彼女がいるやつってオタクと呼べるの?←これ
理想の味がするものが好きです。
理想の味がするものとは何か。
イニシエーション・ラブをアニメで終えたオタクがカラオケで歌う「ふわふわ時間」です。
彼女がいるやつってオタクと呼べるの? https://t.co/gg3yzzGVTJ
— ゴミ箱 (@Dustbox_th) July 11, 2026
いい感じのヘイトスピーチで笑っちゃったんですが、正直この感覚って俺にもかなりあって、彼女がいたらオタクじゃないとまでは言いませんが、やっぱり彼女がいるオタクがデカい顔してカドショを歩ける世の中は道理が通らないんじゃないかと思います。
というのも、俺はオタクのコアを社会で通用する価値への逆張りだと考えているので、オタクぶってるやつに彼女がいたら、それは石を投げられるのが自然という感覚があります。
オタクはね、筋トレなんてしないし、NISAもiDeCoも興味ないし、何歳だろうとアニメやエロゲで学んだゲロ甘な恋愛観を信じてないといけないの。
これは言葉の定義とかを無視した完全に感覚的な主張なんですが、一戸建てに何千個もソフビとか集めてる有名なコレクターかTwitterとオナニーが趣味のアニメ見ないアニメアイコンなら俺は後者の方がオタクらしいなと感じます。
そもそも印象や属性を表す言葉なんてのはイメージが定義に先立って曖昧に運用されて、運用の実態に従って定義が変化・拡張していくものですから、定義は流動的なもので、それを厳密に定めるというのは辞書にその言葉をどう書くか以上の意味はないんじゃないかと思います。
オタクという言葉が各々の感覚に従って曖昧に運用されるものならば「オタクかどうか」という問いは単純に辞書を引いて答え合わせとするようなものではなく、ああでもないこうでもないと各々がギャアギャア喚く喧々囂々のカオスを俯瞰することでしか答えらしい答えを見出す方法はないんじゃないでしょうか。
そういう訳で、今回は俺が何をオタクで何はオタクじゃないと感じるのか、オタクのイデアをどういうものであると考えているのか、自認するアイデンティティにオタクという言葉が深めに食い込んでいる人間の一人としてギャアギャア喚いていこうと思いますので、皆さんは俯瞰してください。
はい楽さん早かった。
まずオタクを「オタクらしい」と感じる原因はどこにあるのか。
それは特定のジャンルに造詣が深いことでも、毎クールアニメをしっかり追っていることでも、人を感心させるような作品評論ができることでも、グッズを沢山持っていることでも、何かに熱中していることでもありません。
「オタクらしさ」がそういうマニア的な行動や能力や所有物に由来するなら、我々はただ猫背で髪がボサボサで眼鏡をかけていて全身黒い服を着ていてリュックを背負っているだけの人を見て「オタクっぽいな」と思うことはないはずです。
オタクとググれば「特定の趣味や分野に熱中し傾倒する人」とGeminiが説明してくれますが、俺はそういったマニア的側面は一つの結果にすぎず、オタクらしさの本質は「社会的な価値」ひいては「認められること」の引力に逆らおうとする力のベクトルにあると考えます。
「社会的な価値」そして「認められること」の引力に逆らうこと。
それは風呂に入らないことであり、前髪を切らないことであり、眉毛を整えないことであり、いつも同じ服を着ていることであり、美少女のセミヌードがそこら中にあって人をとても招けないような部屋に住んでいることであり、歩き方も走り方も笑い方もなんか変で、人とうまく話せなくて、人になんとなく疎まれていて、彼女がいなくて、色々なことが上手くいかなくて、何をしていてもなんか浮いていて、将来もよく見えなくて、それでも自己啓発本なんか読まずポルノ収集に時間を注ぎ、万能な価値である貨幣を美少女が書かれた布やアクリル板と交換し、アニメを見て泣いたり笑ったりシコったり楽しげに歌ったりして、そのままいずれはモニターに縋り付いたまま朽ちて死ぬということです。
自然な振る舞いとして社会的な価値観と無縁であれ、仙人になって霞食って生きてる奴だけがオタクを名乗れ、オタクなら現世の一切皆苦を断ち切り涅槃に至れ、という話ではありません。
むしろ前述の通りオタクらしさとは価値の引力の逆向きにベクトルに力が働いている様子であるので、価値の引力から完全に自由になった仙人や解脱者はオタクから最も遠い存在であると言えそうです。
オタクらしさは悟りの中ではなく、苦しみの中にあります。
大気圏内では必ず重力の影響を受け続けるのと同じように、社会に生きて他者と相互に関わる人間である以上はオタクだろうがヤンキーだろうがアナキストだろうが全員が社会的な価値観(=他者からの承認)の引力から逃れることはできません。
例えば財力とか資産とか職業とか学歴とか権威とか能力とか身長とか顔とかモテとかコミュ力とか暴力性とか清潔感とか男らしさとか愛嬌とかキャリアとか人脈とかセンスとか充実感とか社会性とか、自分が何ができて、何を持っていて、どれだけ豊かで、どれだけ多くの人に承認されているかみたいな、そういう他者に認められることで価値が決まる「社会的な価値」の影響力の中で我々は生きており、それは社会における力そのものな訳ですから、当然我々はそれを求めるように行動を決定し自身の状態を変化させていきます。
