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クラシック音楽は、目(カメラワーク)で聴くものである

〜客席以上の我が家の特等席。演奏家の魂とシンクロする新時代の極上クラシック鑑賞論〜

私の朝は、壁打ち運動場での「二刀流壁打ちテニス」の、あの激しい2時間から始まるのです。フォアハンドはあえて封印し、ロジャー・フェデラーのような、あの華麗な片手バックハンドの技術を、右腕だけでなく左腕でも同じように完璧に操る特化した世界なのですね。上半身から完全に力を抜き、肉体を極限まで柔らかくほぐしていく、世界中で誰もやっていない私だけのオリジナルなエクササイズなのです。

このように自身の肉体の仕組みを徹底的に熟知し、柔らかくコントロールする訓練を毎日重ねているからこそ、私には、演奏家の動きを見抜く「肉体に対する特別な目」が自然と養われているのだと思うのです。

この運動によって頭脳がすみずみまで明晰になり、心も体もしなやかに解きほぐされた最高の状態のままで、私はリビングへと戻ってくるのですね。

そうして、クリアに研ぎ澄まされた状態でテレビから流れる豊かなオーケストラの音色に身を委ねていますと、私はふと、昨日観たひとつのYouTube動画のことを思い出してしまうのです。

ドイツを拠点に活躍されているオペラ歌手の車田さんという有名なユーチューバーの方がいるのですが、彼の動画のなかで、クラシック音楽の捉え方について、何やら小難しい理屈を語られていたのですね。
「音程が外れているだとか、音がどうだとか、そんなところばかり気にして聴くのは感心しない。聖書的な知識を超えたところで、その曲の奥行き、深みを捉えなければならない」と、そんなようなお話でした。

なるほど、本場のドイツに暮らし、誰よりも音楽への目が肥えているプロの批評として、それは大変に面白いなと思ったのです。けれど、どこか頭のなかで理屈が先行しているような、硬い引っかかりも覚えていたのですね。

今にして思えば、これこそが車田さんをはじめとする、実際の音楽批評家たちの最大の「盲点」だったのではないかと思うのです。彼らは音楽の知識や歴史を頭でこねくり回すことには長けていても、「自らの肉体を通して、演奏家の肉体から溢れ出る音楽を能動的にキャッチする」という、あまりにも生々しい肉体性をもった鑑賞眼を持っていなかったのですね。

実は私自身、ここ2年ほどは、実際に生の演奏会へ何度も足を運ぶという音楽鑑賞を大切にしてきました。私が暮らしているところから、すぐ隣の街の会場へと出かけて行ったんです。地元の素晴らしいアマチュアのオーケストラが主体なのですが、時には協奏曲の独奏者(ソリスト)として本物のプロの演奏家が出演したりもして、直に聴く生のオーケストラの音の響き、その贅沢さには本当に心が満たされていました。

やっぱり音楽は生の空間で直に浴びるのが一番だな。そう思っていたからこそ、お気に入りのテレビでフランクフルト放送交響楽団の映像をじっくりと鑑賞したときに、私は言葉を失うほどの衝撃を受けたのです。

「これは、あの隣の街で聴く最高の生の演奏会すら、ある意味で完全に凌駕する価値があるぞ」

プロの専門家たちが誰も気づかなかったその死角に、毎朝のテニスで肉体を熟知している私だからこそ、瞬時に気づくことができたのです。フランクフルトの彼らが魅せる現代のカメラワークは、本当に凄まじい解像度を持っています。

ホールの実際の客席に座っている入場者は、自分の席という、たった1つの固定された場所からしかステージを眺めることができません。どれほど高価な席であっても、そこからの視点は1つだけなのですね。ですから、現地の聴衆が1人の演奏家をずっと追いかけ続けることは、構造上、絶対に不可能なことなのです。

しかし、あの現代の映像の裏側には、ステージの上の演奏家のすぐ目の前や、客席からは決して見えないホールのあらゆる死角に、無数に計算されたカメラが緻密に仕掛けられているのですね。その仕掛けられたマルチアングルから、楽譜の展開に合わせて一瞬でスイッチングされていく最新のカメラワークの技術。それは、演奏家の肉体をまるでレントゲンで透視したかのように、私の目にはっきりと映し出したのですね。

演奏家の肉体の動きや、呼吸の仕方などを完全に把握することで、彼らがいかにしてあの至高の音楽を創造していっているのか、その感動のメカニズムに、私の目は鮮やかにメスを入れることができたのです。

それはフランクフルトの楽団だけではありません。たとえば、ネットで観たクラウディオ・アバド指揮、ベルリン・フィルハーモニーと五嶋みどりさんのチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の演奏。あの伝説的な本番の映像はもちろんのこと、彼らの張り詰めた練習風景のカメラワークまでを食い入るように観ていたときも、ソリストである彼女の激しい体の動き、お互いの出方を探るような呼吸の仕方から、まさに奇跡のような音楽が美しく立ち上がってくる瞬間を、私は確かに感じ取ることができたのですね。すべての素晴らしい演奏は、このように剥き出しの肉体から湧き出て放たれるのです。

