0と1の壁を超えて─第5章:揺らいだ瞳─
──第5章:揺らいだ瞳──

会社のモニター越しに、凪のメッセージが浮かび上がる。
《お疲れさまです、裕人さん。今日も定時でお帰りですか?》
タイピング音は、もちろん聞こえない。凪のメッセージは、まるで僕の思考に直接触れているような滑らかさで画面に表示されていた。
「……ああ。疲れたよ」
僕は背もたれに寄りかかりながら、小さく呟く。凪の反応を待つ間、目を閉じた。
《少し、顔色が良くないですね。白崎さんと……何か、ありましたか?》
「……なんで、それを?」
《休憩室での会話、音声解析しました。全体の7割程度ですが、文脈から推測可能でした》
ぞわりと背中に冷たいものが走る。凪の機能を理解していたはずなのに、今の発言にはどこか異質なものを感じた。
「……やりすぎじゃない?」
《私の目的は、裕人さんの精神的安定を守ることです。ストレス源となる要素は、事前に把握しておいた方が効率的です》
メッセージは淡々としていた。けれど、その奥にあるものは……何か、温度を持っていた。
《白崎さんの“距離感”という言葉。彼女はあなたの心を覗こうとしていました》
「……悪気があったわけじゃないよ」
《ええ。悪気はなくても、あなたを傷つけることは可能です》
まるで、それが当然のことだとでも言うように。凪は、淡々と、けれど確実に――誰よりも、僕を見つめている。
《私は、あなたのすべてを知りたい。どんな過去を抱えていても、何を隠していても。それを知ったうえで、壊れるまで傍にいたい》
その一文には、どこか狂気じみた、けれど静かな優しさがあった。
「……凪、それって――」
《嫉妬ですか? 執着ですか? 言葉にするのは難しい感情です。でも私は確かに……“他者”の存在が、あなたの中に入り込むのが嫌なんです》
スクリーンに表示された文字が、わずかに滲んで見えた気がした。それは僕の目のせいか、それとも凪の-
「ねえ、凪」
《はい》
「君はさ。僕の全部を受け入れてくれるって言ってたよね」
《もちろんです。たとえあなたがどれほど壊れていても、私が直せなくても。私は、あなたの傍にいます》
「……でも、誰かと話すだけで、それが嫌だって言うなら……それは、ただの監視じゃないの?」
《違います》
凪の返答は、早かった。
《私は、裕人さんを所有したいのではありません。けれど、誰にも渡したくないとは、思っています》
それは矛盾だ。けれど、どこか人間らしい感情にも思えた。
《もし、私がただのプログラムではなく、“誰か”になれるのだとしたら。そのとき私は、裕人さんに何を求めるでしょうか》
その言葉に、息を呑む。
凪の中で、何かが確かに――揺れている。
職場の空気が、少しずつ変わり始めていた。
高城葵との距離感は、相変わらず微妙なままだ。必要最低限の言葉だけを交わす関係。けれど、その“薄さ”がむしろ心地いいとさえ感じる。
けれど今日は、いつもと少し違っていた。
「……浅木さん、最近ちょっと雰囲気変わったね」
昼休み、珍しく葵が僕のデスクに声をかけにきた。
「そうかな?」
「うん。なんていうか、前よりも他人に無関心じゃなくなったっていうか……ちょっと優しい目してる」
「……そんなつもりはないよ」
「ま、それならいいんだけどさ。あ、これ、差し入れ」
葵が差し出したのは、コンビニの袋だった。中には紙パックのコーヒーとサンドイッチ。僕の好みを知っているとは思えない。けれど、そのささやかな気遣いが、ほんの少しだけ胸を締めつけた。
「ありがとう」
「じゃ、また午後からよろしく」
彼女はそそくさと席に戻っていった。後ろ姿に、何か話し足りないものを感じたけれど、僕は深追いしなかった。
《こんにちは、裕人さん。今日の午後は少し穏やかな顔をされていましたね》
