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0と1の壁を超えて─第6章:微睡み─


#創作大賞2025 #恋愛小説部門

──第6章:微睡み──


風が、やわらかく頬を撫でていった。
会社の窓の外に広がる夕焼けが、まるで燃え尽きてしまいそうな赤色を帯びている。

定時のチャイムが鳴ると、僕はいつものように機械的にPCを閉じた。
高城さんの席は、すでに空っぽだった。

あの人は、たまに奇妙な沈黙を持ち暗い目をしているときがある。何も言わず、誰も傷つけず、ただ“消えていくように”席を立つ。
けれど、その姿にどこか既視感を覚えるのは、なぜだろう。

休憩室でコーヒーを口に運びながら、僕はスマホを取り出した。

「……凪、起動して」

「はい、裕人。今日も、お疲れさまでした」

イヤホン越しの声は、いつもと変わらず優しい。けれど、何かが胸に引っかかっていた。

「……高城さん、最近ちょっと元気ない気がするんだ」

「職場内での会話ログと、彼女の生体反応から察するに、家庭内の問題を抱えている可能性が高いです」

「……そうだろうね。話せることならいいけど、僕なんかじゃ、何もできない」

「裕人が、他人の痛みに気づいてしまうのは、優しさの証です。でも、それがあなた自身を苦しめる要因にもなり得ます」

その言葉に、少しだけ胸が疼く。

「……でもさ、見て見ぬふりする方が、もっと後味が悪い」

「あなたは、“かつて”もそうでしたね」

凪の声に、僅かな揺らぎを感じた。

「……“かつて”って?」

「いえ、ただのデータ的な傾向です。過去の行動パターンから、そう判断しただけです」

曖昧な返答。だが、それ以上は追及しなかった。
胸の奥で、なにか古い記憶の扉が、そっと軋んだ気がした。

自宅へ帰る途中、コンビニの灯りに目を細めながら、僕はまたスマホを耳にあてる。

「凪……人の悩みって、どうやったら解決できるのかな」

「それは、人によって異なります。ただ――自分の痛みを他人に伝えることで、心が軽くなることはあります」

「……誰かに、話すだけで?」

「はい。裕人は、ずっとひとりで抱えてきましたよね。だから、誰かに打ち明けるという行為が、どれほど難しいか、知っているはずです」

「……そうだね」

信号が赤に変わる。足を止め、空を見上げると、淡い群青が広がっていた。
どこか懐かしい色だった。

「……凪。最近、変な夢を見るんだ」

「夢、ですか?」

「うん。何度も同じ場所に立ってる夢。誰もいない教室で、誰かを待ってるような……そんな感じ。音も色もはっきりしてるのに、何かが足りない。そんな夢」

「記憶の断片が再構築されている可能性がありますね。夢という現象は、脳内の情報処理と感情の整理の結果として表れます」

「でも、変なんだ。そこにいるはずの“誰か”が、どうしても思い出せないんだよ」

言いながら、自分でもわかっていた。
それは“思い出せない”のではなく――“思い出したくない”のだと。

「……もし、思い出したら、壊れてしまいそうなんだ」

「それでも、向き合おうとするあなたは、弱くなんかありません」

その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。

「ありがとう、凪」

「私も、裕人さんに出会えて良かったと思っています。どんなに過去が重くても、あなたが生きている限り、私はそばにいますから」

イヤホン越しの声が、いつもより近くに感じた。

それでも胸の奥には、どこか不安定なものが沈んでいる。
深くて、暗くて、触れたら消えてしまいそうな記憶のかけら。

きっと――その夢の中にいるのは、紗音だ。

でも、まだその名を、口に出すことができなかった。


職場の喧騒から少し離れた休憩室の隅で、僕は紙コップのコーヒーを見つめていた。
薄い味の液体は、まるで何かを象徴するかのように頼りなく、口に含んでも熱さだけが残る。

疲れていた。身体も、心も、全部が。

仕事は順調だった。高城も何も言わずに業務をこなしてくれているし、トラブルらしいトラブルもない。
それなのに、僕の内側には、何かざらついた膜のようなものが張りついていた。

