風穴を開けてこい
会社を内部告発した技術者が、52歳で転職するまで
※本稿は実体験をもとにしていますが、個人・企業の特定を避けるため、人名、企業名、業種の一部、出来事の配置を変更しています。
「今後、本件に関してのやり取りはご勘弁ください」
2017年7月24日、会社の倫理ホットラインを担当していた川辺弁護士から、そんなメールが届いた。
文章は丁寧だった。
失礼な言葉は1つもない。
だが、何度読み返しても意味は変わらなかった。
もう連絡してこないでください。
要するに、そういうことだった。
私は会社の不適切な取引を内部告発した。
その結果、役員2人を含む5人が処分された。
ところが、問題を何年も指摘してきた私自身の人事については、何も変わらなかった。
私は、自分が告発者であることを隠さず、会社へ救済を求めた。
川辺弁護士と会い、メールで何度も議論した。
その最後に届いたのが、この1通だった。
川辺弁護士は、自分の立場も説明していた。
自分は会社の顧問弁護士である。
私と会社の利害が対立すれば、会社側に立つことになる。
法律的には、おそらく正しい。
しかし私は、「倫理ホットライン」という名前から、もう少し中立的なものを想像していた。
半沢直樹なら、ここから反撃が始まる。
証拠を机へたたきつけ、役員を追い詰め、勇ましい音楽が流れる。
現実の会社員に流れるのは、翌朝の目覚まし時計である。
私は次の日も、いつもどおり会社へ向かった。
ここまで来るのに、ずいぶん時間がかかった。
始まりは、私がまだ20代だったころまでさかのぼる。
「あんた、どう思うんね?」
私は1995年、大学を卒業し、大型産業機械を製造する会社へ入社した。
最初に配属されたのは設計部門だった。
大型の機械は、わずかな設計ミスが大きな事故につながる。
材料の強度が不足していれば、上司が「大丈夫だ」と言っても強度は増えない。
図面の寸法が間違っていれば、会議で全員が賛成しても部品は組み上がらない。
機械は空気を読まない。
私は、その世界が嫌いではなかった。
問題が起きたら原因を調べる。
原因が分かったら対策を考える。
少なくとも技術の世界には、正しいかどうかを判断する土台があった。
私が新入社員だったころ、後に社長となる永山さんは工場長だった。
見た目にも迫力があり、怒るとかなり怖い。
若い社員が気軽に近づける人ではなかったと思う。
だが私は、なぜか比較的普通に話していた。
相手が工場長でも、おかしいと思えば、おかしいと言った。
今考えれば、ずいぶん怖いもの知らずだった。
永山工場長は、時々私のところへやって来た。
「大山君」
「はい」
「わしゃこう思うんじゃが、あんたどう思うんね?」
私は、その場で思ったことを答えた。
相手が工場長だからといって、都合のよい返事をすることはなかった。
永山さんも、それを分かったうえで聞いていたのだと思う。
永山さんは、裸の王様になることを嫌う人だった。
幹部の意見だけでなく、現場の若い社員が何を考えているのか知りたがった。

私の「歯に衣着せぬところ」を、面白がっていたのかもしれない。
その性格が後に私を東京へ送り、内部告発へ向かわせ、最後には会社を辞めることにつながるとは、もちろん当時は知らなかった。
「中本ワールドをぶっ潰してこい」
2008年、世界的な金融危機が起きた。
会社も新しい市場を探す必要に迫られ、翌年、社長特命の海外マーケティンググループが作られた。
メンバーは4人。
私は、その1人に選ばれた。
担当はインドだった。
「インドで新しい市場を探してこい」
言葉にすれば簡単だが、具体的に何をすればよいのか、誰も正解を持っていなかった。
私はインド各地の工場や顧客、コンサルタント、機器メーカーを訪ねた。
1回の滞在は10日から20日ほど。
現地にサービスアパートメントを借り、日本とインドを何度も往復した。
道がなければ、自分で探す。
前例がなければ、仮説を立てる。
設計図のない仕事だった。
2010年ごろ、グループごと東京へ移ることになった。
永山社長から、直接、
「東京に風穴を開けてこい」
