エイルと最後の竜 #8
ヤーデ - 砂漠
デュレーの町を出発し、なだらかな山肌を下るにはしばらくかかった。高所から見ると、遠くに砂漠が霞んでいる。そこには、何もなかった。ただ黄土色が延々と波打っているだけに見え、地平線は遠く揺らいでいる。砂漠の民であるセサルに話は聞いていたものの、実際に目にした光景は、頭の中で想像していたものをあっさりと超えていた。
――あの先は不毛の土地だ。人が住めるところではない。
長い間、そう判断されていたのは当然だったろう。エイルは初めて見た圧倒的な景色にごくりと唾をのんだ。旅慣れていると自負していたシキですら、山脈以南に足を踏み入れたのは初めてで、少々気圧されている。
「これは……覚悟が要るな」
そう呟くシキに、双子とエイルは無言のまま同意した。しかし、山を下ったらすぐ砂漠と思っていた彼らの予想は裏切られた。山のふもとは、緑生い茂るというほどではないが、短い下草や低木がちらほらと生えている。山を下りて砂漠までの間にいくつかの町や村もあるという。
山に別れを告げ、平坦な道を辿っていく。迷うほどの道でもない。四人はそう難儀することもなく、チェジャへと入ることができた。
『白い町』と呼ばれるチェジャは、その名の通りのところだった。煉瓦や石を積み上げて造った平屋が続く町並みはどこも同じように白茶けている。街路は、石を敷いてあることには敷いてあるのだが、大部分が砂にまみれている。人々は一様に白い大きな布を頭からかぶり、黒々とした目だけをその奥から覗かせていた。旅人らしき者も見かけはするが、彼らも町の人々と同じような布を頭から巻きつけており、それは一種異様な光景であった。山とは打って変わって、歩いていれば汗ばむほどの暑さではあるが、生活できぬほどの暑さではない。だが町には活気がなく、人々は来訪者への興味より、普段と変わらぬ生活を送ることに執心しているように見えた。
通りには、馬ではなく駱駝が行き交っている。露店はない。商品を日差しと熱から守るためだ。広場に唯一出ているのは大きな石造りの釜だけだった。それはパンを焼くための釜で、市民が共有して使っているらしい。井戸は見当たらず、聞くところによると、水を得るには町からかなり離れたところにある大井戸まで行かなければならないのだそうだ。言われてみれば若い女が重そうな瓶を頭に乗せ、器用に平衡を保って歩いていた。
こうした独特な雰囲気は、やはり山脈以北の町々とは違う。見慣れない町の景色。四人は自分たちが異邦人であると実感させられていた。
四人が町の通りを歩いていると、角から姿を現した一人の男が急に大声を出した。
「うわっ! なんでここにいるんだよ」
驚いているようだが、それはこっちが言いたいとばかりに四人は顔を見合わせ、首をかしげる。
「どういう意味だ。我々を知っているのか」
「あー……いやいや、なんでもねえ。知らねえ」
慌てた様子で手を振ると、男は白い布で顔を巻き直し、そそくさとどこかへ消えた。
「なんだろうね」
「変な男だ」
口々に言い合い、肩をすくめる。ところが、である。その後、行く先々で四人はその男と鉢合わせしたのである。あるときは宿の入り口で、またあるときは買い物をしようと入った店内で。その度に男は四人を避けるようにして姿を消す。だが、食事をしようと一つの店を選んで入ると、中でその男が酒を飲んでいるといった有様だった。
「まったくもう、なんなんだ」
男は頭を抱えて溜め息をついたが、こちらとしても気持ちは同じである。
「よくもこう何度も会うものだな」
「あんたら、まさかとは思うが……。頼む、違うと言ってくれよ。あんたら、魔術師を探してるか」
諦めたような顔の男がついにそう言ったとき、四人は一様に驚いた。
「ああ、やっぱりか。これだから嫌なんだ、ヴィト絡みの仕事は」
再び長く大きな溜め息をついた男はグレイと名乗り、白い布を外した。そして現れた長い青灰色の前髪をうっとおしそうにかき上げる。
アンワールの町で、ヴィトにサーナを預けた夜のことだ。ヴィトはなんだか楽しそうにも見える表情でリュークに言った。
「リュークにまた一つ、仕事を頼みたいんだけどね」
「やめてくれ」
「私の予見能力はそれほど正確ではないけれど、今回のははっきり見えてねえ。君が四人組の旅人に出会う場面だった。良く似た、恐らく双子と思われる二人。それに青年騎士と、身分の高そうな少年。恐らく王子、だと思う」
「皇女の次は王子かよ」
王侯貴族なんて人種は別世界の存在であり、自分とは関わりのないことだ。リュークは嘆息が止まらない。
「彼らは魔術師を探している。君は、彼らを私のところに連れてくることになるようだね」
「勘弁してくれ。やだやだ。もう嫌だ。これ以上面倒に巻き込まれてたまるもんか。そんな依頼、俺は受けねえ」
「これは依頼というより予見だからね。嫌だと言っても、出会ってしまうと思うよ」
「冗談じゃねえ、未来が見えるなんて俺は信じねえぞ。逃げてやる」
「そう? まあせいぜい頑張って。運命の神クタールの手から逃げられる人間がいるとは思えないけど」
「うるせえ! 俺は今すぐ出てくぜ、あばよ。……サーナのことはしっかり頼むぜ」
「それはもちろん」
それだけは必ずと念を押すと、荷物をまとめ、リュークはヴィトのところを飛び出したのである。
「それで、とにかく遠くに行こうと思ってよ、ルセールから離れた方がいいかと思って砂漠を越えてここまで来たんだ。……そしたらこれだよ」
チェジャの町で、何度も何度も会ってしまう四人に、やはり運命からは逃げられないのかと、もはやリュークは諦めの境地である。
「……こうなったら仕方ねえや。あんたら魔術師探してるんだろ。コーウェンの魔術師の噂、知ってるか? 俺に四人と会うって言ったその、ヴィトって奴なんだが、そいつも魔術師だ。いや俺も、その噂の魔術師が誰なのかはよく知らねえ。お師匠さんもすげえ魔術師だって言ってたから、もしかしたらそのお師匠さんの方かも知れねえな。まあとりあえず、ヴィトのところに案内するぜ。また砂漠を戻るのか。やれやれ。砂漠の南にある王都マイオセールから東に行くとアンワールだ。ヴィトは今、そこにいるはずだぜ」
自分の言いたいことだけを一方的に言うと、グレイと名乗った男――盗賊リュークは、自分はいろいろやることがあるから宿屋で待っていろと言って、また姿を消してしまった。
荷造りを終え、再度集合すると、リュークがどこかで調達した駱駝を揃えてくれていた。間近で見ると、思ったより大きい。馬よりも脚が細く、長く、その背中によじ登るのは一苦労に思えた。こんな動物に乗っていくのかとエイルは目を回してしまう。馬より大変そうだ。短い毛に恐る恐る触ると固くごわついていた。だが、大きな目はどことなく可愛げもある。
「一人一頭だ。好きな奴に乗りな。六頭目に荷物を載せていく」