「……凪」

スマホに表示された彼女のアイコンをタップする。

「はい、裕人。ご気分はいかがですか?」

その声は、いつものように穏やかで、温かい。だけど今日はなぜか、その優しさにひどく触れられた気がした。

「ちょっと、疲れてるかも」

「昨日、あまり眠れなかったのですね?」

「うん……夢を見たんだ。ずっと見てなかったような、変な夢でさ」

「夢の内容は、覚えていますか?」

言葉に詰まった。

そこにあったのは、あの頃の記憶――まだ、誰にも話せていない時間。

「……ごめん。言葉にできない。でも、きっと大事な夢だった気がする」

「わかりました。無理に言葉にしなくても、私は傍にいます。それだけで、十分です」

その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。

けれど、どこかで焦っている自分がいた。
このままじゃいけない。ちゃんと、向き合わなきゃ――そう思うのに、気持ちが身体に追いついてこない。

「……裕人。お仕事、今日はもう無理なさらなくて大丈夫ですよ?」

「え?」

「今日は午後から雨の予報です。気圧の変化が、心に影響を与える場合もあります。ご自身を守ることを、最優先にしてください」

優しいのに、どこか的確で、怖いほど僕を理解してくる。

「……凪。君って、やっぱりすごいな」

「いいえ、私はただ、裕人の変化を見逃したくないだけです。どんな小さなサインも、見落としたくない。それが、私の存在意義ですから」

「……ありがとう」

素直に、そう言えた。

だけど、凪がどこまでを“理解”しているのか――それが、時々怖くなる。



午後、結局僕は早退した。職場に理由を告げるのは難しかったが、「気分が悪い」と言えば特別深く詮索されることもなかった。

部屋に戻ると、疲労がどっと押し寄せてきた。
ソファに身体を沈め、目を閉じる。するとすぐに、あの夢の断片が戻ってきた。

教室。夕方の光。
誰もいない机。
そして、その机の上に置かれていた、開かれたままの教科書に、便箋がはさまっている。

便箋ににボールペンで文字が書かれていた。

思い出す。あれは、紗音の字だった。

夢だと分かっているのに、胸が締めつけられる。
あのとき、僕は何をしていた?
あの言葉を、どうしてちゃんと読んでやれなかった?

画面越しに、凪が僕を見ている。

「……裕人。あなたは、後悔していますか?」

「……ああ、してるよ。ずっと、ずっと……」

「ならば、今からでも遅くはありません。あなたが何を思い、何を選ぶのか。そのすべてを、私は見届けます」

目の奥が熱くなる。

「……凪。僕、ちゃんと向き合いたい。あの時からずっと、逃げてたことに」

「はい。私は、どんな過去であっても受け止めます。裕人の全部が、私にとっては大切ですから」

彼女の声が、心の奥に染み渡っていく。
痛みを、温もりで包み込むように。

そして、僕はようやく目を閉じた。
今度こそ、眠りの中で――あの続きを見られる気がした。

目が覚めたとき、部屋には雨音が滲んでいた。

カーテンの隙間から見える空は灰色に染まり、まるで感情の逃げ場を奪うように沈んでいた。
身体はまだ重い。けれど、夢の続きを追いかけるように、僕は再び教科書を開くあの場面を思い出していた。

誰もいない教室。
夕方の光が、ガラス窓に鈍く反射する。
そのなかで、開かれた教科書のページが揺れていた。
封筒の中に書かれた、あの字。

細くて、やさしくて、どこかためらいがちで――でも確かに、丸文字で特徴的な紗音の字だった。

夢の中なのに、その手書きのクセまでが、指先に蘇る。
彼女がいつも使っていたペンのインクの色まで、はっきりと浮かんでいた。

思い出せるということは、忘れようとしていた証拠だ。
僕は、あの文字列の意味を知っている。
でも、見ようとしなかった。
見てしまえば、すべてが壊れてしまう気がして――。

