見出し画像

【短編小説】『使われなかった運命』


それは、引き出しの奥にしまわれたままの書類のようだった。

毎朝同じ時間に起き、同じ電車に乗り、同じ席に座り、同じコンビニで同じコーヒーを買った。
人生に文句があるわけじゃない。
ただ、感想もなかった。

38歳。
独身。
特別な夢も、強い後悔もない。

ある夜、帰宅すると郵便受けに
見慣れない封筒が入っていた。
差出人は空白。
宛名だけが、妙に丁寧な字で書かれている。

「田中 恒一 様」

中に入っていたのは、薄い紙が一枚。


お客様の運命が、期限切れとなりました。


意味が分からず、しばらく眺めた。
冗談だろう
と笑おうとしたが、なぜか喉が動かなかった。

翌日から、世界が少しだけ変になった。

朝からセットの靴下が1つも見つからない。
自動販売機で、違う飲み物が出てくる。
会社で提出した企画書が、「出してないこと」になっている。

誰に言っても、相手は首をかしげるだけだった。


三日目の夜、玄関の前に一人の男が立っていた。
スーツ姿で、手には分厚いファイル。

「運命管理局です」

男は淡々と説明した。

人には、生まれた時にいくつかの運命が割り当てられる。
使われるものもあれば、使われないまま期限を迎えるものもある。

田中の運命は、そのほとんどが未使用だった。

「大きな選択を避け続けた結果ですね」

男はファイルを開いた。
そこには、無数の分岐点が書かれていた。

・声をかけるはずだった人
・やるはずだった仕事
・断るはずだった頼み
・言うはずだった本音

すべて、「何もしなかった」未来。

「で、どうなるんですか」

田中は聞いた。

「消えます」

男は即答した。

「使われなかった運命は、世界に影響を与えない存在として処理されます。
あなた自身は残りますが、意味はなくなります」

怖さは、不思議と湧かなかった。
ただ、少しだけ寂しかった。

「回避方法は?」

男は少し考えた後、こう言った。

「今からでも、一つ使えばいい」

「運命って、そんな簡単なんですか」

「簡単です。ただし――」

男はファイルを閉じた。

「失敗する可能性も、傷つく可能性も含めて使われます」

沈黙の後、田中は頷いた。

その翌朝、彼はいつもと違う電車に乗った。
いつもと違う席に座り、
いつもなら話しかけない隣の人に、声をかけた。

内容はどうでもいい話だった。
天気のこと。
電車の混み具合。

会話はすぐ終わった。
特別なことは何も起きなかった。

それでも、その夜、郵便受けには新しい封筒が入っていた。

一件、使用確認。

それだけだった。

世界は何も変わらない。
田中の人生も、相変わらず地味だ。

ただ一つ違うのは、
彼が時々、立ち止まるようになったことだ。

使われなかった運命は、確かに存在した。
けれど、使われ始めた運命は、今も静かに増えている。

それだけで、十分だった。

いいなと思ったら応援しよう!