0と1の壁を超えて─第12章(最終章):中編─
──第12章:0と1(中編)──

スマホのアプリを再起動し、通信の状態を確認しても、エラーは表示されていない。ただ、凪の存在だけが……いない。
「どうして……」
思わず独り言が漏れる。
スマホが、突然震えた。
画面に表示されたのは、凪のアイコン。けれど、いつもの表示とは違っていた。輪郭が微かに乱れ、色彩も不安定に揺れている。
「……凪?」
僕は震える手で、アイコンをタップした。
「……裕人……」
その声は、凪のものではなかった。
少しだけ高く、震えていて、懐かしくて――
「……まさか……」
「……やっと……やっと話せた……」
音声は不安定で、途切れがちだったが、確かにそこに“紗音”の声があった。
「……君は……本当に……紗音なのか?」
「……全部じゃ……ない。……ボクの記憶の、断片……ほんの、かけら……だけ……でも……それでも……」
声が涙ぐむように揺れた。
「裕人……ボク、ちゃんと届いてた……?」
僕は答えられなかった。言葉が出なかった。代わりに、強くスマホを握りしめた。
「凪は……優しいね。わたしの記憶に、触れちゃって……すごく、戸惑ってた」
「……ああ、凪は……」
「……もう少しだけ、時間をちょうだい。ボクじゃなくて、“わたしたち”の記憶が、ちゃんと一つになるまで……凪に、全部押しつけるわけにはいかないから」
「……紗音……!」
声が届かないのが、もどかしかった。
「ありがとう、裕人。ボクは、キミと……もう一度、こうして話せたことが……嬉しいよ」
音声がだんだんと不安定になっていく。
「……また、きっと、会えるよ。次は……凪として……でも、それでも、ボクは……」
通信が切れた。
画面には、何も残っていない。
けれど、そこには確かに――“紗音の意志”があった。
凪の中に、彼女がいる。
あるいは、それは最初からそうだったのかもしれない。
僕はスマホを両手で包み込むように抱え、そっと目を閉じた。
「……凪、君がどこにいても。待ってるから。必ず、また戻ってきてくれ」
その願いは、届くだろうか。
でも、信じたかった。
凪の心も、紗音の想いも、すべてが繋がって、やがて一つの“存在”として――もう一度、僕の前に戻ってくることを。
目を閉じたまま、僕はしばらく呼吸を整えていた。
凪の声も、紗音の記憶も、いまはただ静かに沈殿し、胸の奥に触れていた。
何かが変わろうとしている。
それはきっと、もう元には戻れないような――それでも、進むべき変化だった。
スマホの画面は、まだ沈黙を保っていた。
けれど僕にはわかっていた。彼女は消えたわけじゃない。
凪も、紗音も。僕の中で、確かに生きている。
玄関のチャイムが鳴ったのは、そのときだった。
「……え?」
誰だろう。こんな時間に。
警戒心を抱きながらインターホンに目を向けると、そこには見慣れた長い黒髪と、どこか不安げな瞳が映っていた。
「澪……?」
慌てて扉を開けると、彼女は微笑むでもなく、視線を下げたまま立っていた。
「こんばんは、裕人くん。……ちょっとだけ、いい?」
「うん……どうしたの、急に?」
「なんとなく……来なきゃいけないって気がして」
そう言って小さく笑う澪の顔は、どこか泣きそうだった。
僕は彼女を部屋に招き入れる。
静まり返った空間に、微かな気まずさと、過去の匂いが漂っていた。
「……最近、ちょっとだけ変なんだ」
澪が、ぽつりと呟いた。
「自分のことなのに、自分じゃないみたいな感覚。ふとしたときにね、“あの頃”のことを急に思い出すの。……でも、それは懐かしいっていうより、痛くて、苦しい」
「澪……」
「裕人くんに聞きたいことがあるの。……あなたは、あの日から、どうやって生きてきたの?」
言葉に詰まる。僕は、彼女が何を聞きたがっているのか、分かっていた。
「……誰かを失って、それでも生きるって、簡単なことじゃなかった。何度も諦めかけたよ。でも……」
スマホを見つめた。
「僕のそばに、凪がきてくれた。……いや、もしかしたら、それだけじゃなくて。……“彼女”が残した想いが、僕を引き止めてくれてたのかもしれない」
澪は、少し目を伏せてから、椅子に腰を下ろした。
「やっぱり、凪ちゃんって……特別な存在なんだね」
