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「一瞬」のために世界はある。平日の午後、大雨を逃れて観た『サンキュー、チャック』と極上の余白

今朝の関東は、笑ってしまうくらいの土砂降りだった。

傘を斜めに構えながら、逃げ込むようにオフィスのすぐ近くの映画館へ滑り込む。 「ちょっと抜けます」程度の感覚で、平日の真昼間にさぼる大人の特権。

今日が日本公開の初日だと知ってしまったら、居ても立っても居られなかった。2時間の暗闇を抜け、劇場の扉を押し開けると、そこにはまるで夏がフライングしてやってきたような、眩しい日差しと熱気が待っていた。ついさっきまでの重たい雨雲が嘘のような青空。

手には、氷が溶けてすっかり水っぽくなったドリンク。それを片手に、すっかり様変わりした街をゆっくりとオフィスへ向かって歩く。

この、映画館の非日常から現実へとグラデーションのように戻っていく帰り道の時間が、なんだかたまらなく心地よかった。

映画館という「余白」の贅沢

ふと、高校時代を思い出す。予備校で模試を受けた帰り、答え合わせもそこそこに、一人で映画館に寄り道していたあの頃。

当時、まだシネプレックスなんてものはなく、繁華街の映画館の暗闇の中でただスクリーンを見つめる時間が、日常からのシェルターのような役割を果たしていた気がする。

大人になり、40代で会社を経営するようになると、日々のあらゆるタスクに「意味」や「結果」、あるいは「効率」を求めがちになる。子どもたちとしょっちゅう映画を観に行くのも楽しいが、ポップコーンを片手にワイワイと楽しむエンタメとはまた違う、あの頃のような静かな没入の時間がたまに恋しくなる。

今日観た『サンキュー、チャック』は、スティーヴン・キング原作の、まさにそんな凝り固まった大人の思考に「余白」をくれる作品だった。

野暮な答え合わせは手放して

この映画は、物語がACT 3から逆行して始まるという奇妙な構成をとっている。登場人物たちのセリフにはどこか不思議な違和感があり、観客は序盤から「これはどういうことだ?」と頭を働かせることになる。

けれど、観進めるうちに気づくのだ。「つまりこういうメッセージだ」とか「あの伏線はこういう意味だ」と、理屈で正解を当てはめようとするのは、ひどく野暮なことなのだと。

劇中、重要なモチーフとして引用されるウォルト・ホイットマンの詩が、私の心に深く静かに突き刺さった。

“Do I contradict myself? Very well then I contradict myself, (I am large, I contain multitudes.)”
「私は自分自身と矛盾しているだろうか?よろしい、ならば私は自分自身と矛盾しよう。(私は広大だ、私の中には群衆がいる。)」

―― Walt Whitman, "Song of Myself"

わからないものはわからないまま、ただ提示される世界に身を委ねる。すべてを理解しようとするのではなく、自分の中にある矛盾も、広大な宇宙の一部として受け入れる。そんな鑑賞のスタイルが、結果や数字ばかりを追いがちな今の自分には、ひどくしっくりきた。

スマホの通知も届かない暗闇の中で、ただひとつの物語の余韻だけを反芻する。この余白こそが、劇場で映画を観るということの最大の醍醐味だと改めて実感した。

ほとばしる魂のダンスと、人生の肯定

ネタバレになるので詳細は伏せるが、言葉はいらない。ただ、劇中で彼がみせた一瞬の、命がほとばしるような魂のダンスシーンに、私はどうしようもなく涙が溢れた。

「一瞬のために、神はこの世界を創った」

物語の根底に流れるそのテーマの美しさを、頭で解釈するのではなく、劇場という空間でただ「体感」できたこと。それが何よりの贅沢だった。

宇宙の歴史から見れば、私という存在はちっぽけかもしれない。けれど思い返せば、私のこれまでの人生も、かけがえのない大切な「一瞬」の連続でできている。日本で運命の教授に出会い、才能を見出されて渡ったカリフォルニアでの大学院時代。あの頃に肌で感じた異国の空気や、心を震わせ
た景色の数々は、まさに私にとっての輝かしい「一瞬」だった。

私は現在仕事柄、ボーディングスクールやインターナショナルスクールに通う生徒、そして帰国子女たちを長年見守っている。

もっとも感受性の豊かな中高時代を海外で過ごす彼らもまた、きっとこんな風に、人生の宝物になるような「一瞬」を日々鮮やかに積み重ねているのだろう。

あの中高時代に海外を経験できるというのは、なんと豊かな「一瞬」の連続なのだろうか。

スクリーンの中の圧倒的なダンスシーンは、私自身の過去に散らばる記憶と、今目の前で見守っている若者たちの未来をも重ね合わせ、「それでいいんだ」と力強く肯定してくれたような気がする。

人生には終わりがあり、日常は時に退屈で残酷だ。

それでも、あの言葉にできないほど輝く一瞬があるなら、この世界は十分に生きるに値する。映画はそんな壮大な人間賛歌を、声高に叫ぶのではなく、静かに見せてくれた。

日常への帰り道

氷の溶けた薄いドリンクを飲み干し、夏の匂いを少しだけ引きずりながら、いつものオフィスへ戻る。

映画館で得た「余白」は、すぐに日々の業務や決断の連続の中に溶けて見えなくなってしまうかもしれない。それでも、あの暗闇で流した涙や、スクリーンから受け取った確かな熱量は、自分の中にひっそりと残り続けるはずだ。

たまには答え合わせをお休みして、平日の午後に映画館へ逃げ込んでみるのも悪くない。そんなことを思いながら、私はまたPCのモニターを開いた。

突然の個人的なnote

いつもはビジネスやプロダクト、あるいはグローバル教育についての真面目な考察ばかり書いているこのnoteですが、今回は突然、いつもと全く違うカラーの個人的な映画エッセイで驚かせてしまったかもしれません(すみません!)。

日々ものすごいスピードで変化していく日常の中で、たまにはこんな風に効率や正解から離れた余白の記録を残すのも悪くないなと思い、筆を執りました。原田の稚拙な文章をお読みいただき、まことにありがとうございました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
皆さんもぜひ、素敵な「余白」の時間をお過ごしください。