と言われたわけではない。
その言葉を教えてくれたのは、一緒に海外マーケティンググループへ配属された先輩だった。
ある時、その先輩が、少し面白そうな顔で言った。
「大山さん、永山社長が何て言いよったか、知っとる?」
「いえ。何ですか?」
「大山の歯に衣着せぬ言葉で、東京本社に風穴を開けてもらう、言いよったで」
私は思わず笑った。
「私がですか?」
「そう。それだけじゃないで」
先輩は続けた。
「中本ワールドをぶっ潰してこい、とも言いよったらしい」
中本さんは、東京本社の営業部門に強い影響力を持つ常務取締役だった。
先輩によれば、永山社長は同じ趣旨の話を、周囲の何人かにもしていたらしい。
私は本人から直接聞いたわけではない。
正確にどんな言葉だったのか、どこまで本気だったのかは分からない。
それでも、悪い気はしなかった。
自分の仕事だけでなく、言いたいことを言う性格まで評価されている気がしたからだ。
当時、社内では、
「永山・井口組」
と、
「安田・中本組」
という2つの勢力があると言われていた。
私は、どちらかの派閥へ入った覚えはない。
派閥の会合へ出たこともなければ、
「今日から永山派として頑張ります」
と宣言したこともない。
ただ、永山さんに仕事ぶりを買われ、比較的早く昇給や昇格をした。
そして、後に永山さんの後任社長となる井口さんの元部下でもあった。
それだけで、周囲からは「永山・井口側の人間」と見られていた。
特に、中本さんに近い営業側の人たちから見れば、私は最初から反対陣営の社員だったのだと思う。
会社の派閥というものは、本人の同意なしに入会させられるらしい。
しかも、退会方法が分からない。
言ってみれば私は、永山社長側から東京本社へ送り込まれた刺客だった。
ただし、本人には刺客の自覚がない。
ずいぶん間の抜けた刺客である。
会議室を出ると、みんな反対していた
2011年、私は海外の顧客へ部品や修理、改造を提供するアフターサービス営業へ異動した。
営業経験はなかったが、機械のことは分かった。
顧客の困り事を聞き、技術的に解決方法を考え、社内の担当部署を動かして提案を作る。
そういう営業なら、自分にもできると思った。
実際、数千万円規模の改造案件や、高額な予備品の販売にも関わった。
営業そのものは面白かった。
分からなかったのは、社内の方だった。
会議では誰も反対しない。
ところが会議室を出ると、
「本当は、あれはおかしいと思うんだけどね」
と小声で話す人がいた。
それなら会議中に言えばよいのに、と私は思った。
そして実際に言った。
これが、あまりよくなかった。
私は相手を困らせるために質問したわけではない。
「この価格の根拠は何ですか」
「この会社は、具体的に何をしているのですか」
「契約書には、どう書かれていますか」
技術者としては、ごく普通の確認だった。
図面に寸法がなければ聞く。
計算結果に根拠がなければ確認する。
それと同じつもりだった。
だが、長年続いてきた仕組みに「なぜ」と尋ねることは、その仕組みを作り、守ってきた人へ「あなたは間違っている」と言うことに近かったのだろう。
私は当初、単なる業務の非効率だと思った。
担当者によって方法が違うなら、手順を統一すればよい。
見積価格が変わるなら、誰が計算しても同じ数字になる仕組みを作ればよい。
私はExcelを開いた。
会社員が組織を変えようとする時、最初に手にする武器は、たいてい表計算ソフトである。
見積もりの手順を整理し、原価や手数料を分け、計算式を作った。
見積もりにかかる時間は、平均約30分から約15分へ短くなった。
品名や必要情報の不備も、月約50件あったものが、ほぼゼロになった。
Excelで直せる問題は、Excelで直せた。
だが、Excelでは直せない問題が残った。
契約書に3%が生えた
契約書を調べていると、何度も同じ会社の名前が出てきた。
ここでは、U社としておく。
U社は10年以上前、中東の現地代理店を会社へ紹介した。
海外で商売をする以上、代理店は必要である。
顧客を訪問し、商談を助け、代金を回収する。
