死 生成する宇宙
死は色んな言葉で語られてきた。
死は隣り合わせ
生は死に含まれる
死は存在しない
これらはぼくと同じような死生観で語られてきた言葉だが、どれも人間側に立った言葉だと思う。
一般的概念では肉体的死(脳死)で終わり。
ヌーソロジーを始める前の自分の考えはヨガ哲学や田坂広志氏の著作を読んで、死は存在しない、生も死も一緒という感じで大雑把に捉えていた(ヨガ哲学では熟睡とサマーディと死は同じと解説されている)。
ヌーソロジーと出会ってからは、「ここが死の世界」と知ったが(上記2つとは違うニュアンス)、何故「ここが死の世界」と言えるのか、過日行われたサロンのレクチャーにてより明確になったと思う。
2月最後の土曜日、ヌーソロジーサロン、〈ヌーソロジーの現在#19〉において、内在における素粒子構造と死、そして宇宙の生成についてのレクチャーが行われた。
その時、ぼくが取ったノートとともに記事を書き進めていきたい。

人類の歴史発達ケイブコンパス。ドゥルーズ&ガタリの過去レクチャーを観た時取ったノートに上書きされてるので凄いことに😅💦
死というものをどう感じているか
どう定義っているかは
結構個人差があると思うけど、
ぼくは死というものは概念的なもので、
そのような固定観念とは本来別物だと、
結構若い頃から、そう思っていたのだけど、
ヌーソロジー提唱者半田さんの考えは
死に対する日本の定義づけからすると
全く違うものであって
死は生者の無限遠点に位置するものかな
なんて自分は思うのだけど、
その無限遠点の向こう側で
歴史に名を残さなかった
累々たる無数の無もなき他者の死が
折重なっていて、
その無数の死は逆に持続空間において
生の世界を生成しているというのが、
半田さんの見方というか知覚というか、
その2つに思考も重ねて、
死は終わりであり
始まりであり
宇宙生成の持続空間
と語られているのだな、
というのがぼくの理解。
つまりは、
ぼくらが生きている
肉体的自我として生きている世界は
その裏で無数の累々たる
名も残らなかった死者達に
支えられている
与えられている
のだなと。
ぼくも若い頃から
「死」という概念について
考えてきたけれど
ここに来てかなり
真実に近づけて来てるのではないかな
という実感。
昨日行われたヌーソロジーサロンの
ノートとともに🌟
何か感じるものがありましたら幸いです🌠





「死」でこの世界での生は終わりとされているけれど、「死」は終わりでもあり、始まりでもある。
ぼくらは肉体的自我の死を迎えるとともに
「死」という一点の向こう側の世界へ参入する。
「死」は無限遠点でもあり、
生と死後を分ける境界面にもなっているのだと思う。
ヌーソロジーによればそれはヒッグス粒子、ヒッグス機構が量子力学的には物語っているようだ。
ぼくという自我存在は
累々たる無数の無もなき死者たちの
生成の結果として存在している。
そんな事を想いつつ、
今生きている人達の事を
想った日となりました。
ナマステ✨️🐉𓃗