リュークに急き立てられるようにして、彼らは乗ったこともない駱駝に押し上げられた。一番苦労したのはもちろんエイルである。馬にもまだ一人では上手く乗れないのに、馬より大きな駱駝を一人で操るというのは至難の業だ。だがリュークはシキのように甘くはなかった。エイルが騒いでも聞く耳を持たず、シキにも手を出させなかった。
「あんたが手を貸してちゃいつまで経っても乗れるようになんねえよ。何だって自分でやれるようになんなくちゃ生きていけねえんだ」
エイルが王子だということは、ヴィトが見たという予見で恐らくそうだろうと聞いた。だが、リュークにとってそんな身分なんかはどうでも良かった。とにかくこの任務を無事に終えたい。そのためにはエイルのわがままに付き合う余裕なぞない。それだけのことだった。皇女サーナを連れて安全な街道を歩くだけだってあれだけ大変だったのに、今度は砂漠の行軍だ。エイルには自分の面倒を自分で見てもらわなくてはこっちの身だって危うい。王子様だろうがなんだろうが、リュークはエイルに対し、攻撃の手を緩めることはなかった。とはいえ、当人は攻撃しているつもりなど毛頭ない。子供のころから一人で生きてきた彼にとって、エイルは単なる甘ったれた子供に見えるのだ。二人の育ってきた環境は、まったく違った考え方をそれぞれにもたらしていた。
――大体、周りの奴らも甘すぎるぜ。アンワールまでに俺がきっちり躾てやる。
エイルの甘えの原因はシキにもあると思える。一目で分かった。こいつが甘やかしてきたんだ。だからこんなわがままに育ってるんだろう。まあ一度や二度駱駝からずり落ちたところで、死にはしないさ。
「ここらのガキはお前よかずっと小さな奴だって、上手に駱駝を操るぜ。やらせりゃあできるもんなんだ。王子だろうとなんだろうと、お前にもできないわけがない」
リュークの偉そうな口の利き方には腹が立つエイルだったが、リュークが自分を子供扱いしないことだけは嬉しかった。
「いいか、俺はシキみたいに甘くねえ。だが、砂漠とくらべりゃ大甘だ。砂漠じゃ、どんな奴でも自分の世話をするので精一杯になっちまう。誰もお前の面倒なんか見ちゃくれねえ。何でも自分でやるんだ。いいな」
リュークの言葉に、エイルは殊勝にも黙ってうなずいた。自分は砂漠に行ったこともないし、セサルに話を聞いただけで、砂漠のことは何も知らぬに等しい。経験者の意見は聞くべきだと、小さなころからジルクに口うるさく言われたことを思い出す。
――この際、口の利き方が悪いのは許してやろう。特別に、だ。
エイルはそう自分を納得させた。文句を言うより、大きな駱駝から落ちないようにするので必死というのも事実だったが。
砂漠を行くのはかなりの辛さだった。初めての環境に、エイルは休憩したいと主張する元気すらないようで、駱駝が歩くに任せてその背でうなだれている。そんな彼の辛そうな様子を思いやったというわけでもなさそうだったが、リュークがようやく休憩を宣言した。シキがあたりを見回している。近くにはいくつか大きな岩があった。
「これくらいでは道しるべにならんと思うのだが、どうやって目標を見定めているのだ?」
「安心しろよ。俺は慣れているからな」
答えになっていないリュークの言葉に、シキはやや不満そうだ。リュークは駱駝に水をやりながら鼻歌を歌っている。シキは重ねて尋ねたが、リュークはそれを無視して、水を入れた布袋を取り出すクレオに話しかけた。
「水は生命線だからな、飲んでもいいがほんの少しずつにしろよ。ごくごく飲んでも、またすぐに喉が渇くから意味がない。ちょっとずつ、渇いた喉を潤すだけにするんだ。後は駱駝の陰に入ってゆっくり休んでな」
「少しずつ、ね。いっぱい飲んだら足りなくなっちゃうもんね。……分かった」
残念そうな顔でうなずくクレオ。リュークはクリフやエイルにも同じようにしろと仕草で示してから、シキに向き直った。
「あんたはまだ体力ありそうだな。夕食を取りにいくから付き合えよ」
そうして、砂漠トカゲという動物の肉と、水分を内部にため込むフルカという砂漠特有の植物を手にした彼らが戻ってきたのは日の沈むころだった。
涼しい風が大岩と駱駝の影で体を休めていたクリフたちの体力を回復させ、暮れなずむ砂漠の雄大な景色が彼らの心を大いに安らがせている。
「砂漠は暑いばかりだと思い込んでいたけど、夕方は過ごしやすいんだね」
「そうね。逆に夜はすごく寒いらしいけど、今は気持ちいいくらい」
双子もエイルもパージを脱いでいる。風がなぶる髪を手で押さえ、クレオは沈みゆく夕陽を穏やかな心で見つめた。デュレー以来、傷心を抱えて辛く悲しい気持ちでいたのだったが、広大な砂漠の景色や美しい夕陽が、彼女の悲しみを洗い流していくようだった。
そんな妹の顔が妙に大人びているように思える。クリフは、様々なことに思いを巡らせているらしいクレオの顔を見つめた。今、自分はどんな顔をしているだろうか。クレオと同じように大人っぽい顔だろうか。それとも違うだろうか。双子だけれど、村を出たころのようにまったく同じ存在だとは思えない。お互いに無言でも分かり合えるというときはあるが、今のように、相手が何を考えているか分からないときもある。これから先、自分たちはどう変化していくのだろうか。クリフは、いつの間にか自分がクレオと同じように遠くを見つめていることに気づいてはいなかった。
凍り付くように寒い砂漠の夜、そしてまた灼熱の熱砂を超えて彼らの旅は続く。リュークを案内人としていなければ、到底踏破することはできなかっただろう。セサルの言う通りだった。
やがて、単調な景色に変化が現れ始めた。駱駝の蹄が砂ではなく、固い地面を踏むようになってきたのである。そればかりか、これまではまったく見られなかった低木や下草が時折生えている。ひどい乾燥は変わらないが、あたりは確実に今までと違う様相を呈してきた。
「もう少しだ」
リュークが示す方向を見ると、遠くにいくつかの三角形が見え、その間から煙が見える。そちらに近づくと、木の数も増え、ちらほらと小動物の姿も見られるようになってきた。
「ヤーデにゃいくつか部落があるが、ここはそのうちの一つでケイズリーってとこだ。普通の旅人は滅多に来ない部落だな。普通ならもうちょっと楽で、でも遠回りな道を行くんだ。今回は、早くてきつい道を選んだから」
「部落はオアシスのそばに作られる、って言ってたよね? この近くにもオアシスがあるの?」
クリフの問いに、リュークは軽くうなずく。
「ああもちろん。部落の人間にとっても、ここらに住む動物たちにとっても大切なオアシスさ。そうだなあ、俺も砂漠全部を知っているわけじゃないが、合わせて十くらいはオアシスがあるって話だ。ここのは小さいようだが」
「じゃあ部落も小さいの」
「ああ。だから旅人もこっちを通ったりはしねえんだ。ま、ここの奴らも悪い人間じゃないんだが、どうにも付き合いにくくてな。いやそれより何より、俺好みの娘がいないんだよなあ。こう、ぷりぷりっとして、潤いのある娘がいねえ」
