5分SF|洗面所
---
鏡の中に、赤ん坊がいた。
---
洗面台に湯を張って、母が赤ん坊を沐浴させていた。
赤ん坊は泣いていた。母はガーゼを絞り、額を拭き、頬を拭いた。
鏡に二人が映っていた。
母は鏡を見ていなかった。
赤ん坊だけを見ていた。
---
いちご味の歯磨き粉。
泡だらけの口で「いー」と笑った。前歯が一本、足りなかった。
校庭から帰って、蛇口をひねり、冷たい水を顔にたたきつけた夏。
額のニキビを潰した朝。
前髪を右に流して、左に流して、また右に戻した朝。
初めてワックスを買った日。雑誌の写真と見比べて、全然違って、結局すべて洗い流した日。
---
鏡の前でネクタイを結んでいた。
三回やり直した。
洗面台の棚に、父のひげ剃りがあった。電動ではない。T字の、銀色の柄。二十年以上使っているものだった。
それを手に取った。
シェービングフォームを頬に塗り、ゆっくり剃った。
小さく切った。
血が一筋、顎を伝った。ティッシュで押さえた。
鏡の中の自分にうなずいた。
大丈夫だ。
---
鏡の前に、二人で立っていた。
結婚式の朝だった。
彼女がまつげを整えていた。狭い洗面所で肩がぶつかった。
「邪魔」
「お前が邪魔だ」
二人で笑った。
一人で見ていた鏡に、誰かが映っている。
それだけのことが、少し嬉しかった。
---
踏み台が増えた。
娘が二歳になった。歯磨きを嫌がり、泡だらけの口で泣いた。
鏡の中に、三人が映っていた。
---
白髪が三本あった。
抜こうとして、やめた。
娘はもう家にいない。
妻もいない。
洗面所は静かだった。
歯ブラシが一本。シェービングフォーム。櫛。
蛇口をひねった。
水を両手ですくって、顔にたたきつけた。
七歳の夏と同じことをしていた。
あの頃は気持ちよかった。
今は、冷たいだけだった。
鏡を見た。
水滴がまつげに残っていた。
涙なのか、水なのか、わからなかった。
うなずいた。
大丈夫だ。
---
老人は鏡の前に立っていた。
髭を剃っていた。
震える手で。
何十年も繰り返してきた動作だった。身体が覚えていた。
剃り終えた。
タオルで顔を拭いた。
鏡を、もう一度見た。
洗面台の縁に手を置いた。
タイルが冷たかった。
四十年前に、自分で貼ったタイルだった。目地が少し曲がっている。妻に笑われた。
老人は、洗面所の電気を消した。
---
映像が巻き戻った。
老人の顔から皺が消えていく。頬に肉が戻り、髪が黒くなる。
娘が小さくなった。
妻が隣に戻ってきた。
ネクタイを結ぶ青年になり、ニキビのある中学生になり、前歯のない四歳児になり——
赤ん坊に戻った。
画面が引いた。
---
テレビだった。
司会者がカメラに向かって微笑んだ。
「さあ、いかがでしたか。——これ、全部、夢の中なんです」
背景が切り替わった。
白い施設。
天井から吊り下げられた透明なポッドが、ぶどうの房のように密集して並んでいる。
数百。
数千。
ポッドの一つ一つに、老人が横たわっていた。
目を閉じて。
穏やかな呼吸で。
「弊社の『ライフリプレイ』は、お客様の記憶と、残された記録から、人生をもう一度再生いたします」
画面に、若い夫婦が映った。
狭い洗面所で肩をぶつけ、笑っていた。
「あの洗面所の朝を、もう一度。大切な人との日々を、もう一度。眠っているあいだ、何度でも」
司会者は、最後にこう言った。
「未来は、温かい」
---
天気予報に切り替わった。
明日は晴れ。
最高気温三十二度。
洗濯日和です。
誰かのリビングで、テレビがつけっぱなしになっていた。
ソファには、誰も座っていなかった。
5分SF
今日より少し先の未来を、5分で。
▼ もっと読む
