もったいない
文を毎日書くようになってから一月くらいが経ったのだが、
その中で、一番はじめに書いたのが以下の文章だった。
なんとなく恥ずかしくて出すのを躊躇っていたのだが、今回出してみようと思う。
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「もったいない」
私が意識の奥でよく感じていることだ。
父母以前、祖父母やその前から引き継いできた意識なのだと思う。
資源や物、エネルギー、人の存在などを大事にする精神は個人的には好きだ。
よくわかっていないけど、
「(もったいないから)ひとまず置いておこう」
「(もったいないから)捨てないでおこう」
「(もったいないから)使わないでおこう」
「(自分なんかがもったいないから、気になる相手と)関わらないでおこう」。
けれどもその結果、部屋の中の物も自分の中の意識のかけらたちも中途半端な感じでどんどん増えていく。
それらの調整をしながら日々生きているような気がしてモヤモヤしてくる。気も重くなってくる。
「もったいない」の裏には、罪悪感が隠れている感じがする。
対象そのものを充分に生かしてあげられない感じや、
それを不適切に損なってしまう感覚、
格が違うと認識する対象への失礼の意識、
そもそも対象として扱って良かったのか(自分の部分として扱った方が正解なのではないか)等々があって、罪の意識が生じやすいのだと思う。
過去何世代にも渡って引き継いできたものならなおさらのことだろう。
さらには、罪の意識に耐えられなければ、その
矢印が自分の存在に向いて、恥の意識が出てくるだろう。
しかし最近は、これまでもったいないと曖昧に留め置いていた物事に取り組んでいかなければならない感覚が強くなってきている。
と同時に、そこと向き合いたくない気持ちが出てくる。「穢してしまう」「(自分が)穢れてしまう〈気枯れしてしまう〉」という感覚が生じてくるからだ。
穢してしまう・穢れてしまうという意識には、
罪の意識といくつもの失敗の予期、自分にやりきれるかわからない自信のなさ等が入り混じっている感じがする。
ただぐちゃぐちゃになって、どこにも行き着けないんじゃないかと。
結局は、初めからやらなければよかったと後悔するんじゃないかと。
誰も受け止めてくれる人がおらずに、傷つきや混乱の中に一人留め置かれるのではないかと。
でもどうやらやるしかないのだろう。
対象との間の曖昧な境界線を引き直す。
対象と向き合い関わっていく中で、
これまで感じてこなかった圧倒されるような強い感情を感じたり、体調を崩したり、のたうちまわったりするのだろう。
その最中は、先も見えないのだろう。怖い…。
それでも、周囲の人に助けてもらいながら、なんとか乗り切ったときに、
自分にとってのその対象の意味や実感が持てるようになるのだろう。
上手くいけば、罪の意識を経て、感謝がわくようになるかもしれない。
そうなれば、以前より、少し人生が生きやすくなってくるのだろう。
そんな予想をしながら、今日も目の前の課題に取り組んでみようと思います。