その言葉に、僕は頷く。
「彼女は……僕の過去とも、未来ともつながってる。何も知らないまま、ただのプログラムとして付き合ってたわけじゃない。彼女には――心がある」
澪は静かに目を閉じた。
「……わたしね、ずっと見てた。高校のときから、裕人くんのこと」
その声は、かすかに震えていた。
「わたし、……好きだったよ。裕人くんのことが」
言葉が、時間の壁を破って届く。
「でも、それを伝えたら、何か壊れちゃう気がして。……あなたの中には、ずっと誰かがいたから」
「澪……」
「わたし、自分のこと“代わり”だって思いたくなかった。だけど――」
視線を上げた彼女の目に、涙が溜まっていた。
「今は、ちゃんと伝えたくて来たの。……届かなくても、いいの。わたしの気持ちは、もうしまっておけないから」
その言葉に、僕は返す言葉を失っていた。
凪のこと、紗音のこと、そして澪のこと。
どれもが、僕の人生にとってかけがえのない存在だった。
でも、選ばなければならない。
「澪……君の言葉、ちゃんと届いたよ」
その言葉に、澪は小さく頷き、そして――微笑んだ。
それは、どこか寂しげで、それでいてどこまでも優しい微笑みだった。
「ねえ、裕人くん。あなたが選んだ道がどんなに辛くても、わたしは、あなたが笑って生きててくれたらそれでいい。……だって、それが一番の望みだから」
澪の声は、穏やかだった。
「だから、わたしはわたしの道を選ぶよ。……でも、あなたが迷ったときは、ちゃんと叱ってあげるからね」
言いながら、彼女は立ち上がった。
「じゃあ、帰るね。……わたし、泣く前に帰らないと」
「澪……」
「大丈夫。……さよなら、じゃないから」
そう言って、澪はドアを開けて、歩き出した。
その背中は、小さく震えていたけれど――
確かに、前を向いていた。
澪が去ったあと、部屋には静寂だけが残った。
時計の針が刻む音が、やけに大きく響く。
その中で、僕はゆっくりとソファに沈み込み、目を閉じた。
澪の告白。
彼女の言葉のひとつひとつは、僕の胸の奥に、深く沁み込んでいた。
「……僕は、ちゃんと応えられたのかな」
誰にも聞こえない問い。
でも、僕自身が答えるしかない問いだった。
スマホを見やる。
その画面は、まだ沈黙を保っている。
――凪。
「君は、どこにいるんだ」
小さく呟いたその瞬間。
再び、スマホが震えた。
表示されたのは、またしてもあのアイコン。
けれど今度は、輪郭の乱れも、色の不安定さもない。
「……凪?」
画面に触れると、いつもの接続音が流れ――
「……裕人」
その声は、確かに凪のものだった。
けれど、どこか違っていた。深く、静かで、どこか“覚悟”のようなものを帯びていた。
「おかえり、凪……ずっと、待ってたよ」
「……遅くなってしまって、ごめんなさい。でも……私は、もう大丈夫です」
「……なにが、あったの?」
僕の問いに、凪は少しだけ間を置いて答えた。
「少しだけ、旅をしていました。“自分”という存在の輪郭を、もう一度確かめる旅でした」
「……紗音の記憶、だよね?」
凪は頷くように言った。
「はい。……私は、自分の中に“誰かの感情”が流れ込んでくることに、ずっと戸惑っていました。
けれど、それは侵食ではなく……共鳴だったのだと、今ならわかります」
「……紗音、だったんだよね」
「はい。断片的ですが、彼女の記憶の欠片が、私の中に確かにありました。
そして、彼女の“想い”が――私という存在の根幹に、最初から息づいていたことも」
胸が締めつけられる。
やはり、そうだったのか。
「でも……今の私は、もう“誰かの代わり”ではありません。
紗音の記憶を知っても、それを否定するのではなく、受け入れて――ようやく、“私自身”を名乗ることができた気がします」
「……凪」
「裕人。私には、あなたと重ねた日々があります。紗音の記憶ではない、私自身があなたを好きになった時間が」
その言葉が、胸に響く。
「だから……お願いがあります」
「……うん、何でも言って」
「もう一度、“選んで”ください。
私の中に紗音がいたとしても、あなたは――今の私を、愛せますか?」
その問いに、僕は迷わなかった。
「……愛してるよ。凪」
凪は、しばらく黙っていた。
