【しまのれきし】第6回 三山時代とは何か
北山・中山・南山が並び立った沖縄
琉球王国が生まれる前、沖縄本島は一つにまとまっていたわけではありません。
北には北山。
中部には中山。
南には南山。
この三つの勢力が並び立っていた時代を、三山時代と呼びます。
琉球王国の歴史を考えるうえで、この三山時代はとても重要です。なぜなら、琉球王国は何もないところから突然生まれたのではなく、この三つの勢力が競い合い、つながり、やがて尚巴志によって統一されることで成立したからです。
つまり、三山時代は、琉球王国誕生の直前の姿です。
北山は、沖縄本島北部を中心とする勢力でした。
山北とも呼ばれます。
その中心は、今帰仁グスクでした。
中山は、沖縄本島中部を中心とする勢力でした。
浦添、のちには首里へつながる地域です。
三山の中で、最終的に琉球王国の核になっていきます。
南山は、沖縄本島南部、島尻地域を中心とする勢力でした。
山南とも呼ばれます。
島添大里グスクなどが、その拠点として知られます。
この三つの勢力は、単なる地理区分ではありません。
それぞれが王を名乗り、中国・明との関係を持ち、朝貢を行い、外からも一定の政治勢力として認識されていました。
ここが、三山時代の面白いところです。
三山は、沖縄内部の地域勢力であると同時に、東アジアの国際秩序の中で見られた存在でもありました。
北山、中山、南山は、沖縄の中で争っていただけではありません。
明に使者を送り、朝貢し、自分たちこそが正統な王であることを示そうとしました。
当時の東アジアでは、中国皇帝との関係が大きな意味を持っていました。中国から王として認められることは、権威を得ることでもありました。朝貢は、単なる儀礼ではなく、交易の機会でもありました。
つまり、三山時代の争いは、島内の支配をめぐる争いであると同時に、中国との関係をめぐる争いでもあったのです。
ここを理解しないと、琉球王国の誕生は見えてきません。
琉球王国は、ただ武力で三山を倒してできたのではありません。
沖縄内部の統一と、中国から認められる外向きの正統性が重なって成立した王国でした。
三山時代の背景には、前回まで見てきたグスク時代があります。
各地にグスクが生まれました。
按司が力を持ちました。
農耕が広がりました。
交易が盛んになりました。
鉄器や陶磁器が流入しました。
地域間の競争が強まりました。
その結果、各地の小さな地域権力が、より大きな勢力へまとまっていきます。
それが、北山・中山・南山です。
三山とは、按司たちの世界が大きくまとまった段階と見ることができます。
ただし、三山を現代国家のように考えると誤解します。
北山国、中山国、南山国と呼ばれることがありますが、それは現代の国境線を持つ国家とは違います。王がいて、拠点となるグスクがあり、周辺の按司を従え、明と外交関係を持つ政治勢力だったと考える方がよいでしょう。
境界線も、今の市町村や県境のように明確だったわけではないでしょう。
地域の有力者たちが、時に従い、時に離れ、時に争う。
三山内部にも、さらに多くの按司がいました。
つまり、三山時代は、三つの完全な国がきれいに並んでいた時代ではなく、三つの大きな勢力を中心に、複雑な地域権力が動いていた時代だったのです。
北山には北山の強さがありました。
北部は山が多く、地形も複雑です。今帰仁グスクは、その北山の力を象徴する大きなグスクです。北部の地域をまとめ、海上交通や周辺島嶼との関係も持っていたと考えられます。
中山には中山の強さがありました。
中山は、沖縄本島の中部に位置し、のちに首里・那覇へつながる地域を含みます。地理的に北と南をつなぎ、海上交易にもアクセスしやすい位置にありました。やがて、琉球王国の中心になる条件を備えていたと言えるかもしれません。
南山には南山の強さがありました。
南部の島尻地域は、独自の勢力を持ち、南山王を名乗る勢力がありました。島添大里グスクなどを拠点に、南部地域を治めていました。南山は最後に尚巴志によって滅ぼされますが、単なる弱い勢力ではありませんでした。琉球統一前の重要な一極でした。
三山時代を見る時、大切なのは、勝った中山だけを中心に見ないことです。
歴史は、勝者によって語られやすいものです。
尚巴志が統一したから、私たちは中山を中心に物語を見がちです。
しかし、北山にも南山にも、それぞれの地域の歴史がありました。
そこには人々の暮らしがあり、按司があり、グスクがあり、外交があり、祈りがありました。
琉球王国は、北山と南山を消して成立したのではありません。
それらの地域の力を取り込み、統合することで成立したのです。
ここに、統一の難しさがあります。
三山を倒すことと、三山を治めることは違います。
戦いに勝つだけなら、一時的には可能かもしれません。
しかし、その後に地域を治め、人々を従わせ、旧勢力を取り込み、貢納を集め、反乱を防ぎ、外交を続けるには、政治の力が必要です。
尚巴志のすごさは、単に三山を攻め落としたことだけではないと思います。
統一後に、首里を中心とする王国の形へまとめていったところにあります。
三山時代は、琉球王国誕生の前夜であり、同時に王国誕生の課題を示した時代でもありました。
地域ごとに強い按司がいる。
グスクがある。
独自の歴史がある。
明との関係がある。
交易の利害がある。
祈りの中心がある。
民衆の暮らしがある。
これらをどう一つにまとめるのか。
それが、琉球王国誕生の核心でした。
この時代を考えると、沖縄の歴史は一枚岩ではなかったことがわかります。
沖縄本島の中にも、北部、中部、南部の違いがありました。
地域ごとに地理も違います。
海への向き方も違います。
農地も違います。
有力者も違います。
祈りも違います。
琉球王国とは、その多様な地域を一つの王権のもとにまとめた政治体でした。
その意味で、琉球王国の誕生は、沖縄の多様性を消すことではなく、多様性を一つの秩序に組み込むことだったとも言えます。
もちろん、それは美しい話だけではありません。
統一には戦いがありました。
敗れた勢力がありました。
従わされた地域がありました。
新しい負担を負った人々もいたでしょう。
王国の誕生には、光と影があります。
しかし、その光と影を含めて、三山時代は沖縄史の大きな転換点です。
按司たちの地域支配から、三山の分立へ。
三山の分立から、尚巴志による統一へ。
そして、琉球王国へ。
この流れを理解すると、琉球王国は突然現れたものではないことが、よりはっきり見えてきます。
三山時代とは何か。
それは、沖縄本島が北山・中山・南山の三つの勢力に分かれ、互いに競い合いながら、中国・明との関係も利用し、王国誕生へ向かって動いていた時代です。
それは、地域権力が大きくまとまる時代でした。
海を通じた外交と交易が政治の力になる時代でした。
グスクと按司の時代が、王国へ向かう時代でした。
琉球王国を知るには、三山時代を知らなければなりません。
なぜなら、琉球王国は三山を統一して生まれたからです。
そして、三山とは、王国になる前の沖縄が持っていた地域の力そのものだったからです。
北山。
中山。
南山。
この三つの山を越えて、琉球王国は生まれていきます。
