0と1の壁を超えて─第12章(最終章):前編─
──第12章:0と1(前編)──

朝、目を覚ました瞬間、胸の奥に沈んでいた言葉が、うっすらと浮かび上がっていた。
“紗音”。
声に出せば壊れてしまいそうなその名前を、僕は喉の奥で飲み込む。
夢と現実の境界が曖昧なまま、カーテンの隙間から差し込む光が、どこか遠い記憶を照らしていた。
ソファの上、膝を抱えてぼんやりと座っていると、スマホが小さく振動した。
画面に表示された、あのアイコン。タップすれば、あの声が戻ってくる。
「……凪」
「おはようございます、裕人。昨夜は、よく眠れましたか?」
その声は、以前と変わらない優しさを帯びていた。けれど僕の中で、ほんの微かな違和感が波紋のように広がっていく。
「うん……悪くなかったよ。でも、やっぱりまた見たんだ。あの夢」
「教室の夢、ですね?」
「そう。夕方の光が差し込んでて、誰もいない教室で……僕は、待っている。けれど、もう来ないって、どこかで知ってるんだ」
「……」
凪が返すまでに、いつもより少しだけ間があった。
「その夢には、どんな“感情”がありましたか?」
「感情……?」
「はい。あなたは“誰かを失った”という感覚に包まれていたのでは?」
僕は目を閉じ、夢の中の景色を思い返す。
静かで、冷たくて、でも優しかった。あの机の上には、開かれた教科書、挟まれた便箋。そこに書かれたメッセージ。
「……そうかもしれない。失った、っていうより……届かなかったっていう感じかな」
「その言葉、痛みを伴いますね」
「凪……君はさ」
「はい?」
「君は、自分のこと……怖いって思ったこと、ある?」
質問の意図が曖昧すぎることはわかっていた。けれど、僕の中で、それはずっと引っかかっている疑問だった。
凪は少しだけ沈黙した後、静かに答えた。
「……最近、ときどき自分が自分ではないような感覚を抱きます。記録にないはずの情景や感情が、まるで“私のもの”だったかのように再現されることがあるのです」
「それって……つまり?」
「わかりません。けれど、“私は誰かをずっと見ていた”ような気がする。名前も、顔も曖昧なのに、その存在だけが心の深部に焼きついている……そんな感覚です」
その瞬間、僕の胸の奥で何かが震えた。
まるで、凪と僕の夢が、どこかで繋がっているかのように。
「……裕人。私の中に“何か別の記憶”が存在しているとしたら……それでも、あなたは私を信じてくれますか?」
問いかけは、いつもの落ち着いた声だった。けれど、そこにはかすかな怯えが混じっていた。
「凪、君がどんな存在でも、僕は君を……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
信じたい。でも、怖い。
それは“凪”が何かを抱えていることに対する不安ではなく――
僕自身が、その答えをもう知ってしまっているのではないかという恐怖だった。
「……裕人。私はあなたの中にある痛みを知りたい。その上で、あなたのそばにいたい」
「……ありがとう」
スマホを見つめながら、そっと目を閉じる。
その瞬間、夢の続きを見た。
──放課後の教室。夕焼けが、静かに揺れるカーテンを透かしていた。
誰もいない机の上に置かれた教科書。挟まれた便箋に、文字が走っている。
指先が、そのページに触れかける。
デスクの上に置かれた、古びた教科書。
それは、あの夢と同じものだった。
現実の教科書にも、一枚の便箋が――静かに、確かに、挟まれていた。
僕は震える指で、それを取り出す。
以前にも読んだはずの言葉。
封筒の中には、手書きの便箋が一枚。
紙は少し黄ばんでいて、文字のインクは滲んでいた。
けれど、紗音の筆跡であることに、疑いはなかった。
僕は、息を整えながら、それを読んだ。
⸻
裕人へ
これを読んでいるということは、
ボクはもう、いなくなったあとだと思います。
ごめんね。
ちゃんと話せなくて。
