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【実践編・創作大賞応募作】青首大根の「すくい」取り〜柄谷行人に捧ぐ〜

驚かないでいただきたいのですが、我が家の冷蔵庫の横には、今、妻が毎日スムージーにして美味しそうに飲んでいる巨大な大根があります。
そしてその大根は、娘の家にもお裾分けされ、私の可愛い孫たちの口にもお味噌汁の具として入って、「美味しい、美味しい」と食べてくれています。

家族は誰も知りません。
この巨大な大根を私が畑からもらい受けてきたとき、葉っぱと青首の境目に、ぎっしりと30匹、いや50匹ものダンゴムシが、命の気配を煮詰めたようにまとわりついていたことを。
虫が嫌いな妻や娘には、今でも絶対に内緒です。
私はただ「でっかい大根だよ、中までみずみずしいよ」と笑って手渡しただけなのです。

世間では、何百万人もの人が、あらかじめ結末から逆算されたお行儀のいい、めんどくさい虚構(ストーリー)の小説を大真面目に買って消費しています。
登場人物たちが作者の都合の良い予定調和の線路の上で、お人形さんのように喋らされている、あのトホホな箱庭です。
そこからは、この「50匹のダンゴムシのグロテスクな生々しさ」は綺麗に去勢されてしまっています。

しかし、文芸批評家の柄谷行人さんが頭のなかの論理で絶望し、84歳になった今も「もう何も言う気が起きない」と沈黙するそのマウンドへ、私はこの大根を抱えて立ちました。

知識人たちが決して目にすることのなかった「エッセイ」という名の死角。
私はそこで、ダンゴムシのうごめきや、家族の食卓という現実をありのままに「掬(すく)い取り」、それによって、現代文学に去勢されていた細部を「救(すく)い取る」。
この二つの「すくい取り」の掛け合わせこそが、71歳の私が現場の叩き上げとして辿り着いた、新しい文学の実践なのです。

誰も予想していなかったでしょう。
このnoteという広大なプラットフォームから、創作大賞というコンテストの幕を切って、こんな泥臭い生の匂いを吐き出すエッセイストが登場するなんて。

読者のみなさん、驚かないでください。
私たちが生きているのは、スタジオで作られた綺麗なストーリーの中ではありません。
ダンゴムシがうごめき、妻がスムージーを飲み、孫がお味噌汁を美味しいとすする、このごまかしの利かないディティールの現場にこそ、本物の文学が息づいているのです。

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