夫の誕生日、あのガラス扉のその先へ
初めてここ万平ホテルに訪れたのは5年半前。親友だった男、夫と結婚前提の交際を始めたばかりで、その時はカフェテラスの利用で立ち寄った。当時の私にはまだはっきりとクラシックホテル好きの自覚がなかったが、直感的にこの場所に惹かれた。そりゃそうだろう。
カフェ利用者でも立ち入ることができるホテルのロビーから、宿泊者が利用すると思しきメインダイニングルームの様子がチラリと見えた。分厚いガラスの扉の入り口が、ただのカフェテラス利用者である私と、このホテルに泊まることを許可された人とを隔てていて、虚しかった。アタシだってこの先に行かせておくれよ、と思った。

〜あれから5年〜
半年間のヨーロッパプチ移住を経て、夫の誕生日旅行先として真っ先に思い浮かんだのがこの万平ホテルだった。

ヨーロッパの一番いい時期に各地をまわり、うっとりするような景色や過ごしやすい気候にほだされて、「ここは日本より〇〇だ」と何かと日本より優れた部分を見つける視点を鍛えてしまったけど、このクラシックホテルという体験なら、あの真夏の地中海にも、春先のロンドンにも、あらゆる西側諸国に匹敵する価値がある。と今思う。
クラシックホテル愛好家が最も恐れる「改修工事」という言葉。
明治・大正・昭和初期時代に建てられた建築物は今、建立100年前後になる。人が飲み食い寝泊まりする場所なだけに、修繕の必要に迫れられるのは誰もが知るところで、これまでも多くのホテルが改修のため休業となった。
素敵だった場所が、「モダン」というもっともらしい名の下に、どこにでもある何の面白みもない箱へと変貌を遂げたケースも残念ながらある。万平ホテルの1年半に及ぶ全面リニューアルにも、多くの不安が寄せられていたことは想像できる。聞けば、外壁以外の中身ほぼ全てを取り壊し建て直したというのだ。
しかし、万平は私を裏切らなかった。
愛好家たちがクラシックホテルの、万平ホテルの何を愛しているのかを完全に掌握し、100年に一度の厳しい難所を乗り越えて私たちを迎え入れてくれた。オーセンティックな装いはそのままに、設備は最新式で、客室は新築の素敵なお家に引っ越してきたような清潔さと幸福感があった。
2月下旬。夫の誕生日。一週間のうちこの日だけ雨が降るという、晴れしか勝たんみたいな私には一見不運に思われるような天候も、碓氷館スタンダードツイン323号室に長く居留めさせる理由として完璧な演出になった。少し窓を開けて、静かな森の雨音を聴きながら、広すぎる部屋で夫婦二人、それぞれ読書をした。気がついたら夫は別料金のビールを開けており、彼はソファで、私はベッドで、寝落ちしていた。読んでいた本も本で、昔から読書嫌いな私でもどんどん先が読みたくなる良作だったことも相まって、冷えた身体を温泉に浸からせるときのような、心の中で幸せだなと唱えてしまうような、真の幸せを感じた。



↓珍しく一気読みしてしまった本
幸せな午後の4時間を過ごして、その夜私はパリから届いた愛人←セザンヌのドレスに初めて袖を通し、ついに私たちはあのガラス扉のその先へ、メインダイニングルームに立ち入ることが叶った。





これで東日本のクラシックホテル(日光の金谷ホテル、箱根の富士屋ホテル、東京駅の東京ステーションホテル、横浜のホテルニューグランド、そして万平ホテル)は制覇。残すところは奈良の奈良ホテルと、愛知の蒲郡、伊豆の川奈、長崎の雲仙の4つ。ここまできたら全制覇したい。
奈良ホテルは現在、鋭意改装中である。