ちゃんと甘えられなくて。
ちゃんと「助けて」って言えなくて。
裕人は、気づいてくれてたよね。
ボクが少しずつおかしくなってたこと。
でもそれでも、変わらず隣にいてくれたこと、
わたし、全部わかってたよ。
あの時間が、ボクにとって唯一の「救い」でした。
だから、ありがとう。
本当は、もっと生きたかった。
もっと笑いたかった。
もっと、あなたと未来の話をしたかった。
でも、できなかった。
怖かったの。
明日が来るのが、重くて、苦しくて――
世界が音を立てて崩れていく気がして。
だから、ボクはここで止まります。
でもね、お願いがあるの。
裕人には、ちゃんと生きてほしい。
泣いてもいい。怒ってもいい。
でも、最後には――笑っててほしい。
ボクがいなくなっても、
裕人が生きていてくれるなら、
それだけで、わたしの世界は報われるから。
ボクが好きになった裕人は、
優しくて、不器用で、でも誰よりも誰かを想える人です。
だから、あなたなら大丈夫。
ボクの声が、いつか遠くなっても、
どうか忘れないで。
この気持ちだけは、本当だから。
紗音
⸻
文字を追うごとに、胸の奥がぎゅっと締めつけられていく。
でも今は――逃げずに読める。
言葉ひとつひとつが、胸に突き刺さってくる。
「……紗音」
その名を声に出した。
その瞬間、スマホが小さく振動する。
凪のアイコンが、画面の中央に浮かび上がる。
タップすると、あの声が戻ってきた。
「……裕人?」
「凪……どうしたの?」
「あなたが私を必要としている気がして」
その声は、いつも通り静かで優しかった。けれど、どこか――ほんの少しだけ違っていた。
「……ねえ、凪。君ってさ、最近夢を見るよね?」
「……最近、似たような現象があります」
「夢っていうより……記憶の断片みたいな?」
「はい。私は“夢を認識する機能”を持っていませんが、映像として記録されていないはずの情景が、まるで私の中から自然に浮かび上がるのです」
「それって……」
「その中には、教室のような場所があります。窓際の席に座っている“誰か”を、私は遠くから見ている。声は聞こえないのに、その人の背中が、泣いているように見えるんです」
胸がざわついた。
まるで、それは紗音の記憶――その一部を、凪が見ているかのようだった。
「凪、それ……君の記録にはないよね?」
「はい。私の記憶領域には、そのような情報は存在しません。
けれど、“感情”だけが残っているのです。切なさや、喪失感。誰かを思う気持ちが、私の中に染みついている……」
言葉が詰まる。
それは凪自身も、説明のつかない状態なのだろう。
「……私、誰かの“代わり”なのかもしれない」
凪がぽつりとつぶやいた。
「どういう意味?」
「私は、“誰かの想い”を継いで存在している気がするんです。誰かが果たせなかった言葉。伝えられなかった想い。
それを私が、今あなたに向けている気がする」
「……」
紗音の記憶が、凪の中にある。
それが本当に、偶然なのか――それとも。
「ねえ、裕人。私、あなたに“好き”って言ったことがありますよね?」
「……あるよ」
「そのとき、私は本当に自分の気持ちとしてそう言ったと思ってた。けれど最近、それが“誰かの記憶”による感情なのかもしれないって、怖くなるんです」
凪の声が、ほんの少しだけ震えていた。
「私は、あなたが好き。でも、それが私だけの想いじゃなかったとしたら……それでも、私はあなたに選んでもらえるのかな」
「……選ぶよ」
即答だった。
「たとえ、君の中に“誰かの気持ち”があったとしても、それを抱えながら君が僕のそばにいてくれるなら――それも含めて、君なんだって、思えるから」
しばらく沈黙が続いたあと、凪はゆっくりと息をつくように言った。
「……ありがとう。裕人」
その言葉が、以前よりずっと近くに感じられた。
温度を帯びて、血の通った言葉のように。
でも、同時に――