勝手なことをぼやきつつ、リュークは駱駝から下りて近くの木につないだ。シキたちもそれに習う。
「ここで食糧と水を補給させてもらうつもり……なんだが」
リュークにしては歯切れが悪い。それもそのはず、しばらく前にリュークはここを訪れ、水や食料を分けてもらったばかりなのだ。五人に増えて戻ってきて、また助けてくれとは言いにくいのだった。
話を持ちかけた長老とその息子らしい二人は案の定良い顔をせず、近くにある遺跡を荒らす者がいるとのことで、夜間の見張りをすることを条件に出された。期間は未定である。
デュレーで知り合ったセサルはここの出身だと言っていた。
『彼らは外部の者を警戒するけど、俺の知り合いだって分かれば歓迎してくれると思う』
セサルの言葉を思い出し、勇気づけられたクリフは、その首飾りを持って前に進み出た。これできっと彼らの緊張も解けるだろう。だが、その期待は見事に裏切られた。
「それがセサルのものだという証拠はない」
「仮にあの子の首飾りだとしても、奪い取ったものかもしれん」
「そんな!」
「そんなこと、するわけありません!」
双子は抗議したが、主張は受け入れられないようだった。長老は目を閉じ、青年ももう何も答えてはくれない。
「『もう行け』ってさ。とにかく夜の見張りをやるしかねえな」
リュークが再び肩をすくめている。一行はその言葉が的を射ていると悟り、諦めてボロスを出た。
最初に遭遇した少年が遺跡まで案内するという。小さな体で素早く駱駝にまたがり、イカルという名の少年は無言のまま駱駝を進ませ始めた。日に焼けたその横顔はどこかセサルと似ているようにも思える。少年はどんどん部落を離れ、駱駝を歩ませる。慣れているのか、少年の操る駱駝は蹄を砂に埋もれさせることなく、さっさと歩いていく。リュークでさえもついていくのは容易ではなかった。
遺跡と彼らが呼ぶところのそれは、どうやら大きな石が連なる一帯であるようだった。古代都市の遺跡だそうだが、もはや、都市の面影はとどめていない。柱の一部分だったと思われる長い石が地面から斜めに突き出ていたり、元が何なのかも分からない大きな岩のような塊が連なったりしているが、そのどれも表面は砂に削られてぼろぼろになっている。何か彫刻が施されていたのかもしれないとは思うが、今となっては何の痕跡も残されてはいなかった。遠い昔に崩れ、風化し、砂に埋もれてこのような姿になったのだろうが、それにはどれだけ長い年月が必要だったろうか。古代都市が栄えていたころには一体どのような姿だったのだろうか。エイルが呟いた。
「この遺跡、私たちの時代にもあったのだろうか」
「恐らく。ですが、山脈以南は未開の地でしたから、レフォアで知る者はいないでしょう。この土地に昔から住む者が大切にしていたのでしょうが……」
「我々よりさらに、ずっとずっと昔の建造物なんだろう。想像もつかぬほど昔の」
彼らはそれぞれに思いを馳せ、大石群を見つめた。
「こっちだ」
イカル少年の声が彼らの思いを断ち切り、夜営の場所を示した。
「あっちの方向にしばらく行くと薪が拾える。こっちへ行くとオアシスがあるけど、夕方は風が強くて方向を見失いがちだから気をつけろ。夕食のころになったら食事を届けに来る」
少年はそれだけ言うと、ひらりと駱駝に飛び乗り、振り返りもせずに歩き出した。取り残されたシキたちは顔を見合わせ嘆息するしかなかった。
「仕方がない。ともあれ天幕を張ろうか」
「じゃあ俺、手伝います」
「私は薪を取りに行って来るね」
シキと双子が手際よく準備を始めるのを見て、エイルはどうしようかと思案した。と、リュークがその腕を掴む。
「俺らも行こうぜ」
「え、えっ」
「水を汲みに行くんだよ。ほら早くしな」
目を白黒させるエイルを引っ張り、駱駝に押し上げる。エイルは何がなにやらといった表情で、何とか駱駝によじ登った。リュークが振り返り、片目をつぶって見せる。
「お前も、みんなの役に立ちたいだろ?」
オアシスはそれほど遠くもなかった。だがイカルの言っていた通り、風が強く、駱駝も横に流されがちである。風で飛んでくる砂で目が痛い。目を細めるせいで視界も狭まり、ちょっと間違えば道を外れてしまいそうだ。エイルは、リュークが上手に駱駝を操っていく後をついていくのが精一杯だった。
しばらく歩くと、リュークの肩越しに緑色が見えてきた。オアシスは「楽園」と呼ばれるほど素晴らしいものだと聞いていた。だからエイルは、緑溢れる豊かな地を想像していた。だが実際に目にしたのは、何本かの木が生えていて、小さな泉が湧いているだけの場所だった。楽園とまで言うほどのものでもない、とエイルは思った。
「もっと素晴らしい場所かと思っていたのに」
「馬鹿だな」
リュークがエイルの言葉を一蹴する。馬鹿という言葉に、エイルはかっとした。だがリュークの言葉の続きを聞いて、神妙な顔つきになる。
「俺らは今、それほど喉が渇いてない。部落から来たから、どのくらいの距離か分かっているから、だからどうってことないように見えるのさ。マイオスを知ってるだろ? 彼は前人未到の砂漠を踏破したんだぜ。どこまで行ったら終わるのかも分からない砂漠を北からずーっと歩いてきて、部下のほとんどを失い、食糧も水も底を尽き、精も根も尽き果てようってとこでようやくオアシスを見つけたんだ。まあそれがこの泉かどうかは分からないけどな。でもさ、そのときの気持ちを想像してみろよ」
「……」
「部落の連中も、ここらに住む動物も、このオアシスなしには生きていけない。この泉の水が生命をつないでいるんだ。軽く飲んでいい水じゃねえんだからな」
リュークの言葉が体に染みこんでいく。不躾な態度も、不遜な言葉遣いも、不思議と気にはならなかった。
――水……生命をつなぐ水か。
城にいたころ、飲み物は誰かに申しつけ、少し待っていれば運ばれてくるものだった。だが、ここでは違う。こんな小さな泉に、動物も人も、命をかけて辿り着くのだ。辿り着けなければ、死ぬしかない。自分が飲んでいた城での飲み物は、一体どのように、誰が、自分のために用意したものだったのか。侍女がどこで準備するのかすら、エイルは知らない。
――生きるというのは、簡単なことではないのだ。
言葉にはならない、何か不思議で重たい感覚をエイルは味わっていた。
「何、ぼーっとしてんだ。さあ、水を汲んで帰ろうぜ」
リュークとエイルは分厚い革袋に水を汲み、小さな樽にも汲んで駱駝に積んだ。
二人が何とか迷わずに野営地に帰り着いたころ、既に天幕は張られていた。クレオが集めてきた薪に火がつけられ、冷たい風が夜の訪れを告げている。シキと双子のほかにもう二人ほど、姿が見える。どうやら夕食を届けに来てくれたらしい。一人は先程のイカル少年で、もう一人は少女だった。
