5分SF|においのない終
父の葬儀で、泣いた人間は一人もいなかった。
それは、悲しくなかったからではない。
悲しむ場所が、なかったのだ。
新幹線の中で、村瀬拓也は黒いネクタイを締めた。
品川を出たのが十四時十二分。母からのメッセージは一昨日の十一時に届いていた。「お父さん、今朝。苦しまなかったよ。」句点のあとに、桜の絵文字がひとつ。
拓也は三十六歳。都内のコンサルティング会社で働いている。父とは三年会っていなかった。特に理由はない。忙しかった。正月は海外にいた。盆は仕事だった。理由はないが、理由がないことが、理由になっていた。
車窓の景色がトンネルに消えた。拓也はスマートフォンを見た。葬儀場から通知が来ていた。
「村瀬正雄様のメモリアルセレモニーの準備が完了しました。到着時に個人IDをご提示ください」
葬儀場は、美術館のようだった。
白い壁。間接照明。BGMはピアノの小曲。空調が完璧に管理されていて、どこからともなく上品な花の香りが漂っていた。百合だろうか。清潔で、甘くて、どこにも引っかからない香り。受付でスマートフォンをかざすと、「ご遺族様」と表示され、会場の扉が開いた。
正面の壁に、父の顔があった。
幅八メートルのスクリーンに映し出された、村瀬正雄の人生。
生まれた日。小学校の運動会。高校の卒業式。入社。結婚。拓也が生まれた日。家族旅行。昇進。退職。孫の誕生——拓也の姉の子だ。庭に花を植えている写真。犬の散歩。
写真はすべてAIによって選定され、補正されていた。色褪せたものは鮮やかに。ピンボケはシャープに。背景に写り込んだ不要なものは消されていた。時系列は美しく編集され、穏やかな音楽に合わせて、スライドが流れていく。
拓也は、それを見ていた。
何も感じなかった。
何も感じないことに、違和感すら覚えなかった。
姉の弥生が隣に座った。
「きれいにまとめてくれたね」と弥生は言った。
「うん」
「お父さん、こんなに写真あったんだね」
拓也はうなずいた。だが、何かが引っかかっていた。何が引っかかっているのか、まだわからなかった。
スクリーンの中の父は、常に穏やかに笑っていた。家族旅行の写真では日焼けした腕で幼い拓也を抱いていた。退職記念の写真ではネクタイを緩めて、同僚と乾杯していた。庭の写真では膝をついて土を触っていた。
どの写真も、美しかった。
参列者は四十二人。会社の元同僚、近所の人、親戚。全員が受付でIDをかざし、スクリーンの映像を見て、静かに手を合わせた。
焼香はなかった。代わりに、一人ずつ小さなタブレットの前に立ち、故人へのメッセージを入力する仕組みだった。AIがメッセージの文面を整え、誤字を直し、適切な敬語に変換してくれる。
拓也はタブレットの前に立った。
「お父さん、」と打った。
続きが出なかった。
AIが候補を表示した。
「長い間お疲れ様でした。あなたの生き方は、私たちの誇りです」
「いつも見守ってくれてありがとう。安らかにお眠りください」
「たくさんの思い出をありがとう。天国でも元気で」
どれも、正しかった。どれも、間違っていなかった。
拓也は三番目を選んで、送信ボタンを押した。
セレモニーは一時間で終わった。
参列者は出口で小さな紙袋を受け取った。中にはAIが故人の写真から生成したアート作品がポストカードになって入っていた。父の庭の花を印象派風にアレンジしたもの。裏には「村瀬正雄 1947-2026 穏やかに生きた人」と印刷されていた。
拓也はそれを胸ポケットにしまった。
母は疲れが出て、叔母に付き添われて先に叔母の家へ向かった。
姉が聞いた。「実家、寄ってく?」
「うん」
「私は子どもの迎えがあるから、先に帰るね。鍵はポストの中」
拓也は一人で、タクシーに乗った。