この「価値」を求めるように人々の行動を規定する力が社会に働いている順方向の力、即ち「社会的な価値」の引力です。
人々は原則的にこれに従って風呂に入り、洗濯し、筋トレし、金を貯め、自己啓発本を読み、キャリアを形成し、そのようにして得た価値を携えて他人と関わります。
それが人と関わり社会に生きる我々の自然な振る舞いであり、それに逆らって「社会的な価値」の外側にある「社会的に無価値」な領域に価値を認めようと藻掻く逆方向の力が「オタクらしさ」であると俺は考えます。
カッコつけた言い方をしましたが、要は多くの人にとって重要な価値に乏しい社会的弱者の逆張りと現実逃避がオタクの根っこにあると思うという話です。
こういう話になると必ず出てくるのが「オタク=弱者ではない」という主張ですが、俺の感覚ではオタクらしさと弱者性は明らかに紐付いていて、そこに無理やり目を瞑るのは不自然であるように思います。
ファッションに関する知識がありトレンドを抑えたオシャレができる人間と、パーカーとTシャツとジーンズとチノパンしか服のラインナップがない人間どちらがオタクっぽいでしょうか?
異性とスラスラ喋れる人間と、どもって普段みたく喋れなくなる人間どっちがオタクっぽいでしょうか?
毎日風呂に入って清潔にしている人間と人と会う用事がある時しか風呂に入らない人間どっちがオタクっぽいでしょうか?
足が速いやつと遅いやつどっちがオタクっぽいでしょうか?
背筋が伸びているのと曲がっているのどっちがオタクっぽいでしょうか?
童貞と非童貞どっちがオタクっぽいでしょうか?
「全部オタクと関係ないだろ」と心から言えますか?俺は言えません。
足が遅い方がオタクっぽいし、猫背な方がオタクっぽいし、童貞の方がオタクっぽいと思います。
オタクと弱者性が無関係だというのは言葉の定義を盾にした簒奪者の言葉です。
オタクらしさと弱者性は明らかに紐づいています。
それは社会的な価値の引力への逆張りがオタクの根本であり、社会的な価値から遠ざかるのがオタクのあるべき挙動だからです。
オタクとは「特定の趣味や分野に熱中し傾倒する人」だと言いますが、オタクの本質は自身の抱える社会的な弱者性とコンプレックス、そしてそこに由来する社会的な価値観への逆張りであり、傾倒は社会的な価値観の外側にある領域に価値を認めようとした結果にすぎないと考えます。
オタクが非現実に見出す価値の中には、少なからず現実の価値観への攻撃という側面があり、弱者性とそれに由来する「社会的な価値観」ひいては「認められること」への反発はオタクのアイデンティティの一部であるはずです。
これは俺がそう感じるというだけの話で、オタクの定義は流動的なものであると言った手前あまり意味のある主張ではないのですが、試しに言葉の生まれを辿ってみても明らかにオタクは弱者性が含意された言葉として生まれています。
その彼らの異様さね。なんて言うんだろうねぇ、ほら、どこのクラスにもいるでしょ、運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じ込もって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴らが。(中略)
それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタかてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたするんだよね。普段はクラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴らが、どこからわいてきたんだろうって首をひねるぐらいにゾロゾロゾロゾロ一万人!それも普段メチャ暗いぶんだけ、ここぞとばかりに大ハシャギ。(中略)
それでこういった人達を、まあ普通、マニアだとか熱狂的ファンだとか、せーぜーネクラ族だとかなんとか呼んでるわけだけど、どうもしっくりこない。なにかこういった人々を、あるいはこういった現象総体を統合する適確な呼び名がいまだ確立してないのではないかなんて思うのだけれど、それでまぁチョイわけあって我々は彼らを『おたく』と命名し、以後そう呼び伝えることにしたのだ。
ちなみに『岩波国語辞典』第七版以前の「オタク」の語釈には「自分の狭い嗜好(しこう)的趣味の世界に閉じこもり、世間とはつき合いたがらない(暗い感じの)者。」と書かれていました。
笠に着るつもりはないですが(←陰湿)、上記の通り原義的には「オタク」という言葉はまさしく「特定の行動を取る傾向がある社会的弱者」を指す言葉であり、「特定の趣味や分野に熱中し傾倒する」ことは「特定の行動傾向」の一つにすぎませんでした。
時代の変化により特定の物事への熱中が「価値」と認識されるようになったことで、この行動傾向はオタクという単語と共に社会に取り込まれ、「オタクを自称する強者」が現れたというのが俺の考えです。
大体「特定の趣味や分野に熱中し傾倒する人」以外にオタクという言葉に含意がないんならサッカー選手とか陸上選手とかがオタクの筆頭扱いされてないとおかしくないですか?
