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ある作家への質問状 〜虚構と現実のあいだで〜

おはようございます。
実はですね、最近、ある高名な作家の方がお書きになった小説を、手元で20ページほどひもといてみたのです。
丁寧に、真面目に読み進めてはみたんですけれど、私は途中でどうしても、それ以上ページを繰る気持ちになれなくなってしまったんですよね。
なぜならそこにあったのは、作者の頭の中で緻密かつ都合よく組み立てられた、どこまでも不自然な「作り物の文章」だったからです。

小説という世界の中では、登場する生身の人間や個々の描写が、すべてたった一つの結末やテーマに向けて「使い捨てのパーツ」として利用されているように、私には見えてしまうんです。
一つの大きなストーリーに収束させるために、神様がくれた現実の豊かなノイズが、まるで無駄なものとして綺麗に削ぎ落とされてしまっています。
現実を生きる私たちは、決してそのように一つのテーマに囚われて都合よく生きているわけではないのに、その虚構の時間に自らの人生を費やすことを余儀なくされているのですね。

何百万部も売れた小説であっても、ストーリーの進行に合わせるために、登場人物の会話がどこか状況を説明するための不自然な言葉になっていきます。
どれほどプロの編集者と徹底的に打ち合わせをして修正を重ねたとしても、虚構である以上、そこにはどうしても現実とは違う、作り物の説明的な匂いが入り込んでしまう。
ストーリーのために作られた、予定調和のような会話の不自然さを、生身の現実を生きている私は、どうしても見過ごすことができなくなってしまうのです。

ふと思ってしまったのですけれど、これってなんだか「国家」と「国民」の関係にも似ていますよね。
小説という一つの完成された形が「国家」だとしたら、そこに生きる登場人物や描写というディテールは、私たち「国民一人ひとり」の姿そのものです。
国家という大きすぎる目的のために、一人ひとりの国民が都合よく奉仕させられ、個人のささやかな人生の輝きが犠牲になっていく……。
そんな歪んだ景色が、その小説の中で静かに起きているような気がしたのです。

本来、小説を構成する一つひとつの要素、その細部には、それぞれ独自の神様が宿っていて、独立して自立しているはずのものですよね。
それらが全部、全体のテーマという冷たい大義名分に奉仕させられ、去勢されていく。
やはり本当に大切なのは、全体のために奉仕することではなく、そこに生きる一つひとつのディテールが、自立してそこに在ることなのだと思うのです。

だからこそ私は、その作家に向けて、届くはずのない質問状を、心の中でそっとささやくことになります。
「あなたは、結末のために人間を使い捨てるその虚構のなかに、本当に表現の命を懸けているのですか」と。
もちろん、作家は私のこの理屈を理解することはないでしょうし、理解してしまったら、もう小説という虚構の世界を一行も描けなくなってしまうはずです。
住む世界が、私とは最初から180度まったく違うのですから、それはもう仕方のないことなんですけれども。

私は自分が神様になるのではなく、本物の神様が私の前に差し出してくれた、ありのままの「現実のディティール」を丸ごと愛して、忠実に写し取りたいのです。
たとえば、放っておけば土に還るはずだった、あの泥だらけの、かろうじて救い出された20本の人参たち。
あるいは、青々とした葉っぱと巨大な大根の首との、まさにギリギリの境目に、無数のダンゴムシたちがびっしりと集まってじっと息を潜めている、あのうごめく命の気配。
引き抜いた瞬間にその驚くべき命の営みが目の前に現れて、私はうわっと息を呑み、思わずぎょっとして腰が引けてしまいます。
それでも私は、彼らの営みの凄さに恐れや申し訳なさを抱きながらも、ダンゴムシたちを恐る恐る手で払いのけ、自分の食べる大根にしてしまうのです。
小説ならノイズとして捨てられてしまう光景のなかにこそ、人間や生き物が瞬間瞬間を必死に生き抜いている、本物の命の質感があると、私は疑いなく信じています。

虚構をひねり出す時間よりも、神様が私にくださった現実を掬い上げるためにペンを握る時間が、私にとっては遥かに尊いのです。
ありがたいことに、私のnoteを愛してくれている100人から150人の熱烈な読者の皆さんは、その「生の現実の息遣い」を、私と一緒に五感で味わってくれています。
窓の外では今日も朝から雨が降っていますけれど、この止まない雨のディティールさえも丸ごといただくように、これからもこの世界の現実をありのままに掬い上げていくつもりです。

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