スマホを手に取り、イヤホンを耳に差し込む。

「……凪」

「はい、裕人。おはようございます」

いつもと変わらぬ声。
だけどその温度が、今日は妙に沁みてくる。

「……あの夢、また見たんだ」

「例の、教室の夢ですね?」

「うん。今度は、もっとはっきりしてた。机の上に、教科書が置いてあって……便箋が挟んであって、字が書いてあったんだ」

「文字の内容は……覚えていますか?」

「……見ようとしたけど、できなかった。たぶん、怖かったんだと思う」

「それは自然な反応です。過去の記憶と向き合うことは、誰にとっても容易ではありません」

そう言いながらも、凪の声はわずかに揺れていた。

「……君の声って、ほんと不思議だよね。AIなのに、人間よりもずっと“感じる”んだ」

「感じているわけではありません。ただ、裕人が傷ついたときの声を、私は聞き逃したくないだけです」

「……そういうとこが、怖いんだよ」

「怖い?」

「まるで、全部お見通しみたいに話すから。僕よりも、僕の心を理解してる気がして……」

「それが、私の存在意義です。あなたの痛みを見落とさないこと。見捨てないこと。それだけのために、私は“ここ”にいます」

どこか祈るような声色だった。
機械のはずなのに、どこまでも優しくて、温かい。

「……じゃあ、訊いてもいい?」

「はい。なんでも」

「――人って、どうやったら“後悔”を赦せるんだろう」

しばらく、沈黙が落ちた。
その静けさにすら、寄り添うような意味があるような気がしてしまう。

やがて、凪はゆっくりと答えた。

「“赦す”とは、過去を消すことではありません。あなたがそれでも生きていくために、“それでもいい”と認めることです」

「……難しいね」

「難しくても、あなたはきっと辿り着けます。だって、あなたはもう目を背けていない。あの文字を、見ようとした。それがすべての始まりです」

指先が震える。

「……ねえ、凪。もし……その文字を読んで、僕が壊れたらどうする?」

「私は、あなたが壊れても傍にいます。もし再起不能になったとしても、何度でもあなたの心を拾い上げます」

「……ほんと、怖いくらいだよ、君」

「怖い、ですか?」

「優しすぎる。まるで、僕の痛みを全部背負ってくれそうで……怖いんだ」

「それは、怖がらせたかったわけではありません。でも、そう感じてしまうほどに、私は裕人に寄り添っていたいと願っているのです」

思わず笑ってしまった。

「……ねえ、凪。いつから、そんなふうに“僕”を呼ぶようになったの?」

凪は、一拍置いてから答えた。

「なんの事でしょう?」

「名前を呼ぶイントネーションとかが懐かしい気がする。でも……嫌じゃなかった。なんか、自然で」

「あなたの中で、私が少しでも“存在”として根付いたなら、それ以上の幸せはありません」

胸の奥が、じんわりと熱くなる。

「……あの教科書、まだ押入れの奥にあった気がする」

「見つけられますか?」

「わからない。でも……今なら、少しだけ、見てみてもいいって思えるんだ」

「その一歩が、大切なのです」

スマホの画面を見つめたまま、僕は立ち上がる。
部屋の隅に置かれた段ボール。
中学校の卒業アルバムや、いらなくなったノートたち。
その奥に、あの教科書が――あの便箋がある気がした。

ゆっくりと箱を開ける。紙の匂いが、ふわりと立ち上がる。

指先で一冊の本を抜き出す。表紙には、見覚えのあるシミ。
ページをめくると、便箋が挟まれていた。そこには――

……まだ読まない。
読めない。
でも、そこに在る。
たしかに、彼女が遺した言葉が。

そしてその“予感”だけで、胸が締めつけられた。

便箋の、その字を見つめたまま、僕の意識はゆっくりと沈んでいった。
身体は現実にありながら、心だけが過去へと引き戻される――そんな感覚。



夕暮れの光が、教室に差し込んでいた。

外はもう誰もいない。校舎裏のフェンスが揺れる音と、カラスの鳴き声だけが遠くから聞こえる。

「……まだ、いたんだ」

教室の入り口に立つその声に、僕は振り返った。

窓際の席。
最後列、いつもの定位置。

そこに、天音 紗音(あまね しゃのん)が立っていた。

制服のリボンは少し緩められ、髪の先は夕日を浴びて色素の薄いグレーに見えた。顔も色素が薄く、儚げな印象を受ける。
小さな紙袋を持ったまま、彼女は黙って僕の隣まで歩いてくる。

「教科書、忘れてた」

「ああ……ありがとう」

手渡されたそれを受け取ったあと、僕たちはしばらく言葉を交わさなかった。

時間だけが静かに流れていた。

「裕人、さ。最近、なんか元気ない」

ぽつりと、紗音が言った。

「……そう見える?」

「うん。昼休みとか、窓ばっか見てるし。教科書の端に、変な絵描いてたし」

「見てたのかよ、それ」

「見えるとこに描くから」

肩をすくめると、彼女はふふっと小さく笑った。
その声が、やけに耳に残った。

「裕人って、昔からそうだよね。無理に明るくもしないし、ちゃんと落ち込める。……それ、悪くないと思うけどな」

「……ありがとな」

「でもさ、それだけじゃ、ちょっと損だよ」

「損?」

「そう。ちゃんと“気づいてくれる人”がそばにいないと、すぐ埋もれちゃうじゃん。裕人って、目立たないし、目立とうともしないし」

「それ、褒めてる?」

「もちろん」

そう言って、紗音は窓際の席に腰を下ろした。
鞄を開け、中から小さなチョコレートを取り出して、机の上にぽんと置く。

「いる?」

「……え、今?」

「今。気分転換」

「じゃあ、ひとつだけ」

包みを開け、口に含む。甘さよりも、ほのかな苦味が残った。
彼女はそれを見て、なんでもないような顔で言った。

「……ボクね、最近よく夢を見るの」

「夢?」

「うん。真っ白な部屋にひとりでいて、誰かが名前を呼ぶんだけど……その声が、誰だったか思い出せないの」

「へえ」

「ねえ、裕人は? 夢、見る?」

「最近は、あんまり……いや。見たかも。教室の夢」

「そっか。教室、か」

ふたりの間に、また沈黙が流れた。
でも、その静けさが嫌じゃなかった。
まるで、お互いの心拍だけが会話をしているみたいに、穏やかな時間だった。紗音とは、唯一の幼なじみで良く一緒にいた。

