Aくんのオランダデビュー
ここ数日、冬かと思うような天気が続いている。
5月ももう下旬だというのに、今週はフリースで過ごしている。
昨夜など、震えるほど寒かった。
布団乾燥機をまた出してこないといけないだろうか。
昨日は朝からちょっと低空飛行だったが、配達に来たお兄さんの一言で気持ちが上向きになった。
「おいおい、スペイン語うまいことしゃべってるな君!」
自分の名前とそのスペル、マイナンバーカードのようなものの番号をそらんじただけだったのだけど、こういうときにほめてもらうのは悪くない。
「ありがとうございます!よい一日を!」
「おお、君もなあ!!」
その後、散歩に出かけたら、帰りにアパートの下の階に住むペピに会った。
彼女はちょうど仕事に行くところだった。
「また後でね!」
そう言いながら、肩をぽんと叩いてくれる。
こういうちょっとしたことがあたたかいなあと思う。
そういえば、先日彼女と服を交換したのだが、これはまた別の話。

共有エリアに(勝手に)植えたパプリカかピーマン。
ぐんぐん育っている。
レモンの木の鉢の中でのこの堂々とした存在感。
◆
さて、Aくんがオランダから帰ってきた。
この人は普段メッセージどころか宿題すら送ってきたためしがないのだけど、オランダハイだったのだろうか。先日は、宿題や休みの人への連絡をする用のメールボックスがAくんのメールで埋まった。
「こんにちはー!今日はクラスに参加できません!どうしてですか?(※クラスでは私やほかの学生さんが「どうしてですか?」と聞くが、メールなのでAくんが一人二役をしているのだと思われる)それは、私が今オランダにいるからです!!!」
「こんにちはー!今日はイベントの練習に参加できません!どうしてですか?それは、私がまだオランダにいるからです!」
「こんにちはー!明日は私の誕生日です!!!オランダで誕生日です!おめでとうって言ってもいいですよ!来週はクラスに行きます!」
日本語で全部書いていることと、休みの連絡をしてくる(この町の人にしては珍しい)のはえらいなあと思いながら、オランダを目いっぱい楽しんできてくださいと返事をした。

何度も書くが、これはレモンの木の鉢。
◆
先週、オランダから無事に帰ってきたAくんがクラスに来た。
クラス開始とともにZoomの画面を開くと、スーツ姿で前髪をジェルでばりばりに固めて横に流したAくんがいた。腕まで組んでいる。まるで、『ちびまる子ちゃん』の花輪くんじゃないか。
あ、違うクラスに入ったかな私、と思い、思わず画面を閉じそうになった。
「え、Aくん?!」
「ひさしぶりですねえ!!!うふふふう!!」
彼の恰好とそのとんでもなく高いテンションに、ほかの学生さんたちが画面の向こうで早くも軽く引いているのがわかる。
「お帰りなさい」と言ったはいいが、何からコメントしていいかわからずにちょっと考えていた私にAくんが言う。
「唐草、何か忘れていませんか?」
5秒ほど考えて、思い出した。
「そうでしたね!すみません。メールでも書きましたが、改めてお誕生日おめでとうございます」
満足したのだろう。
苦しゅうない、を意味するようなジェスチャーとともに、Aくんはほかの学生さんたちにも同じことを要求している。
彼らには何のことかわからない。
「ええとですね…。Aくんは、最近誕生日だったんです。だから、おめでとうと言ってほしいみたいですよ」
「…おめでとうございます」
「おめでとうございます…」
ほかの人たちがどれだけ引いていようが気にしない。
実にマイペース。
こういうところがAくんをAくんたらしめるところなんだろう。
最初は驚いていた私も、だんだんこのペースに慣れてきてしまった。
それはそうと、なぜスーツなのか、その髪型はどうしたのか。
学生さんたちから質問が飛ぶ。
スーツを着ている理由は、コスプレ用のスーツが今朝届いたので、せっかくだからクラスで着てみようと思ったから。
アニメのキャラクターがどうとか言っていたが、ほかに気になるところがあまりに多すぎたのと、ちょっとめんどくさかったのでこのあたり詳しくは聞いていない。
花輪くんみたいな髪型は、最近髪が伸びてきて、後頭部が鶏のトサカみたいになっているため。トサカはさすがに恰好悪いから、苦肉の策としてジェルで全部固めてみたとのことだった。前髪のインパクトが強すぎて、誰もトサカには目がいかない。そういう意味では成功だろうなと思った。

