なぜnoteを書き続ける人に共感するのか。私が一生noteを続けたい理由
なぜ私は、
Facebookでもなく、Instagramでもなく、
noteを書き続ける人に、これほど強い共感と同志感を覚えるのだろう。
それはきっと、
noteには「人生そのもの」が、どうしても滲み出てしまうからだ。
華やかな成功談だけを切り取る場所ではない。
うまくいかなかった日の沈黙も、
言葉にできないまま立ち尽くした夜も、
それでも朝が来て、今日を生きてしまう人間の姿も、
すべてが、そのまま残ってしまう。
noteを書き続けている人の文章には、
人生の苦難や葛藤が混じっている。
仕事がうまくいかなかったこと。
人間関係に疲れたこと。
自分が何者なのかわからなくなったこと。
それでも、今日を生きているという事実。
それらを、
「よく見せよう」とも
「賢くまとめよう」ともせず、
ただ、今の自分の温度で言葉にしている。
そこには、見栄も、衒いもない。
あるのは、生きている途中の感情だけだ。
だから私は、
noteを書き続ける人の文章を読むとき、
「読者」ではいられなくなる。
評価する側でも、
消費する側でもなく、
ただの「同じ時間を生きている人間」になる。
ああ、この人も、今日を生きている。
それでも、書いている。
それでも、立ち上がろうとしている。
そう感じた瞬間、
胸の奥で、小さな揺れが起きる。
人生は、
思っていたほど劇的ではない。
ほとんどは、
誰にも見せない日常の積み重ねだ。
迷いながら、
揺れながら、
答えの出ない問いを抱えたまま、
それでも朝を迎える、その繰り返し。
noteには、その現実がある。
だからこそ、
noteを書き続けている人に、私は同志感を覚える。
励まし合うためでも、
競い合うためでもない。
ただ、
同じ時代を、
同じように不完全なまま、
それでも今日を生きているという事実を、
互いに黙って差し出している。
私はこれからも、
noteと共に生きていく。
うまくいく日も、
何も書けない日も、
言葉が軽くなる日も、
重く沈む日も。
それでも、
今日を生きた証として、
今日の自分の言葉を置いていく。
誰かに評価されるためではなく、
称賛を集めるためでもなく、
ただ、
生きている自分を、
置き去りにしないために。
だから私は、
一生、noteを書き続ける。
そして、もしあなたも今日、
同じように言葉を置いているのなら。
私たちはきっと、
同じ方向を向いて、
この人生を歩いている。
苦難や葛藤が、
日常の奥で見え隠れしていても。
それでも今日を生き、
それでも自己を表現しようとする。
だって、
そんな日々の積み重ねこそが、
私たちの人生そのものだから。
それでも今日を生きていく。
それでも、今日も書き続ける。
ああ、共に、この人生を
今、この瞬間も、
お互いに、生きている。
そう心の底から感じられるから、
私は、noteを書き続ける人に、
同志感を覚えるのだろう。
言葉を灯しながら。
宮沢賢治の詩のように。
天豆(てんまめ)
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
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