だからきっと、俺が高輪叶人と会うことはもうない。かわりに次第に俺の世界が色を失っていく。そうしてやはり、高輪叶人は世界から消え失せる。
煙草を吸う姿が好きだった。何故好きなのか。そんなのはわからない。きっとそれは理屈じゃない。高輪叶人を殺せていたら、興味を失うことができただろうか。あの空を俺の中から消せただろうか。あの焼けこまれたような空を。俺を汚染し、塗りつぶそうとするものを。
無理だ。
ああ、ようやくわかった。俺はこの人に何か影響したかったんだ。そのまま溶けて消えてしまうという妄想を利用して、どうせ消えるなら俺が殺したいと思って刺した。気がつけば、ため息を付いていた。
「あなたを殺したかった」
空が明るかったから。
「無意味だよ」
「そうですね」
今更殺しても、何の意味もない。
あの時に高輪叶人が死んでいたとしても、ただ、この人を殺したという事実が成立するというだけだ。たまたまこの人は死ななかっただけだ。どのみち俺はこの人に何の影響も与えることはできない。何故刺したのかという興味も、既に失われてしまった。けれども諦めることなんてできるのだろうか。それができれば早いのに。
「また飲みませんか」
「……いいよ。君のことはもう見分けがつかないかもしれないけれど」
そう呟いて、高輪叶人は煙草を灰皿に押し付けた。
Fin
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校正の時間が全く取れない(というか完結不安)ので、読みづらいところや目が滑るところがあればご指摘いただければ泣いて喜ぶ。特に情報が欠けてるところの指摘は(医局の雰囲気がわかりづらいので風景描写があったほうがいい等)。
月曜締め切りの公募に出すので、完結したら非公開になる不義理本です。
(このVerの表紙)

