もう絶対に「そっち」には行かない
昨日、僕のポスト付近で喧嘩が3件勃発した。
最近は、こういうのを見るたび嫌悪感で激しく胸が締め付けられる。

客観的に見る喧嘩は実におどろおどろしく、醜いものだ。
「かつての僕も、こんな感じに他人の目には映っていたんだろうな」
『当事者』と『傍観者』の違いを改めて思い知らされる。
沸沸と後悔と自責の念が湧き上がってくる。
つくづく「目に映るすべてのことはメッセージ」なんだと感じる。
僕が今まで手を上げた多くの方々には、本当に申し訳なかったと思っている。
何十年も前の話もあるが、だからといって「やられた側」はそのことを完全に忘れるなんてのは「やった側」の都合のいい解釈でしかない。
僕だって、小学校の担任からのイジメの全部を許せたわけではない。
それと一緒のことだ。
どんな理由があったとて、これからもずっと僕の暴力が正当化されることはない。
ママと出会って「いかにそれが愚かであるか」を説かれ、他人に手をあげることもなくなった。諍いも起こさなくなって久しい。
それでもたまに我が子に手をあげてしまうことがあるが、そんな時は息子にもママにもこっぴどく叱られる。
「叱られる」ということは「まだ期待してくれている」ということだ。その期待には何としても応えたい。
「これからの自分」に対して、97%の自信と3%の不安が交錯する。
この3%が、僕にはとてつもなく重い。
「殴った人に許してもらえない十字架」と「3%の不安」。
この2つを心から大切にしようと思う。
僕には信じてくれる家族がいるのだから。

昨日の屋上巡回の時に見た空はとても美しかった。
「そう思えるなら大丈夫」と信じたい。
これからもずっと、自問自答し続けよう。
もう絶対に「そっち」には行かない。