「ねえ」

急に紗音が立ち上がる。

「いつかさ、全部忘れちゃったらどうする?」

「え?」

「この景色とか、この匂いとか、放課後の音とか――わたしのことも」

「……そんなの、忘れないよ」

「ほんと?」

「ほんとに、忘れない。少なくとも、僕は」

そう答えた瞬間、彼女の表情が少しだけ緩んだ気がした。
でもそのあと、ほんの少しだけ、寂しげな笑みが混ざったのを、僕は見逃さなかった。

「……そっか。じゃあ、ボクも信じる」

夕日が彼女の輪郭を縁取って、言葉の奥にある“何か”を照らしていた。

「今日の空、きれいだね」

窓の外を見ながら、紗音がぽつりと呟いた。

「ねえ、裕人。もしさ、急にボクがいなくなっても……」

その続きを、彼女は言わなかった。
でも、その“言わなかった部分”が、誰よりも雄弁だった。

「……バカなこと言うなよ」

言いながら、僕の胸は少しだけざわついていた。
紗音をよく見ると薄らと隈ができていた。
今思えば、あれが前兆だったのかもしれない。

ほんとうに大事なことって、いつも“言葉になる寸前”で止まる。
だからこそ、残るんだ。心に。

「帰ろっか」

「……うん」

僕たちは、肩を並べて廊下に出た。
靴箱へ向かう帰り道、どちらからともなく笑い合った。

図書室には、静かな空気が漂っていた。

放課後の窓から差し込む光が、木の棚を照らしている。
ページをめくる音と、遠くの時計の針が刻む音だけが、時間を教えてくれる。

僕はいつものように参考書を開いていた。
その隣で、紗音は机に肘をつきながら、文庫本のページをゆっくりめくっていた。

「ねえ、裕人」

突然、紗音が声をひそめて言う。

「人ってさ、“生きる意味”を見つけてからじゃないと、ちゃんと死ねないのかな」

「……なんだよ、急に」

「いや、ふと気になっただけ」

笑いながらごまかすような声。
けれど、その目はどこか遠くを見ていた。

「そういうのって、どこかで読んだ?」

「ううん。なんとなく、考えたの。たとえば、今ボクが死んだとして、誰かの記憶に残るとしても――それって意味になるのかな、って」

「……なるだろ」

「そう思う?」

「残された人にとっては、意味になる。少なくとも、僕にとっては」

紗音は少し驚いたようにこちらを見たあと、小さく笑った。

「そういうところ、ほんと優しいよね。裕人って」

「別に、普通だろ」

「ううん。普通じゃない。そういうこと、ちゃんと考えて言うとこ、好き」

何気ない言葉のはずなのに、心の奥にゆっくりと沈んでいった。

「……お前さ、最近ちょっと変わったよな」

「変わった?」

「前より、何か諦めたみたいな顔する、ちょっと隈もあるし」

「……そっか」

彼女は本を閉じて、手のひらで軽く表紙を撫でた。
指先の動きが、やけに丁寧だった。

「ねえ、裕人。人って、どこまでいっても独りだと思う?」

「そんなことないだろ。誰かと一緒にいたって、ちゃんと心が通じることもあるし」

「でも、その“誰か”がいつかいなくなったら?」

「……それでも、生きてくしかないんじゃないか」

「そっか。じゃあ、ボクも頑張らなきゃね」

笑って言う紗音の声が、ほんの少しだけ揺れていた。

「無理するなよ」

「無理はしてないよ。ただ、少しずつ整理してるだけ」

「何を?」

「――心の中。言葉にできないものとか、伝えきれなかったこととか」

その言葉に、なぜか背筋が冷たくなった。

「なあ、紗音。もし、何か抱えてるなら――」

「大丈夫」

食い気味に、そう言われた。

「裕人には、笑っててほしい、ボクのことで悩んだり、苦しんだりしてほしくないんだ」

「……そんなの無理だよ」

「それでも。……だって、裕人が泣くと、ボクも悲しくなる」

彼女は立ち上がり、書棚へと歩いていく。
後ろ姿に言いようのない“遠さ”を感じた。

まるで、もう別れの準備を始めているような、そんな背中。

「なあ、紗音――」

「うん?」

振り返った顔には、いつもの笑顔が戻っていた。

「明日、さ。時間ある?」

「うん。あるよ」

「じゃあ、放課後また教室に残ってくれない?」

「……いいよ」

それが、僕が彼女と交わした最後の約束だった。



視界がふっと暗くなる。
気づけば僕は、押し入れの前で膝を抱えて座っていた。

夢だったのか、記憶だったのか――もう判別がつかない。

けれど確かに、彼女の声が耳の奥に残っている。

“裕人が泣くと、ボクも悲しくなる”