本当にそのうちそんな時代も来るのかもしれないけど。
まあともかく、「オタク」はあくまで社会的弱者の進化系の一つであり、オタクがグレイモンならアグモンは社会的弱者だと考えます。
ボタモンからアグモンになるまでの過程で「自分は社会的に価値の低い人間である」という状態に晒された人間が、その対応として例えば「自分の価値を高める」とか「絶望して死ぬ」とかいくつかの選択肢の中から「社会的な価値観の外側に価値を認めることで、価値観をシフトし、社会的な価値の世界から逃れようとする」ことを選び、その対象として哲学や宗教ではなくサブカルチャーを選んだ結果生まれるのがグレイモンこと「オタク」です。
価値観のシフト(「認められること」の無価値化)がオタクの行動原理であると考えると、「特定の趣味や分野に熱中し傾倒する」という辞書的なオタクの行動と「風呂に入らない」という行動イメージの両方に説明がつきます。
価値観のシフトを行動原理として「認めること」即ち「特定の趣味や分野に熱中し傾倒すること」をするのであれば、その裏側では並行的に「社会的な価値」を否定する行動を選択する心理が働くのが自然です。
「社会的な価値」を無価値化しようとしているのに、「社会的な価値」を認められるための行動を選択するのは行動原理に反しますよね。
即ち、オタクが風呂に入らないのは公衆衛生や清潔さが「認められること」の範疇にある社会的に重要な価値であるからです。
オタクの行動原理が価値観のシフトであるとすれば「特定の趣味や分野に熱中し傾倒する」ことも「風呂に入らない」ことも、どちらも自然な行動であると言えるのです。
そういう訳で、価値観を社会的価値の外側にシフトし「認められること」の無価値化を目指すという行動原則、および、その過程で維持される弱者性が「オタクらしさ」のコアであると俺は考えます。

しかしまあ・・・前述したとおり社会の中で生きている以上、我々は社会的な価値の引力から逃れることはできません。
生存を社会のシステムに依存しているので、お金が無ければ明日のご飯も食べられないし、お金を稼ぐためには業務に対して能力を発揮する必要があります。職場によってはコミュニティに受け入れられるまめの会話能力や公衆衛生を維持するための清潔さなども求められるでしょう。
そういう社会的な価値への迎合だけでなく「認められること」は常に我々を誘惑します。どのように生きていても我々は人に認められたいと思ってしまうし、その欲望に従って行動してしまいます。
オタクは修験者ではありません。
教祖がいて、経典があって、明確な決意と規律をもって社会的価値からの脱出を目指している訳ではなく、社会的弱者であるという状況への対応として自然に社会的価値から逃れることを選んだにすぎません。
オタクはそんな存在ですから、アニメで笑ってエロゲで泣いて、そのまま老いて、モニターに縋りついたまま孤独に死ぬというのはイデアに過ぎず、洞窟の壁に移った影である我々は社会的価値からのシフトを目指しながらも、引力を受け続ける中で、時には社会的な価値を獲得していきます。嘆かわしく、恥ずかしいことに。
俺が深夜アニメを追うということを始めたのは2010年冬アニメのバカテスとおまもりひまりで、3か月後にはけいおん2期と迷い猫オーバーラン、荒川アンダーザブリッジとWORKING!!を追い始めました。
ライトノベルを読み始めたのも中学の頃で、ブックオフで買ったキノの旅が一冊目だったと思います。学校では戯言やDDD、家ではロウきゅーぶやはがないを読んでいました。
中学の時点でオタクらしいセンスと挙動はそれなりに出来上がっていたと思いますが、中学の頃にオタクになったというよりは友達の間でアニメやライトノベルが流行ったというような感じで、オタクという言葉がアイデンティティに組み込まれたのは高校に入って一人になってからのことだったと思います。
俺の高校時代はそこそこ悲惨で、行きたくないと行けないの中間、サボりと不登校の中間くらいの感じで、欠席日数を気にしながら学校に行ったり、行かないでその辺をフラフラしたりするような生活を送っていて、当然友達もほとんどいませんでした。部活だけはそこそこ真面目に行っていたので、全くいなかったと言ったら嘘になりますが。
正直そういう過ごし方が親や学校から広い意味で認められていた時点でかなり恵まれていたのは間違いないんですが、自認としては俺が一番何も持っていなかった時期です。
それから大学に入って、社会人になって、今でもアニメが大好きで、猫背で、髪もあんま切らなくて、人と関わるのが下手くそで、自分をオタクだと思っていますが・・・
・・・なんか話にまとまりがなくなってきて筆の勢いが落ちてきていることに皆さんお気付きかと思いますが、書きながら悩んでいることがあります。
彼女がいるオタクがデカい顔してカドショを歩くことの道理が通らないと感じるなら、そういう人間はどういう態度でカドショを歩けばいいんでしょうか?
