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細胞がパチパチと目を覚ます――71歳、不揃いな二本の竹で毎日生まれ変わる


71年という長い時間を、私はこの身体と一緒に歩んできました。朝起きたときの節々の重さや、夕方のちょっとした疲れ。それなりに自分の身体の限界は知っているつもりでしたし、「年齢相応の付き合い方」をしていると思っていました。しかし、人生にはまだ、想像もしなかった「初めての感動」が待っているものです。

最近、私はある運動に出会いました。

手にしたのは、長さも重さも、そして太さも異なる、不揃いな二本の竹です。
一本は、長さ32センチ・直径6センチ・重さ500グラム(32cm / φ6cm / 500g)。
もう一本は、長さ42センチ・直径5.5センチ・重さ350グラム(42cm / φ5.5cm / 350g)。

右手と左手、どちらにどちらの竹を握らせるか。それは、その日の私の体調や、かすかな心の揺らぎによって変わります。毎朝、掌(てのひら)で竹の冷たさと重みを感じながら、「今日はどちらの気分か」を自分で選択する。左右非対称だからこそ、その「わずか5ミリの太さの差」「150グラムの重さの差」に意識が集中し、そこからすでに、私の身体との対話は始まっているのです。

まず、両足でしっかりと大地をつかむように立ち、スクワットをするように深く腰を落とします。そして、二本の竹を両手に握り、ゆっくりと動きを始めていくのです。

ここには、決まったルールや「こう動かさなければならない」という限定は、いっさいありません。

ある時は、テニスの名手ロジャー・フェデラーのように、美しい片手バックハンドの軌道を右へ、左へ、と描いていく。右手でバックハンドを打つ時は、左手の竹が自然と寄り添うようにくっついていき、次の瞬間には、今度は左手が主役になって右手がそれについていく。

ある時は、両手で下の方から上の方へと揃えてぐっと持ち上げ、そこから両側、後ろの方へと大きく開いていく。

基本の動きはあれど、その先は自由自在です。右手と左手が、微妙に、絶妙に、いろんな角度へと360度、あらゆる方向へ泳いでいく。揃っていくこともあれば、完全にバラバラに動くこともある。後ろから前へ、前から後ろへ、上から下へ、下から上へ。

そのとき、私の身体の中で奇跡のようなことが起こります。

「正しいフォーム」という制限から解き放たれ、ただ竹の重みと身体の声に身をまかせていると、すべての関節が連動して動いていく。耳をすませば、骨と関節が小さく歓びの音を立てているのすら聞こえるようです。

「ああ、私の身体の筋肉が、うごめいている」

意識のスポットライトが、身体の隅々へと次々に移動していきます。ある時は肩、ある時は肘、腕、そして足腰へ。意識はさらに微細になり、手の指先、足の指先、太もも、すね、胸、お腹、お尻、あるいは首や頭の部位へ。自分のあらゆるパーツが連動し、波打つように動いていることに、ただ耳をすます。

これが、宇宙的な広がりにおける、私の意識の向き方です。眠っていた細胞のひとつひとつが、パチパチと音を立てて目を覚まし、それぞれの意思を持って動き出すような、不思議で愛おしい感覚。71歳にして、自分の身体がこれほどまでに解放され、自由になれるなんて、思いもしませんでした。

全身の細胞の隅々まで、自分の神経がサーッと行き渡り、その瞬間、私はまるで宇宙の運行とひとつに、大いなる何かと対話しているかのような、圧倒的な一体感に包まれるのです。ふと動きを止めると、じわっと湧き出た汗と、驚くほど深く吸い込める静かな呼吸がそこにありました。この年齢だからこそ、型にはまらない「限定のない動き」の心地よさを、一つの確かな「知覚」として深く、贅沢に捉えることができるのかもしれません。

もし、あなたが「もう歳だから身体が硬くなるのは仕方がない」とか「正しい運動をしなきゃいけない」と感じているなら、どうかその枠を一度、外してみてください。私たちの身体には、まだまだ持ち主すら気づいていない、豊かな可能性の宇宙が広がっています。

あなたも、変わることができます。二本の、それぞれに重みある竹。それが手元になければ、500ミリリットルの水の入ったペットボトルでも構いません。それを両手に持って、ただ自由自在に遊ぶだけで、私たちの身体はいつからでも、どこからでも、新しく生まれ変わることができるのです。

現に、71歳の私は今、とどまることを知らずに、次の新しいバージョンへと進化を続けているのですから。

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