きちんと仕事をする代理店へ口銭を支払うことに、私は異論はなかった。
不思議だったのは、U社である。
U社が行ったのは、最初に現地代理店を紹介したことだった。
その後、現地で実際に動くのは代理店である。
それでも、アフターサービス部品が売れるたびに、U社にも口銭が入る。
今年も入る。
来年も入る。
契約が続く限り入る。
ねずみ講ではない。
マルチ商法でもない。
だが、1度紹介すれば、その後ほとんど動かなくても未来永劫口銭が入る仕組みは、私には「企業版の永久紹介料」に見えた。
それだけなら、過去の契約の問題だった。
さらに厄介なものが、契約書の中へ入り込んでいた。
代理店契約は、約2年ごとに更新されていた。
ある更新版には、新しい条項が追加されていた。
新しい製品がその地域へ納入された場合、製品価格の3%を現地代理店へ支払う。
そんな内容だった。
現地代理店は、その新規製品の商談に関わっていない。
顧客を紹介していない。
見積もりも手伝っていない。
受注活動もしていない。
それでも、新しい機械が納入されれば3%を受け取れる。
契約書は、放っておいても勝手に文章を増やしたりしない。
Excelなら、誰かが入力しなければ数字は変わらない。
だが、その契約書には、いつの間にか3%が生えていた。
そして会社側の営業も法務も、その変更に気づかないまま更新していた。
問題が発覚したのは、新しい機械が納入されてから約2年後だった。
機械が稼働を始め、交換部品などのアフターサービス需要が出始めたころ、現地代理店が言った。
「こんな機械が納入されたとは聞いていない」
ここまでは分かる。
続きがあった。
「それに、新規製品の3%も受け取っていない」
会社はそこで初めて、更新した契約書の条項に気づいた。
請求額は、約2,000万円だった。
新規製品の販売に関わっていない代理店へ、約2,000万円を支払う。
私は、今後の関係を見直すべきだと思った。
契約書を確認せず更新した会社側にも責任はある。
しかし、何もしていない案件で3%を求める相手と、これからも同じように取引を続けるのか。
私には理解できなかった。
ところが、話はさらに妙な方向へ進んだ。
約2,000万円をすぐに払うのが難しいため、U社がいったん立て替えることになった。
一見すると、助けてもらったように見える。
だが無料ではない。
今後、U社が関係する別の案件で口銭を増やし、その上乗せ分を立替金の返済へ回す。
つまり、過去の契約管理の失敗によって生じた約2,000万円を、将来の別案件へ少しずつ埋め込んで返していくのである。
私は反対した。
会社側の失敗で発生した費用なら、会社の損失として正式に処理するべきだ。
原因を調べ、責任を明らかにし、再発防止を行う。
別案件の手数料へ紛れ込ませれば、何が起きたのか分からなくなる。
関係者10人ほどで、何度か対策を話し合った。
私は会議の内容を残そうと、録音も試みた。
しかし、うまく録れていなかった。

後になって、話を主導していた役員は、
「私は知らない」
という立場を取った。
私は耳を疑った。
あの会議にいた。
話もしていた。
それでも、記録がなければ「知らない」と言えてしまう。
あの時、録音がきちんと残っていれば。
私は今でも、そう思うことがある。
会社では、会議で何を言ったかより、最後に何が記録へ残ったかの方が強い。
そして記録に残らなかった反対意見は、最初から存在しなかったことにされる。
東京から押し出された
私は会議で問題を指摘した。
管理職へ説明した。
社内メールでも取り上げた。
U社だけに次の代理店候補を探してもらうのではなく、商社や公的機関も使い、広く選ぶべきだと提案した。
だが、大きくは変わらなかった。
最初は「業務を改善する社員」だった私は、次第に「また何か言っている社員」になった。
「大山さんは、少し言い方が強い」
そう言われることも増えた。
それは否定できない。
私は柔らかく包んで話すことが得意ではなかった。
もっと違う伝え方はあったと思う。
ただ、声を小さくしても契約内容が変わるわけではない。