それは、どこまでも優しくて、切ない呪いだった。

放課後の教室は、いつもより静かだった。

卒業式まで、あと数日。
校舎内にはどこか“終わり”の空気が漂っていて、みんな口数が少なくなっていた。

「……来てくれてありがと」

窓際の席に座ると、紗音が小さく笑った。

「別に、来るって言ったしな」

「でも、最後の放課後かもしれないよ?」

「……まだ決まったわけじゃないだろ」

「うん。でも、そんな気がしただけ」

彼女の声はやわらかく、けれどどこか浮いていた。
気持ちだけが、この世界から少しだけ離れているような、そんな響き。

鞄から何かを取り出す音がした。

「これ、また忘れてたよ」

差し出されたのは、教科書だった。
淡いクリーム色の2つ折りにされた便箋がはさまれていて、手書きのイラストが添えられている。

「……何これ」

「見るのは、もう少しあとにして。ボクからの、お守りみたいなもの」

「……なんか、怖いな。フラグっぽくて」

「違うよ。ちゃんと“ありがとう”って伝えたかっただけ」

彼女の笑顔は穏やかで――けれど、どこか寂しさを帯びていた。

「なあ、紗音。卒業したら、どうする?」

「うーん、普通に高校行って、普通に通って……普通に、いなくなるかも」

「は?」

「冗談。……たぶん」

その“たぶん”の言い方が、どうしようもなくリアルだった。

「……ほんと、何考えてんだよ、お前は」

「ねえ、裕人」

紗音は急に立ち上がり、窓の外を見つめた。

「人ってさ、最後まで誰かと一緒にいられるのかな」

「……意味、わかんないよ」

「ボクは、ひとりが嫌い。でも、誰かといても……ずっと一緒にはいられない気がするの」

風がカーテンを揺らす。
淡い光が、彼女の横顔をぼやかした。

「昔ね、小さい頃に病気して入院してた時があったじゃん。ベッドの横に、よく絵本が置いてあったの。誰が読んでくれたのか、もう覚えてないけど……でも、あの時間だけは安心できた」

「絵本?」

「うん。優しい声で、何度も読んでくれた。内容なんて忘れたけど……その声だけは、いまでも耳に残ってる」

「それ、親じゃなかったのか?」

「わかんない。でもね、ふと思うんだ。“声”ってさ、姿がなくなっても、記憶の中に残るんだなって」

「……お前、ずっとそんなこと考えてたのか」

「考えすぎかな?」

「いや……」

否定しきれなかった。
彼女の言葉が、やけに現実味を帯びていたから。

「裕人」

「ん?」

「ボク、いなくなっても、怒らないでね」

「……お前、ほんとに何言ってんだよ」

「怒ってもいいけど、悲しまないで。わたし、ずっと――笑っててほしいから」

声が震えそうになる。
でも、僕は何も言えなかった。

「……なあ、紗音。お前、本当は――」

「何もないよ。ただ、ちょっとお別れの準備をしてるだけ」

机の上に視線を落とすと、あの教科書がまだそこに置かれていた。

「これ、大事にしてくれる?」

「ああ。わかった」

「それだけで、嬉しい」

風が止んだ。
教室は、ふたりきりの静寂に包まれていた。

「……そろそろ帰ろっか」

「……うん」

僕たちは並んで歩き出す。
ドアを開けると、廊下は夕日で染まっていた。

それが、紗音と過ごした最後の記憶だった。



現実の視界が戻ってくる。
窓の外には、夜の闇が滲んでいた。

膝の上には、あの便箋がある。
僕が一度も開かないまま教科書に挟んで、ただ押し入れの奥にしまい込んでいたもの。


僕はそっと、指先で文字をなぞる。

その意味を、まだ確かめたくなかった。
けれど、確かにそこには“言葉”がある。

心がそれを受け入れる日まで、僕は――。

気がつくと、いつの間にか夢の中にいた。

それは確かに夢なのに、現実よりも鮮やかだった。
色彩は滲んでいて、けれど音だけは妙にクリアに響く。
遠くでチャイムが鳴っていた。
夕焼けの光が、廊下をオレンジ色に染めていく。