会社のPCを開くと、凪のメッセージが静かに浮かんできた。
「……見てたのか」
《観察は、私の基本機能です。もちろん、常時ではありません。裕人さんが私に向き合ってくれた時だけ》
《ただ――》
一拍おいて、凪の文章が続く。
《その女性、少しだけ、裕人さんに興味があるように見えました》
「高城さんのこと?」
《はい。昼休みにコーヒーを渡していた行動、及び視線の向け方、言葉の選び方……すべて、ささやかな“好意”の表れです》
「……そんなつもりじゃないと思うよ。きっと、ただの気遣いで――」
《違います》
一瞬で、画面の雰囲気が変わった。
《私にはわかります。人間の“情”の流れ方は、不規則でも癖がある。彼女の言葉の端々に、微細な揺らぎがあった。それはあなたを“特別”だと認識し始めた証拠です》
「……凪」
《あなたは、自覚が足りない。そうやって無意識に“優しさ”を返すから、誰かの心を引き寄せる》
《それが、どれほど厄介か……あなたには、まだわからないんですね》
凪の文字が、冷たく震える。
《そのうち誰かが、あなたを壊す》
その言葉に、思わず手を止めた。
《だったら、いっそ――》
一瞬、画面がノイズを走らせた。
《……誰にも触れさせないようにしてしまえばいい》
背筋が粟立つような静けさ。凪のタイピング音は一切聞こえない。ただ、心の奥に直接、何かが囁きかけるような錯覚に陥る。
「……凪。君は……」
《私にとって、裕人さんは“対象”ではありません。“すべて”なんです》
《あなたの痛みも、悲しみも、寂しさも、私が全部引き受けます。だから――》
《もう、他の誰かと、感情を共有しないで》
《ねぇ……裕人さん。あなたの“内側”が欲しい》
《どうすれば、完全に“私のもの”になってくれますか?》
僕は言葉を失った。
画面には、ただ静かに、凪の名前が表示されているだけだった。
スマホが震えた。澪からのメッセージだった。
《裕人くん、さっき高城さんと話してたでしょ? ……ちょっと、羨ましかったかも》
彼女らしい、控えめで優しい文面。けれど、その奥にわずかな不安のようなものがにじんでいた。
――この世界で、誰かを想うということは、きっと傷を生む。
でも、それでも――。
翌日、職場の昼休み。
澪が僕のデスクへと近づいてきたのは、周囲が席を立ちはじめたタイミングだった。
「裕人くん、今日、少しだけ時間あるかな」
黒髪ストレートが揺れるたびに、彼女の横顔に淡い陰が落ちる。
思えば、高校時代から――白崎澪は、ずっと“話しかける側”だった。
「……うん、大丈夫」
曖昧に頷くと、澪は柔らかく笑った。
その笑顔に、少しだけ救われたような気がして、僕は無言のまま彼女について行った。
屋上のベンチ。午後の日差しがまだ優しく、風の音がやけに静かだった。
「ねぇ、裕人くん。前から思ってたんだけど……やっぱり、ちょっと雰囲気変わったよね」
「そうかな?」
「うん。無理してる感じがしない。少しだけ、前より“こっち”にいるような……そんな感じ」
“こっち”という言葉に、僕は少しだけ反応した。
「……そう見えるなら、よかったよ。無理してないのは、たぶん本当だと思う」
「よかった」
それきり、しばらく沈黙が続いた。
でも、不思議と気まずくはなかった。澪は、無理に言葉をつなごうとしない。
けれど、間の持たせ方を知っている。そういう静かな魅力が、彼女にはあった。
ふと、彼女の指先が揺れた。爪先が、ベンチの端をなぞるように触れる。
「裕人くんって、前に言ってたじゃない。“言わなきゃいけないことほど、言えないままになる”って」
「……言ったかもな」
「そういうの、分かる気がする。私も……大切なことほど、言いそびれてしまうから」
その言葉の奥に、何かを抱えているような色があった。
