「noteが続かないかもしれない」と思った日に。私が一生、noteを書き続けたい理由
おはようございます。
天豆(てんまめ)です。
書きたい気持ちは、ある。
けれど、言葉がうまく出てこない。
心を込めて投稿しても、思うように届かない。
「このまま、noteを書き続けられるのだろうか」
そんな不安が、ふと胸をよぎる。
長くnoteを書いている方にも、始めたばかりの方にも、そんな日はあるのではないでしょうか。
私にも、あります。
何を書けばよいのか分からなくなる日も。
心を込めて書いた記事が、思うように届かず、悔しくなる日も。
書くことが、いつの間にか「やらなければならないこと」へ変わり、自分の言葉から少し遠くへ行ってしまう日もあります。
それでも私は、きっと一生、noteを書き続けます。
なぜ私は、
Facebookでもなく、Instagramでもなく、
noteを書き続ける人に、これほど強い共感と同志感を覚えるのだろう。
それはきっと、
noteには、その人の「人生そのもの」が、どうしても滲み出てしまうからです。
華やかな成功談だけを切り取る場所ではない。
仕事がうまくいかなかった日の沈黙も。
人間関係に疲れ、誰にも会いたくなくなった夜も。
自分が何者なのか分からなくなり、立ち尽くした時間も。
それでも朝が来て、今日を生きている人の姿も。
すべてが、少しずつ言葉の中に残っていく。
きれいにまとまっていなくても。
何かを完全に乗り越えた話でなくても。
答えの出ていない問いを抱えたままでも。
その日の自分の温度で、
「私は今、こんなことを感じている」
と、そっと言葉を置いている。
そこには、完成された成功者ではなく、
今を生きている途中の人間がいます。
だから私は、noteを書き続ける人の文章を読むとき、ただの読者ではいられなくなるのだと思います。
評価する側でも、
消費する側でもなく。
同じ時代を、同じように不完全なまま生きている、一人の人間になる。
ああ、この人も今日を生きている。
迷いながら。
傷つきながら。
それでも、自分の中にある何かを、言葉として残そうとしている。
そう感じた瞬間、胸の奥に、小さな灯がともります。
私は2020年にnoteを始めてから、6年以上、言葉を置き続けてきました。
映画を観て、心を揺さぶられた夜のこと。
K-POPや韓国ドラマに、子どものように夢中になったこと。
旅先で出会った景色。
家族と歩いた何気ない道。
18年間を一緒に生きた猫との時間。
二人の息子と、受験を越えた年月。
ADHDの特性に苦しんだこと。
うつや適応障害を経験し、会社員として働くことができなくなったこと。
そこから、言葉を仕事へ育ててきたこと。
振り返れば、ずいぶん多くのことを書いてきました。
記事を累計で300万回以上読んでいただき、noteから講座や相談、コンサルへと、ご縁も広がりました。
けれど、最初から、すべてが一つの目的へ向かっていたわけではありません。
「この記事から、何を売ろう」
「このテーマは、どれだけ収益になるだろう」
そう考えて書いたものばかりではありませんでした。
家族と散歩をしていて、ふと幸せを感じたこと。
映画の中の、誰かが殻を破る瞬間に涙があふれたこと。
過去の自分を思い出し、
「あの頃の私は、本当はこう言ってほしかったのかもしれない」
と気づいたこと。
今日は、こんなことを思った。
この気持ちは、忘れたくない。
そんな、まだ形にもなっていない心の動きを、言葉として残してきました。
ほんの小さな日記のような言葉が、少し丁寧に見つめることで、エッセイになることがあります。
そのときは気づかなかった喜びが、何年かあとに読み返したとき、もう一度、自分を温めてくれることがあります。
苦しみながら書いた言葉に、
「あの頃の自分も、確かにここを生きていた」
と、教えられることもあります。
noteは、誰かへ届ける場所であると同時に、
変わり続ける自分の心を、言葉にしながら見つめていく場所でもあるのだと思います。
書くことが、自分の心の整理になる。
癒しになる。
生きてきた時間の中に、もう一度、価値を見つけることになる。
うれしかった日の喜びを残し、苦しかった日の自分を置き去りにしないことになる。
言葉を綴ることそのものが、少しずつ自分の心の滋養になっていく。
noteはいつしか、発信するための場所ではなく、
生きてきた自分を、何度でも迎えに行ける場所になりました。
そして、その言葉を誰かが読んでくださる。
「心に響きました」
「自分のことを言われているようで、涙が止まりませんでした」
「この記事を読んで、もう一度やってみようと思いました」
そんな言葉をいただいたとき、私はいつも、不思議な感動を覚えます。
自分の中で生まれた感情が、言葉になり、誰かの心へ届く。
自分の感受性が、読んでくださった方の感受性と、見えないところで響き合う。
会ったことのない誰かと、
「私たちは、同じような痛みを知っているのかもしれませんね」
「それでも今日を生きていますね」
と、言葉を通して静かに確かめ合う。
それは、数字だけでは測れない、なんとも言えない幸福です。
ああ、生きている。
自分の人生も、誰かの人生と、確かにつながっている。
そう感じさせてくれる。
いつしかnoteは、私にとって、発信のための場所だけではなく、生きがいの一つになっていました。
だから、noteを書く目的が、収益だけになりすぎると、私は苦しくなるのだと思います。
もちろん、収益を望んでいい。
