5分SF|いきの音
上司の声が消えたのは、去年の春だった。
課長の田嶋がデスクの横に立って、何かを言っていた。口が動いていた。眉間に皺が寄っていた。右手に持った資料で、翔太のデスクを小刻みに叩いていた。
翔太は適切なタイミングで頷いた。田嶋の口が閉じた瞬間、視界の右下に透過テキストが浮かび上がった。
HUSHの発言要約だった。
「報告書の第三四半期売上に誤差あり。修正して本日中に再提出」
了解です、と翔太は言った。
声は自分の耳にだけ聞こえた。
HUSHは第七世代のインナーイヤーデバイスだ。
鼓膜の手前に密着する透明なフィルムで、外からは見えない。二〇四一年に標準化されてから、つけていない人間のほうが珍しくなった。
初期設定はシンプルだった。
工事音を消す。
電車の走行音を消す。
カフェの雑踏を消す。
不快な音をカットし、必要な音だけを届ける。ミュートした音声は自動でテキスト化され、網膜の隅にリアルタイムで流れていく。
聞かなくても、内容は把握できる。
翔太が設定を変え始めたのは、三年前だ。
最初は電車内の咳払いだった。
冬の通勤電車で、隣の男がずっと咳をしていた。視線を空間の隅へ送り、「咳・くしゃみ」のトグルをオフにした。
翌朝から咳は消えた。
快適だった。
次は、隣席の同僚のキーボード音。カタカタと底打ちする音が、翔太の集中を削いでいた。
「特定人物の生活音」をミュートリストに追加した。
消えた。
そこから加速した。
後輩の笑い声。
向かいの部署の電話応対。
給湯室の噂話。
エレベーターの到着音。
自販機が硬貨を吐き出す音。
一つ消すたびに、別の音が気になった。
田嶋の声をミュートしたのは、自然な流れだった。
月曜の朝礼。金曜の進捗確認。同じことを繰り返す声。
ミュートにしても視界の端で要約が読める。
聞く必要がなかった。
何も困らなかった。
HUSHの第七世代には、個人の声紋を登録できる機能がある。
声紋を自動認識し、特定の人間の音声だけを遮断する。
翔太は最初に課長の田嶋を登録し、次に後輩の山本、それから取引先の担当者を三人。
人の声を消すことに、最初は少しだけためらいがあった。
でもすぐに慣れた。
口の動きと表情で、話の温度はだいたいわかる。詳しい内容は視界に流れる要約を確認すればいい。
むしろテキストのほうが明確だった。
感情が乗らない分、情報だけが残る。
翔太の生活は静かになった。
朝、目が覚める。
HUSHが自動で起動する。
世界がフィルタリングされる。
許可された音だけが耳に届く。
アラーム。
スマートフォンの通知。
通勤電車は無音だった。
オフィスも無音だった。
翔太の一日は、自分が選んだ音だけで構成されていた。
彼女の声をミュートしたのは、十一月だった。
結衣が怒っていた。
食器を洗いながら、早口で喋っていた。
翔太はソファに座り、まばたきもせずに結衣を見つめていた。
結衣の声が耳に刺さった。
内容はいつもと同じだ。
あなたは仕事の話ばかり。
私の話を聞かない。
たまには週末に出かけたい。
結衣の声紋は、同棲を始めた日にHUSHが自動登録していた。翔太は彼女の頭上に浮かぶトグルを見つめた。
五秒ぐらい考えた。
切り替えた。
結衣の口が動いていた。眉が上がって、下がって、また上がった。手が食器を置いた。翔太のほうを見た。
何かを言った。
翔太は頷いた。
あとで視界のログを遡った。
網膜に残った要約にはこう書いてあった。
「週末に出かけたい。最近二人の時間がない。このままだと不安」
翔太は要約を読んで、「今度の土曜空けとくよ」とメッセージを送った。
結衣から既読がついた。
返信はなかった。
静かだった。
結衣がいなくなったのは、年末だった。
荷物が消えていて、鍵がテーブルに置いてあった。
メモが一枚。
読んだ。
内容は予想できたものだった。
翔太はメモを捨てて、コーヒーを淹れた。
部屋は静かだった。
結衣がいた頃と変わらなかった。
最後の二ヶ月間、翔太は結衣の声を一度も聞かなかった。
彼女がいなくなっても差がなかった。
差がないということが、少しだけ引っかかった。
でもその引っかかりも、翌朝には消えていた。
春になって、翔太はミュートリストを見直した。
三百十二項目。
「人物声紋:四十七名」
「環境音:八十四種」
「機械音:六十一種」
「生物音:三十九種」
「気象音:十二種」
「その他:六十九種」
鳥の声が消されていた。
いつ登録したか覚えていない。
雨の音も消されていた。
雷も。
風も。
猫の鳴き声も。
HUSHの学習機能が、翔太のストレス反応を検知して自動追加した項目が百以上あった。
翔太が不快に感じる前に、HUSHが先に消していた。
ホワイトリスト——聞こえる音のリスト——は、三つだけだった。
「アラーム」
「自分のスマートフォンの通知音」
「自分の名前」
緊急音の割り込みは、半年前に解除していた。
街中では誤検知が多すぎた。
翔太は三つの音だけで構成された世界に住んでいた。
六月の金曜日。
午後七時。仕事が終わった。
翔太は駅前の横断歩道に立っていた。
信号が青に変わった。
翔太は歩き始めた。
右の車線から、トラックが赤信号を無視して交差点に突っ込んできた。
すべてが同時に起きた。
交差点の四方でクラクションが鳴った。
対向車線の乗用車が急ブレーキを踏み、タイヤが路面を擦る音が響いた。
歩道にいた女性が悲鳴を上げた。
後ろにいたサラリーマンが「あんた、危ない!」と叫んだ。
自転車のベルが連打された。
ガードレールに誰かがぶつかった音がした。
トラックの運転手がクラクションを鳴らし続けていた。
交差点は音で溢れていた。
警告の音。
恐怖の音。
金属と摩擦の音。
人間の声。
すべてが一斉に、必死に、叫んでいた。
翔太は歩いていた。
クラクションは「交通音」に分類されていた。
ブレーキ音は「不快音」だった。
悲鳴は「未登録者の声」だった。
翔太の耳には、何も届かなかった。
世界が必死に叫んでいた。
翔太だけが、静かだった。
信号は青だった。
翔太は正しく横断歩道を渡っていた。
前を向いて、背筋を伸ばして、いつもと同じ歩幅で。
静かな世界を、まっすぐ歩いていた。
5分SF
今日より少し先の未来を、5分で。
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