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【短編小説(一般文芸)】リュウノツカイ 3500字

[HL:僕にはドアが開けられなかった。その外に雨が振っている気がして]

 玄関が開けられない。
 冷たいノブに触れて、そこまでは簡単で、けれどまた手を離す。それの繰り返し。焦る手で何度も触れて、また離す。
 だめだ、やっぱりどうしても玄関が開けられない。心は焦るばかりで、まるですべての水圧ののしかかる水槽の底で足掻くようにどんどんと身動きがとれなくなっていく。

 僕が玄関を開けられない理由は小4の時に遡る。
 その時、父さんの車の助手席に乗っていた。
 ガツンという衝撃に一瞬ガタリと車ごと宙に浮いて、その後どぷんと世界が沈み、シートベルトが僕を強く締め付けて、それから意識が途切れた。
 次に目を開けた時、ぶくぶく以外の音がなかった。
 気を失ったのは僅かな時間だろう。けどすでに、気づけば窓の半分は水の中だった。頭が真っ白になった。振り返って運転席の父さんを揺すっても動かなかった。後部座席の兄さんに声をかけても返事がない。逃げようと藻掻いてドアレバーに力を込めてもピクリとも動かず、その間もぷくぷくと水位が上がっていく。そのことに視界が揺れる。それに、今開いてしまっても。窓に鼻につけて見上げた随分遠くの先の水面で、光がキラキラ反射していた。
 恐怖。いや、多分恐怖じゃない。あれがきっと、絶望。
 窓の外に影が横切る。
 魚。
 水中。
 息ができない。ここはすでに水の中で、僕は溺れて死んでしまう。そう思うと急に息が苦しくなって目を閉じて、気づいた時は病院だった。

 後遺症はなかった。けれども僕は少し、変わってしまった。
 その日から出入口というものが怖くなった。車の中を思い出すたびに恐怖と絶望が蘇り、扉や窓に近づけなくなった。足が震えた。その外が水で一杯に思えて。それから、窓の外に魚が泳ぐようになった。幻だ。ありえない。そんなことはわかっている。でも宙を様々な魚の影がぼんやりと、悠々と泳いでいる。窓の内側のこちらのことなんて何も知らないように泳ぐ魚が、本当に恐ろしくて。
 お医者さんはトラウマだと言った。
 だから僕の代わりに兄さんがドアを開けてくれるようになった。自分の部屋、リビング、トイレ、玄関。同じ学校に通っていたから学校のドア、ありとあらゆる扉を僕の代わりに。
 けれども兄さんも外に水が溢れる扉は開けられなかった。
 つまり雨の日。
 雨の日は両親に扉を開けてもらう。学校なら友達が開けたドアを急いで追いかけ、一緒に潜る。
 雨の中に出ること自体は怖くはない。怖いのは水の内側にある扉に触れることだ。

 大小の魚影はごくたまに窓ガラスをすり抜けて部屋の中に侵入し、そのたびに僕は悲鳴を上げた。ホログラムのように室内を半透明の魚がゆっくり回遊する。僕を無視してふわふわと。そんな時、僕は全てを見ないようにベッドで小さくなっているしかなかった。
「魚なんて晩飯に食ってるじゃんか」
 兄さんはそんな僕を心配して、ふゆふよ泳ぐ魚をつつく。
「ここは湖の中だ。だから泳いでる魚が怖い」
 また、死んでしまうのでは。そう思うと恐怖がこみ上げた。
 兄さんは少し悲しそうに笑う。
「仕方ないなぁ。小さいのなら大丈夫かな」
「小さいの?」
「そう。小さいなら怖くないんじゃないかなと思って。なるべく綺麗なのを探すよ」

 それから、兄さんは僕の魚嫌いを克服するために魚を連れてくるようになった。
 最初は何匹かの小魚。
「グッピー捕まえてきたけど、どう? 小さいから平気じゃない?」
 おそるおそる、目を上げる。目の前を泳ぐ赤青の半透明なグッピーはしばらく部屋の中を泳いで窓から逃げていった。
「綺麗だから、まだましかな」
 兄さんが次に連れてきたのはナンヨウハギ。グッピーよりも少しだけ大きい。けど同じように奇麗だ。青色に黄色い尻尾。
佑樹ゆうきが魚嫌いになると俺が悲しいから」
 魚好きの兄さんが二番目に好きだった魚。そういえばグッピーは三番目だ。兄さんは南の海の魚が好きで、海洋学者になりたいと言っていた。
 兄さんが連れてきた魚なら、少しは恐さはマシになった。兄さんはあの時僕と一緒に車の内側にいたからかもしれない。

「どうせなら兄さんの一番好きな魚がいい」
「あーあれか。でかいと怖くないか?」
「いい」
 しばらくして兄さんはどこからともなくリュウグウノツカイを連れてきた。
 銀色でキラキラと細長く、赤い冠の先をふよふよと漂わせて部屋の中を舞っている。最初はその大きさにひるんだけれど、静かに漂うその姿は何故だか一番怖く感じなかった。あの小さなグッピーよりも、綺麗なナンヨウハギよりも。なんだか兄さんのように感じられて。
 兄さんの名前と同じくリュウと呼ぶことにしたその魚は、僕と一緒にいてくれるようになった。他の魚が近づきすぎると追い払ってくれる。外にいる時でもいつも。
 僕はリュウと一緒に何年か過ごした。

