見出し画像

「ブリジット」上陸

まだまだ頭と心は日本にいる私だが、土曜日の午後に携帯電話が鳴った。
見たことのない番号に首をかしげながら出ると、電話の向こうで「アロー、カラクサ?」と声がする。

「どちらさまでしょうか」

「きゃー、あなたまだここに住んでいたのね!! 今あなたの家から数キロのところにいるのよ! 今から行くわ!」

全く話が見えないので、再び声の主にどちら様であるか確認したところ、逆切れ気味の声が電話口から聞こえてきた。

「ブリジットよ!」

……。

ああ、あのブリジット!

時を今から6年ほど前に戻すと、まだエルサレムに住んでいたころ、フランス出身の彼女と知り合った。そこまで親しかったわけではないので、特に個人的な話をたくさんしたわけではない。ただ、共通の友人がいたため、顔を合わせることは多かった。こっちで言う「知り合い」といったところか。引っ越してから携帯メッセージで連絡をとったのは2度ほどだった。

そのブリジットが、6年後の土曜日の今、電話口の向こうで今からあなたの家に行くからと言っている。20代の息子も一緒なので紹介したいと言う。「行ってもいい?」ではなく「行くから」であった。ちょっと待ってくれ、どういう状況なのだと話を聞くと、ちょうどイスラエルの家をリフォームしているので、その間パリにおり、そんなときにアメリカにいる息子たちともスペインで合流することになったからマドリードに来たが、飽きてきたので南に下ることにし、南スペインを車で走らせているときに、そういえばこのあたりに唐草がいるではないかと思って懐かしくなり電話したという。いろんな国名や地名が次々に出てきて情報が全く頭に入ってこず、2度ほど聞いた。

とても嬉しかった。覚えていてくれたのだなあと感激し、興奮気味に近況を伝え合う。ただ、その日は急ぎの仕事があったため、是非会いたいので翌日はどうかと提案した。

「だめ! 今からじゃないと。明日はどこにいるかわからない。あなたが会いたくないなら私はもうこの町を通り過ぎちゃうわ。だから、あなた次第よ」

思い出した。ブリジットはイスラエル人でもありフランス人でもあるが、その上お嬢様だった。しかし、なぜ今言うのだ、せめて昨日電話してくれれば!、と言うと、だって南スペインと唐草という点がつながったのが今だったから! と言う。

そしてもう一つ思い出したのは、エルサレムにいたころ常に自分が正しいということを主張せねばならず、主張はつらいが主張をしないと後でもっと大変なことになるということだった。頭の中で一気によみがえってきたもう一つのてんやわんやの記憶……。

私の中では、納期直前に海外に住む知り合いから突然連絡があり、20分後に現れるから時間を作れ、まあそうだな2時間ぐらい出てこい、と言うのはいささかめちゃくちゃじゃないかと思うのだが、彼女の中では、わざわざ自分が南スペインを通るわけだ、それなのに唐草はそんな自分のために時間を作らないひどい奴だという主張が出来上がりそうになっている。

ああ、バラガン。

頭がくらくらしてきたが、納期を遅らせてもらうこともできない。どうしたものかと思っていたら、「そんなに大変なら、明日まで待ってあげてもいいけど」と彼女が言う。どこまでも強気だが、台風のように現れたことを一応は自覚しているらしかった。ごめんね、予定を変更してくれてありがとう!! と言いながら、いつの間にか彼女のペースに巻き込まれている自分に気付く。うっかり謝ってしまったではないか! ああ、これですっかり彼女のペースになってしまった。


そんなわけで一旦仕切り直しとなり、翌日の午後に会うことになった。

会うまでもまたてんやわんやがあったが、書くだけで疲れるので省略する。夫は途中から「私は逃げますよ?」と言った。

久しぶりに会ったブリジットは以前と少しも変わらずとても美しく、パリの風(そんなものがあるのかわからないが)をまとっており、ドレッドヘアの息子もかわいかった。

「ちょっとした台風だったでしょ、私! でもこうやって会えたじゃない!」

ウインクをしながら話すブリジットに、そうだそうだ台風だと言いながら、なんだかんだ言ってエルサレム時代の知り合いに会えるのは嬉しいものだった。一通り近況を報告しあい、共通の友人の話をしたり、当時の思い出話に花を咲かせたりと、とてもよいひと時を過ごすことができた。

じゃあそろそろ次の町に行くわ! と、風をきって車に乗り込むブリジット。飽きたらまた戻ってくるかもしれないけど、この町特に何にもないじゃない、とってもさみしいわと最後にちょっと余計な一言を放った。その日は日曜日で、スペイン(特に田舎)ではお店も何もかも閉まっている。夫は多少気分を害していたが、ブリジットには勝てないので唇をとがらせて私の方を横目で見るのみだった。あとで紅茶を濃い目に淹れてやることにしようと決めた。

「あと数週間はスペインにいるから、また連絡するかもしれないわよ! 覚悟しといて」

「わかった! ただし、そのときは当日じゃなくて、事前にね!」

「ぎゃはは!!」


台風「ブリジット」は一旦この町を離れ、次の町を目指して去っていった。軽やかなステップを踏みながら。

台風一過、ぐったりとした私たちは濃い目に淹れた紅茶を飲み、台風「ブリジット」についてしばらく話した後、ああエルサレムよとかの地に思いを馳せた。

後日、エルサレムの友人にブリジットのことを話したら、「あなた、まともに対応するからじゃないの。バラガンだったわね、お疲れさま!」と返ってきた。

かの地では大抵のことは「バラガン」の一言で片付く。バラガンとは、混沌である様や、ぐちゃぐちゃなどという意味で、つまりめちゃくちゃということである。



いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集