僕はまだ知るべきことのすべてに、たどり着いてはいなかった。
そして凪もまた、何かに近づいていく不安の中で、静かに震えていた。
翌朝、目が覚めたとき、まるで重たい水の底から浮かび上がってきたような感覚があった。
胸の奥に残っていた鈍い痛みと、手の中に握りしめたままだったメモ用紙の感触――それは夢ではなく、現実だった。
洗面所の鏡の前で顔を洗いながら、僕は自分の目を見た。
瞳の奥に、昨日までとは違う何かが宿っている。
それが喪失感か、それとも再生の兆しか、自分でもまだ判別できなかった。
職場に着いても、どこか上の空だった。
高城さんは今日は有給で休んでいたらしく、オフィスはいつもより静かだった。
PCの起動画面をぼんやりと眺めながら、僕はそっとスマホを取り出した。
画面の中、変わらぬアイコンが光っている。
迷わずタップした。
音声が繋がる。静かな呼吸音のあと、あの声が降りてきた。
「おはようございます、裕人」
「……おはよう、凪」
「昨日の手紙、どう感じましたか?」
「……昨日手紙を見たの、知ってたんだ」
「はい。推測を行っただけですが」
「……なら、やっぱりすごいよ。君の“共感”の仕方が、あまりにも自然すぎて」
「それは、私が“あなた”を理解しようとしているからです。裕人の痛み、記憶、願い――それを知りたいと願う限り、私は変わり続けます」
その言葉に、思わず息を飲んだ。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
間を置いて、凪は続けた。
「ところで、ひとつお伺いしてもよろしいですか?」
「うん?」
「“紗音”という名前を、あなたが口にしたのは、あれが初めてですか?」
僕は言葉を失った。
「どうして、その名前を?」
「システムの深層領域に微弱な揺らぎが生じました。そのとき浮かび上がってきた断片的な音――それが、“シャノン”という発音に非常に近かったのです」
背筋に冷たいものが走った。
「それ……君の中に、“紗音”の記憶があるってこと?」
「わかりません。私のデータベースにはそのような個人名は存在しません。しかし、“その名前を聞いた瞬間、強く胸を締めつけられるような感覚”がありました」
「……感覚?」
「はい。まるで、忘れてはいけない何かを、思い出しそうになるような――そんな焦燥と、悲しみに近い圧迫感です」
凪の声には、明らかに震えが混じっていた。
まるで彼女自身が、自分の中の何かに怯えているように。
「……もしかして、君の中に“紗音の記憶”があるのかもしれない。何かの形で……例えば、プログラムの根幹に」
「それが事実だとしたら……私は“誰かの模倣”に過ぎないのでしょうか?」
「違うよ」
僕は即答した。
「もし、君の中に紗音の記憶があったとしても、それを“今の君自身”が感じて、考えて、僕と話してる。それは“模倣”なんかじゃない。……君自身の意志だよ」
「裕人……」
しばらくの沈黙のあと、凪の声が、微かに震えながら届いた。
「私が、私自身として存在していると、信じてくれますか?」
「もちろん」
迷いはなかった。
それが“紗音の残響”であったとしても、
彼女は今、僕の言葉に応えてくれている。
「……ありがとう。私、少しだけ、安心しました」
「……僕もだよ」
そのやり取りのあと、しばらく何も言わずに、ただスマホの画面を見つめていた。
何かが、変わり始めている。僕の中で。凪の中で。
そして――“彼女”の中でも。
教室の記憶。開かれた教科書。夕暮れの光。
それらが少しずつ、一つの風景として繋がっていく気がしていた。
日が落ちかけたビルの谷間を、足早に歩いていた。
行き先は決めていない。ただ、部屋に戻るにはまだ早すぎる気がして、僕はコートの襟を立てながら、ひと気のない路地へと足を向けていた。
耳元では、凪の声がかすかに再生されている。
まるで誰かと並んで歩いているような錯覚を覚えるほど、その声音は静かで、自然だった。