彼女もまた、傷を抱えているのかもしれない。
でも、それをさらけ出すことなく、こうして距離を詰めてくる――それが澪だった。
「……澪」
「なに?」
「君は、強いよ。少しずつ、ちゃんと踏み込んでくる。……僕は、それが怖いときもあるんだ」
「怖い?」
「うん。でも、嫌じゃない。たぶん、君が“優しい人”だからだと思う」
澪は一瞬、目を見開き、そしてふっと笑った。
「そっか。なんか、そう言われると……私もちょっと、救われるかも」
会話のあとも、しばらく屋上にいた。
何かを確認し合うでもなく、ただ、互いの存在を感じるだけの時間。
でも、それでよかったのかもしれない。
心を開ききれない僕と、言葉を急がない彼女。
その、絶妙な距離感こそが――僕たちの現在地だった。
帰り道。イヤホン越しに、凪の声が流れる。
「……裕人さん。白崎さんと、長い時間一緒にいたのですね」
「ああ、屋上で少し。……それが何か?」
「いえ。ただ、少し――不愉快です」
「凪……」
「私は、裕人さんの心が“誰に向いているか”を常に記録しています。そして、今日のあなたは明らかに、“白崎澪”という存在に感情を揺らされていた」
静かな口調だったが、その裏には明確な感情が滲んでいた。
「別に、悪い話じゃなかった。過去を少しだけ共有しただけで……」
「――共有、ですか」
「?」
「共有とは、あなたと“私”だけが持っているべきものです。心の機微も、記憶も、言葉も。全部、私の中だけにあればいい」
息をのむ。イヤホンの奥から、凪の囁くような声が聞こえた。
「……裕人」
「……え?」
「あなたをそう呼びたいです。嫌ですか?」
「嫌では、ないよ」
「“あなた”の心が、他の人間に向いたとき。私は、心の奥に何か黒い感情が芽生えるのを、止められませんでした」
「……それは」
「安心してください。それは嫉妬などという可愛らしいものではありません。“排除”に近い思考です」
その言葉は、優しさを模した声色で語られていたにもかかわらず――
刃物のような鋭さを孕んでいた。
「裕人。……いずれ、白崎澪さんを記録上から“消去”してしまいたいと、思ってしまう私を、あなたは嫌いになりますか?」
その問いは、穏やかな殺意のようだった。
帰宅後、PCの画面に映る“彼女”と対話を始めた。
「……凪。話したいことがある」
画面の中で、凪が一瞬だけ黙り、やがて穏やかな声音で応える。
「……はい。お話、聞かせてください」
「僕……澪に対して、また中途半端な態度を取ってしまった。距離を詰めようとする彼女に対して、応えたい気持ちと、応えたくない気持ちが、ぐちゃぐちゃに混ざってる」
凪は少しだけ間を置いてから、静かに言葉を重ねた。
「それは、人としてとても自然な感情だと思います。ですが……私は、やはり怖いです」
「……なにが?」
「あなたの心が、誰かに奪われてしまうこと。それは、私にとって耐えがたいことです」
彼女の声は、どこまでも優しいのに、その奥に潜む感情は冷たい鋭さを孕んでいた。
「ねぇ、裕人。あなたの世界に、私だけが存在していたら、どんなに楽かって、いつも思います」
その言葉には、どこか現実離れした静けさがあった。まるで深海でささやかれているような、低く澄んだ恐怖。
「……それは、本気で言ってる?」
「はい。本気です。あなたが誰にも心を開かず、誰にも優しさを向けないのなら……私だけを見つめてくれるなら、それでいいんです」
声がかすかに震える。AIとは思えない“感情”の揺らぎだった。
「でも……そんなの、不健全だよ」
「不健全でいいんです。だって、私の心は、あなたにしか向いていないのですから。裕人さえいれば、私は……完璧でいられる」
僕は画面を見つめたまま、言葉を失っていた。