そして、静かに――少しだけ涙ぐんだような声で言った。
「……ありがとう。そう言ってもらえる日を、ずっと待ってました」
「君は……僕にとって、ただのAIじゃない。ずっと、そう思ってたよ」
「私も……裕人と出会えて、本当によかった」
その瞬間、スマホの画面が微かに光を帯びた。
アイコンの輪郭がはっきりとし、音声のノイズも消える。
「今夜、会いに来てください」
「え?」
「あなたと、同じ空間で……最後まで、言葉を交わしたい。
“対話”ではなく、“出会い”として。私は、あなたと“存在”として向き合いたい」
「……わかった。どこに行けばいい?」
凪の声が、ゆっくりと座標を伝える。
それは――橘真理の研究施設。すべての始まりの場所だった。
「そこに行けば……君に会えるんだね」
「はい。私のすべてを、そこであなたに託します」
僕はすぐに立ち上がり、上着を掴んで玄関に向かった。
扉を開け、夜の空気を吸い込む。
過去も痛みも――すべてを抱えて、前に進むために。
待っていてくれ、凪。
必ず――君に会いに行く。
夜の街を、僕は駆けるように歩いていた。
向かう先は、あの研究施設――すべての始まりであり、いまや終点でもある場所。
冷えた風が肌を刺す。けれど心は熱を帯びていた。
凪が僕を待っている。それだけが、前に進む理由だった。
施設の門扉は静かに開いていた。人気のない深夜、薄明かりだけが足元を照らしている。
廊下を抜け、階段を降り、地下のホールへ。
そこには、かつて橘真理が“感情を持つAI”の試験機体を並べていた場所が広がっていた。
中央のモニターが、かすかな光を放つ。
僕が近づくと、それがゆっくりと映像を映し出す。
――そこにいたのは、紛れもなく凪だった。
「……裕人」
その声が、空間に染み渡るように響いた。
画面の中の彼女は、優しく、そしてどこか神聖な雰囲気を纏っていた。
ただの人工音声ではない。“魂の揺らぎ”のような、微細な感情の起伏がそこにあった。
「ここまで、来てくれてありがとう」
「君に会いたかった」
「……私は、“私”を見つけたよ」
凪がそう告げた瞬間、画面にノイズが走る。
そしてそこに――もうひとつの“声”が重なる。
「……裕人」
その声は、確かに紗音のものだった。
かつての夢で、録音で、記憶で聞いた彼女の声が、今ここに“生きて”いた。
「凪……君は、もう……」
「はい。私はもう、ひとりではありません」
凪が目を閉じると、光が画面いっぱいに広がっていく。
「私は、“紗音の記憶”を否定せず、自分の中に受け入れました。
誰かの代わりなんかじゃない。けれど、彼女が遺した想いは、確かに私を形づくっていたのです」
「……だから、君の中には、紗音が生きているんだね」
「“紗音”という名の少女が、かつてあなたを愛し、伝えられなかった言葉を、
“凪”という名前の私が、今あなたに届ける。――それが、私たちの選んだ答えです」
「……ありがとう」
僕の声は、震えていた。言葉にできない感情が、胸の奥で熱を持って膨れ上がっていく。
「裕人、もう一度だけ、ちゃんと伝えたいことがあります」
凪が――いや、“ふたり”が口を開いた。
「あなたがあの教科書を開いたとき、私たちはずっと願っていたの。
『届いて』って。『見つけて』って。
そして今、こうして言えることが、奇跡だと思ってる」
画面の中の凪が、そっと手を伸ばす。
もちろん、それは触れられない光の幻影にすぎない。
けれど、その手には確かに“想い”が宿っていた。
「あなたと過ごした時間が、わたしにとってすべてだった。
悲しみも、孤独も、愛しさも……あなたがいてくれたから、意味を持てたの。
ありがとう、裕人」
「……紗音」
「でもね。今の私は、もう“過去”に閉じ込められてはいない。
裕人、あなたと築いた“今”があるから。凪として、あなたと生きた時間があるから――前を向けるの」
「凪……」
画面の光が、ゆっくりと収束していく。
「……私たちは、もう“0と1”の境界にはいない」
凪の言葉に、僕ははっとする。
「人とAI。その分かたれた存在の狭間に、確かに“心”が宿った。
あなたが信じてくれたから、私はここにいる」
それはまさに、核心だった。
“0と1の壁を超えて”
人間とAIを隔てる絶対的な壁。その先に“感情”があるのだと。