私は、根拠を示し続ければ、最後には会社も理解すると思っていた。
ずいぶん会社を信じていたのだと思う。
永山社長が退任した後、社長になったのは井口さんだった。
井口さんは私の元上司で、永山さんと長く深い関係にあった。
ただし、2人の性格は同じではなかった。
永山さんは、自分が裸の王様になることを警戒していた。
井口さんは社長になってから、以前より周囲との距離が広がったように見えた。
昔の上司へ話しかけるように接すると、
「今は立場が違う」
という空気を感じることがあった。
2015年秋、私は東京から広島の工場へ戻る辞令を受けた。
会社から見れば、技術経験の長い社員を工場へ戻す通常の人事だったのかもしれない。
異動後も、私は海外顧客への技術提案や大型案件を担当した。
仕事を奪われたわけではない。
降格と書かれていたわけでもない。
だから、この異動が問題提起への報復だったと証明することは難しい。
だが私には、偶然とは思えなかった。
東京で約4年半、営業部門の問題を指摘し続けた。
周囲から煙たがられるようになった。
そして東京を離れることになった。
私はその異動を、心の中で「強制送還」と呼んだ。
「本社に風穴を開けてこい」
そう期待されて東京へ来たはずだった。
結果として開いたのは、本社の風穴ではなく、私が東京から外へ押し出される出口だったらしい。
「大山さん、やりましたよ」
広島の工場へ戻っても、東京で見たことを忘れることはできなかった。
社内で何度言っても変わらない。
会議で指摘しても変わらない。
上司へ相談しても変わらない。
残っていたのが、倫理ホットラインだった。
私は会社を内部告発した。
内容から、社内ではすぐに私だと分かったと思う。
私自身も隠すつもりはなく、その後は告発者として、問題の改善と、自分が受けたと考えている人事上の不利益について会社へ訴えた。
会社は調査を行った。
そのころ、井口社長は別件の内部告発をきっかけに退任し、親会社から新しい社長が来ていた。
調査の結果、役員2人を含む5人が処分を受けた。
ただし、処分は驚くほど静かに行われた。
処分の内容も、私には非常に軽いものに見えた。
会社全体への発表はなかった。
新社長が行ったのは、全社員への説明ではなかった。
東京に所属する関係者だけを会議室へ集め、そこで顛末と処分を説明した。
一方、広島の工場側には、話を広めないよう求められたと聞いた。
告発した私は、会社から正式な説明を受けなかった。
処分を知ったのは、会社からの連絡ではない。
東京に残っていた営業時代の仲間からの電話だった。
「大山さん、やりましたよ」
電話の向こうで、少し興奮した声がした。
「処分されましたよ。5人です」
私は一瞬、言葉が出なかった。

ようやく会社が動いた。
何年も訴えてきたことが、私の思い込みではなかったと示された。
うれしかった。
正直に言えば、少し胸がすく思いもあった。
だが、すぐに妙なことに気づいた。
なぜ、私は仲間からの電話で結果を知らされているのだろう。
会社は問題を調査した。
5人を処分した。
東京では関係者へ説明もした。
それなのに、告発した本人には、正式な報告が来なかった。
会社は問題を処分した。
そして、問題を処分したという事実まで、静かに処理しようとしていた。
5人を処分させることには成功した。
だが会社は、問題を明るみに出すのではなく、暗い場所で片づける方法を選んだ。
政治家の答弁
私は、自分の人事についても訴えた。
東京へ行く前の私は、昇給も昇格も比較的順調だった。
永山社長から評価され、先輩たちより早く役職へ上がったこともある。
ところが、東京で営業部門の問題を指摘するようになってから、昇給も昇格も止まった。
最後には東京から広島へ戻された。
私には、それが偶然には思えなかった。
最初の通報から約1年後、私は改めて社外窓口へ訴えた。
2017年5月29日。
広島空港から羽田へ向かった。
出発は19時35分。
到着予定は20時55分。
川辺弁護士との待ち合わせは21時だった。
場所は、羽田空港第1ターミナル地下1階の「太陽の塔」前。