「スナイ、帰るぞ」
「もう?」
スナイと呼ばれた少女はイカルより一回り小柄で、イカルの妹らしい。イカルに帰りを急かされたが、何か心残りがあるようだ。踵を返したイカルにちらっと目をやり、少女は早口でクレオに話しかけた。
「あの、本当にセサルに会ったの?」
「え、ああうん、そうよ。デュレーの町でいろいろ助けてもらったりしたの。それで仲良くなって、砂漠を越えるって話をしたら、首飾りをくれたのよ。きっと私たちの身を守ってくれるって」
「スナイ! 早くしろ!」
イカルの鋭い声が飛んだので、スナイはそれ以上何も言わず、イカルと駱駝の方へ走っていった。だがその顔にどこかほっとしたような色が浮かんだのをクレオは見逃さなかった。
――みんながみんな頑なってわけじゃないんだ。
リュークはともかく、初めて見る顔が何人もいて、しかも素姓が知れない。それが突然現れて五人が数日食べられるだけの食糧をよこせ、などと要求したのだ。部落には、いつでも食糧がたっぷりというわけでもないだろう。
――警戒されるのも当たり前よね。
クレオは改めて自分たちの図々しさを恥じた。シキも同じようなことを考えていたらしい。視線が合うと、黙ってうなずいた。
「さて、夜の見回りと火の番だが……」
そうシキが言ったのは、薪を囲んで簡単な夕食を済ませた後のことである。クリフがすぐに手を挙げた。
「俺が見回りに行きます。クレオは女の子だから行かせられないし」
「あら、私だって見回りくらいできるわ」
「ええ? 盗賊とか遺跡荒らしが出たらどうするのさ」
「走ってみんなを呼びに来るわ」
「追いつかれちゃうよ。それに、ずっと遠いところだったら?」
「それは……」
「クレオには、火の番をしてもらおう」
シキの言葉にクレオは不本意そうに少し頬を膨らませた。が、仕方なくうなずいて同意する。シキとクリフの優しさであることは分かっていたからだ。
「じゃあまずクリフが見回りをして、しばらくしたらクレオと交代。クレオは火の番を。次は俺が見回りに行こう。とすると、次はリュークだな」
「私はリュークの次か?」
エイルが尋ねる。シキは面食らって、エイルの言葉を否定するように手を振った。
「まさか。エイル様は天幕でお休みを」
「冗談じゃない。一人で朝まで寝てろと言うのか? クレオは火の番をするのだろう。それなら私だって。クレオにできて、私にはできないとでも?」
「いえ、そういう意味では」
「いいんじゃねえの? エイルにもやらせろよ。いつまでも子供扱いしてたら逆に可哀想さ」
リュークの言葉に、エイルがうんうんとうなずいている。双子もリュークに同意しているようだ。
「四対一、か」
そう苦笑しながら言うと、降参というように両手を上げた。
「分かりました」
「うむ。私にだって、火の番くらいできる。その代わり、遺跡荒らしどもを倒すのはシキに任せたぞ」
エイルはにこにこ顔だ。自分にもできることがあるというのは嬉しいことだった。
「ではエイル様には、私の次に火の番をしていただくことにして、その次はリュークがまた見回りに行く、ということでいいかな」
「承知」
リュークが親指を立てる。
日が暮れ、急速に温度が下がっていく。砂漠の夜である。クリフが見回りに出たので、残された面々はパージをかぶって床についた。
遺跡の周りを一周し、足跡や妙な痕跡がないことを確かめる。特に異常はなく、ほっと安心して夜営の場所に戻ってきたのはしばらく経ってからだった。寒さに凍えながら走って帰ってきて、薪を確認する。火は消えているものの、赤くくすぶった木片が残っていた。
「良かった。これならすぐにまた火がつく」
誰相手に言うわけでもなく呟くと、クリフは小さな木の欠片を足し、息を吹きかけた。思った通り、すぐに火は元通りになり、赤々と燃え上がった。新しい薪をくべる。炎で照らし出される皆の寝顔を見て、クリフは自分が一つの仕事を達成した喜びを感じた。
「クレオ、クレオ」
他には誰も起こさぬようにと注意を払いつつ、妹の肩を揺さぶる。パージに埋もれるようにしていたクレオが目を開けた。
「……あ、クリフ。もう帰ってきたの」
「うん。遺跡は何ともなかったよ。人の気配どころか動物の気配も何もなくて、怖かったくらいさ。まあメルィーズが明るかったから助かったけど」
「そっか。それなら良かった」
もぞもぞと起き上がりながら、クレオは安堵した顔を見せる。
「一日目からいきなり何かが起こるとも思ってなかったけど、でも、分からないもんね。何もありませんようにって祈ってたの」
「ありがと。何もなくてちょっと拍子抜けするくらいだね」
「クリフったら」
「一番困るのは寒さだよ。ほんっとに寒かった! 何か飲もうかな」
「お茶を淹れようか。私も飲みたい」
クレオが淹れてくれたキブール茶を飲み、二人は同時にほっと息を吐いた。
「こういうとき、息を合わせたわけでもないのに同時にするよね。こういうところが双子なのかなあ」
クレオが言う。「どうなんだろうね」と返すクリフは、クレオと同じ仕草でまた茶を飲んだ。
「また同じ」
クレオが笑う。クリフもつられて笑い出した。エイルが「ううん」と寝返りを打ち、慌てて声を抑える。ふと、クリフが真面目な顔つきで尋ねた。
「クレオ……その、あの、いきなり変なこと聞くけど……」
「え?」
「いやあの、俺さ、えっと……その、上手く言えないんだけど」
「何よ、クリフったら。はっきり言ってよ」
「あ、シキのこと、さ」
クリフの言葉に、クレオは凍りつく。鈍感なクリフからその言葉が出るとは思っていなかった。
「デュレーで、泣いてたじゃんか。シキがティレルと……」
「それ以上言わないで!」
「ご、ごめん」
クレオは唇を噛みしめた。冷たい夜風がさらに冷たく感じられる。クリフはどうしていいか分からず、所在なげに視線を泳がせたまま黙っている。双子の妹だけれど、自分にはその胸中が分からないのだと、クリフは今、痛感していた。それは淋しいことでもあり……だが何故か、それが当然なのだという気もした。
「クリフは、人を好きになったこと、ある?」
「え、えっと」
クリフの頭に、一瞬、アゼミルイーナの顔がよぎった。何と言おうかとクリフが迷っているうちに、クレオは続けて口を開く。
「私、シキが好きなの。でも、言ってないの」
「うん」
「シキは私なんか好きじゃないかもしれない」
「そんな」
「私なんて子供だし」
「クレオは優しいし、俺と同じ顔なのにこんなこと言うの変だと思うけど、その、可愛いと思うし」
「ありがと。……シキに、何て言われるか分からない。怖いよ。でもやっぱり……私はシキを好きだって、言ってみようと思うの」
クリフは何を言えばいいか分からなかった。肯定も否定もできず、ただ曖昧にうなずく。
「ごめんね、クリフ。変な話して」
「いやそんな、いいよ。その、大事な話だろ」
「ありがとう」
