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第2回:「愛されたい社会」と多様性の誤謬──存在することの価値を取り戻すために

前回、僕は『アドレセンス』を通じて、父性の欠落により、愛するという方法を知らない若者が増えていることと、その若者たちが誤ったマノスフィアによって自己肯定感を失っていることを指摘した。

第2回である今回は「愛されること」ばかりが過度に重要視されることの危険性と「条件付きの承認」が自己肯定感を下げている現代について考察していく。


「愛される」ことだけが先行する関係の希薄さ

「彼女と合わないから別れようかな」「彼とはすごくフィーリングが合ってると思うの!」このような会話を最近、本当によく耳にするようになった。この会話の先に「で、Teraはどう思う?」という疑問が続き、僕は「合わないんじゃない?」だの、「合ってるんじゃない?」だのと応答する形式的な会話に終わる。
「合わないならこういうふうにして合わせる努力をしたほうがいいんじゃないか」、「合うならその合う部分をもっと合わせるためにああいうことをしたほうがいいんじゃないか」というような会話は十中八九、起きない。

ここには――持続への想像力を欠いた時代の愛のかたちとしての
「ちゃんと愛されたい」
「無条件に受け入れられたい」
という欲望が見え隠れする。

そうした欲望が前面に出てくるようになったのは、ある意味で当然のことだとも思う。競争に疲れ、社会や他人からの評価に疲弊し、「せめて人間関係の中だけでも承認されたい」と願うのは、ごく自然な流れだ。

だが、その願いが“目的化”した瞬間、関係性は急激に軽薄化する。

「愛されたい」という感情は、関係の入口にはなる。
だがそれだけでは、関係は深まらない。むしろそれが唯一の動機である場合、人は「少しでも期待を裏切られた」と感じた瞬間に、その関係を断ち切る準備を始めてしまう。

関係性すら“消費”される時代

現代の恋愛観や人間関係のあり方は、すでに“効率性”に深く組み込まれている。

例えばマッチングアプリだ。マッチングアプリの誕生には多くの功罪があると思う。
確かに、「出会い」というものの全数を増やすことに成功したプラットフォームであることは間違いない。
しかしながら、「合うか合わないか」を最初の数ラリーで判断し、「合わなければ次へ」と進むスタイルは、かつての“努力によって関係を育てる”という価値観を否定するようにもなってしまった。
それはマッチングアプリを代表するpairsのLPに象徴的に現れている。
「恋の面倒に、さようなら」このコピーは“努力によって関係を育てる”という価値観の否定にほかならない。

マッチングアプリを代表するpairsのLP

関係性は磨くものではなく、“引き当てるもの”へと変質してしまった
長く続けることによって見えてくる相手の美点や、自分の未熟さすら愛してもらう、というプロセスが存在していないのだ。

少しでも価値観が違えば、「相性が悪い」と断定される。
長く一緒にいても、ちょっとした違和感があれば、「それってお互い無理してるよね」と切り捨てられる。
愛する努力や、関係を深める忍耐は、“非合理”なものとして敬遠されてしまう。

タイパ/コスパ文化と「愛されたい」欲の結託

では、このように愛する努力や、関係を深める忍耐が、“非合理”なものとして敬遠されてしまうのはなぜだろうか。それは、タイパ / コスパ文化が原因だ。
恋愛や友情までもが、「自分にとって有益か?」「この時間がリターンを生むか?」という基準で測られてしまう。そこでは、関係がもたらす“学び”や“揺らぎ”の価値が完全に抜け落ちている。

「私をちゃんと愛してくれない人とはもう会わなくていい。なんなら、ぞんざいに扱ったって構わない。」
その考えは、確かに自分を守るための合理的な手段でもある。

だが同時に、自分が誰かを愛するために費やす時間や努力も、同時に放棄してしまっている

誰かを理解しようとすること。
合わない部分を、少しだけ許すこと。
その結果として、ゆっくり関係が深まっていくこと。

そうした、かつては「当たり前だった」人間関係のプロセスが、“投資効率の悪い行動”として切り捨てられていく。

「愛されたい」は本当に自分を愛しているか?