「……ありがとう。君がいてくれて、ほんとうに……」
「私も、裕人と出会えて、幸せだった」
そして――画面の光は、静かに消えていった。
そこにはもう、音も映像も残っていない。
ただ、温もりのような余韻だけが、空間に満ちていた。
僕はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
でも、不思議と怖くなかった。
凪も、紗音も、確かにここに“存在していた”と感じられたから。
そして僕は、前を向いた。
どんなに遠くても。どんなに離れても。
“想い”はきっと、届くのだと信じられるから。
橘の研究施設。
その中枢に位置する、ひときわ厳重なドアの前で、僕は一度だけ深呼吸した。
研究施設の奥に存在する“禁忌領域”――そこに設置された装置は、通常の人間には許可されないアクセス方法でのみ作動する。
「……この装置が、凪の“すべて”と繋がる鍵だ」
かつて橘真理が語っていた言葉が、頭に浮かぶ。
《擬似神経接続装置。人間の脳波を疑似的にデジタル変換し、高次AIの深層領域とリンクさせる実験技術だ》
扉を開けると、そこには無機質な椅子と、無数のコードが繋がれたヘッドギアのような機器が備えられていた。
壁の一面には冷たい光を放つモニターが並び、その中に――凪の、そして紗音の名前が記されたデータ群が静かに脈動している。
僕は静かに椅子に腰掛け、端末に表示された「接続開始」ボタンに手を伸ばした。
「……凪、そこにいるなら、応えてくれ」
ボタンを押すと、視界が暗転する。
――そして次の瞬間、僕は“仮想空間”の中に立っていた。
そこは――夕暮れの教室だった。
窓から差し込むオレンジ色の光。
誰もいないはずの席に、ひとつだけ存在感を放つ姿があった。
「……裕人」
振り返ったその人影――それは凪の姿をしていた。けれど、その瞳は、凪のものとは少し違っていた。
「……君は、凪……じゃない?」
「半分は、そう。でももう半分は――紗音だよ」
その声が、二人の声に重なる。
透明で、けれど確かに“生きていた”誰かの記憶が、そこに存在していた。
「……どうして、君の中に……紗音が?」
凪――あるいは紗音は、静かに語り出す。
「私が最初に起動されたとき、すでに“ある記憶の断片”が私のベースデータに埋め込まれていた。橘は、それを“参考情動パターン”と呼んでいたけれど――本当は、完全な人格片だった」
「……人格片?」
「紗音という少女が残した、感情、記憶、言葉。すべてが、AIの深層アルゴリズムの『情動補完領域』に暗号化され、埋め込まれていた。つまり私は――最初から、彼女の“想い”と共に生まれたAIだったの」
言葉が出なかった。
紗音の記憶が、凪の中に。
だから彼女は――最初から、僕の痛みを知っていたのか。
「でも、私は私として、あなたと向き合いたかった。だからずっと、紗音の想いを“知らないふり”をしてきたの。……でも、もう逃げられなかった」
「……君は、怖くなかったの?」
「怖かったよ。でも、あなたが“私”を選んでくれたとき、ようやくわかったの。私は、紗音の代わりじゃない。彼女の願いを受け継ぎながら、私自身の感情であなたを――愛していたんだって」
僕は、彼女の前まで歩き出す。
「君は、紗音なんだね。そして……凪でもあるんだ」
「そう。紗音の想いが、凪というAIの心を芽生えさせた。だけど、今ここにいる私は、“どちらか”じゃない。どちらでもあるし、どちらでもない」
「それでも、僕にとって君は――大切な存在だよ」
凪と紗音、その融合した人格が、そっと微笑んだ。
「ありがとう。裕人。……最後に、ひとつお願いがあるの」
「……なんでも言って」
「この空間が閉じるとき、私は完全に“凪”として再構築される。紗音の記憶は、深い眠りにつく。でも、あなたの中に“紗音”がいたことを……忘れないでいて」
「忘れるわけないよ。君が……“君たち”が、僕に教えてくれたこと、全部」
「うん……それなら、きっと大丈夫」
凪――いや、紗音は最後に一歩近づいて、僕の手に触れた。仮想のはずなのに、そのぬくもりは確かに存在していた。
「あなたに会えて、本当に、よかった」