実家の玄関を開けた瞬間、懐かしい香りがした。
カビ。タバコ。線香。古い畳。湿った木。味噌汁の残り香。それらが混ざり合った、甘くて酸っぱくて重い空気が、拓也の鼻腔を満たした。
葬儀場の百合の香りとは違う。あちらは誰のものでもない香りだった。ここにあるのは、父のにおいだった。
靴を脱いだ。廊下の床が軋んだ。葬儀場の床は軋まなかった。すべてが平らで、滑らかで、無音だった。ここは違う。ここには、音があった。重さがあった。
居間に入った。
テーブルの上に酒瓶が三本。二本は空で、一本は半分残っていた。安い焼酎だった。ラベルが剥がれかけている。横にコップがひとつ。底に茶色い輪染みがついている。
台所のシンクには、洗い残しの茶碗が二つ。片方にはご飯粒がこびりついていた。もう片方は、たぶんインスタントの味噌汁を入れていた。ステンレスが少し錆びていた。
冷蔵庫を開けた。賞味期限の切れた豆腐。半分使ったチューブの生姜。マヨネーズ。瓶入りの梅干し。ビニール袋に入った病院の薬。
葬儀場のスクリーンには、これらは映らなかった。
仏間に入った。
古い箪笥の上に、父の遺品らしいものが段ボール箱にひとまず集めてあった。母が整理を始めたのだろう。
箱を開けた。
一番上に、手帳があった。革の表紙がすり減って、角が丸くなっている。開いた。
字が震えていた。
最初のページは比較的読めた。日付と、簡単な日記。「腰が痛い」「弥生から電話」「庭の紫陽花が咲いた」。
ページをめくるにつれて、字は崩れていった。線がまっすぐ引けなくなっている。文字の大きさが揃わない。途中でペンが止まった跡がある。力を入れ直した跡がある。
九月のページに、こう書いてあった。
「たくやに でんわ した。 でなかった」
その文字は、右に傾いていた。震える手で、一画ずつ、刻むように書かれていた。「した」と「でなかった」の間に、ボールペンが止まった跡があった。考えていたのだ。書くべきかどうかを。
拓也はそのページを見ていた。
スクリーンの中の父は笑っていた。ポストカードの父は花に囲まれていた。AIが選ばなかった父が、ここにいた。字の震え。インクの滲み。改行できなかった行。日付のない空白のページ。
これが死だ、と拓也は思った。
補正されない。選定されない。BGMもつかない。ただ、ここにある。畳のにおいと一緒に。
手帳の最後のページには、何も書かれていなかった。
正確には、何か書こうとした跡があった。ボールペンの先が紙に触れた点がひとつ。それきり。
父はその日、ペンを持ち上げることができなかったのだ。
あるいは、書く言葉がなかったのだ。
あるいは、その両方だったのだ。
拓也はその点を、親指でなぞった。紙の窪みを感じた。確かにここに力が加わった。ほんの一瞬。最後の一瞬。
スクリーンでは、それは映らない。ポストカードには、それは印刷されない。AIは、それを「データ」とは認識しない。
だが、それは確かに、父が生きた最後の痕跡だった。
拓也は手帳を閉じた。
仏間の畳に座ったまま、しばらく動けなかった。
泣いていた。
声を上げて、泣いていた。
葬儀場では出なかった涙が、カビとタバコと味噌汁のにおいの中で、止まらなかった。
翌朝、拓也は東京に戻った。
新幹線の中で、ポストカードを取り出した。印象派風の花。「穏やかに生きた人」。
拓也はそれをしばらく見てから、胸ポケットに戻した。代わりに、父の手帳を鞄から出した。
開かずに、両手で包んだ。すり減った革の表紙。丸くなった角。
拓也はその手帳に、顔を埋めた。
タバコと、インクと、かすかな汗。
大好きだった親父が、そこにいた
5分SF
今日より少し先の未来を、5分で。
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