サロン楽屋話074:テニスは、説明しない──池波正太郎が嫌った「言葉の多い芸術」から考える上達論
シャアの速さに、フェデラーの美しさに、言葉は要らない。池波正太郎は「言葉の多い芸術」に違和感を示した。通底するのは、語らない美学。テニスも本来、そういうものだろう。これは上達論であり、「説明しない指導」の話。
▶池波正太郎が覚えた違和感「説明する芸術」
NHK『日曜美術館』放送開始50年特集は「私の愛する印象派」がテーマでした。
アーカイブ映像で振り返る。
招かれたゲストの池波正太郎さん曰く、「最近の芸術は、言葉で説明しすぎる」と述べられていました(正確な文字起こしではありませんのでご容赦ください、以下同)。
▶言葉で説明できたらアウト──芸術の正体
AIに聞いてみると、池波の発言は、次のように整理できます。
「本当の芸術というものは、言葉で言い表せるものではない」
「言葉で説明できてしまうのなら、それは芸術ではない」
うーん、落語のオチを、事前に聞かされるようなものでしょうか……。
では、本当の芸術とは?
池波は、次のような2点を伝えました。
1.言葉で言い表せない。
2.他人と違う自分だけが生み出すもの。
これはまさに、「テニス」ではないでしょうか。
▶テニスは芸術だ──だから「ミュート観戦」したくなる
テニスは芸術。
言葉を介さず「感じる」ものです。
詳しい人は、解説やアナウンスを聞かないために、テレビで観戦するときはあえて「ミュート(消音)」にする場合があります。
選手のプレーを見て、何をどう感じるかは、本来、解説者やアナウンサーに教えてもらうのではなく、見る人自身が「感じる」もの。
だって試合会場で見ていたら、それが「リアル」ですからね。
自分で「感じる」ところに、池波の言う芸術性があるのだと思います。
▶ハートは説明しない──クエルテンが残した「余白」
プレーヤーのプレーが、何かを物語っています。
池波の文脈になぞらえて言うと
「芸術は説明がつくものではない。『こういう意図で作りました』と作家が先に言うのはおかしい。見る人が感じる余地をなくしてしまう」
ということなのです。
今、若いテニスファンにとってブラジル人テニス選手といえばフォンセカなのかもしれませんね。
その前に忘れてはならないのが、ブラジル人として97年に初めてグランドスラムを制したクエルテン(関連記事「日本で広まり始める『オープンスタンス打法』」)。
彼は01年全仏オープン4回戦と決勝戦の勝利後、レッドクレーに巨大なハートを描き、その中央に身を横たえました。
これの意味するところは?
解説者が「このハートマークは愛の象徴で ……」などと言葉にするならば、興覚め。
それはオーディエンスが、それぞれに何らかの意味を感じ取るものではないでしょうか。
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