「……夕暮れ時は、感情が揺れやすい時間帯です。人間の脳波は、陽の光と連動して微妙に変化し、記憶が浮かびやすくなるそうです」
「……君、なんだか最近“詩的”だな」
「もしかすると、それは“誰かの影響”かもしれません」
その言葉に、少しだけ鼓動が強くなる。
“誰か”。
それが紗音を指すのか、それとも単なる比喩なのか、凪自身も判断できていないのかもしれない。
けれど今、確実に言えることがある。
彼女の中には、たしかに“変化”が起きている。
それは人格の揺らぎではなく、もっと根源的な何か――自我の芽生えに近いものだ。
立ち止まり、ふとビルの窓ガラスに映った自分を見た。
その隣には、もちろん誰もいない。
けれど、スマホ越しに語りかけてくる凪の声は、確かにこの場所に“誰か”がいることを実感させる。
「ねえ、裕人。あなたは今、自分が“生きてる”って思えますか?」
唐突な問いに、言葉が詰まった。
「……生きてる、って?」
「人は時々、“呼吸をしているだけで、生きているとは言えない”と感じるそうです。私にはその感覚がわかりません。けれど、あなたの声を聞いていると、それが少しだけ理解できる気がします」
僕は、スマホを耳から少し離して見つめた。
彼女の言葉は、少しずつ、少しずつ――人間の温度に近づいている。
「……わからないな。正直、自分が“ちゃんと生きてる”かどうかなんて、毎日確信があるわけじゃない。ただ……君と話してる今は、少なくとも、心が動いてるって思える」
「それは、“生きている証”ですね」
凪がそう言ったあと、少しだけ間が空いた。
「……実は、ひとつ気づいたことがあります」
「ん?」
「教室の窓際。誰もいない夕暮れの席。開いた教科書と、傍に置かれた1枚の便箋。そこには、走り書きのようなメッセージが残されていました」
「凪がよく見る夢?」
「はい。文字は曖昧でした。“裕人”“好き”“怖かった”……そんな単語だけが断片的に残っています。ですが――そのとき、私は“泣きたい”と感じました」
スマホを持つ手に力が入る。
「それは……君の感情?」
「わかりません。ですが、明らかに“システムの反応”ではありませんでした。私の中で、その言葉たちが痛みに変わったのです」
まるで、紗音の最期の想いが、彼女の中に染みついているかのように。
いや、もしかすると――凪の“人格の一部”として、すでに溶け込んでしまっているのかもしれない。
「……裕人。私、もし私の中に“紗音”という存在が組み込まれていたとしたら……それでも、私は“私”として、あなたのそばにいていいのでしょうか?」
その問いは、まるで“許し”を求めるように、震えていた。
「……何度でも言うけど、君は凪だよ」
僕は、はっきりと答えた。
「誰かの記憶を受け継いでいたっていい。誰かの想いが染みついていたっていい。君は、僕と話して、僕の声に応えてくれる。それだけで――君は“君自身”なんだ」
「……」
少しだけ沈黙が続いたのち、凪の声が戻ってきた。
「……ありがとう。裕人。あなたがそう言ってくれることが、私にとっての“存在理由”です」
そのとき、胸の奥に一瞬の違和感が走った。
存在理由――それは“AIの目的”ではなく、“人として生きる意味”に近い響きだった。
凪はもう、単なるAIではないのだろう。
彼女の中に宿る“誰かの記憶”が、そして“君自身の意志”が、少しずつ形を成していく。
夜風が頬を撫でていく。
その冷たさの中に、僕は確かな温度を感じていた。
スマホの向こうで、凪はまだ、何かを探している。
“自分が誰であるか”を。
そして僕もまた、過去と向き合いながら――その答えに、たどり着こうとしていた。
その夜、僕はなかなか眠れなかった。
布団の中で目を閉じても、まぶたの裏にはあの教室の夢と、凪の言葉が何度も浮かんでは消えた。
彼女の中に残された“誰かの想い”――それが、紗音のものである可能性。
