本雑綱目 74 海老沢有道 キリシタン南蛮文学入門
今回は海老沢有道『キリシタン南蛮文学入門』です。
教文館。ISBN-13 :978-4764209114。
NDC分類では910。文学>日本文学。
これは乱数メーカーを用いて手元にある約5000冊の本から1冊を選んで読んでみる、ついでに小説に使えるかとか考えてみようという雑な企画です。
★図書分類順索引
1.読前印象
南蛮文学なので室町から江戸初あたりに書かれた本についてだと思う。ドチリナ・キリシタンとかが浮かぶけれど、そういえば真面目に読んだことがない。たしか仏教用語とかが使われていてカオスな本だったと記憶しているし、そもそもザビエルのイエズス会自体が独自色がかなり強かったと記憶にある。
とりあえず開いてみよう~。
2.目次と前書きチェック
はじめにを読むと、弾圧によって失われた書籍も多いが明治以降に内外で発見された本や復刻本も含めて、可能な限りまとめて校註を加えたいと書かれている。その校註のあたりが知りたいけれど、視点によるよねって感じ。
目次は『総論』で序説、分類、成立基盤、イエズス会士の日本語研究、用語、『各論』で教理文学、祈祷文学、典礼秘跡文学、聖書文学、観想文学、護教文学、殉教文学、書簡文学、日本文学研究と創作文学、反キリシタン文学、南蛮文学です。やば、それぞれの文学の違いをあまり理解していない。
序説を読むと、日本のキリシタン文学研究は明治以降プティジャンが発掘、復刻し出版したことにより始まる。当時は明治政府側もクラッセの『日本西教史』の翻訳を行う等の事業を行い、カトリック教会側からも会報が出されるようになり、次第に日本におけるキリシタン文化についての研究が相互に進められるようになった。室町から江戸に現れたキリシタン文学はこれまでにない新しいものとして、当時現れた狂言等より優れている、ように書いているけどそれは新しいアニメの一期が始まったのと同じ現象ではと思わなくもない。
どこを読むか悩ましい。総論のうち『イエズス会士の日本語研究』、各論の中の『教理文学』、『殉教文学』、『反キリシタン文学』を読んでみる。反キリシタン文学だと南蛮寺廃興記とか邪教大意かな。ハビアンの本が書きたいから著作の破提宇子があれば面白いんだけど。ハビアンは禅僧だったのが修道士になって修道女と駆け落ちして棄教して逆にキリシタンを迫害するようになった側の人で、ちょっと手元資料がとっちらかってて。
3.中身
『イエズス会士の日本語研究』について。
日本の宗教事情の特殊性は神道や仏教などの異文化性ではなく、それぞれの宗教がまざりあって混然一体としているところにある、という指摘は目からうろこ。たしかに日本の宗教は本地垂迹とか反本地とか何故だか混ぜ合わさってしまうので、一神教のキリスト教としてはそこに混ぜられることを絶対に避けなければならないわけだ。そういえば入ってきた当初はゼウスが大日と訳されたから当時流行っていた天道思想に混ぜられて分離するのが大変だったと何かで読んだ気がした。天道思想って全部ごちゃまぜちゃんぽんだし。
ともあれ征服慣れしている彼らにとって識字率が高いということは、文字媒体から布教しやすいことを意味すると思ったんだろうと思う。
『教理文学』について。
キリスト教の教理を伝道するために、大きな問題があった。当初、ゼウスは大日、聖母マリアを摩耶夫人として釈迦生誕に模したため、当初日本では新しい仏教と受け止められた。
よく考えたらキリスト教の伝道手法は地元の神をキリスト教の悪魔として取り込んでいくスタイルなのが、日本における神的扱いのものは既に混ざり切ったよくわからないものになっていて、逆に混ぜられてしまうという未曽有の事態に陥った。そんな状況を神仏分離等で強引に千切った明治政府はやっぱある意味すごい。