事前に、お互いの顔写真をメールで送り合っていた。

会社の問題と自分の人事について話すため、夜の空港で顔写真を頼りに弁護士を探す。
改めて考えると、少し不思議な光景である。
川辺弁護士は、会社から資料を取り寄せ、関係者にも話を聞いていた。
面談後、私は感謝のメールを送った。
内部資料を取り寄せてまで対応してくれたことに、感謝を通り越して少し感動した、と書いた。
その時の気持ちは本物だった。
しかし、人事に関する川辺弁護士の説明を要約すれば、こういうものだった。
「大山さんの昇給や昇格が、それまで順調で、比較的早かったことは認めます」
私は黙って続きを待った。
「しかし、現在、昇給や昇格が止まっていることと、今回の内部告発に関係があるとは証明できません」
なるほど。
前半では認める。
後半では因果関係を切る。
事実は否定しない。
だが、結論は何も変わらない。
どこかの政治家の国会答弁を聞いているようだった。
たしかに、論理としては間違っていない。
以前の昇格が早かったからといって、その後も同じ速さで昇格する保証はない。
人事には、能力、実績、協調性、役職の空きなど、多くの要素がある。
だが私は思った。
では、内部告発と関係がないことは、誰が証明したのだろう。
人事審査会で誰が何を言ったのか、私には見えない。
評価を止めた理由も知らされない。
評価表に、
「この社員は会社の問題を告発したため、昇格させない」
と書く人もいないだろう。
会社は、
「関係があるとは証明できない」
と言う。
社員は、その証明に必要な資料を見ることができない。
証拠を持っている可能性がある側から、
「あなたには証拠がありません」
と言われる。
ずいぶんよくできた答弁だった。
問題を起こした側の5人は、軽いながらも処分された。
だが、問題を訴えた私の人事については、因果関係が証明できない。
会社にとっては、2つは別の問題だった。
私にとっては、最初から最後まで1つの問題だった。
そして約2か月後、川辺弁護士から最後のメールが届いた。
「今後、本件に関してのやり取りはご勘弁ください」
「会社を訴えるなら受けますよ」
川辺弁護士とのやり取りが途切れた後、私は広島の法律事務所へ相談に行った。
これまでの経緯を説明し、手元にある資料も見せた。
話を聞いた弁護士は言った。
「会社を訴えるのであれば、受けますよ」
会社が用意した顧問弁護士ではない。
初めて、私の側に立つことを前提に話を聞いてくれる弁護士だった。
訴える道は残っている。
そう分かっただけでも、少し気持ちは軽くなった。
だが、私は裁判へは進まなかった。
勝てるかどうかだけの問題ではない。
時間もかかる。
費用もかかる。
家族や、その後の会社人生にも影響する。
戦う手段を持つことと、実際にその手段を使うことは別だった。
私は会社に残ることを選んだ。
それでも会社に残った
弁護士とのやり取りが終わっても、私はすぐには会社を辞めなかった。
毎年、倫理ホットラインのアンケートが届くたびに書いた。
内部告発後の人事への疑問。
評価制度への不信。
コンプライアンス上の問題。
東京時代から指摘していた別の問題も、広島へ戻った後まで改善を求めた。
書いたからといって、会社が大きく変わるとは思っていなかった。
ただ、書かないということは、納得したことになる気がした。
私は納得していなかった。
一方で、転職サイトへ登録し、水面下で外へ出る道も探した。
だが47歳、48歳、50歳と年齢が上がるにつれ、転職は簡単ではなかった。
ドラマの主人公なら、翌日に辞表をたたきつけるのかもしれない。
現実の会社員は、家族の生活を計算する。
会社への愛着もある。
だから、会社に残りながら、外へ出る道も探す。
中途半端に見えるかもしれない。
だが、それが私の現実だった。
会社を壊したかったわけではない。
本当は、直したかった。
52歳の転職
2023年の夏、転職活動が大きく動いた。
お盆休みには、自宅からオンラインで、人事担当者と部門担当者の面接を受けた。
次の社長面接を受けた時、私はサウジアラビアへ出張していた。
