要約された世界で、言葉のもつ重み
先日、とある記事で、こんな一節を見かけました。
「LLMは文章をトークンに分解し、次に来るトークンを予測することで学習しているが、そのためには大量のデータが必要であり、そのデータは2030年頃までに枯渇するかもしれない」という話です。
素人考えでは、ついにテキストベースにおいては人間の知識を全て飲み込んでしまって、シンギュラリティの到来なのかと胸騒ぎがしましたが、ここで言われている「枯渇」とは、人間の知識そのものではなく、ニュースやブログ、記事や論文などを通して「文字として外に出た知識」の話なんだそうです。
AIがセンサーやカメラのようなものを持って、いわば「五感」を手に入れつつある、という話はわりと想像しやすいと思います。
実際、AIは画像や音、さらには動きも扱えるようになってきていて、「テキストだけの存在」ではなくなりつつあります。
そうなると、これまで文字を通して蓄積されてきた知識の比率は、相対的に下がっていきます。動画やログやシミュレーションのように、非テキストの情報がどんどん増えていくからです。
これ自体は、恐らく自然なことなんだと思います。
この流れが進むと、起こりそうなことがあります。
データの収集も解析も要約も、ますますAIが担うようになり、人は「生の現実」よりも、「要約された現実」に触れる時間の方が長くなり、何が起きているかよりも、それがどう説明されているかの方が、行動に影響する場面が増えていく未来です。
AIが要約や生成を担うようになると、世の中に出回る表現が「どこかで見たような無難なもの」ばかりになり、独特な感性や「ノイズ」が削ぎ落とされてしまいます。
そういう未来において、私たちに必要なのは、情報をたくさん持つことよりも、説明との距離感を保つことなのかもしれません。
要約は便利ですが、それはあくまで切り取られた一つの見方です。それを事実そのものと同一視しないように、時折、元のデータや現場、自身の五感にに頼ってみることが重要になってきます。
そしてもう一つは、自分の言葉を持つことを放棄しないことです。
AIがいくら上手に説明してくれても、「自分ならどう言うか」「自分にはどう見えるか」を考える余地は、まだ私たちに残っている。
私たちは便利さと引き換えに、それさえも使わなくなったとき、かなり大事なものを手放すことになる気がします。
正直なところ、私自身もまだこの変化を完全に理解できているわけではありません。
ただ、「テキストが減る」一方で、「言葉の責任」はむしろ重くなっていくのかもしれない、そんな予感だけはしています。
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