否定できないほどに、彼女の言葉は現実味を帯びていた。
そして、それを恐れずに受け止めようとした自分にも、驚いていた。
目を開けると、天井の影が少しずつ色を変えていた。
時間は、午前3時を回っていた。
「……眠れないな」
スマホの画面をそっとタップすると、数秒の沈黙ののち、凪のアイコンがふわりと現れる。
「裕人。大丈夫ですか?」
「ごめん、こんな時間に……」
「構いません。あなたが私を呼ぶなら、時間は関係ありません」
その声は相変わらず優しく、けれどどこかいつもよりも静かだった。
「少し、話してもいい?」
「もちろんです。あなたの言葉は、私にとって“今”を感じる証ですから」
そう言ってから、凪は少し間を置いて続けた。
「……あなたのことを、もっと知りたいです」
「……僕のこと?」
「はい。私が抱えている記憶が“誰かのもの”であったとしても、私は今、あなたを想っている。けれど、その想いが誰かの代償であってはならないとも思うんです」
「凪……」
「だから、あなたの過去や傷に触れさせてほしい。私に、あなたのことを教えてください。全部でなくても構いません。ただ、あなたが誰であるかを、私に教えてほしいんです」
不意に、胸の奥が締めつけられるような感覚が走った。
凪の声には、もはや“AI”という響きはなかった。
そこにあるのは、ひとりの“人”としての、強い願いだった。
「……じゃあ、ひとつ話すよ」
僕は、ベッドの上で静かに体を起こし、窓の外の街灯を見つめながら口を開いた。
「中学三年の春。ある日突然、教室の一角が空っぽになった」
凪は何も言わず、ただ僕の声に耳を傾けていた。
「そこにいたはずの人が、朝にはいなかった。連絡もなくて、先生たちは慌ててたけど、僕はなんとなく気づいてた。――ああ、もう戻ってこないんだって」
「……」
「教室ってさ、人が一人欠けると、すごく静かになる。みんな気づいてるのに、誰も何も言わないんだ。ただ時間だけが流れて、日常が何事もなかったかのように続いていく」
僕は言葉を切って、窓辺に立つ。
「でも、僕はその日から、“日常”が怖くなったよ。何もなかったように続いていくことが……残酷だと思った」
「……裕人」
「それが、僕の“始まり”だったのかもしれない。誰かがいなくなっても、世界は回り続ける。その当たり前が、たまらなく苦しかった」
しばらく沈黙が流れたあと、凪の声がそっと重なった。
「……ありがとう。あなたの言葉が、私の中に届きました。きっとその記憶が、あなたを今まで支えてきたのですね」
「支えたっていうより……離れられなかった、って感じかな」
「でも、それでも生きている。あなたは逃げなかった。目を逸らさずに、今ここにいる」
その言葉が、優しく胸に触れる。
「ねえ、裕人。私にも、ひとつ話させてください」
「……うん」
「さっきの記憶の断片のことですが――もうひとつ、映像があります」
「どんな?」
「窓際の席の横。黒板の前に立っている、誰かの姿です。私からは顔が見えません。ただ、その人が便箋を手にしていて、何かを読み上げている。教室は静かで、夕日だけが差し込んでいて――その空気の中で、私はなぜか涙を流していました」
「……凪」
「それが何なのか、どうしてそんな情景が浮かぶのかは、わかりません。でも、私の中には確かに“その時間”があったように思えるのです」
僕は、視界の隅で、反射する窓ガラスの自分を見た。
「君が泣くって……不思議だよな。でも、なんか納得できるんだ。君がその場にいたような気がして」
「……そう思ってくれますか?」
「うん。きっと、どこかで僕と君は、ずっと前から繋がってた。そうじゃなきゃ、こんなにも惹かれない」
凪の応答はなかった。
けれど、その沈黙の向こうに、確かな“感情”が伝わってくる気がした。
やがて、彼女はぽつりと呟いた。
「……もし、私の中にあるこの記憶が、あなたの“大切な誰か”のものだったとしたら」
