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ときどき考えること ㊳

少し前、いや何年か前に 高校の「普通科改革」のような話が出ていたな
と、少し調べてみた。

今も続いている「事業」のようだ。

私は、「普通科」の再編というよりも、どちらかというと「進学校」という概念をそのものを崩す方法を考えることの方が、効果的なのではないかと思うことが多いー

という話を、少し、先日会った小学校の先生にした。

もう15年以上前のことだけれどー寺子屋の卒業生のお医者さん第一号が、大学に通っているとき、毎年1度は会いに来てくれていたのだけれど、彼女と会って話していて、ふと気がついたことがある。

よく考えれば、当たり前のことなんだけれど

ー実感を持って気が付いたことに

彼女が大学を卒業して、大学の同級生で集まったら、ほぼ全員が「医者」なんだなぁ

と。

そして、私は

ちょっと、「だからか」なんて思うところがあった。

そこから発展して、大学時代からときどき感じていた、進学校出身者の中に感じる高いプライドと、おそらくそこからくる傲慢さと同時に存在する卑屈さは、多分

そういうことなんじゃないかと仮説を立てた。

高校の同級生がほとんど、皆、大卒以上ということか、

と、自分にはない環境に思いを馳せた。

だから、

文科省の頓珍漢にも見える教育方針の二転三転も

ゆとり教育や大学入試改革が行われてもなお、

昔以上の受け身に見える教育や

点数、成績重視だったり、学校名、偏差値重視の考え方が、
なかなか根強く、消えていかないのではないかー

そして、

大学入試よりも、
高校入試改革、

基礎学力だけ確かめて地域の学校に入れる形をとるとかー
または高校義務教育化なのではないかー

そしたら、「無償化」の議論も少し方向が変わるだろうし・・・

なんて、思う。

私は、中学校から私立の中高一貫校に通った。その学校は、今でこそ進学校を目指しているようだけれど、私の通っている頃は、進学校とは言い難く、良妻賢母を育てるための学校であったと思う。

その高校を出て、短大に行き、地元の信用金庫に腰かけで勤める
または、女子大に行き、結婚相手の海外赴任についていく

というのが、その学校の優等生だと、少なくとも私はそう思っていた。
私はそれを絶対選べない!とは思っていたけれど、その選択のできる友人たちが、素敵だと思うこともあった。

私と同じように、独身で働く同級生とは、

私たちは落ちこぼれの中の落ちこぼれだよねぇ、

なんて話をする。

少し卑屈な言い方に感じるかもしれないけれど

ものの見方は1つではないこと

つまり、進学や、就職や、結婚や、人生の選択肢は、人それぞれで、どの選択肢でも選んだ人が、その人生に満足して、社会に還元できるものを何か持っていれば、それでいいー

そして、それは、すぐに結果が出るものでもなければ、入試の合否でも、年収の多寡でも、結婚の時期や、するしないで、測れるものではない

そんなことを、同級生に教えられ、自分が証明し、そんな環境が、私が今、この母校を自分の教え子たちにも勧める理由の1つだ。

ーそんな環境で多感な時代を過ごせたことを、私は振り返ってありがたいと思い、同時に誇りに思っている。

学校は、模擬社会だ。

多様な選択肢を気持ち良く提供して、誇りを持って生徒が選択できるかどうかが、本当は一番大切なのではないかと思う。

進学校に通う生徒たちの閉そく感と、一部の進学校出身者の偏った意見に触れるたび、そんなことを考えてしまうことがある。

学校の良しあしは入り口の偏差値より、出口での子どもたちの選択肢の多さ
卒業生の生活の充実が指標のはずー

中で楽しく学生生活を送り、充実しているように見えてもー
それに、いつまでもしがみつき、過去の栄光を皆で懐かしみ、
ときに、子どもたちを通して追体験をして満足する

ーそれは果たして幸せなのか、

多様な意見や自分の経験をもとに、社会の未来を広い視野を持って語り、お互いを認め合って社会に還元するーそんな建設的な話ができる友情が、時代を越えて、そこにあってほしいー

飛躍しているように聞こえるかもしれないけれどー

進学校の画一的にも見える性格が、文科省のお役人さんたちがかんがえる、何とも言えない、いつも的外れに見える政策にも表れているような気がしてしまうのは

私のうがった見方で、また、卑屈な発想なのだろうか。


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