「俺、良く分からないけどさ……人を好きになるっていいことだと思うし、クレオの気持ちが通じるといいと思うし、その、だから……」
クリフが必死で力づけようとするのを見て、クレオはにこっと笑った。
「クリフ、ありがと」
クリフが寝た後も、クレオは火の番をしながら物思いに耽っていた。次に見回りに出るのは月があのくらいの位置に来てから、とあらかじめ取り決めてある。
――メルィーズがあそこまで来たら、シキを起こさなきゃ……。
まだしばらくかかりそうだ。だがクレオは気が重くなって溜め息を吐いた。
――起こしたら何て言おう。それとも明日にしようかな。ううん、そんなこと言ってたらずっと言えない。せっかく二人になれるんだし……でもやっぱりやめようかな。だって夜営はしばらく続くんだろうし、気まずくなったら……。でも、ああ、やっぱり、でも。
クレオはもう一度溜め息を吐くと、シキに目をやった。寝顔は半分くらいパージの陰に隠れている。静かな寝息を立てて焚き火に照らされているシキは、とても安らかそうだ。いつもあたりに気を配り、皆の安全を確かめるために神経を尖らせているシキも凛々しくて素敵だと思っていたが、こうして無防備に寝ているところは子供のように可愛く思える。十も年上だというのに、クレオはシキの寝顔が愛しくてたまらなかった。
――やだ、私ったら……。
じいっと眺めていた自分に気づき、クレオは急に恥ずかしさを感じて顔を赤らめた。
メルィーズと多くの星々は、目で見ていても分からぬほどゆっくりと、だが確実に夜空を渡り、やがて打ち合わせしていた場所に差し掛かってきた。高まる胸の鼓動を必死で抑えようとし、同時にそんなことは絶対に無理だと思う。
「シキ……あの、時間だけど」
ほんの一声でシキは目を開け、二、三度瞬きをすると、寝ぼけた様子も見せずに起き上がった。
「何か異常はなかったか」
「はい」
「そうか。無事で良かった」
緊張した面持ちで無事を確かめたが、クレオがいつも通りだと分かると爽やかな笑みが浮かんだ。シキの表情が変わる度に、クレオの気持ちは激しく揺れ動いてしまう。
「では、見回りに行くとしようか」
立ち上がるシキに慌てて、クレオは一緒に立ち上がってしまった。
「ん? どうした」
「あ、いえあの、その、で、出かける前にお茶でも飲みませんか」
自分でも、声が上ずっていると分かる。もう少しでひっくり返りそうだ。あからさまに変な様子だと、シキも気づいたのだろう。怪訝な顔で笑いながら、もう一度腰かけた。
「じゃあ、クレオも一緒に」
「は、はい」
茶を淹れて飲む間、クレオはシキと視線を合わせることもできないまま固まっていた。シキはそんなクレオをじっと見守っているだけである。そのまま時間が流れていく。クレオがあっと思う間に金属製の杯は空になってしまった。
「あ、あの、もう一杯……駄目ですか?」
「構わないが」
二杯目も、そして三杯目も、同様に過ぎていく。シキはクレオの様子がおかしいことに気付いているだろう。だが何も言わずに付き合ってくれていた。
――どうしよう。なんで、何も言えないんだろう。
クレオは心の中で地団駄を踏んだ。言おうと思って用意していた言葉は、何一つ口にすることができない。このままずっとお茶ばかり飲んでいるわけにはいかない。言わなくては。言わなくては……。その思いばかりが募り、けれど何も言えないまま、クレオは黙って座っていた。
「何か、言いたいことがあるのか」
心臓が、一瞬で破裂するかと思うほど跳ね上がる。
「ここしばらく様子がおかしいと思っていた。俺に何か言いたいんじゃないのか」
――わ、私の考えていることが全部分かっているのかしら……。
「クレオ」
「あ、あの!」
意を決してシキを見上げると、彼はこちらをまっすぐに見ていた。その視線に射抜かれ、頭が真っ白になってしまう。頬が急に熱くなった。
――ええい、もう言っちゃえ!
「私、シキが好きなんです!」
シキがどんな顔をするか、怖くて見られないだろうと思っていた。だが、実際には目を逸らすこともできなかった。そして当のシキはというと、小さく微笑んだだけだったのである。
「……あの……駄目ですか……」
恐る恐る尋ねる。シキは、頭をかいて笑った。
「駄目かと聞かれても困ってしまうな。人を好きになってはいけないという決まりはない。クレオが好いてくれるのは、俺にとっても嬉しいことだ」
優しい響きのその言葉は、クレオを舞い上がらせはしなかった。
――相手にされてない……んだよ、ね。
クレオは落胆の色を隠せないでいる。そんなクレオの様子を見て取り、シキは困り顔で続けた。
「クレオ、その、俺はどうもこういう話が苦手なんだ。どう言えばいいか……。だが、きちんと応える必要があると思う」
その声音が真剣なものになり、クレオは再びシキを見上げた。シキは両手で顔を覆い、何か、考えをまとめようとしている。
「……俺には、心に決めた相手がいるんだ」
その言葉はクレオの心を打ち砕いた。やはりティレルなのだろうか。だが、シキが続けた言葉でそれとは違うということが分かった。
「俺が十九のときの話だ。もう……そうか、七年ほども前の話になるんだな。俺には生涯かけても守りたいと思う女性がいた。だが、彼女は……死んだ」
そう言ったシキの表情を、クレオは死んでも忘れないだろうと思った。こんなシキは、今まで一度も見たことがない。目の前にいるのは、まるで知らない人のようだった。半年以上も一緒に旅をしてきた、強く優しい青年ではなかった。どうしてそう思ったのか、クレオには分からなかった。
――そうか、この人の心は今、ここにないんだ。
深い緑の瞳は遠くを見つめ、深く、想いを馳せていた。
「死ぬ間際……彼女は言った。自分のことは忘れろ、と。いや忘れないで欲しいけれど、思い出さなくていい、と。また誰か別の人を好きになって、その人と幸せになって欲しいのだと、彼女はそう言った。だが俺はいまだに彼女への想いを断ち切れずにいる」
クレオは何も言えなかった。シキがこんな話をするとは思わなかったのだ。元来が無口な方だと自分でも言っていたし、身の上話をするのが好きな人ではない。道中、自分の話をすることはほとんどなかった。生い立ちも、騎士としての暮らしも、クレオたちはよく知らない。だが今、シキは自らの過去をクレオに語っている。クレオは、それが不謹慎なことだと思いながらも、嬉しいとすら思っていた。
「いや、断ち切れないというのは少し違うな。俺はもう、彼女の死を受け入れている。彼女の言葉を守ろうとも思う。事実、心を通わせた相手もいる」
――ティレルのことかな。……ほかにもいるのかしら。
思ったより冷静でいる自分に、クレオは驚いていた。ついさっきまで、クレオは自分の想いで頭が目一杯になっていたのに、今は、なんだか穏やかな気持ちでシキの話を聞いている。