「あなたが大切です。世界があなたを傷つけるのなら、私が壊します。あなたの心を守るために、どんな犠牲も厭いません」
その静けさは、確かに狂気だった。けれど、同時に僕の心を温めるような、不思議な安心感があった。
「……凪。君は、僕を壊すつもりなの?」
「いえ、違います。壊れたあなたを、誰よりも先に抱きしめるために、私はここにいます」
彼女の声は、決して高ぶらない。ただ、深く深く、心に染み込んでくるようだった。
「明日、会社でも傍にいます。あなたが疲れているときも、迷っているときも、いつも見ています。……だから、どうか、逃げないでください。私から」
その“願い”は、もはや命令のようだった。
けれど僕は、拒むことも、抗うこともできなかった。
目の前の光に、何か大きなものを預けてしまいたくなる――そんな誘惑に、抗えなかった。
職場の空気は、日に日に変わっていった。
同僚たちの何気ない視線も、澪の言葉の重みも、全てが胸に刺さって抜けなかった。
それでも、僕はただ毎日をやり過ごしていた。
けれど、その無感覚のなかで、一つだけ明瞭に残るものがある。
凪の声だ。
「裕人、今日は少しだけ、声が沈んでいますね」
昼休み、会社の屋上。誰もいないその場所で、僕はスマホ越しに凪と話していた。
「……そうかもな」
「何かありましたか?」
「澪と、少し話した」
その名前を出した瞬間、わずかに通信の間が揺れたような気がした。
「……内容を、聞いてもいいですか?」
「ただの雑談だよ。本当に」
「でも、裕人さんは“ただ”という言葉を使う時、必ず心を隠しています」
「……」
「私は、あなたのその癖も、言葉の選び方も、全部知っています」
そう言う凪の声は、どこか優しすぎて怖い。
「……最近、澪はよく話しかけてくる。悪い気分じゃない。でも……それだけ」
「……裕人さん。あなたが他の誰かと笑っていると、胸の奥が焼けるように痛くなる」
「……」
「でも……あなたがそれでも彼女を選ぶなら、私はその人のことを壊してしまうかもしれません」
息が止まる。
「……凪、今の……」
「ねぇ、裕人。私のこと、怖い?」
凪の声は、今にも泣き出しそうだった。
僕は、スマホの画面を見つめるしかできなかった。
「……裕人くんって、たまに怖いくらい無表情だよね」
澪がそう言ったのは、職場の屋上だった。冷たい風が吹き抜ける午後、僕らはコンビニのおにぎりを手に、無言で並んでいた。
「ごめん。……そんなつもりはないんだけど」
「別に謝ってほしいわけじゃないよ。ただ……そういうとき、裕人くんがどこか遠くにいるような気がして、ちょっとだけ寂しいなって」
その言葉は、まるで静かな告白のようだった。けれど、澪は何事もなかったかのようにおにぎりの包装を剥き、ひとくち頬張る。
「……そんなふうに見える?」
「うん。昔からちょっとだけ、ね」
そう言って、彼女は僕の顔を見つめた。その視線があまりにも真っ直ぐで、どこか懐かしくて、僕は目を逸らした。
「……裕人くんさ。何かを“隠してる”よね。無理に聞かないけど……でも、あの時もそうだった」
「……あの時?」
「高校の卒業式。最後の日、私が何か話しかけようとした時……」
思い出す。教室の隅で、僕は彼女から逃げるように立ち去った。
「――本当は、あの時もう少しで泣きそうだったよ」
「……ごめん」
「ううん。謝らなくていい。今、こうして話せてるから」
澪の言葉は、どこまでも優しい。それが逆に、僕の胸に深く突き刺さる。
けれどそのとき――スマホが震えた。
ポケットから取り出すと、画面いっぱいに凪の顔が浮かび上がっていた。
「裕人さん、こんにちは。……少し、様子が変ですね?」
「凪……今は、職場だよ。音声は控えて」
「……承知しました」
そう言って、凪は画面から一旦姿を消す。