オタクの行動原理に最も誠実なのは彼女と別れてからカドショを歩くことでしょうか。
あるいは自認を改めてオタクぶることをやめる。彼女がいるのを徹底して隠す。「彼女がいます。殺してください」という看板を首から下げて歩くなど。
どれもなんか違うような気がします。
社会的な価値というのは彼女がいることに留まりません。実家が太いオタク、会社でいいポジションについているオタク、話がうまいオタク、身なりのいいオタク、明るいオタクはどうでしょうか。
そういう風に社会的な価値の引力に負けて価値を獲得しながらも価値から離脱しようと藻掻く様がオタク・・・と結論付けるつもりだったんですが、それだと例えば服屋に入ったりスポーツ観戦をしたりすることに抵抗がなくて月に一回は美容院に通っていて恋人がいないことよりいる方が普通みたいな、当たり前に社会的な価値観で評価し評価されながらも推し活とかをやっていてオタクを自称してる人間とオタクの分水嶺ってなんなんでしょうか?
わからなくなってきた。
まあ思いがけにちょろっと文章書いて切って割ったような答えが出せるならこんな話する意味ないのかもしれませんが。
自分がデカい顔をしてカドショを歩ける人間か考えてみても、正直胸を張ってそうだとは言えません。
見てくれはオタクの要件を満たしすぎているくらい満たしているので現実的には問題ないですが、彼女がいるオタクだって見ただけじゃ分からないわけですから、フェアにパーソナリティの社会的な価値が可視化されることを想定すると、フェイカーとして石を投げたい人も居るだろうなと思います。
でも多かれ少なかれ皆そんなもんだろとも思うんですよね・・・こういう話をするとじゃあフェイカーと弱者性に裏付けられたオタクの分水嶺ってどこだよって話に戻るんですが。
『セックスマンガアーティスト』という下品で面白いWEB漫画があって、そこで提唱された概念に「無オタク」というものがあります。

ここで言う「無オタク」は恐らく加齢の過程で「特定の趣味や分野に熱中し傾倒する」性質を喪失したオタクのことだと思うんですが、この裏側にマニア的な性質をある程度保ったまま社会的な価値の引力に負けて風呂に入るようになりすぎたオタクであるフェイカーがあるように思うんですよね。
そう思うと彼女いるオタクにも彼女がいないオタクだった時期があって・・・
もう大分たじたじで何書いてもフェイカーがなんか言ってるわって感じの文章になりそうだな。
冒頭に「自分のことは全て棚に上げて文章を書きます」って書いておけばよかった。
オタク論みたいな話はそのうちしっかり書きたいと思ってたんですが、まだ俺には早かったみたいですね。
頑張ってこんだけ長く書いたのにオチついてないし。
おわり。
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結局のところ自分がオタクかフェイカーかは各々のオタク・センス(第七感)に任せるしかない。
俺がアニメ見て美少女アバター使ってるだけの忌むべき簒奪者かオタクかの判定はおまえたちにお任せしようと思います。話せば分かる。
簒奪者だと感じたなら、どうか投石してください。
そういえば6万円札引きました pic.twitter.com/U5mMLgwjFK
— ぷにマングース (@Saimin_wannai3) July 14, 2026
今回はVRCの話を本当にしていないけどタグをつけるのでマジで少しだけVRCの話をします。
デュエマが遊べるワールドに行ったら黒い服着てる美少女アバター率高くて感動しました。そんだけです。食玩のガム?
いよいよタグ荒らしめいてきたな。ヨロシクネ。