純粋なキリスト教の教理を日本に浸透させるのはやはり難しいと感じる。教理教育がカトリック内で重視されたのも東アジアでの布教が始まった後のトリエント公会議以降というから、やはり神道や仏教という彼らにとって新しい教理概念を打ち崩す必要が出てきたからこそ発展してきたのではないか。東アジアの宗教は総じて一神教みたいに理念が唯一神ベースじゃない。そう考えるとイスラム教とはかえって枠組み的に親和性があって、個別の協議はともかく概念自体を打ち崩す必要性はなかったのかもしれない。
キリスト教を特に悪く言うつもりはないのだが、その原理として人々を罪という枠組みに落としてそれを神が救うというフレームに持っていくものだと考えれば、神が絶対なのはそのシステムからも明らかだ。けれど原罪があるという考えに至るのはその者が不幸というマイナスが必要なわけで、丁度室町あたりの日本、というか地球は寒冷化によって作物がみのらず飢饉に見舞われる時代だったから、それが比較的罪とか罰とかの概念に合致しやすかったのかもしれない。この世は苦界で死ねば天国に至るという幸福が見えるのなら、そこにはすがるべき何かが見えるのかも。とは思うものの一方で、よく例示に出される異教徒である先祖が救われないままである(神が信者を囲い込み選り好みする)という概念は、様々な宗教を混ぜに混ぜまくった日本では理解が困難なものだろう。浄土真宗は南無阿弥陀仏一発で極楽にいっちゃうわけだし。
『殉教文学』について。
当時、異国の地での布教という行為は殉教がその前提として含まれており、教理教育と同等に殉教教育(殉教聖人を讃える)が行われた。主に教導された聖人は古くからの西洋の聖人であり、日本の例えば26聖人は含まれていないと指摘する。
26聖人が聖人になったのって江戸末じゃなかったっけ。聖人認定は教会(教皇?)で行うから、聖人としての教導書は当時作れなかっただけなんじゃないかな。
『反キリシタン文学』について。
ヴァリニャーノの『日本ノカテキズモ』や『ドチリナ・キリシタン』に対する神儒仏側のまとまった著作が一つもない、という主張はとても違和感がある。
ハビアンの破提宇子や雪窓・宗崔の対治邪執論は引かれているけれど、これに含まれないのだろうか。まとまったという意味ではドチリナ・キリシタン(教義書)に対応するものなら各教典になるんだけど、わざわざ対キリスト教用に書き下ろしたりもしないだろう。キリスト教は当時日本の仏教を消滅させる可能性があるほどの勢力をもっていないだろうし、必要性が見いだされる前に鎖国した気がする。というより根本的に全部混ぜちゃうから個別に否定するという概念がないのかもしないかもしれない。仏教は入って百年もたたずに神道と混ざってしまったし。そんなわけで何か議論がずれているような気が(あるいは僕が何か勘違いしているのか)。
人物伝的なものは作者不詳のものが多くあるようだが、少し後世に作成された後世の社会情勢を背景とした事実に即さない俗説書が多いという。この辺は注意が必要と思いました。
全体的に、結構目からうろこが落ちた興味深い本なのだが、文学の性質的な本で直接歴史に絡むものではないから、室町末から江戸初期までの外来文学の分析の本かな。
小説に使えるかというと、どうかなぁ。僕が書きたいのはハビアンは別として、同時代の東アジアの宗教情勢・戦争・奴隷貿易(ゴア・マカオ・マニラ・日本)なので興味はあるものの、というか文献が少なくて探し回っているところなのだけれど、例えばよくある天草四郎とかをテーマにするにはその物語自体がかかれているわけではないので使えないような。
4.結び
次に探すべき本が見えてきたんだけれど、ゴアやマニラにある現地資料とかは手に入れようがなさそう(言語的にも原典読みたくない、大変すぎ)なので、主にみているのが日本と中国の宣教師の書簡なんです。それがちょっとバラバラになりすぎていて収集がつかないのだ。いい本求む。
メモ:林道治の排耶蘇、ヘレイラの顕偽録、雪窓,・宗崔の対治邪執論。
次回は稲垣足穂『南方熊楠児談義』です。
と思うのだけど、読書ストックが減ってきたので別のエッセイを投げ込むかもしれませんが、あしからず。
ではまた明日! 多分!
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