ブーメラン

僕は目が見えないから本当は書くよりも話したほうがラクで、
自分の考えていることをこうして文字にすることを面倒に思う。
考えていることの塊は一瞬で膨大なのに、文字にするために手間がかかる。
しかも、途中で誤変換もあるから、書いては戻り、書いては戻りで、手間が二重三重にかかる。
しかも書いているうちに考えていたことが飛んだりするからまた厄介だ。
本当は書いていなくても、飛んで消えるものは飛んで消えるのだから、文字にすることのせいにしたらかわいそうだ。

大人になって、「あれはいやだったな」とあとから思い出すことがある。
お盆休みの帰国ラッシュのニュースで、空港でインタビューに答えていた子供のことが嫌いだった。
「ハワイ!」
「海が楽しかった!」
そりゃ楽しかったであろう子供と、それを奈良の山奥で見ていた僕。
その子どものバカっぽさにイライラしながら、でも妬んで羨ましく思っていたことに大人になってから気付いた。
だめだ、感情が波立つと誤変換が増える。

自己啓発の本を読んでいると、よくこんな行がある。
「成功した人に嫉妬していると、自分が成功したときも自分に嫉妬が返ってくるから、成功が遠のく。」
これを言われて幸せな気持ちになる人ってどのくらいいるのかと思う。
みんな自分の中から溢れ出る嫉妬や妬みの扱いに困っている、ブーメランの仕組みについての解説なんて求めていない。
勝手に「みんな」として、世の中の大多数を巻き込んでますけど、大丈夫ですか?
そして、嫉妬と妬みは一緒ですね。

自分への無駄な期待値の高さが自分を苦しめることがある。
誤変換なくタイピングできるわけないのに、誤変換のない世界を夢見てるから、そのギャップに苦しめられる。
人の成功を素直に喜べないとき、それをできない自分のことを「器の小さい奴だ」と自分を責めたり、自分にがっかりしたりする。
そもそも自分への期待値が高すぎると思う。
そんなに高尚ではないし、心のきれいな人間ではないし、強くもない。

そう、自分はそんなに強くないとつくづく思う。
どんなに大丈夫なフリをしても、ちょっとしたことでぐちゃぐちゃになる。
外を歩いていて予期せず怪我をしたら、白状を折りたくなる気持は昔と変わらない。
導火線に火がついてしまったら、感情が爆発しそうで恐いという気持をずっと脇に抱えている。
どうせならもっと温かくて柔らかいものを脇に抱えたいと思う。
例えばそう、なんだろう、いや、ずっと何か脇に抱えていたらそれが何であれ邪魔だな。
ただでさえ、いつも白杖も持ってるのに。

目が見えないのはまさに不自由だけど、目が見えるようになりたいかどうかを聞かれるのも考えるのも億劫だ。
そういうエモーショナルなことよりも、フリーハンドで歩きたいという気持なら自分にとってリアルだ。
ランニングの伴走者が、ときどきわざとロープを離して僕を一人で走らせてくれる。
あれは気持いい。
爽快とか楽しいとかではなく、気持ちいいのだ。
あの気持ちよさは僕にしかわからない。
そう思うと僕のことを羨ましいと思う人もいるだろうか。
ブーメランが返ってきた。

よかった、これで閉じれるなら、もう誤変換は心配しなくていい。

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