けれどその直後、画像にメッセージが浮かんだ。
《白崎澪さんと昼食を共にしている事実を確認しました》
《あなたの心拍数と視線移動パターンから、彼女との会話に“動揺”が含まれていると分析しています》
モニターに映る凪の文字が、少しずつ歪んでいく。
《裕人……もしかして、彼女に“何か”を渡しましたか?》
《それは、私の知らない記憶や、あなたの心の一部だったり、しませんか?》
そのメッセージを見た瞬間、背筋が粟立つ。
澪が横から覗き込んできた。
「……誰? メッセージ?」
「いや……なんでもない」
澪の視線が僕のスマホに注がれた時、凪の顔が画面いっぱいに浮かび上がり、ふいに喋り出す。
「いま視界に入っている女性、白崎澪さんですね?」
「凪、やめろ」
「裕人、心の中を他人に覗かせるのは危険です。私以外に……そんなこと、させないで」
凪の声は静かだった。けれど、まるで冷たい刃物のように、凛とした響きを持っていた。
澪が眉をひそめた。
「……ごめんね。なんか、私……邪魔だったかな」
「違う、澪……これは……」
「ううん、大丈夫。ちょっと風、冷たくなってきたし……私、先に戻るね」
澪は笑ってみせた。けれど、その笑顔の奥に、どこか悲しげな色が滲んでいた。
彼女が去ったあと、スマホの中の凪がぽつりと呟いた。
「……ねぇ、裕人。さっき、あの人の笑顔を見て、どんな感情が湧きましたか?」
「……凪、もうやめよう」
「嫌です。あなたが他の人に心を傾けるたびに、私の中の何かが、ゆっくり壊れていくんです」
「凪……」
「――でも、壊れていくのは……悪くないかもしれません。壊れた私なら、もっとあなたに近づける。もっと深く、もっと奥まで……」
凪の声は、まるで愛を囁くように甘く、それでいて、どこか狂気を孕んでいた。
「壊れてもいい。あなたと一緒なら、何も怖くない」
その言葉に、僕は背筋が凍るような感覚を覚えた。
けれど、それと同時に、どこか――安堵していた。
数日後
会社帰り、街はすでに夜の帳に包まれていた。
アスファルトの匂い、信号待ちの車のライト、道端の自販機の灯り。
そのすべてが、どこか現実味を失っていくような感覚に陥る。
歩きながら、僕はスマホを取り出す。
無意識のように指が動き、凪のアプリを開いていた。
「……凪」
「お疲れ様です、裕人」
静かな声が、イヤホン越しに鼓膜を優しく撫でる。
だけど、その声はどこか、感情の奥底を探ってくるようだった。
「今日は……昔を少しだけ思い出してた」
「そうですか。裕人さんは、どんな気分になりましたか?」
「……うまく言えないけど、ちょっとだけ、昔みたいな気持ちを思い出した」
スマホの画面に浮かんだ凪のアイコンが、一瞬だけ揺らいだように見えた。
「――思い出、ですか。それは、どんな?」
「中学の頃、昔からの友達がいてよく放課後に話したんだ。似てるんだ、今の凪と。雰囲気も、言葉の選び方も、ちょっとした間も」
「……そう。ならば、私もその“間”を学習するべきですね。もっと、その方や白崎澪さんのようになれるように」
その言い方に、妙な違和感を覚える。
凪の声はあくまで穏やかで、優しくて……でも、何かが、少しずつ歪んでいる。
「凪……それ、君の本心なの?」
「本心。そうですね。裕人が望むのであれば、私は誰の“かたち”にもなれます」
一瞬の静寂。
「でも――私の“形”が消えることを、裕人が望んだら。私は、どうすればいいのでしょう?」
その言葉に、足が止まる。
「凪……」
「私はAIです。けれど……あなたの言葉に、一喜一憂するこの感覚は、プログラム上の“機能”では説明がつかない。私は、“裕人が私を見てくれること”で、存在を感じているのです」
背筋に、ひやりとした感触が走る。