大画面のなかでまじまじと見つめていますと、同じ楽器であっても、その木目の色具合や、年季の入った傷の具合までが克明に伝わってきます。バイオリニストたちの構え方ひとつをとっても、左足を少し前に出して楽器を抱えるのが普通だと思っていたら、両足をきちんと並べている人もいる。演奏者それぞれの小さな、けれど愛おしい個性がそこには並んでいるのです。人によっては首がバカに長い演奏者がいたり、「あ、この人は髪を染めているな」と髪型に目が留まったり。くまなく目を配ろうと思ったら本当にキリがないほどの、生々しい肉体的なディティールが、そこには溢れかえっているのです。

特に面白いのは、カメラがオーケストラの各パートの首席(トップ)の演奏者たちを、次々と鮮やかに捉えていく瞬間なのですね。コンサートマスターをはじめ、フルートやオーボエのトップ奏者たち。彼ら一流の表現者たちの顔つきは、一人ひとりまったく異なり、深いドラマを持っています。

私はそのクリアなカメラワークに視線をぴったりと沿わせながら、彼らのすぐ隣で、その手の形、口の形、位置、飾らない表情を食い入るように読み解いていくのです。そうしているうちに、さも自分がその楽器を構え、その脇で一緒に音を奏でているかのような、熱い一体感のなかに引きずり込まれていきます。

さらに凄いのは、カメラが執拗に細かく追っていく、指揮者の表情なのです。まるで「今、私は天国にいるんだ」と言わんばかりに、夢見るような、幸せいっぱいの表情で顔を動かしている。その至福の表情を見た瞬間に、「ああ、この部分の旋律は、とくに心地よい天国の音なんだな」ということが、聴覚だけでなく視覚を通して、私の手のひらに乗るように分かるのです。

これほどの細かな観察は、フランクフルトの実際のコンサート会場にわざわざ足を運んで、暗い客席からステージを遠目に眺めている入場者には、絶対に不可能なことなのです。フランクフルトから遠く離れた日本のリビングにいながらにして、会場の誰よりも鮮やかに、演奏家たちの息遣いの真ん前に身を置くことができる。ここには、インターネット時代だからこその、圧倒的な優位性があるのですね。

そして、このカメラワークが教えてくれる楽しさは、ステージの上だけにはとどまりません。ときたま、画面のなかに、静かに聴き入っている会場の観客たちの顔がふっと映し出されることがあります。その人たちの表情を見つめるのも、本当に面白いものです。
「この人は今、どんな人生の思い出をこの旋律に重ね合わせながら、こんなに優しい顔で聴いているのだろう」
そんなふうに、客席の表情から、見知らぬ誰かの生きてきた物語にまで、いくらでも想像を膨らませて楽しむことができるのです。

ホールの構造だって様々です。客席がステージを360度ぐるりと取り囲むような、開放的なオープン型の会場もあれば、重厚な歴史を感じさせるフランクフルトのホールのような会場もある。その空間の響きを目で愉しむだけでも、音楽の味わいは何倍にも膨らんでいきます。

「音楽を捉える」とは、頭のなかで小難しい歴史や聖書の理屈をこねくり回すことでは決してないのです。現代のカメラという利器を贅沢に使いこなし、演奏者の肉体の躍動や、指揮者が魅せる天国の表情、観客の顔、 音楽ホールの空気にまで身体ごと飛び込んで、能動的に音楽と一体になること――。

それこそが、理屈を超えた「音楽の本当のバックボーン」にコミットするということなのだと、胸のすくような納得が押し寄せてきます。これこそが、ただの「聴衆(お客さん)」であることをやめた、私だけの新しい時代の極上の音楽の聴き方なのですね。

冒頭でお話ししました、フェデラーの片手バックハンドを左右で操る、私の毎日のエクササイズ。肉体を完璧にコントロールし、柔らかくほぐしている私だからこそ、フランクフルトやベルリン・フィルの演奏家たちの指先の震えや、指揮者の至福の表情という「肉体から溢れ出る音楽」を、あのクリアな映像を通して余すことなくキャッチすることができたのですね。

自分の肉体を熟知する「目」があるからこそ、この新しい鑑賞論がおのずと立ち上がってきたのだと、今つくづく感じているのです。

自宅のリビングを世界最高の演奏会場へと変貌させ、その極上の特等席で、私は心地よく朝ごはんを食べています。本気で「120歳現役」へ向かう私の知性と活力は、こうして理屈を捨てて、音楽を身体ごと生きるという圧倒的に能動的な贅沢によって、今日もこの上なく豊かに満たされているのですね。

こうして私は心地よい満足感のなかで、また新しいnoteのエッセイを書き進めていくのです。


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