私も、言葉を仕事にし、家族を支え、これからの人生をつくっていきたい。
自分が届けた価値が、感謝の対価として戻り、仕事として循環していくことは、とても尊いことです。
けれど、すべての記事が、何かを売るための文章でなくてもいい。
心を動かされた映画について、夢中になって書く日があっていい。
家族と過ごした小さな幸せを、忘れないために残してもいい。
誰にも見せられなかった過去の痛みを、今の自分が静かに抱きしめ直すように書いてもいい。
今日の空を見て感じたことを、ほんの数行だけ置いてもいい。
そうした一つひとつが、
「私は、こんなふうに世界を見ている人間です」
という、その人にしか書けない物語になっていきます。
そして、その物語に心を重ねてくれる人が現れる。
人はやがて、記事だけではなく、
その奥で生きている人の言葉を、もっと読みたいと思うようになる。
それが、noteの大きな魅力なのだと思います。
書くことに疲れたとき。
何を書けばよいか分からなくなったとき。
「もうnoteを続けられないかもしれない」
と思ったとき。
どうか、すぐにご自身を責めないでください。
あなたの中から、言葉がなくなったわけではありません。
読まれることや、結果を出すことを考え続けるうちに、ご自身の心の声が、少し聞こえにくくなっているだけかもしれません。
そんなときは、
「何を書けば読まれるだろう」
と考える前に、
「私は今日、何を感じていただろう」
と、ご自身へ戻ってみてください。
最近、心が動いたことは何だっただろう。
本当は、誰に聞いてほしかったのだろう。
あの頃の自分へ、今ならどんな言葉を渡せるだろう。
うまくまとめなくていい。
誰かの役に立つ結論を、急いで出さなくてもいい。
まだ揺れている心を、揺れているまま見つめてもいい。
あなたには当たり前に思える人生の一場面が、
同じ場所で立ち止まっている誰かにとって、
「私だけではなかった」
と思える言葉になることがあります。
私は、受講生や相談者の方と向き合う中で、何度もその瞬間を見てきました。
ご本人が、
「ただ苦しかっただけです」
「失敗ばかりの人生でした」
「人に伝えられるようなことは何もありません」
と思っていた時間の中に、
同じ場所で立ち止まっている誰かの孤独を、少し軽くする言葉が眠っている。
その人生を丁寧にたどり、
まだ言葉になっていなかった思いを一緒に見つけたとき、
「私の人生にも、意味があったのかもしれない」
と、その方の表情や声が、ふっと変わる。
私はその瞬間に立ち会うたび、
言葉の仕事をしていてよかったと、心から思います。
もし、ご自身の中にある言葉を、もう一度見つけたい方。
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私は、これからも書き続けます。
たくさん読まれる日も。
思うように届かず、悔しい日も。
何も書けない日も。
言葉が次々とあふれる日も。
書き続けるとは、毎日休まず投稿することではないのだと思います。
何度、言葉から離れても。
何度、数字や誰かの正解に心を奪われても。
また、自分の人生へ戻ってくること。
そして、そのときの自分にしか書けない言葉を、もう一度置いてみること。
その繰り返しです。
年齢を重ねるほど、私たちの人生には、言葉に残したい時間が増えていきます。
出会った人。
別れた人。
大切にしてきたもの。
手放したもの。
若い頃には分からなかったこと。
今になって、ようやく許せるようになったこと。
noteは、そんな自分の変化を、人生の長い時間の中で見つめていける場所です。
十年前の自分には書けなかった言葉を、今の自分が書く。
今日の自分が残した言葉を、十年後の自分が読む。
そうして言葉とともに年齢を重ねていくことは、きっと、とても豊かなことだと思います。
私は、人生の最後まで、
そのときの自分の心を、言葉として残していきたい。
誰かに評価されるためだけではなく。
称賛を集めるためだけでもなく。
生きている自分を、置き去りにしないために。
そして、その言葉が、いつか誰かの心へ届いたなら。
同じ時代を生きるその人と、
「今日も、ここにいますね」
と、静かに確かめ合いたい。
それでも今日を生きていく。
それでも、今日も言葉を置いていく。
ああ、共に、この人生を。
今、この瞬間も、
お互いに、生きている。
そう心の底から感じられるから、
私は、noteを書き続ける人に、同志感を覚えるのだと思います。
そして私は、一生、noteを書き続けます。
言葉を灯しながら。
最後に。
私が、言葉を置き続ける人の姿を思うとき、心に浮かぶ詩があります。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』です。
こんなふうに生きられたら。
こんなふうに、誰かのために言葉を置けたら。
その願いを胸に、今日も書きます。
天豆(てんまめ)
雨ニモマケズ
宮沢賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
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南ニ死ニサウナ人アレバ
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ホメラレモセズ
クニモサレズ
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