「佑樹、急いで病院まで来て」
 土砂降りの夜、怒鳴るような母さんの電話に玄関に走った。
 父さんが事故に遭った。車に轢かれたと聞いて、僕の心は凍りつきそうになった。父さんは特殊な血液型で、家族ではもう僕以外に輸血できない。一刻を争う。それはわかってる、わかってた。
 けれど、わかってたけど玄関が、開かないんだ。開けられない。
 さっきから何度もドアノブに触ろうとして、回すことができなくて、何度も手を伸ばしては離している。
 玄関のドアノブに手をかけた途端、凍ったように体が動かなくなる。外が水で溢れているのを知っているから。
 そのドアの外からは確かに、ザァザァと雨の音がした。

「母さん、玄関が開けられない!」
「お願い、急いで、何とか出てきて。もう家族を失うのは耐えられないの。佑樹、お願い」
 電話先の崩れ落ちるような声。
 どうしよう。でも、玄関が開けられない。手が震えて、もうドアノブにも触れない。その温度が冷たすぎて。
「佑樹、開けよう。父さんを助けて」
「嫌だ。ここを開けたら、きっと兄さんがいなくなる」

 リュウは赤い冠をひらひらさせて僕の周りをくるりと回り、兄さんの声で話しかける。病気がちな兄さんはあの車の中で心臓を止めて、それからその魂は魚になった。
 水につながる扉を開けると、兄さんの魂は泳いで出ていってしまう。もう帰ってこない。そんな気がした。
 あの車の中で僕が意識を失った時に時間が凍って、僕の心は兄さんと一緒に今もあの車の中にいる。今も、あの車のガラス窓のように扉が水の中と空気を隔てている。
 扉を開けて水を中に入れてしまえば、凍った時間が溶けて僕は死に、魚になった兄さんは外に流れて消えてしまう。
 ふと、ほほに何かが触れた。
 リュウがくるくると僕の周りでゆるやかに巻き付いている。

「玄関を開けよう。父さんを助けよう。佑樹じゃないと水の扉は開けられない」
「嫌だ、兄さんがいなくなるのは嫌だ!」
 父さんも、兄さんも僕の大切な家族。そう思って見つめたリュウの目は、静かに僕を見つめていた。
「佑樹、俺はとっくの昔に死でいるんだ。俺がいるとお前はいつまでも外に出られない」
「外になんて出られなくていい!」
 僕を見下ろすリュウはゆらゆらしていた動きを止める。
「俺はここにいるべきじゃなかった」
「なんで……なんでそんなこというの」
 その理由なんてわかってる。
「嫌だ。それでも嫌だ。一緒にいて」
「佑樹、大丈夫。俺は天国に行くだけだよ。佑樹をずっと見守ってる。今までとかわらない」

「天国」
 つぶやくと、リュウは赤い冠を揺らして微笑んだように見えた。
「兄さんは天国に行きたいの? 僕のところからいなくなって」
 リュウの目は、少しだけ寂しそうにまたたいて、けれどもやっぱり、まっすぐと僕を見つめていた。
「僕がこの部屋に閉じ込めたせいで、兄さんは天国に行いけなかったの?」
「それは違う」
 リュウは小さく頭を左右にふり、僕の手にしっぽを巻き付けてそっとドアノブの上に置いた。
「でももう、一緒に開けよう。外に歩き出す時間だ。一緒に外に出よう」
 一緒に。兄さんと。暖かいリュウの尻尾とともに触れた冷たい金属のノブはもう、手を拒まなかった。
「佑樹、見守ってる、ずっと。かわらず」
 ノブを回す手にリュウの冠が触れて力が伝わる。
 歯を食いしばって玄関を押し開けると、ドウという音が巻き起こり、叩きつけるような水が溢れていた。
「行こう。水は怖くない」
 兄さんは僕の脇を擦るようにすり抜けて一度振り返った後、豪雨の中を冠を揺らしながらユラユラと空を泳いで登っていく。
「水は、怖くない」
 キラキラと真っ暗な雲から降り落ちる透明な水は恐ろしくはなかった。
 だから雨の中を必死で走って、走ってそれで父さんは一命を取り留めた。
 それから宙に魚を見ることはなくなったけれど、今でも雷の日は最後にリュウが雷を泳ぎながら空を登っていく光景を思い出す。それは、僕の脳裏に焼き付いている。

短編小説一覧にラ行なかったなっていうかんじ。
UPしといてなんだけど、僕はこの話は嫌いなんだ。登場人物が無自覚に綺麗すぎて。僕は終局的にはゲロ吐きながら絶望にのたうち回り続けて最後に光だけ見て死んでく話が好きなのだが景気が良くならないとこういうのは受けないのは知ってる。

表紙

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なんとなく読後感にてるかなっていうくらいで。こっちは好き。全然絶望してないけど主人公は自分の影を知ってるから。

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