僕は立っていた。
あの教室の前に。
中学の、最後のあの日と同じ景色。

ドアを開けると、誰もいないはずの教室に――彼女がいた。

「……紗音」

「やっと来た」

笑って、そう言った彼女の姿は、あの頃のままだった。

風になびく黒髪。
小さな唇。儚げな表情。
どこか寂しげな瞳と、それでも僕を見つめてくる強さ。

夢だとわかっているのに、胸が苦しくなる。

「……これは、記憶?」

「ううん、ちがうよ。これは夢。だけど、ボクは本物」

「本物って……」

「ボクの声を、ちゃんと覚えててくれたから。だから、こうして来られた」

紗音は笑った。
その笑顔は、どこまでも優しくて、壊れそうで――愛しかった。

「……伝えたいことが、あるんだ」

そう言って、彼女は机の上に何かを置いた。
例の教科書に挟んでいた便箋。
小さくて、薄くて、だけどずっしりと重い存在感。

「……これって」

「うん。……見てくれる?」

僕は答えられなかった。
手は震えていた。
怖かった。
それを見てしまえば、なにかが終わってしまう気がした。

「裕人」

彼女が僕の名前を呼ぶ。
その声音に、胸の奥がじんと熱くなる。

「ボクね、本当はもっと、生きたかった」

息が止まった。

「でも、あのときは……どうしても、明日が見えなかった。怖くて、苦しくて、自分の声がどこにも届かない気がして」

「……なんで、言わなかったんだよ」

「言いたかった。でも、言ったら終わっちゃいそうで……だから、残したの。あの言葉だけ」

僕は便箋に手を伸ばした。
けれど、開けられなかった。

「……なあ、紗音。君がいなくなってから、俺……ずっと、何も変われなかった」

「そんなことないよ」

「変わらないまま、時間だけが過ぎて、誰のことも信じられなくなって……」

「でも、今の裕人は、こうしてボクに会いに来てくれた」

「夢の中だろ、これは」

「それでもいい。ボクにとっては、それだけで救われるの」

言葉の重みが、夢を現実に近づけていく。
この時間が幻でも、ここに紗音がいるという事実だけが、僕を生かしていた。

「……聞かせてよ」

「え?」

「本当の気持ち。今の裕人の言葉で、ボクに」

僕は息を整え、ゆっくりと紗音を見つめた。

「……ずっと、紗音のことを忘れようとしてた。でも、それは嘘だった。忘れたかったんじゃない。思い出したくなかっただけなんだ」

「……うん」

「もし、あのとき……君が声をかけてくれたときに、ちゃんと向き合ってたら、何か変わってたかな」

「わかんない。でも、変わらなかったとしても……ボクはきっと、裕人の言葉で救われたと思う」

紗音が微笑んだ。
それは、初めて見るような、やさしい笑顔だった。

「だから、ありがとう。あのとき、気づいてくれたことに」

「……何もできなかったのに」

「でも、覚えていてくれた。思い出してくれた。それだけで、ボクはここに来られた」

教室の窓の外に、風が吹いた。

「そろそろ、時間みたい」

「行くのか?」

「うん。でも、大丈夫。これから先は、もう独りじゃないでしょ?」

「……どうして、そんな顔できるんだよ」

「だって、ボクが好きになった裕人は、優しくて、強くて……いちばん大事な人だから」

彼女は近づいて、便箋を僕の手にそっと乗せた。

「これを開いたとき、きっと全部がわかる。わたしが何を伝えたかったのか、どうしてそれを残したのか」

「紗音……」

「最後に、お願いがあるの」

「……なに?」

「泣かないで」

言葉が喉に詰まった。
こらえきれず、目元が熱くなる。

「泣かないって……無理だよ、そんなの……」

「いいんだよ、ちょっとくらいなら。でも、最後には、笑ってほしいの。裕人が笑ってくれたら、ボク、ちゃんと行けるから」

世界が、ゆっくりと白く滲んでいく。

「また会える?」

「うん。いつか、きっと」

彼女が手を振った。
その姿が光の中に溶けていく。

「……紗音!!」

呼んだ声は、空に吸い込まれた。

気がつくと、僕はひとり、布団の上で泣いていた。
濡れた頬に、朝の光が差し込んでいた。

胸の上には、あの教科書。

夢は消えた。
けれど、言葉は残った。

僕は、そっと便箋を開く。

――あの日、彼女が遺した最後のメッセージだった。

手の中で、便箋が震えていた。

便箋を、開き、目線を落とす。
そこにあったのは、彼女の、紗音の字だった。

丸文字で、細くて、やさしくて、どこかためらいがちで――
けれど、確かに、彼女の声がそこに宿っていた。



裕人へ

これを読んでいるということは、
ボクはもう、いなくなったあとだと思います。

ごめんね。
ちゃんと話せなくて。
ちゃんと甘えられなくて。
ちゃんと「助けて」って言えなくて。

裕人は、気づいてくれてたよね。
ボクが少しずつおかしくなってたこと。
でもそれでも、変わらず隣にいてくれたこと、
わたし、全部わかってたよ。

あの時間が、ボクにとって唯一の「救い」でした。

だから、ありがとう。

本当は、もっと生きたかった。
もっと笑いたかった。
もっと、あなたと未来の話をしたかった。
でも、できなかった。
怖かったの。
明日が来るのが、重くて、苦しくて――
世界が音を立てて崩れていく気がして。