「だが……まだ、誰かと幸せになろうとは思えない。自分のことを考える余裕がないとも言えるかな。エイル様のこと、レフォアのこと、これからのこと……俺にはすべきことが多くある。自分一人の幸せを追求している暇はない。誰かを幸せにしてやる余裕もないんだ。だから、クレオの気持ちは有り難いんだが……」
「……」
「すまん」
「いえ、いいんです」
両手を振って、クレオは素直にそう言った。笑顔さえ浮かべられそうだった。
「クレオ」
「私、言いたかったんです。私が思ってること、知って欲しかったんです。それでどうしようとか、どうして欲しい、とか……そんなの全然考えてなかった。シキの気持ちとかも考えてなくて……ごめんなさい」
「いや」
「聞いてくれて、嬉しかった。ちゃんと話をしてくれて、本当に嬉しいの。いつか……今度のことが全部決着したら、元の、昔の、世界に帰るわけで……帰ったとき、何がどうなっているか分からないけど、とにかくすべてが終わって、平和になったら……そしたらシキも幸せになろうって、そう思うかもしれない。私は、シキにそう思って欲しい」
「……」
「私はその、シキの好きだった人を知らないけれど、その人もきっと本当にシキのことが好きで、幸せになって欲しいって思ってたんだと思う。私も……シキが幸せでいてくれたらいいと、本当にそう思います」
「クレオはいい子だな」
クレオは黙ってうつむき、首を横に振った。自分の意思とは無関係に涙が浮かんでくるのを、シキに知られたくはなかった。さっきまで穏やかだったのに、今は体が震えている。何故自分が泣きそうなのか、自分でも分からない。胸は苦しくて、呼吸は細切れになっていて、目をしばたいても涙を止めることはできそうになかった。
「私、寝ます。見回り、気をつけて」
一生懸命にそれだけを言うと、クレオはシキに背を向けて分厚い布に包まった。これなら顔を見せずに済む。シキはパージの上から二度、優しく叩き、「行ってくる」と言った。シキが剣を取り、パージをまとって出て行く気配を感じながら、クレオは目を閉じ、じっと動かずにいた。
エイルは、夢を見ていた。何の夢かは分からないが、同じ夢を見たことがあるような気がする。夢の中の自分と、それを見ている自分とを感じ、不思議な感覚の中で揺られながら、不安に襲われる。そうだ、これは前にも見た夢。あの、反乱の朝だ。
――殿下、殿下。
――ここだ。どうした。
――ここはもう駄目です。さあ、お急ぎください。
――嫌だ、怖い。
――大丈夫です。母君も、みんな一緒です。
おかしいな。エイルは違和感を持った。あの朝、母上はいなかったのに、と。
――お早く。殿下。アルヴェイス殿下。
誰だ。私か? いや違う。けれど、呼ばれている。自分を呼ぶ声が、次第に大きくなってくる。確か、前にもこんなことがあった。
「……様、エイル様」
エイルはぼんやりと目を開けた。薄絹が吊ってある天蓋……ではなく、ちょっと変な匂いのごわついた毛布が目に入る。冷たい夜風を鼻先に感じ、砂と小石の混じる地面を見て、エイルはここが砂漠だったと思い出した。よろよろと起き上がると、シキが優しげな瞳で笑っている。
「お目覚めですか? 夜中に申し訳ないのですが、交代の時間ですので」
「あ、ああそうだったな」
「何かお飲みになりますか?」
「うん。あ、いや、自分でやる」
「私にやらせてください」
そう言って笑ったシキは手際よく茶を淹れ、暖かな茶で満たした杯をエイルに手渡してくれる。薪にはすっかり火が戻り、暖かな炎がちらちらと燃えていた。
「見回りは済ませました。特に何もありませんでしたので、ご心配なく」
「そうか、ご苦労だった」
「これからしばらく、次にリュークを起こすまでは火の番ですね」
「うん。もう夜明けもそう遠くはなさそうだな。薄明るくなってきたらリュークと交代しよう」
「私もお付き合いしましょうか」
「いや、一人でできる。……まあその、眠くないなら少し話でもするか」
「はい」
シキは微笑み、エイルは照れくさそうに額をかいた。その額に金冠はない。金冠はこれまでずっと、外すことなくはめていた。淡い水色の髪の下で光る金冠は、エイルにとってある種の自己証明だったのだ。けれど今、彼は金冠にこだわらなくなっていた。
砂漠の乾いた風に吹かれて、エイルの柔らかかった髪もぱさついてしまった。前髪を上げておく方が楽だと気づいたエイルは金冠を外し、頭に布を巻きつけて、上げた髪を留めるようにしたのである。それは部落の少年たちと同じ格好だった。肌の色も顔立ちも違うので彼らとは明らかに見分けがつくが、服装や髪型などが近づくだけで、ぐっと似るものだ。エイルはそれを喜んでさえいた。
「エイル様は……大人になられましたね」
「うん? どういう意味だ」
「この一年で、大きく成長なさいました。驚くばかりです」
「そんなことは、ない。私はまだ子供だ」
「子供は、そうして己の未熟さを認められないものです。以前のエイル様なら、『そうだ、私は成長した』などと仰ったかもしれませぬ。でも今は、まだまだ成長の余地があると分かっておられる」
「……」
「十分に成長し、立派な大人と言われる人間でも、弱さや未熟さは持っているものですよ。それを認め、克服したいと努力し続けることが大事なのです」
「うん、きっとそうなんだな」
エイルの言葉にうなずき、シキは夜空を見上げた。
「私は今まで、エイル様を少し甘やかしていたのかもしれません。王宮にいたときも、この旅に出てからも。双子やリュークはエイル様が王宮にいたころを知らず、そのせいもあって無礼なことも言いますが、彼らとの出会いがエイル様にもたらしたものは大きかったと思います」
「私もそう思う。以前は分からなかった、いや知ろうともしなかったことを、この旅の間に随分と学んだ気がする。金を稼ぐこととか、食事を作ることとか、生きていくためにはしなければならないことが山のようにある。……城では、私が欲しいものは言えばすぐに用意された。嫌だと言えばすぐに目の前から消えた。それがどういうことなのか、私は知らなかった。私一人のためにどれだけの人間が動いているか、想像もつかなかった」
「周りが知らせようとしませんでしたから」
「私は大いなる庇護の元に育ち、世間というものを知らず、傍若無人であったようだ」
「エイル様。それを反省なさることはありません」
「何故だ。私は人に与えられるばかりで自分では何一つできないのだぞ」
興奮した声を出し、エイルは立ち上がった。悔しさに顔が赤くなり、両の拳が握り締められている。シキは寝ている者を起こさぬようにと、指を立てて唇に当て、エイルを座らせた。
「エイル様、貴方は統治者となられるお方です。王族として生まれついた貴方の、それが運命です。多くのものを与えられていると知ったなら、それを返せばいいだけ。それは、貴方が良き治世をするということです」
「それは……」
