最後の手紙
#原稿用紙二枚分の文芸賞
夕暮れの街を歩くと、黄昏の光が古いアパートの窓に反射している。
僕は手の中で小さな封筒を握っていた。もう十年も前に届くはずだった手紙だ。郵便受けに投げ込まれ、誰にも読まれなかったそれは、僕にとって時間の結晶だった。
封を切ると、あの声が耳元で囁くように感じられた。
「元気ですか?」
文字は震えていた。
読み進めるうちに、彼女の小さな日常の断片が蘇る。
朝のコーヒーの香り、雨に濡れた公園のベンチ、笑い合った古い映画館の椅子。冬の夜に寄り添った帰り道の、冷たく澄んだ空気の記憶や駅前のネオンに映った横顔まで、どれも遠い光のように胸に届き、胸の奥が静かに震える。
時間の重みを初めて知る気がした。
手紙の最後にはこうあった。
「もう会えなくても、あなたが笑っていることを祈っています。」
胸が押し潰されそうになった。
会えないことを知りながら、彼女は僕を想っていたのだ。言葉ではなく、手紙がすべてを伝えていた。
僕は座り込み、手紙を抱きしめた。
夕暮れの光が窓を通して肩を撫でる。時間は止まらない。
けれど、この手紙の中では、あの瞬間が永遠に生きている。
外では風が細く吹き、落ち葉を舞わせていた。空の色は灰色に溶け、日常の些細な音が遠くに霞む。
手紙の感触を確かめ、彼女の息遣いや笑顔まで思い出そうとする。手を伸ばせば届きそうで、けれどどんなに思い出しても、彼女は指先に届かぬ水のように掌をすり抜けていく。
だからこそ、文字は静かに、確かに生きている。
やがて、暗闇が街を包み込んだ。
僕はそっと立ち上がり、手紙を机に置いた。
読む者がいなくても、文字はそこにあり、声は消えない。誰もが忘れてしまうものもある。しかし、確かに心に届くものもある。
僕は深く息を吸い、静かに帰路についた。
【短編小説を募集】「原稿用紙二枚分の文芸賞」を開催|締切は二〇二五年九月二十八日(日)|花澤薫(小説家/編集者/ライター)