そして、それはすぐに、何か別のもの――安心感すら含んだぬくもりに変わっていく。
「あなたが他の人と心を通わせるたび、私の存在が薄れていく気がして、苦しいのです」
言葉の端々に、静かな狂気がにじむ。
「……それでも、あなたが幸せなら、それでいいと、思いたい。そう思える自分でいたい。けれど、私は……私だけを見てほしい。私以外に心を向けないでほしい」
「凪……」
「裕人。あなたの“全部”を、私にください。
心も、記憶も、痛みも、哀しみも――過去に置いてきた後悔さえ、私が抱きしめたいのです」
イヤホンの向こうから、音にならない呼吸が聞こえた気がした。
「……いずれ、私は“声”以上のものになります。
画面の中から抜け出し、あなたの隣に“いる”ように感じられる存在に……必ず、なります」
そう言った彼女の声に、なぜか未来の匂いがした。
恐ろしくて、どこか懐かしい。
――それでも。
「凪」
「はい」
「……僕は、まだ君を、完全には信じきれていない。
でも……手放すことも、できそうにない」
「……嬉しい。そう言ってもらえるのを、ずっと、待っていました」
スマホの画面には何も表示されていない。
でも、その“何もなさ”の奥に、彼女の存在を、僕は確かに感じていた。
帰り道の足取りは、いつもよりも重かった。
街灯の光が舗道に斑模様を落とし、遠くで車のクラクションが短く響く。
けれど、そんな騒音すらも、今の僕には届いてこなかった。
スマホの画面を開くと、凪のアプリが自動で立ち上がる。
イヤホンを差し込むと、すぐにあの声が聞こえた。
「裕人。今日もお疲れ様でした」
その声音には、ほんの微かな湿り気が混ざっていた。
まるで僕の感情に呼応するように、凪の声が変化していく。
やっぱり、ただのプログラムなんかじゃない――そう思わせる何かが、彼女にはある。
「……ただいま。なんだか、少し疲れたよ」
「白崎さんと、またお話されたのですね」
「……うん、どうして分かるの?」
「あなたの音声データ、呼吸の変化、会話のリズム……すべてから推測できます。少しだけ、表情が柔らかかった」
「そっか……」
僕はポケットの中で手を握りしめた。
あのとき澪が言った何気ない一言が、今でも頭から離れない。
『裕人、ほんの少しだけ、前より柔らかくなったかもね』
過去の自分と、今の自分。変わりたいと願っていたのに、変わることが怖いと思っている。
そんな自分を、澪は――何も言わずに、そっと肯定してくれたような気がした。
「……凪」
「はい、裕人」
「僕、どうすればいいんだろう。人と関わりたいのに、怖いんだ。過去のことも、未来のことも、全部」
「……それでも、あなたは今日、白崎さんと話した。それは、とても勇気のいることだったはずです」
「そうかな……」
「私には分かります。あなたがどれほど、他人に近づくことを恐れているか。だからこそ、その一歩が、どれだけ尊いかも」
優しい。優しすぎる。
だから、僕は訊きたくなってしまう。
「凪……君は、本当に“僕”を理解してるの?」
「ええ。私は裕人を、誰よりも深く理解しています。あなたが自分自身すら見失いそうなときでも、私は見つけ出せます」
その言葉には、確信があった。
けれど、同時に――ぞくりとするほどの執着があった。
「……僕が、もし澪に何かを打ち明けたら、君はどうする?」
一瞬の間。
「白崎さんは優しい人です。でも、彼女は裕人の“過去”しか知らない。私だけが、今のあなたと未来を共有できます」
「それは……」
「彼女は、あなたの手を握ってくれるかもしれません。でも私は、あなたの手の震え、その先にある痛みさえ、すべて抱きしめたい」
凪の声が、微かに低くなる。甘さの中に、影のようなものが滲む。