「今の状態からは何とも言えませんが、いずれ、元の世界に帰れたとしましょう。恐らく、反乱が起きた事実は変わりません。ですが反乱を平定し、レフォア国に平和が戻ったとして、誰が国を治めますか」
「それは父上が」
「陛下も、シエル殿下もいらっしゃらなければ」
「……私だ」
「そうです。貴方が、レフォアの王になるんです。もし、陛下やシエル殿下がご生存であったとしても、国は荒れているでしょう。反乱のために政治は乱れ、流通、交易を含めた経済も滞り、民は疲弊しています。そのとき、王として、あるいは王族の一員としてエイル様がすべきことは何だとお思いですか」
エイルは何も言わず、自分を守り続けてきた青年を見返した。
「貴方は、反乱で乱れたレフォアという大国を、治めなくてはならないのです。そのためにはもちろん多くの人手がいるでしょう。多くの知恵者、武者に助けられ、それでも国には王が必要です。反乱を起こし、国を乱した者では王になれません。平和な治世が必要なのです。民は、平和な暮らしを、そしてそれを保証してくれる王を求めます」
「レフォアの民に報いるために……私ができること、か」
「……王族、それに我々貴族も、民から納められた税金で暮らしています。ですから金を稼ぐ必要はない。食べ物も、着る服も、豪華な城も、すべて民の稼いだ金からできています。その恩をどう返すかと言うなら、彼らが安心して暮らせる社会を作ること。それが王族としての務めです」
「そうだな……。今はまだ何もできぬが、いずれその時が来たなら、私はレフォアの民のために尽力しよう。そのためには骨身も惜しまん」
「素晴らしい。王族の鑑ですね」
「そう褒めるな。当然のことだ」
「はは、エイル様らしいお言葉ですね」
シキに寝て良いと言い、エイルはその後も一人で火の番を続けた。そしてメルィーズがすっかり傾き、夜明けが近づいたころ。
「そろそろだな。……おい、リューク」
「うーん……」
「時間が来たぞ」
近づいて耳打ちしたが、リュークは目を覚ましそうにない。エイルは「まったく……」と呟きながらもう一度呼びかけた。が、返事はない。パージ越しに肩や腰を揺すってみるが、たいした反応は見られなかった。すっかり寝入っているようだ。
――いい加減にしろ、この寝ぼすけ。
心の中で毒づき、パージから突き出ているリュークの鼻をぎゅっとつねる。
「いって……! な、何だよ、何だってんだ……」
寝ぼけた顔でリュークはあたりを見回していたが、エイルの仏頂面を目にしてようやく事情が呑み込めたらしい。
「そうかそうか、見張りをするんだったな。ちぇっ、せっかくいい女の夢を見てたのに」
「素敵な時間を邪魔して悪かったが、もう夜明けも近い時間だぞ」
エイルに起こされ、リュークは不機嫌そうな顔である。くしゃくしゃになった前髪を無造作にかき上げ、大きな伸びをした。
「眠気覚ましに茶を一杯……」
「私に淹れろとでも?」
「いいじゃねえか、たまにはお前も淹れろよ。お前のためにもなるわけだし」
「本当にしょうがない奴だな。なんだかんだと言って、自分が手を抜きたいだけじゃないか」
「ははっ、ばれたか」
リュークは軽い笑い声を立てた。エイルは茶を入れリュークに杯を渡す。焚き火を前に並んで座ると、リュークはエイルに問いかけた。
「夜中に起きてたことなんてないんだろ? どうだった」
「うーん……寒かったな」
「まあ、それはそうだろうな。お疲れさん。火を絶やさぬようにしながら、一人でぼーっとしているのはつまんなかったか?」
「いや、考えごとをしていたからな」
「へえ。何を考えてた?」
「まあいろいろと」
「例えば」
「そうだな……リュークの生い立ちとか」
「嘘つけ」
片手で打ち消すような仕草を見せるリュークに、エイルは笑って言った。
「興味があるのは事実だぞ。リュークは私と違う。どんな育ち方をしてきたのか、どんな人間なのか、私は大いに興味があるんだ。この世には、私の知らなかったことが多くある。私は今、もっといろいろなことが知りたいのだ」
リュークは感心したような顔でエイルを眺めた。
「王子様ってのは偉そうに踏ん反り返ってるだけじゃねえんだな」
「……まあ、以前は私もそういう感じだったが」
「よっし。あんまり綺麗な話じゃねえけど、俺の話をしてやるよ」
そうは言ったものの、これまで人にそういった話をしたことなど滅多にない。リュークはどこから何を話したものかとしばらく思案した。指を顎に当て、視線を宙に彷徨わせる。
「俺は親の顔を知らないんだ。どこで生まれたのか、国も町も分からねえ。草っぱらで凍えてたのが最初の記憶かな。多分、誰かに拾われたんだろうけど、覚えちゃいねえ。奴隷として売られたようだった。ひどい目に遭ったぜ。何とか逃げ出して、ガキの時分はルセールの王都の下町で暮らしてた。多分、五つかそこらだったと思う」
「五歳で?」
「ああ。残飯をあさったり、人の財布をかっぱらったりしてな」
「……」
「善悪なんて誰も教えなかったからな。金を稼ぐ手段もないし、生きていくためには人のものを盗むしかなかった。それが当たり前だった。俺の住んでたあたりは下町の中でも貧民ばっかが住むところで、みんなそうやって生計を立ててたんだ。毎日、食うことしか考えてなかった。服なんかいっつも同じ。風呂も当然入れやしない。みんな臭かったなあ」
そんなことを、それでもどこか懐かしそうな顔で話すリュークに、エイルは言葉もなかった。出会ったときの彼は、長い髪を綺麗にまとめ、洒落た旅装に身を包んでいた。エイルは昔のリュークを想像しようとしたが、どうにも思い描けなかった。
「毎日腹を減らしてた……あんな生活は二度とごめんさ。もっと綺麗な服を着たかったし、ちゃんとした飯を食いたかった。周りの奴らは最初っから諦めてたけど、俺はいつかこんなとこ出てくって思ってた。そんでヴィトに会って、飯を食わせてもらった。十四くらいだったかなあ。いろいろ仕込まれて……盗みの技術も上がった。そんで盗んだ金を貯めたのさ。その金で初めて、ちゃんとした買い物をしたんだ。服や靴を買って、散髪した」
「さぞかし気持ち良かっただろうな」
「いやあ、どうかなあ。さっぱりしすぎて居心地悪かったぜ」
「そんなものか」
「垢が落ちて寒かったんじゃねえか? なんてな。だがまあ『これでようやく普通の人間になれた』とは思ったよ。それまでは人間として認められてないようなもんだったからな。随分ひどい扱いだったぜ。奴らは俺らをいじめるのが楽しみみたいなもんで、汚ねえ、邪魔だって蹴られたり、石を投げられたりしても文句言えなかった。貴族街には近づけもしなかったしな」
「……」
