「おなじのきぐるみ」あとがき
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今回のお話は、5年ほど前に描いたひとつの作品が元になっています。
元になった作品は私の実体験をほぼそのまま描きました。
周りとうまく同じに出来ずにいじめられ、失敗を繰り返し、それでも夫と出会い子を産んで育てる中で発達障害というものを知り、合わない環境でうまくやれない娘が『自分はいらない子だ』と言い出したことによって、ようやく自分と他者を真剣に見つめ直し、生きづらさを手放していくお話です。
多くの方に読んでいただけました。
いいことばも、わるいことばもたくさん頂きました。
今、何年もたって当時を思い出すと、手放すまでの時間は本当にしんどかったなぁと思います。この作品を描いたときの私の思いは「こういう苦しい思いをしている人がいることを伝えたい」「そしてしんどい思いをしている人に"そのままでいい"を伝えたい」というものでした。
それはある種「私がしんどかったこと・様々な経験を経てしんどさを乗り越えたことを誰かに知ってほしい」という、究極のエゴでもあったと言えます。
作品に対していいことばを下さった方は「今まさにしんどい思いをしている人」が多かったように思います。要は共感してくれたということです。
しかし、そういう当事者に届くだけではあまり意味がないとも思っていました。しんどいよね、しんどいよねとしんどい記憶を共有して傷を舐め合うだけでは結局現実は変わらないからです。
私は、現実を変えられるようなところに作品を届けたかった。
でもそれがどこなのかはわかりませんでした。
当時のことを思い起こすと、わるいことばを下さった方もまた同じように「今まさにしんどい思いをしている人」だったように思えます。
ただ、そのしんどさが、私とは違うものだった方々です。
"みんなしんどいんだから、お前ばかりがしんどいと訴えるんじゃない"
そういう怒りのようなものがそこにはあったような。
この作品はSNS上に何度か上げているのですが、一度派手めに炎上したことがありました。
「障害者なんて世間にとって邪魔者だ、いっそいなくなったほうがいい」
「生きづらいとわかっていて子どもを産むなんて、生きづらさの連鎖でしかない。こどもがかわいそうだ」
「社会はやさしくないんだ、甘えるな」
そんな言葉がたくさん並びました。
当時はその言葉がとにかく痛くて、ただただ泣くしかありませんでした。
でも、そのことばを私にぶつけた人も、きっと私とは違うその人なりの生きづらさを抱えていたのだと今の私は思うのです。
障害名を掲げた生きづらさをアピールされることは、自分自身がそこに属さない場合、属したくない場合…鋭い凶器のようなものだったかもしれません。
「なんで生きづらいといいながら、理解してくれる相手が現れるのか」
「職に就けて、家族に恵まれているならいいじゃないか」
「誰にも愛されない自分よりずっとマシだよ」
そういうことばも、たくさんありました。
私への攻撃の言葉は、言葉を発した人の中にある『自分を見つけてくれる人が現れない寂しさ』や『社会に認めてもらえない苦しさ』が形を変えて向けられたものだったのではないかと思うのです。
きっと、みんな、何かしらのかたちで"生きづらい"のではないかと。
だからこそ『発達障害』という特定のカテゴリを使わずにもっと多くの人の生きづらさを包括できるようなお話にできないだろうかと考えてできたのが、今回の「おなじのきぐるみ」です。
発達障害の人は定型発達と言われる人と同じにできないことが多い故に生きづらさを感じる部分が多いのではないかと思います。
でも、実は、発達障害の有無に関わらず、誰もが周りに足並みを揃えようとして生きづらくなっているのではなかろうか…と思っているのです。
本来歩幅は人によってまちまちなのに、何故か一律に歩むことをよしとされがちな現代においては。
いつでも周りを気にして自分を隠し、誰かに嫌われないように取り繕ってやりたいことを我慢する。
"こっちだって我慢しているんだからお前も我慢しろよ"
苦しい着ぐるみの中で、お互い余裕がなくなった人々は
特に弱い立場の人に攻撃の矢印を向けます。
それが今回の物語で言うメイであり、小さな頃の私でした。
みんなが当たり前にできることを出来ない存在。
出来ることがなかったわけではありません。
ただ、出来ることと比べて出来ないことというのはとてもよく目立つものです。
メイは悪いことなんてしていないのです。
ただ、周りと同じように出来なかっただけです。
我慢している人は、人にも我慢を強いてしまいます。
それは小さな頃から当たり前に脈々と親から子に受け継がれてしまっているものなのかもしれないと、最近良く思うのです。
親は子に理想を着せようとしてしまいがちなのかもしれません。
自分がしたかった生き方。出来なかったこと。
本当の子どもの姿を見失うほどに、重なる理想で分厚くなるきぐるみ。
それは親自身も自分の親に着せられたものかもしれません。
物心ついたのがちょうどコロナ禍だった、という子の中には顔を出すのが怖くてマスクを外せなくなってしまった子がいるそうです。
同じように物心ついたころから親に着せられた心の着ぐるみを当たり前に着て生きてきた人は、苦しいと思っていても脱ぐのが怖いのではないでしょうか。
そんな世界の当たり前なんて変わったらいい。
誰もがそれぞれの違いを受け入れている世界。
そのままの自分でいることのほうが当たり前の世界。
誰も我慢していない世界。
苦しい我慢は自分にも、周りにも優しくありません。
我慢をしていない人は人に我慢を強いません。
これは「私の経験したしんどさ」だけではなくて「誰もがきっと多少なりとも抱えたことのあるしんどさ」のお話。
そしてその共通のしんどさを手放すためのお話です。
今の私は、誰もが自分にも周りにも優しく出来る世界を願ってこのお話を作りました。
あなたもおなじの着ぐるみ、脱いでみませんか。
きぐるみを脱いだ、息苦しくない姿で一緒に過ごす人と笑い合える世界へ。
どうかこの物語が、もこもこに着膨れしてしまった方の心の底まで届きますように。
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