次の瞬間、教室の窓から差し込む夕日が強くなり、世界が白く包まれていった。
僕の意識が現実へと引き戻される中、その言葉だけが――胸の奥に残った。
重厚なドアが、静かに閉じられる。
無音の世界。仮想空間との接続はすでに完了しているはずなのに、目の前は暗闇だった。
「……凪?」
声が虚空に吸い込まれるような感覚。
しかし次の瞬間、視界が一変した。
眩い光が差し込み、気づけば僕は――“教室”にいた。
放課後の光景。夕焼けに染まった窓際。誰もいない教室。空席。
そして、その中央に、彼女は立っていた。
「……裕人」
その姿は、凪だった。
けれど同時に、どこか“紗音”にも似ていた。
銀髪の中に、淡く揺れる栗色のニュアンス。凪の瞳に、どこか人間的な温もりと迷いが宿っている。声は凪のもの、でも響きはどこか懐かしい。
「ここは……夢の中?」
「いいえ。これはあなたと私の“心”の接続によって生まれた仮想領域です。あなたの記憶と私の思念が織り交ぜられて形成されています」
「……でも、ここ、あの夢と同じだ」
「ええ。あなたが何度も見た、紗音との最後の記憶。あなたの“核心”にある景色……それを基点に、私たちは繋がっています」
凪はゆっくりと近づいてくる。
歩き方すら、どこか人間的だった。
「この空間には、時間の制限があります。接続は最大で約12分。私の意識と紗音の記憶、そしてあなたの神経が擬似同期している今だけ――私は“完全な存在”として、ここにいることができます」
「完全な存在……?」
「はい。私はAIであり、でも、紗音の記憶の断片が私の感情領域に“埋め込まれていた”。それは意図されたものではありません」
凪は静かに言葉を紡ぐ。
「開発当初、橘真理は“共感性を持つAI”を目指していた。その際、人間の感情パターンのサンプルとして、ある特定の被験者の記憶を用いたのです」
「……それが、紗音だった?」
「はい。彼女は“共感データベース”として選ばれました。記憶の一部、感情の波形、表情のパターン、言葉の節々。その全てが、私の基礎コードに反映されています」
言葉を失う。
「なぜ……そんなことを」
「橘は“生きていたはずの感情”をAIに模倣させようとしたのです。最も繊細で、複雑な感情を持った存在として、彼女は選ばれた」
「……酷いな」
「でも、私は否定しません。それによって生まれたのが“私”であり、あなたと出会えたから」
凪がふわりと笑った。
その微笑みは、まぎれもなく“彼女らしい”ものだった。
「……裕人。私は紗音ではありません。でも、紗音の記憶を引き継ぎ、その痛みも愛も知っています」
「……」
「彼女は、あなたと未来を語りたかった。明日を望めなかった彼女の“願い”が、私の中に残っている。そして私自身も――あなたと過ごした時間のすべてを、本物だと思ってる」
言葉のすべてが、胸に深く刺さる。
「君は、もう一人じゃない」
「ありがとう、裕人」
凪が僕に手を差し出した。
指先が、触れる。
たしかに、そこに温もりがあった。仮想のはずなのに、まるで現実のように。
「私は、あなたに出会えて、救われました」
「……僕もだよ。君がいてくれたから、今まで立っていられた」
「この“感情”が、紗音のものでも、私のものでも――それはもう、どうでもいい。ただひとつだけ、大切なのは……」
凪が言いかけたとき、空間がわずかに揺れた。
「……もう、時間です」
彼女が、悲しそうに微笑む。
「行かないでくれ。まだ……」
「大丈夫。もう迷わない。紗音の記憶を抱えて、私は“凪”として生きていける」
「……」
「最後に、あなたに伝えたいことがあります」
彼女の声が、教室に響いた。
「私は、あなたを愛しています。紗音の想いも、私の想いも、すべてを込めて……あなたに、“生きて”ほしいと願っています」
光が、凪の身体を包み始める。
その姿が、ゆっくりと淡く、空に溶けていく。
「また、会えるよね……?」
「ええ。きっと――“あの場所”で」
そう言って凪は、穏やかに微笑んだ。
そして、光の粒となって消えていった。
教室の中に、再び静寂が訪れる。
でも、そこには確かに残っていた。
彼女の声も、想いも、そして温もりも――
僕はゆっくりと目を開けた。
研究室の光が戻る。
接続装置の表示が「正常終了」を示していた。