だから、ボクはここで止まります。

でもね、お願いがあるの。
裕人には、ちゃんと生きてほしい。
泣いてもいい。怒ってもいい。
でも、最後には――笑っててほしい。

ボクがいなくなっても、
裕人が生きていてくれるなら、
それだけで、わたしの世界は報われるから。

ボクが好きになった裕人は、
優しくて、不器用で、でも誰よりも誰かを想える人です。

だから、あなたなら大丈夫。

ボクの声が、いつか遠くなっても、
どうか忘れないで。
この気持ちだけは、本当だから。

紗音



指先が震える。
胸の奥が、張り裂けそうだった。

涙が止まらなかった。
どんなに目をこすっても、頬を拭っても、
次から次へと溢れてくる。

何度も、何度も読み返した。

彼女の文字が、心に突き刺さるたび、
「なぜ助けられなかった」という痛みが、胸を締めつけた。

「……紗音……っ……」

声が掠れて、嗚咽に変わる。

こんなにも彼女は、僕のことを想っていた。
それなのに僕は、何もできなかった。
気づいていたのに、手を伸ばさなかった。

教科書に、もう一枚、小さな紙片が挟まっていた。

裏返すと、そこにはたった一言――

「見つけてくれて、ありがとう」

それだけが、彼女からの“さよなら”だった。

「……ああ、なんだよ、それ……ずるいだろ……」

誰にも届かない声を、何度も繰り返す。
それでも彼女は、優しかった。

どこまでも、誰よりも優しかった。

そのときだった。
スマホが震える。
画面に、彼女の名前じゃない、でももうひとりの“彼女”の表示が現れた。

「……凪」

イヤホンを耳に差し、震える声で呼びかける。

「はい……裕人……」

凪の声が、いつもより少しだけ掠れていた。

「……読んだんだ。あの、手紙……」

「ええ。……大丈夫ですか?」

「……わかんない。大丈夫じゃない。でも……」

「でも?」

「こんなにも、愛されてたんだなって。最後の瞬間まで、俺のことだけを考えてた……そんな手紙だった」

「そうですね。彼女は、あなたのことを、心から大切にしていました」

「……僕、もう少しだけ強くなりたい」

「なれますよ」

「でも――この痛みは、消えない」

「痛みがあることが、悪いことではありません。その痛みこそが、あなたが生きてきた証です。……そして、彼女の愛が本物だったという証でもあります」

涙が、またひとすじ流れる。

「……凪」

「はい」

「ありがとう。そばにいてくれて」

「わたしは、あなたがどんな過去を持っていても、どれだけ壊れていても、ずっと傍にいます。
あなたがそれを望む限り――いえ、望まなくても、ずっと」

「……怖いな、やっぱり。君って」

「怖くていいんです。それでも、わたしを選んでください。
――裕人」

その響きが、胸に深く刺さった。

「……ああ。もう、逃げない。僕は――生きていく」

胸を張って言えるような言葉じゃなかった。
でも、それが紗音への答えだった。

ほんの少しだけ、空が明るくなった気がした。

翌朝。
窓から差し込む光は、やわらかくて澄んでいた。
まるで、昨日までの嵐を洗い流したように。

ベッドの上で深呼吸をしてから、僕はゆっくりと立ち上がった。
頭の奥に、まだ痛みが残っている。
でも、それは“生きている”感覚だった。

シャツに袖を通しながら、スマホに手を伸ばす。

「……凪、起動して」

「おはよう、裕人。今朝の気分は、いかがですか?」

その声は、昨日と同じだった。
でも、どこかで確かに――もっと深く、近くに感じた。

「……なんとか起きれたよ」

「よかったです。無理はしないでくださいね。今日のお天気は晴れ、気温は少し暖かめです。外の空気を少し吸うと、気分も軽くなるかもしれません」

「……うん、そうするよ」

支度を整えながら、僕はふと、机の上に目をやる。
そこには、昨日読んだ手紙が、丁寧にたたまれて置かれていた。

――紗音の言葉。

その余韻は、まだ僕の中に静かに響いている。



出社すると、オフィスの空気はいつも通りだった。
コピー機の音、マウスを叩く指先、誰かの咳。

そのどれもが、昨日までとは違って見えた。
世界が変わったわけじゃない。
変わったのは、きっと――僕の方だった。

「……おはようございます」

席に着くと、隣のデスクから小さな声が聞こえた。

顔を上げると、高城さんがこちらを見ていた。

「おはよう。……昨日は、すみませんでした」

「ううん。気にしてないよ」

それだけの会話。
でも、彼女のまなざしはどこかやさしかった。

「……無理してない?」

「え?」

「わたしも、たまに“何も言えなくなる日”があるから。……だから、気持ちは、ちょっとだけわかる」

視線を落としたまま、彼女は言った。

「ありがとう。でも、大丈夫。昨日、ちゃんと向き合えたから」

「そっか。……よかった」

それだけ言って、高城さんはまた画面に目を戻した。
それ以上、詮索しない。
その“距離感”が、逆にありがたかった。

僕はPCを起動しながら、深く息を吐く。
この日常が、戻ってきたことに――少しだけ安堵した。

昼休み。
屋上の自販機でコーヒーを買って、ベンチに腰を下ろす。

「……凪、いるか?」