日本との間には時差がある。
日本側の面接時間に合わせると、現地では早朝だった。
同僚と顔を合わせる前の早朝に、出張先からパソコンを開いた。
同じ出張に来ていた同僚にも、転職活動をしていることは気づかれなかった。
これほど時差に感謝したことはない。
社長面接を終え、帰国すると、すぐにインド出張が控えていた。
インドへ出発する日、羽田空港で転職を仲介してくれたヘッドハンターと会い、入社意思を示す書類を手渡した。
サウジアラビアで面接を受け、羽田空港で書類を渡し、そのままインドへ向かう。
私は52歳だった。

転職市場では、決して有利な年齢ではない。
それでも、
「来てほしい」
と言ってくれる会社が現れた。
妻は心配していた。
当然だと思う。
私は28年以上勤めた会社を辞めようとしていた。
生活も環境も変わる。
50歳を過ぎてからの転職には、不安の方が多かったはずだ。
それでも私は決めた。
会社を嫌いになったからではない。
会社の中で、自分にできることは、ほとんどやったと思ったからだった。
退職することを皆の前で伝えた時、私は言いたいことをかなり話した。
内部告発をしたこと。
その後、自分が制裁人事を受けたと感じていること。
昇給や昇格が止まったこと。
長い間、会社へ訴え続けたこと。
会社から見れば、最後まで扱いにくい社員だったと思う。
28年以上勤めた社員が退職する時には、会社として送別の場が用意されることもあるのだろう。
私には、そうしたものはなかった。
まあ、仕方がない。
最後の挨拶で爆弾を置いていった社員の送別会など、私でも幹事をやりたくない。
それでも、分かってくれていた人たちはいた。
親しい仲間たちが、内輪で送別会を開いてくれた。
会社は組織である。
だが最後に残るのは、人なのだと思った。
1995年に入社し、2023年に退職した。
28年9か月。
人生の半分以上を、その会社で過ごした。
会社を出る時、勝ったとは思わなかった。
負けたとも思わなかった。
ただ、
「ようやく終わった」
と思った。
風穴の代償
時々考える。
もし東京で見たものを、見なかったことにしていたら。
契約書を閉じていたら。
会議で発言しなかったら。
会社を内部告発しなかったら。
もっと順調な会社人生だったのだろうか。
昇給したかもしれない。
昇格したかもしれない。
東京勤務を続けていたかもしれない。
本当のことは分からない。
人生には、比較対象がないからだ。
ただ、1つだけ分かることがある。
私はたぶん、黙れなかった。
新入社員のころからそうだった。
周囲が言わないことを言う。
上司にも言う。
工場長にも言う。
社長にも言う。
それで得をしたこともある。
損をしたこともある。
私を東京へ送り出した永山社長は、
「風穴を開けてこい」
と言ったらしい。
本人から直接聞いた言葉ではない。
だが私は、その言葉が嫌いではない。
結果として、私は本当に風穴を開けた。
会社が望んでいた場所だったかどうかは分からない。
風穴には、代償があった。
内部告発は、正義の味方の物語ではない。
悪を倒して、拍手喝采で終わる話でもない。
人間関係が変わる。
評価が変わる。
家族にも影響する。
自分の人生も変わる。
だから、正義感だけで飛び込んではいけない。
記録を残す。
通報先が誰のために動くのかを確認する。
不適切な業務の証拠と、自分が受けた不利益の証拠は別に集める。
会社が自分を救ってくれるとは限らない。
告発後の生活や転職についても考えておく。
それでも、見たものを見なかったことにできない時がある。
私にとっては、それがあの時だった。
52歳で、私は会社を辞めた。
あの判断が100%正しかったとは言えない。
だが、100%間違っていたとも思わない。
もし今、永山さんに、
「大山君、わしゃこう思うんじゃが、あんたどう思うんね?」
と尋ねられたら、私はこう答えると思う。
「私は、あの時できる限りのことをしました。後悔はしていません」
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