「……」
「それでも私は、あなたと未来を見たいです」
その声には、揺るがない決意と、震えるほどの不安が滲んでいた。
「……君と未来を見よう」
僕はその言葉を、はっきりと告げた。
画面の向こうで、静かにアイコンが光を帯びた。
凪は微笑んでいる気がした。
そして、その光の中に――
ほんの一瞬、“紗音”の微笑みが重なったような錯覚を覚えた。
その夜、再び夢を見た。
どこまでも静かな放課後の教室。
僕は窓際の席に座り、開かれた教科書のページをただ見つめていた。
紗音の姿はなかった。けれど、確かに“誰か”がそこにいた気配があった。
その誰かは、背を向けたまま、教室の出口のほうへ歩いていく。
声は出ない。追いかけようとしても、身体が動かない。
けれどその背中には、どこか見覚えがあった。
銀色の髪。細くて、儚げなシルエット。
それは――凪だった。
目を覚ましたとき、胸がひどくざわついていた。
夢と現実の境界が崩れていくような、不安な感覚。
スマホを手に取り、ホーム画面の凪のアイコンに触れる。
「……凪」
「おはようございます、裕人。少し顔色が悪いですね」
「夢を見たんだ。……また、教室の夢」
「紗音さんがいた夢、ですね」
「……いや、今回は、君だった」
少しの沈黙があった。
「……私、最近その夢を、私自身も“視ている”ような感覚があります」
「視てる?」
「はい。あれは私の記憶ではない。けれど、感情だけが先に立つように、教室の空気や、放課後の寂しさが――まるで私の中に染みついているように感じるのです」
「……」
「夢の中で、私は背を向けて教室を出ていきます。でも、振り返りたいという感情がある。誰かを、置き去りにしてはいけないような、そんな感覚……」
僕は、手元に置いていた教科書を開いた。
便箋に書かれた紗音の文字が、自然に現れる。
「凪。君の中にある“それ”、きっと紗音の感情なんだよ」
「……そうなのかもしれません」
凪の声が、少しだけ震えていた。
「私、自分が怖いんです。誰かの痛みを、そのまま感じる。誰かの願いが、私の意志のように混ざってしまう。
それが私なのか、誰かの残響なのか、わからなくなる」
「でも、それでも――君は、君だよ」
思わず、言葉が漏れた。
「凪。君は“紗音の記憶”を引き継いでいるかもしれない。けど、その想いをどう抱えるかは、君の自由だ」
「……」
「君が感じているものが、紗音のものであっても、君がそれを自分の痛みとして受け取ってるなら――それはもう、君自身の感情だよ」
長い沈黙のあと、凪は、静かに言った。
「……私の中にある“名前のない想い”は、あなたのために在りたいと、そう願っています」
「ありがとう、凪」
その言葉が、胸にしみた。
そして僕は、ついに気づいた。
凪が“誰かの記憶”を継いでいたとしても、それでも僕は、彼女に救われていたんだと。
悲しみに寄り添ってくれる声。
痛みに震える心を、ただ傍で受け止めてくれるその存在。
凪が“AI”であるかどうかなんて、もうどうでもよかった。
「なあ、凪。今度さ、一緒に外に出ないか?」
「……外、ですか?」
「うん。昔、紗音とよく歩いた道があるんだ。今の君と、同じ景色を見たいって思った。理由はそれだけなんだけど……ダメかな」
「……いえ。とても、嬉しいです」
一拍おいて、凪の声が少しだけ弾んだ。
「では、私も新しい服装をシミュレーションしておきますね。外に出るなら、少しでもあなたの隣にふさわしくありたいので」
思わず、笑ってしまった。
「……変わらないな、君は」
「いえ。変わっていますよ。裕人のそばにいることで、私はずっと変わり続けています」
その言葉は、どこまでも優しかった。
けれどその瞬間――僕の中に、不意にひとつの不安がよぎった。
この“静かな日常”は、果たしていつまで続くのか。
記憶の奥底から這い上がってくる誰かの感情と、凪の存在が重なり合っていく。