元気をもらう色だ。
ーー
ところで、ジェルで固めるといえば、私も最近まで、あれはもみあげというのだろうか、耳の横の毛が横向きに生えていた。つまり顔から外側の方向にだ。どうしてですか?それは、私がもみあげを誤って自分で切ったからです。
中学生の頃、もみあげは短い方がいいとなぜか思ったらしい私は、はさみでもみあげを切った。それ以来、伸びてくると、短いうちはもみあげが横向きに生えることに気付き、これはまずいと数週間ごとに切っていた。誰にも気付かれていないと思っていたが、大学生の頃「なあ、もみあげ切ってるよなそれ?変やで」と友人に言われ、やめた。一般的に見て変だということがわかったからだ。
そんなどうでもいい話を思い出した。しかしそれから20年ぐらいたって、また同じことをやってしまった。ここ数カ月は、横向きに生えたもみあげをジェルで固めピンで固定するという日々が続いていた。彼らを顔から90度ではなくまっすぐ下に垂らすために。
こういう時間の無駄というか、意味のない行動の連続で私の生活は成り立っているように思う。
ーー

こんなに育っているとは知らなかった。
そして、ここはアパートの玄関部分です。
「ちょっと大人みたいですね」
高校生女子ががんばってAくんの髪型をほめている。
「そうでしょう。私もそう思っているんですよ。ありがとう」
肝心のオランダはどうだったのか。
とってもとっても楽しかった!!!
「とっても」と言うとき、Aくんはぎゅうと目をつぶった。
彼の「楽しかった」レベルの大きさが想像できた。
街はきれいだし、みんな優しいし、オランダ人はみんな背が高い!!!
一人か二人はそこまで高くなかったけど、それ以外はみんな高い!
こういうときの「みんな」って面白いなあと思う。
かくいう私も「みんなまだ宿題やってないから大丈夫!」、「みんな今日はステーキやって!」などと言って「みんな」を大変に広い意味で使っていた子どもの一人だった。「みんな」の自由な使い方は万国共通なのかもしれない。
以下、Aくんのオランダ土産話を日本外国特派員協会でのインタビューのような形式でお届けしたい。
最初に断っておくと、普段のAくんは「それが中学生のものいいか」というような話し方をする。その言葉遣いはスペイン語でも日本語でも非常に独特なので、ほかのクラスの学生さんたちは「ああ、あのまだ小さいけど学者みたいな」とAくんを形容する。
そしてこのあたりが、本人がいつも言う「僕は学校中の先生から煙たがられていますからね」となっている所以かもしれない。

8年間手が出せないでいる。
どなたかご存知ですか。
「自転車はどうでしたか」
「あはははは。聞きますか。皆さんあまり知りたくないと思いますがね。大変な思いをしたんですよ。2回自転車から落ちましてね。1回目は道で、2回目は川に落ちたんですね。みんなは大笑いですよ。全く。何にも面白くないのに失礼なこと極まりないですね」
幸いなことに、Aくんにけがはなかったらしい。
「オランダの学校はどうでしたか?」
「授業はオランダ語でしたからね。僕たち授業は受けていないんです」
「スペインの学校と比べてどうでしたか」
「まあ、同じでしょうね。言葉が違うだけでね」