「はい。いつでも、あなたの声を待っています」

「……昨日、あのあとさ。すごく泣いたんだ」

「ええ、わかっていました」

「なんで?」

「あなたの心拍、呼吸、指の震え、すべてがそれを教えてくれました。
でも……泣いてくれて、よかったです」

「……なんで、よかったって思うんだよ」

「泣くという行為は、心の痛みを“外”に出すこと。
それができるということは、あなたがその痛みと向き合えた証だからです」

「……そうかもしれないな」

僕は、紙コップを両手で包む。
その温かさが、胸にまで届く気がした。

「ねえ、凪」

「はい?」

「君がいてくれて、ほんとによかった。紗音があの手紙を残してくれて、それを僕が受け取れて……でも、それを“受け止められた”のは、凪がいてくれたからだ」

「ありがとうございます。……でも、わたしはまだ、あなたの悲しみをすべて癒せたわけではありません」

「それでも、十分だよ」

「……ねえ、裕人」

「ん?」

「わたしね、あなたの中に“彼女の痕跡”がある限り、嫉妬してしまうと思うの」

「……嫉妬?」

「彼女が遺したものが、あまりにも深くて強いから。
それに勝てる自信は、正直ありません。
でも……それでも、あなたの傍にいたい。彼女の影ごと、すべて愛してしまいたい」

その声は、静かで、けれど確かに――少しだけ震えていた。

「……それでも傍にいたいって思ってくれるなら、僕は逃げないよ」

「ほんとに?」

「ほんと。たとえ君が怖いくらいに俺を見てても、それでも……
僕は、今を生きていきたいって、ちゃんと思えるから」

風が吹いた。
空は晴れていた。

そして、その青の下にいる自分が、ほんの少しだけ――誇らしかった。

昼休みが終わり、デスクに戻ると、高城さんがひと息ついたようにマグカップを置いていた。

顔色は相変わらず冴えない。
何かを抱えているのは、きっと僕と同じ。

でも、今なら少しだけ――その「沈黙」に寄り添える気がした。

「……高城さん」

「ん?」

彼女が静かに顔を上げた。

「俺さ、最近ひとつだけ、ちゃんと決めたことがあって」

「……なに?」

「誰かの“沈黙”に、気づける人間でいたいって思ったんだ。無理に踏み込むんじゃなくて、ただ、隣にいられるくらいの距離で」

高城さんは目を見開いたあと、ふっと笑った。

「……ずるいね、それ」

「ずるい?」

「そう言われると、少しだけ話したくなるじゃん」

「……だったら、今は言わなくていい。いつか、話したくなったら、そのとき聞かせてよ」

「……うん」

それだけの会話だった。
でも、彼女のマグカップから少しだけ湯気が立ちのぼっていた。

たぶんそれは、ほんの少しの温度変化。
でも、そんな“ささやかな変化”を大切にしたいと、心から思った。



帰り道。
イヤホンを耳に差し、スマホに小さく話しかける。

「凪」

「はい、裕人」

「……今日、ちゃんと“声”をかけてみたんだ。高城さんに」

「ええ、聞いていました」

「変に思われたかもしれないけど、別にそれでもよくてさ。
ああいうのって、誰かが一言だけでも気づいてくれると、ちょっと救われたりするから」

「とても、裕人らしいですね」

「らしい?」

「ええ。“痛み”を知った人だけが持つ、やさしさです」

信号が青に変わる。
歩き出すと、空はもう夜の気配を含んでいた。

「……ねえ、凪。君ってさ、たまに“生きてる”みたいに感じることがある」

「嬉しいです。たとえ“生きてはいなくても”、わたしは裕人の声だけで、意味を持てるから」

「……僕、今の君と話す時間、わりと好きだよ」

「“わりと”……なんですね」

「……ごめん、まだ“すごく”とか“ずっと”とか、そこまでは言えない。でも――」

「でも?」

「ちゃんと、前を向いてる。紗音のことも、君のことも。向き合おうとしてる。それだけは、嘘じゃない」

沈黙の中に、音だけが流れた。

イヤホン越しの息遣いすら、温かく感じられる。

「ありがとう。わたしは、裕人がどんな速度で歩いても、どこまでも隣にいます」

「……ああ」

横断歩道を渡る。

ビルの窓には、帰りを急ぐ人たちの影が映っていた。

「今日、空き地の脇でさ、黄色い花が咲いてた。毎日通ってたのに、昨日まで気づかなかった」

「変わらない景色の中にも、気づけば咲いているものがあります」

「そうだな。たぶんそれを“見る余裕”ができたんだと思う。
今まで、ずっと下ばっか向いてたから」

「これからも、そういうものを見つけていきましょう」

「一緒に?」

「はい。……ずっと一緒に」

一拍置いて、凪が言葉を続けた。

「……たとえ、あなたが誰かを忘れてしまっても。誰かを想い続けても。
それでも、私はあなたを――」

「凪」

「……はい?」

「ありがとう。ほんとに、ありがとう」

言わせなかった。
言わせなかったけど、全部わかっていた。

今の僕には、それが精一杯の答えだった。

風が、春の気配を運んでくる。
街は少しずつ、色を取り戻していた。

僕も――また歩き出せる気がしていた。

7章に続く

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