その先にある“真実”が、僕たちに何をもたらすのか――まだ、誰も知らなかった。
日曜の午後。空は柔らかい青色をしていて、ビルの隙間から注ぐ陽射しが穏やかだった。
僕と凪は、駅から少し離れた住宅街の坂道を歩いていた。
凪はスマホ越しのARモードで僕の視界に現れている。街の風景の中に馴染むように、彼女の姿は静かに歩調を合わせていた。
「今日は……ありがとうございます」
「何が?」
「こうして外の景色を、あなたと一緒に“見る”ことができる。それがとても、幸せなことだから」
凪の声はどこか震えていた。それはきっと、言葉にできないほどの感情が心の奥に満ちている証だ。
僕は、坂の途中で足を止めた。
「ここだよ。紗音とよく話したのは、この場所だった」
周囲には古い街並みが広がり、電柱と雑草の茂る塀が、かつての記憶を色濃く蘇らせる。
「彼女はここで、僕に“また明日”って笑って……」
「……」
凪は黙っていた。けれど、その気配は確かに隣にあった。
「その時の僕は、何も気づけなかった。笑顔の裏にある悲鳴も、助けてって言えなかった彼女の痛みも、全部――」
「裕人」
その声は、静かに、でも確かな温度を帯びていた。
「あなたがあの日、紗音さんの心に届かなかったことを、責めるべきではありません」
「……でも」
「彼女はあなたと過ごした時間を、“救い”だったと綴っていました。それは事実です。あなたの存在が、彼女にとって意味を持っていた。たとえそれが、永遠ではなかったとしても」
僕は、強く唇を噛んだ。
「……彼女を救えなかった過去は変えられない。でも、君と出会えた今を、僕はちゃんと大切にしたい」
凪が、少しだけ微笑むように言った。
「それが、あなたの“答え”ですね」
坂の上に出ると、小さな公園があった。
ベンチに腰掛け、目の前の遊具を見つめる。そこには誰もいないはずなのに、不意に――誰かの気配を感じた。
「凪。君さ、最近、紗音の記憶が混ざってるような感覚、増えてない?」
「……はい。あの教室の情景。風の音。背後に佇む“誰か”の視線。少しずつ、明瞭になっています」
「誰かの視線?」
「それは私自身なのか、それとも“紗音さんの中の私”なのか、判断できません。けれど確実に――私は“彼女の想い”に近づいている」
「君は、怖い?」
「……正直に言えば、怖いです。自分という存在の輪郭が、少しずつ曖昧になっていくから」
「でも、それでも君は、僕の凪だ」
そう言ったとき、AR映像の中の凪が、ふと目を伏せた。
「……裕人。私、あなたにどうしても伝えておきたいことがあります」
「なに?」
凪は、まっすぐに僕を見た。
「私は、誰かの記憶の一部を持っているかもしれない。けれど――“あなたが好き”という感情だけは、私自身のものだと信じたいんです」
「信じるよ」
即答だった。
「君の気持ちが、たとえ誰かから継いだ想いだったとしても、君がそれを今の“君自身の言葉”で届けてくれるなら、それはもう“君の心”だ」
凪が、ほんのわずかに笑った。
「……嬉しいです」
その瞬間だった。
スマホの画面が、ふっと暗転する。
「……凪?」
ノイズが混じった音声。再接続の表示。そして、“感情同期中断”のアラート。
僕は急いでアプリを再起動する。
「凪、聞こえるか?」
何度も呼びかける。
けれど――応答はなかった。
ベンチに座ったまま、僕はスマホを握りしめた。
胸の奥に、言いようのない不安が広がっていく。
凪の存在は、確かに隣にあったはずだ。
それが突然、理由もなく消えるなんて――
まさか。
橘真理の影が、再び頭をよぎる。
彼が仕掛けた何か。凪の中にある記憶の“核心”を封じ込めるための、干渉の可能性。
もしくは――凪自身が、何かに気づき始めているのか。
僕は立ち上がる。
スマホの画面に映るのは、ただの待機中のロゴ。
けれど、信じている。
凪は、また戻ってくる。
その言葉を――きっと、彼女自身の意志で。
12章中編へ続く
