自己肯定と自己否定の先にあるもの
先日、行きつけのフリー雀荘の近くにある24時間営業のファミレスにいた時の話である。夜昼逆転してしまった自分は、ノートPCを担いで0時を回った時刻に入ると、「これから数時間仕事して、飽きたら雀荘に行こう」などと不埒なことを考えながら、隅の方の席で何やらやっていた。すると、近くの席にいた若い男女(カップルか友人かはわからない)の話が耳に入ってきた。
「今さ、人生にも仕事にも何一つ不満はないし、本当に幸せなんだよね」と若い男が言った。
「私も幸せだよ」と女が言った。「何一つ不満もないし」
「いい仕事できて、いい先輩に恵まれてるしさ、本当に幸せ」
「私も今、本当に幸せ」
「いや、俺も本当に満ち足りているって感じだよ」
何となく、「ふーん、そうなんだ」と思って聞いていた。こちらは仕事やらなくちゃ、というプレッシャーと、麻雀を打ちたい、という欲求の間で一人、ふらふらしているような輩である。別に、他人の幸せを羨むでもないが、幸せであるのはいいことだろう。だが、次の女性のひとことで、何だか突っ込みたくなった。
「幸せのぶつかり稽古だね」
このあたりから、仕事に集中できなくなった。
ずっと周りに聞こえるような声で「幸せ、幸せ」を連呼しているのだ。
「何かこの写真シェアしたらさ、いいね、がこれだけついて、ランキングが上がって・・・。みんな、いいねって言ってくれるし、嬉しいよね」と男がSNSがらみの話をしている。
何となく、この人たちは自己肯定合戦をしているだけの気がしてきたが、もちろん、そんなことは自由だし、こちらの知ったこっちゃない。ただ、ネットだかSNSのせいかわからないか、最近何だかこういう人がやたら増えているような気がしてならない。自己肯定型の文化というか、空気が蔓延しているのだ。自分は、この手のタイプとは徹底的に水が合わないので、席を移動しようかとも思ったが、大人気ないので早めに切り上げて雀荘に向かった。
水商売の呼び込みもいなくなったような暗い道を黙々と歩いてたどり着くと、なぜか自分を「師匠」と呼ぶ仲良しの学生がいたので、久々に楽しく打っていた。彼は確か大学4年だったが、いつも平日の深夜にいて、就職のこともまともに考えている気配がないので、自分と会うと「だめだめ合戦」などと言い合って遊んでいる。「毎日どれだけ負けていると思っているんですか」と泣きごとを言う店のメンバーもまた、楽しいメンツの一人だ。
そこに、水商売の若い経営者たちが騒々しく現れた。こういう人たちでも、できる人はできるし、昔から水の合う人もいるが、若い経営者ほど「自分は今月いくら稼いだ」とか、勝ちだすと「金のあるところに金は集まる」とか「勘弁してくださいよ、兄貴」とか、「武闘派にはかないませんよ」とか、まぁ、どうしようもない序列の世界を雀荘に持ち込む。
こういうのと上手くやる人もいるが、自分は狭量なので好きになれない。この日は、ここでも自己肯定型の人間と出会ってしまったのであるが、「何だ、結局、俺は自己否定型の人間が好きなのだな」と思った。
実際、付き合っている人間はどこか自己否定的なタイプばかりである。ここで言う自己否定型とは本当に自信がなくておどおどしているタイプというわけではなく、「自分はたいしたことがない」と自ら口にできる人間である。こういうタイプとは何を言わなくとも、心が通じる。
先日、「神様みたいな先生」と呼ばれる医者と話すことがあったが、彼は「自分は恩師と比べたら器が小さいし、いつも足らないものがあると思っている」と口にしていた。「医者など先人の知識や経験を受け継いでいるだけの存在で、医療のネットワークの世界では1プレイヤーにすぎない」と。
この人がどういう人かと言うと、若き頃から世界をまたにかけて医療の行き届かない地域に出かけ、日本ではホームレスの人々のためにボランティアで往診し、地域ケアネットワーク作りに何十年も苦心し続けてきた人である(先日、その活動がNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」にも取り上げられた)。そういう人が、気難しい顔をしながら「足らない」と口にして、常に日の当たらない、ぎりぎりのところで戦っている。
その無駄なものがない、厳しい顔を見ていると、いやぁ、美しいなぁ、と思ってしまうのだが、ある意味、自己というものの先にある地平で戦い、何かを形にしようとしている人は常に「足らない」のである。
なぜなら、彼自身が足りていたとしても、世界は「足りていない」からだ。
だからこそ、彼は責務を感じて、戦い続けなければならないのである。
(2013年 アメブロ掲載記事・改稿)