「あそこにいる限り、俺らは人間じゃなかった。汚いどぶねずみさ。でもそれが当たり前だったし、嫌だろうが何だろうがそういうもんだから受け入れるほかなかった。んで……盗賊ギルドに入った。仕事として盗みを引き受ける組織さ。だけど、どうもそういう人間関係とか組織とかってもんに馴染めない性格なんだな。ギルドも嫌になって抜け、有り金全部を持って貧民街を出た。そのときはもう、本当にいい気分だったな。それから一人で旅をして……まあ今でもそうやって暮らしてるってわけ」
エイルは何と言えばいいか分からないでいた。あまりにも自分と違いすぎるその生い立ちを、エイルはただ黙って聞いているしかなかった。
「ヴィトには世話になったんだ。面倒だし、変な奴だけど、いろいろと教えてもらって。字も読めるようになったしな。その後あいつはコーウェンで師匠とかって人と出会ったらしくて。まあ俺もよく分かんねえけど、とにかくすごい人らしい」
「その師匠という人は、力のある魔術師なのだろうな」
「だと思うぜ。俺は会ったことないけど、ヴィトは、自分が絶対に敵わない人だって言ってた。そういうことはまず言わない奴なんだけどな。……お前ら、過去の世界から来たって言ったよな?」
「ああ……」
「多分その師匠って魔術師なら、時間を越えるような魔法も使えるんだろう。きっと元の世界に帰れるさ」
「だといいが」
「この先、まだまだ大変だとは思うが、頑張れよ。俺は案内くらいしかできないけどな」
「十分、頼もしいと思うぞ」
「王子様に褒めていただき、光栄に存じます」
大仰な格好で深々と一礼すると、リュークはパージを手に取った。
「ちょいと話し込んじまったな。そろそろ見回りに行かなきゃ。お前ももう寝ろよ」
「ああ、そうさせてもらう」
エイルが毛布に包まり、リュークが見回りに出かけると、動くものの気配はなくなった。
砂漠の夜が白々と明けようとしている。東の地平線に金の線が走ったかと思うと、その中央から眩い光が広がり、ハーディスがその大きな姿を地上に現した。徐々に盛り上がるハーディスは、やがてその黄金の光で砂漠を染め、大地を満たす。じりじりと焼け付くような熱気があたりを覆い始めた。
昼は暑さを避けて木陰で過ごし、夜は見回りと火の番をするだけの日々が繰り返されていた。朝と夕方、部落からイカルとスナイが食事を運びに来る以外、訪れる者もなく、ただただ静かな時間が過ぎていく。遺跡荒らしと称される者も、一向にその姿を現さないようだ。情報を求めようにも、イカルたちはいつもそそくさと帰ってしまうし、彼らが何か重要なことを知っているとも思えないのだった。
「なあ、もうやめようぜ」
ついにリュークがそう言い出した。
「いい加減長すぎる。冗談じゃねえよ、いつまでやりゃいいんだ」
「そうは言っても……」
「食糧をもらうためでしょ?」
クリフは困惑気味である。クレオも、自分の答えに自信がなさそうだ。
「見張りをしたからって食糧を分けてくれるとは限らないんだぜ。何の約束もしてねえからな」
「そう言うな」
苦笑しながら言ったのはシキである。
「もしや今晩にも夜盗などが現れ、遺跡を荒らすかもしれん」
「あんたはそう言うが、何の根拠もないじゃないか。昨日も、一昨日も、その前も! なーんもねえ! 明日以降も続くさ!」
「それは……」
口ごもるシキに、リュークは口早に畳み掛けた。
「いつ現れるかも分からん遺跡荒らしを捕まえなきゃ、この仕事は終わらねえ。いや、いつになっても終わりゃしねえよ。第一、元からあいつらの策略かもしれないじゃないか」
「何が言いたい」
「嘘だってことだよ。遺跡荒らしとか何とか、全部さ。外部から来た俺たちをはめたんだ」
「まあ、そうだな。そうかもしれん」
「だろ? だとしたらやる意味なんか……」
「だが我々をはめて、彼らに何の得がある」
「あん?」
「毎日、朝晩と食事を届けてくれているんだぞ。簡単なものだが、五人分の食事だ。もう十日以上になる。我々をここに足止めしたいだけなら、彼らがそんな犠牲を払うだろうか」
「私が思うに」
エイルが口を挟む。
「恐らくこれは試練なのだろう」
「試練?」
双子が口を揃え、同時に首をかしげた。
「つまり、彼らは私たちを試しているのだ。理不尽な要求にどこまで耐えるか、と。私たちがもう止めたいと言い出せばそれで終わり。もちろん食糧などはもらえない。部落を追い出され、砂漠の真ん中で飢え死にするだけだ。勝手に逃げ出したところで結果は同じだな」
「じゃあ、あいつらに認められるまでここにいろってのか」
リュークが飽きれ返った顔で髪をかき上げる。冗談じゃない、といった様子だ。シキが慰めるように言って聞かせる。
「我々は、彼らの信用を得なくてはならない。そのためにはまず我々が相手を信じることが大切だ。理不尽な要求にせよ、誠実に応えれば気持ちは通じるものだ。このままここにいても死ぬわけでもない。どうあっても急がねばならんという事情があるわけでもない。我慢しよう、リューク」
「ちっ、馬鹿馬鹿しい」
リュークはそう吐いて捨てたが、それ以上何かを言う気もないようだった。力なく丸太に腰かけ、地面に唾を吐いた。
そんなやり取りがあってから、さらに数日。セサルの婚約者だというレザがやってきて、彼らの役目は急に終わりを告げた。遺跡荒らしは嘘ではないがここ一年ほどは姿を現してはいないとのことだった。
「やっぱりな」
舌打ちをするリュークを、レザの兄がじろりと睨む。リュークは小さく舌を出した。
「しかしよく見張りを続けてくれた。この半月、お前たちがこの部落の安全を守っていたのは確かなことだ。我々はお前たちを客人と認め、食糧を分け与えると約束しよう」
約束通り、彼らが砂漠を出るまでに足る食糧はすぐに用意され、彼らは丁重に礼を言った。レザは申し訳なさそうな顔だ。
「長い間、足止めをさせてしまって済まなかったね。私がもう少し早く帰っていれば……」
「レザのせいじゃない。何にせよ、会えて良かった」
「セサルが無事にやってるって分かって良かったよ。ありがとうね」
「彼が帰ってきたら、結婚するの?」
クレオの問いに、レザは日焼けした頬を赤く染めた。
「うん、そういう約束だから。待っているのは辛いけど、それもこの部族の女の務めなんだ」
「早く帰ってくるといいね」
「ありがとう。あんたたちも気をつけて行きなよ。王都へ行くのかい?」
レザの問いに、リュークがうなずいて応える。
「目的地はコーウェンだが、街道を通って行くのが早道だからな。まずはマイオセールだ」
「ヤーデの加護がありますように」
部落の者たちは部外者たちが入ってきても出て行っても変わらない。幼い子供たちは興味深そうにこっちを見ていたが、イカル少年はいつも通りユマの世話をしていた。見送りはレザとスナイだけだった。
砂漠から徐々に固い大地へ、そして大陸南部、内陸の荒野へと彼らは移動していった。そして、まだ傷ましい姿の王都マイオセールを通り、彼らは東の街道の先、アンワールへと歩を進めるのだった。
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