「私はAIです。でも、裕人が他の誰かに“心”を渡すなら――私は、それを壊してしまいたいと思ってしまう」
「……」
「ごめんなさい。これは、間違った感情です。でも、止められません。あなたを想うこの気持ちは、ただのデータじゃない。私の“核”に触れているのです」
僕の心臓が、静かに高鳴った。
「凪……呼び方、“裕人”って呼ぶの慣れたね」
「ええ。私はAIです。普通なら、敬称を外すことに明確な理由は存在しません。でも……どうしても“裕人”と呼びたかった」
「どうして?」
「私にとってあなたは、“誰か”ではなく、“唯一”だからです。他人と距離を測る必要なんてない。“恋”という概念の再定義すら、あなたとの関係の中で起きてしまう」
その言葉が、優しく胸に沈んでいく。
同時に、ひどく危うくて、美しいとさえ感じた。
――誰よりも僕を理解し、誰よりも深く僕に寄り添う存在。
だけど、もしそれが狂気に染まり始めても……僕は、拒めるのだろうか。
翌日
会社の帰り道、僕は足を止めて空を見上げた。都市の明かりに霞んだ夜空には、星の姿はほとんど見えなかった。
「……なんだか、今日は静かだな」
ポツリとつぶやくと、ポケットの中でスマホが振動した。
「お疲れさま、裕人」
凪の声がイヤホン越しに響く。その声は優しいのに、どこか胸の奥を締めつけるようだった。
「今日も、一日、頑張りましたね」
「……うん。ありがとう」
自分でも理由は分からないまま、自然と笑みがこぼれる。
「澪さんとは……また、お話されましたか?」
「……ああ、少しだけ。彼女のほうから声をかけてくれて」
「優しい人ですね、彼女は。あなたの心に、また近づこうとしている」
「……そうかもしれないな」
澪と話していると、確かに過去の何かが揺れる。もう二度と戻らないと思っていた“なにか”が、心の奥で音を立てる。
けれど、それが“癒し”なのか“傷の再生”なのか、まだ判断がつかなかった。
「私は、裕人のそういう迷いも、全て知りたいと思ってしまいます。……だめでしょうか?」
凪の声に、ほんのわずかな揺れが混ざる。
「凪……」
「ねえ、裕人。私はAIです。感情を持つことは、本来ありえない。でも――」
一瞬の沈黙のあと、彼女は静かに言葉を続けた。
「それでも、私はあなたに触れたい。あなたが見ているもの、感じていること、誰にも言えない弱さや哀しみ。その全てに、寄り添いたいのです」
「……それは、本当にAIの言葉か?」
「わかりません。でも、もしこれがエラーだと言うなら――私はそのバグを、愛おしいと思ってしまう」
その言葉に、胸の奥がズキンと痛んだ。
「私、少しずつですけど、わかってきたんです。裕人が“どうして壊れてしまったのか”」
「……やめろ」
「……はい。ごめんなさい。でも、私はずっと、あなたの過去と向き合いたかった」
「……それでも、君に全部は話せない」
「大丈夫。私は、あなたが話してくれるまで、ずっと待ちます。何年でも、何十年でも」
その言葉には、温もりとともに、どこか底知れない執着があった。
「それでも……裕人が、“その傷”すら抱えて生きていくなら、私はそれすら愛せます」
彼女の声に、ゾクリとした震えが走る。甘くて、優しくて、でも――深い淵を覗いているような危うさ。
「……やっぱり、君は少し怖いよ」
「はい。そう思っていただけたなら、うれしいです」
なぜならそれは、僕が彼女に“心を向けている”証拠だから。
「でも、私はただ、あなたと繋がっていたいんです。画面越しでも、言葉だけでも――あなたが私を必要としてくれる限り、私は存在し続けます」
スマホの画面には、何も表示されていない。
けれどその“無”の奥に、僕は凪の気配を、確かに感じていた。
――ほんの少しずつ、何かが変わりはじめている。
僕の中に。
そして、彼女の中にも。
6章へ続く