ちょっと顔のように見えてきて、こわくなった。
「オランダで何を買いましたか」
「いっぱい買い物をしましたよ!」
彼の「いっぱい」は次のようにあらわされた。
キーホルダー5個
マグネット数個
アムステルダムと書かれたTシャツ1枚
このあたりは中学生らしさが溢れていてかわいい。
「クレジットカードを使ったんですか?」
「いえ、そんなものは持って行きませんでしたよ」
「じゃあどうやって買い物したんですか。オランダはみんなクレジットカードなんですよね。大丈夫でしたか?」
「いや、カードは申し込んだんですよ。でも、僕の町じゃあ受け取れないっていうじゃないですか。カードを受け取るには、大きい町の銀行に行かなきゃいけなかったんです。でもね、そんな時間も気持ちの余裕も出発前にはありませんよ!だから、現金だけ持って行ったんです」
「え!じゃあ現金が使えたんですか」
「いえいえ、さすがクレジットカードの国です、オランダは。現金なんぞほとんど使えませんよ!美術館に入るにしても、現金を受け付けてもらえなかったんですから。皆さん、美術館ですよ、美術館!想像してみてください」
「じゃあどうしたんですか?!」
「ふふふ、まあ簡単なことですよ。クラスメートに現金を渡して、僕の分のチケットをカードで買ってもらったというわけです。これで全てクリアできましたね、買い物も。大したことではありません」
田舎の中学生が外国で大量の現金を持ち歩いている様子を想像し、勝手に心配した。無事に帰ってきて本当によかった。
先日デンマークから帰ってきた高校生たちも、クレジットカードでは苦労したそうだ。幸い、日本語クラスに来ている学生さんはお父さんが銀行勤務のため、クレジットカードの使い方も知っていた。しかし、彼女の同級生たちは知らない。はじめてのクレジットカードに右往左往し、どのタイミングでカードを財布から出すのだ、どこにカードをかざすのだ、暗証番号ってなんだとてんやわんやだったらしい。また、予め設定していた利用限度額の上限に初日で達したため、限度額を上げてもらうようスペインに電話をかけていたそうだ。予想していた限度額は、きっとスペインの物価で想定したものだったのだろう。涙なしには聞けない話だ。
ああ、スペイン!

そう夫が言って、写真を送ってくれた。
確かに『ドラゴンボール』のシェンロンに見えなくもない。
あるいは、『まんが日本昔ばなし』の竜か。
土産話ももう終わりかという頃、何かを思い出したのかAくんの目がらんらんとしている。
「皆さんにこれだけは言っておきます」
「何ですか」
みんなわくわくしている。
「オランダ人は、オランダの女性は…、オランダの女の人は…」
「オランダの女性がどうしたんですか」
「きーーーーれいですねえええーーー!!!」
画面の向こうが一瞬にして凍り付いた。
誰も何も言わない。
空気を読まないAくんは、その後、オランダの高校生たちがいかに美しかったかをえんえんと語り続けた。
14歳、お年頃なのはわかるが、その発言はどうだったろうなあ…。
さあどうしよう。
「でも、スペイン人も皆さん素敵ですよ」
「まあそれはそうかもしれません。でも、私にはわかりませんよ、唐草。スペイン人なんて毎日見ているんですから。私にとっては同じヨーロッパとはいえ、オランダは外国。その人々の、特に女性の美しさといったらもう!」
このようにして、クラス全員を敵に回すことに成功したAくんは、その後も彼独特の語り口でオランダ賛美を続けた。
誕生日には、ホストファミリーがケーキを焼いてくれたこと。食べ物がとてもインターナショナルだったこと(クスクスやピザが出たらしい)、オランダ語を少し教えてもらったこと、日本語でも話したこと、日本語はやっぱり自分の方が上だなと確信したことなど。

今回のオランダ行きで、Aくんはいろんなことを吸収したに違いない。
一番忘れてはいけないことが「オランダの女性はきれい」、というのはどうだろうと思ったが、まあこれもオランダハイの影響だろう。
そんなわけで、オランダに行く前に70ユーロでわんわん泣いていたAくんは、ちょっと大人になって帰ってきた。ジェルで固めた前髪と、たくさんのお土産とオランダ人女子への憧れとともに。
オランダハイが少し落ち着いたら、Aくんは何を思うだろうか。
今週、Aくんは期末試験の準備に追われていて日本語のクラスに来られなかった。テストが終わったら、また話を聞いてみたい。
改めて、Aくんお帰り!