ここで問いたいのは、「愛されたい」という欲望の裏側にある不安だ。

その不安とは、自分で自分を愛せないことへの代償行為として、他者からの承認を過剰に求めてしまっている構造だ。

「好きになってもらえない自分には価値がない」
「誰かに選ばれない私は存在する意味がない」

そうした「条件付きの承認でしか自分を認めることができない」自己評価の低さが、恋愛や人間関係に“見返り”を求める原因になっていないだろうか。

そしてそれは、結局「誰かを愛する」という能動性を持つ余裕すら、自分から奪っているのだろう。

多様性の誤謬と愛されることへの依存

「愛されたい」という欲望の過剰な追求が「条件付きの承認でしか自分を認めることができない」自己評価の低さが原因であるように、現代社会の多様性の追求さえも「条件付きの承認で認める」というイデオロギーに立脚している。
現代社会は「多様性」を肯定しようとしている。LGBTQや障がい者、マイノリティが生きやすい社会をつくろう、という流れは確かに加速しているように見える。

だが、その語り口に、“条件付きの承認”が混入していることに、どれほどの人が自覚的だろうか。

たとえば、LGBTQの存在が「人類の遺伝的多様性を保つために重要だ」「危機状況において集団のリスクヘッジになる」といった科学的・功利的説明をもって語られる場面がしばしばある。これは一見、理にかなっているように聞こえる。

しかし、それは本当に「存在そのもの」を肯定しているのだろうか?

「役に立つから許される」「機能的に有益だから価値がある」とする論法は、結局のところ、逆のベクトルでも機能してしまう。
「同性婚には生殖力がないから認めてはならない。」そのような旧来の“生産性信仰”や“社会貢献第一主義”が立脚しているイデオロギーと、その出発点は何が違うというのか。
結局、現代リベラルの多様性推進は君は役に立つかという「解釈」とヘッジしなければならないリスクは限りなく低いのではないかという「確率論」には答えを持ち得ない。

「役に立たないなら不要なのか?」
「成果を出せないなら、承認されなくていいのか?」

この問いに回答できない多様性推進は必ず失敗するだろう。それは再三語った通り、「役に立つから許される」「機能的に有益だから価値がある」というイデオロギーに立脚しているからである。

マジョリティに迎合することでしか推進できない多様性

さて、前節で語った通り、現代リベラルの多様性推進は脆弱だ。
本来の「多様性」とは、条件や価値を問わずに、ただ「そこに在ること」を受け入れるという姿勢のはずだ。「役に立つかどうか」は、本来、その存在意義と無関係でなければならない。だが、現代リベラルが掲げる多様性は、「受け入れる理由」や「理解できる根拠」を必要としてしまっている。
結果的に、それは“受け入れる側の納得感”を優先した、多数派の安心のための多様性にすぎない。
このイデオロギーを脱却できない限りは同性婚をはじめとするマイノリティに対する施策の実現は平行線を辿るだろう。

この構造は、「愛されたい」という欲望と酷似している。

「理解されたい」「肯定されたい」という欲望が先行するあまりに、人は“無理解に耐える力”や“相手を理解する努力”を放棄する。そうして、ほんの少しの齟齬や、たった一言の価値観のズレを許容できないまま、関係をリセットし続ける。
「条件付きでしか愛されない」社会構造は「条件付きでしか他者を愛せない」個人の弱さによって投射されている。

失われた「愛する主体性」を取り戻すために

僕たちが今、取り戻すべきなのは、「愛する側」の主体性だ。他者の承認に依存するのではなく、自分が誰かを理解し、寄り添い、愛そうとする意思。その意思は、たとえ相手が自分を理解してくれなかったとしても、愛そうとすることを選び取る強さに他ならない。

それは時に報われないかもしれないし、見返りもないかもしれない。だが、そこにこそ、「関係を育てる」という営みの本質がある。愛されることは、結果として訪れるものに過ぎない。先にあるべきは、愛するという“能動の姿勢”だ。

「僕は君を選ぶ。」
それだけで関係は始まりうる。

僕は理由なく他者が好きだ。そうすることでしか僕は僕を愛せない。

自分が誰かを愛することでしか、愛される経験もまた、本当には理解できない。
“無条件に愛されたい”という夢は社会契約論のように、“無条件に愛する”という行為によってしか実現されないのだ。


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