構造的に、軽やかに、その次は?/渡辺裕 『聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化』
19世紀の音楽体験から音楽を解放すること。コンサートホールという閉鎖的な空間の中で、耳を澄ませてクラッシックを聴く。この小節から登場する楽器の音にはこんな意味があって、構造的にこういう効果がある。そんな細部が1つ1つ集まって、1つの作品であることを堪能すること。そんな「構造的聴取」が19世紀において、高尚でエリート的な音楽の楽しみ方だった。
その一方で、そんな音楽聴取にはそぐわない音楽は低俗なものとして見下されて、同じ音楽であるはずなのに、コンサートホールで聴くエリート的なものと、それ以外の場所で娯楽として楽しまれる低俗的なものとして区別されてしまった。
だが、20世紀を過ぎた今、そんな19世紀的な音楽聴取の在り方はすっかり崩壊して、「軽やかな聴取」が定着するようになった。レコードの誕生により、コンサートホールでなくても音楽が楽しめること、一度入手すれば何度でも再生することができるようになった。また、消費社会の到来によって、音楽をより日常的にファッション的な感覚で楽しめるように喧伝されるようになったことがその「軽やかさ」には影響している。そこに「構造的聴取」から「軽やかな聴取」への変化がある訳だが、筆者はより音楽を「聴く」ようになったのではないかと考える。
構造的に音楽を聴くことは確かに1音1音を正確に捉え、それが1つの作品の中でいかに機能しているか、あるいはどんな意味を持っているかという観点から言えば、音楽を聴いているのかもしれない。だが、そんな音楽の聴き方はそれ以外を低俗なものとして見下してしまう危うさも秘めている。その意味で、音楽を「構造的」に捉えることで、音楽そのものの広がりを狭めてしまうのではないか。逆に「軽やかな聴取」によって、音楽は確かに低俗で、日常的なものに成り下がってしまったように見えるのかもしれない。だが、そこには一聴すると音楽に聞こえなかったものが、不意に耳に入ってきた時に生み出すリズムや音の響きを見出し、一瞬にして音楽として聴ける可能性を秘めている。
では、その先の現代はどうか。サブスクリプションで音楽を場所問わずながら聴きが当たり前になり、Tiktokで動画のBGMとして用いられた楽曲がヒットしたりする音楽の在り方はどう見えるのか。
19世紀的な価値観からすると、現代の音楽の楽しみ方は極めて低俗な音楽の在り方として批判されるだろう。それでも、音楽が日常的に楽しまれるようになったので良いのではないかという意見がそんな批判をかき消すような気もしている。また、音楽は日常的なものであるようでいて、変わらずコンサートホールやライブハウスで楽しむこともでき、非日常的な体験としての価値もまだ十分に持っているように思う。そんな現代において、高尚か低俗かといった価値観で音楽の優劣を決める時代はとっくに終わりを迎えたのではないか。19世紀の堅苦しくも真面目な音楽に対する価値観を知った今改めてそう思う。
