疲れていても読める高野秀行さんの本
最近、本をそれほど読まなくなった。
かつては「本の虫」という言葉がぴったりなほど、ミリミリと本を読んでいた私なのに、全然本が読めない。ああ、どうしたんだ。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という、今の私の問題意識にぴったりな本も読み、その通り!と思うこともいっぱいあったけれど、私個人の実感はちょっと違う。私の実感は、
「本が読めなくなったのは、本を読まなくなったから」である。
甘いものばかり食べていると酸っぱいものが食べられなくなり、
柔らかいものばかり食べていると硬いものが食べられなくなる。
同様に、短くてわかりやすいSNSの文章ばかり読んでいると、長くて複雑な本は読めなくなってしまう。
SNSがなかった頃の私は、疲れていても本を読んでいた。難しい本でも理解しようという気力を持っていた。
今は、本が読めなくてもSNS に触れることで活字欲はある程度満たされてしまうから、本を読もうという欲求が生まれない。読んでいないから、ますます本を読む力が弱まって、ちょっとでも疲れると本が読めなくなる。困ったもんだ。読むとすると、短いエッセイや、面白い小説などに限られてしまう。
ところが、そんな状態でもするりと読めて、しかも読後に深い満足感が得られるノンフィクションがある。それが高野秀行さんの著書である。
今回は高野秀行さんの著書の魅力について語りたい。
書評で見てから何年目?
高野秀行さんの本との出会いは新聞の書評欄である。
『謎の独立国家ソマリランド』だった。なんでもアフリカの国の話らしい。
私がこの書評で面白かったのは「著者はソマリランドを日本人にわかりやすく説明するために『平家物語』を利用している」という指摘だった。
「アフリカのことをわかりやすくするために『平家物語』を使う」って、それ何? 「アフリカ」と「平家」って全然違うでしょ。なんで一緒になるかなあ。分からん。
もう1つは「秀行」という名前である。私は高校時代、菊地秀行さんの「魔界都市」シリーズが好きだった。つまり、
「アフリカの魔界都市にいる平家の武将」というように、頭の中でミックスされてしまった。「秀行」違いなんだけど。
面白そう。
だがしかし。
本屋でも、図書館でも、『謎の独立国家ソマリランド」を見つけられなかった。だんだん記憶はあやふやになっていき、私はすっかりこの本のことも高野秀行さんのことも忘れてしまった。
それから数年後、長野市の大きな本屋で『謎の独立国家ソマリランド』を発見した。あ、昔、書評で見たやつだ。買ってみよ。ちょいと厚いがなんとかなるだろ。
ソマリランドに染まる
なんとかなるどころか、すらすら読めた。むちゃくちゃ面白い。わかりやすい。それでいてズシンと心に響くものもある。
『平家物語』のことも納得した。ソマリランドについて理解するためには「氏族」という概念をつかまなくてはならない。さらに、氏族同士の関係性(敵対しているとか、もともとは近い関係なのに仲が悪いとか)も覚えておかないと話が進まない。これを「平清盛」「源頼朝」「源義経」とくくってしまうことで、短い説明でも分かる。
なるほど、だから『平家物語』なのね。
全編、こういった「分かりやすく覚えやすいキャッチーな表現」が多い。
もちろん、こういった表現はわかりやすい反面、複雑な事情を説明しきれていないこともあるだろう。しかし、まずは大まかに分からなければ、次の複雑な事情にまで入り込めないだろう。
この本のおかげで私はソマリランドや、ソマリアに興味を持つようになった。地図を見て、ソマリランドが広大なアフリカ大陸の小さな小さな地域のことだと実感し、アフリカ全体にも思いを馳せるようになった。
これが高野秀行さん(の著書)との出会いで、それからは図書館で借り、本屋で買い、アマゾンで注文しと、様々な著書を読んでいる。どの本も分かりやすい。
高野さんの無茶苦茶な旅行は、本来ならば「そんなことやって、よくもまあ生きて帰ってこられたものだ」とハラハラすることばかりだ。しかし、読書中は「ハラハラ」というよりも、「なーにやってるんだか(笑)」という感じで、深刻な感じを受けずに読んでしまう。高野さん自身も、実際にはハラハラしながら体験しているのだろうが、それを笑い飛ばして記録しているように思える。
そうやって気楽に読んでいるのに、けっこう後々まで考えさせられるのが高野さんの著書である。『謎の独立国家ソマリランド』を読んでアフリカに興味を持ち、『アヘン王国潜入記』を読んでミャンマーの少数民族問題について考えるようになった。その他、もろもろの著書を読み、イラクやブータンの食文化にも興味を持った。納豆についての著書も興味深く、納豆を食べるたびに加熱して調味料として食べる人々がいることを思い起こすようになった。
気楽に読んでいるはずなのに、けっこうすごいことではないかと思う。
日本の先(後)になる世界
『世界の辺境とハードボイルド室町時代』を読んでからは、世界と(昔の)日本の共通点についても考えるようになった。
新米よりも古米のほうが高価な国があって、日本もかつてはそうだったなんて、面白い。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』という題名に深い意味があったなんて、「先」と「後」という言葉が、「未来」なのか「過去」なのかという話と重なるなんて、言葉って不思議だ。
『謎の独立国家ソマリランド』に登場した氏族に関して、先日こんなことがあった。
職場にたまたま年配の男性がやってきた。私とこの方の姓が同姓であることが分かると、この方は嬉しそうに「あなたも◯◯ですか。あなたはどこの◯◯ですか?」と訊ねてきた。私も普通に「うちは△△(地名)の◯◯です」と答え、その人が「うちは✕✕(地名)の◯◯ですよ」と答えた。
この会話を若い人が驚愕して聞いていた。何の話ですか? 姓と地名にどういう関係が?
なるほど、若い人にとっては奇妙な会話だったろう。
田舎にいると、姓と出身はある程度関連がある。年配の人間の中には根付いている。
私にとって、こういう会話は世間話の延長みたいなもので、△△家とは犬猿の仲だとか、✕✕の◯◯家は名門の家だとか、◯◯の嫡流はどこでとか、そういうことには一切つながらない(だいたいそんなものはない)。
ところが、日本(というか、今、私が暮らしている地域)とは違って、出身地や名乗っている姓の一族にすごく帰属感があり、同じ氏族ならば、いろいろ情報が入ってくるというのがソマリランドなのだ。
自分のやっていることや思考回路の先に、ソマリランドが、『平家物語』が、見えるようなった。それが面白い。
今は『酒を主食とする人々』を夢中で読んでいるところだ。
感想がまとめられそうになったら書きたい。
というわけで、最近忙しくて(疲れていて)本が読めないと思っている人も、ぜひぜひ高野秀行さんの著書を手にとってください。大丈夫、読めますよ。
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