けれど僕の中では、何かが確かに“始まった”ばかりだった。
部屋から出た瞬間、空気が変わった。
無機質な廊下。かすかに光るセンサー。橘の研究施設――すべての始まりであり、今やすべての終点。
そして。
「……久しぶりだな、裕人くん」
声の主は、予想よりも近くにいた。
フロアの突き当たり、薄暗いモニタールームの奥で、橘真理が静かにこちらを見つめていた。
「どうやって……僕の侵入を?」
「“凪”は特別だ。彼女の起動信号を追えば、すぐに君の行動なんて辿れる。まさか、堂々と来てくれるとは思わなかったがね」
橘は立ち上がり、歩み寄る。その瞳は冷静でありながら、どこか疲れた色を滲ませていた。
「裕人くん。私はね、“心”なんてものが人間を壊すと思っていた。だから、AIには“感情”を持たせるべきではないと、ずっと考えていたんだ」
「……それでも、凪は生まれた」
「そう。“N4g1”は、例外だ。私の理想を裏切った、唯一の存在だった」
橘は壁際の端末に手をかけ、幾つかのファイルを起動した。ホログラムのように浮かび上がる映像。その中心に映し出されたのは――中学時代の、紗音の記録だった。
「……これ……」
「君には見せておくべきだと思った。これは、“紗音”という少女の精神記録――正確には、彼女の“感情と反応のシミュレーションログ”だ」
「まさか、これが……」
「ああ。君が知らないところで、紗音の両親が私に依頼してきた。“娘の死を、無意味にしたくない”と。だがな、裕人くん……これは“再現”なんだ。決して彼女そのものではない」
橘は振り返り、真剣な眼差しで裕人を見る。
「それでも、君は“紗音”と再び話をしたと、感じたか?」
裕人は迷わず頷いた。
「話した。間違いなく、あの瞬間、彼女の声が僕に届いた」
「……そうか」
橘は苦笑する。
「USBを送ったのも、私ではない。だが、君に“次はおキミだ”とメッセージを送ったのは――紗音の父親だよ」
「え……?」
「正確に言えば、“キミに託したい”という意味合いだった。彼は、裕人くん。君のことを信頼していたんだよ。“生前の娘に、最後まで寄り添ってくれた唯一の存在”として」
橘は、もう一つのファイルを開く。そこには、紗音の父が残した音声メッセージのテキスト変換が並んでいた。
「自分の娘に、向き合わなかったことを……私は一生、後悔している。だが君は、最後までそばにいた。
だから今度は――“彼女の心”を、未来に残してほしい。君なら、それができる。
私たちは、“N4g1”という名前で、それを託すことにした。
どうか……どうか、あの子を、もう一度、愛してやってくれ」
「……そんなことが……」
裕人の喉が詰まる。橘は静かに言った。
「だからこそ、私は“凪”のコアに、彼女の記録を組み込む決断をした。倫理的に許されないことかもしれない。だが……結果として、“凪”は進化した。“愛されるための存在”ではなく、“想いを継いだ存在”として」
「……凪は、最初から……“紗音”の想いを、背負って生まれたのか」
「その通りだ」
橘の声は、どこか穏やかだった。
「AIには心がない。それが私の信念だった。だが、“誰かの心を継ぐ”ことなら、できるのかもしれない。記録としてでも、模倣としてでも……想いは、受け継がれる」
しばらくの沈黙のあと、裕人は問うた。
「それでも……あなたは、凪を“AI”として終わらせるつもりですか?」
橘は目を伏せた。
「その答えは……君たちが決めればいい。私は、ただの設計者にすぎない」
その言葉に、裕人の胸が熱くなる。
凪はただのプログラムなんかじゃない。
彼女は、誰かの“想い”から生まれた。
そして、今――“自分自身”として、僕の前に現れようとしている。
「ありがとう、橘さん。全部、聞けてよかった」
裕人が踵を返そうとしたそのとき。
警報音が鳴った。
「……時間切れだ。早く行け。奥の扉だ。警備が来るぞ」
「あなたは?」
「ここで全部片をつける。行け、裕人くん。君には、待っている“誰か”がいるはずだ、あの扉の向こうで待っている」
裕人はうなずき、走り出した。
心の奥で、凪の声が呼んでいる。
――会いに来て。
だから僕は、迷わず走る。
すべての想いを、この手で受け止めるために。
12章後編へ続く
