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『鉄との戦い』第8話:名刺に書かれた名前

――受け取ったはずのバトンの先で――


社長になったはずなのに、なぜか“視線”が上から降ってくる。
父はもう引いたはずだった。
けれど気づけば、また動き始めていた。

何も言わずにプレスを動かし、勝手に見積もりを取り、
そしてある日、名刺が静かに差し出された。

その肩書きを見た瞬間、俺はまた、言葉を失った――


社長になったあとも、父は会社に来ていた。
正直、外回りやクレーム処理に追われ工場を見る余裕がなかったので、正直来てくれるのは、ありがたかった。

ただ、最初のうちは、何をするでもなく、
工場の片隅に座っていることが多かった。

「世代交代」は済んだ――
表向きは、そんな雰囲気だった。

けれど、少しずつ、父・鉄男は動き始めた。

気づけば、プレスを動かし始めていた。
誰に言われたわけでもなく、見積もりを勝手に取り始めていた。

そして、ある日。

従業員の一人が、俺にそっと名刺を見せてきた。
父が勝手に作ったものだった。

「代表取締役会長」

それを、目を盗むように取引先に配っていたという。

言葉を失った。

「代表」は本来、一人でいいはずだ。
俺が責任を負って立っているのに、
父がまた“上にいる”ような肩書きを名乗っている。

そのうえ、父が勝手に関わった案件でトラブルが起きると――
今度は一転して、知らないふりをする。

急に弱弱しくなって、
「俺はもう分からない」
とでも言いたげな顔で後ろに引っ込む。

結局、後始末をするのは俺だった。

クレームに対応し、納期を調整し、謝り、巻き取る。

すると、何事もなかったように、
父はまた元気そうな顔で工場に現れる。
まるで、すべて自分が片付けたかのような顔をして。

その頃から、父はまた外注の「取り巻き」を集め始めていた。
威厳を取り戻したいのか、かつての顔ぶれに声をかけ、勝手に仕事を出していた。

ある日、納入された品物を見て言葉を失った。
全数、不良。寸法も、仕上げも、まるで見ていない。

ぐちゃぐちゃになった品物も混ざっていた。

さすがにこれはまずいと、仕入先に伝えた。

「ちゃんとやってもらわないと困ります」

すると、その相手はこう言った。

「僕は、自信があります」

――目の前に並ぶ不良品を前にして、よくそんなことが言えるな。

話にならないと思って父を見ると、
「俺はもう代表じゃないから」とでも言いたげに、知らん顔をしていた。

誰が依頼したんだよ――
心の中で、静かに呟いた。

せっかく整えた空気が、また揺れ始めた。

俺が「代表」のはずなのに――
そう思わせてもらえない雰囲気が、また工場を覆い始めていた。

言葉には出さなくても、そういう空気が、
また、俺の周りを包み込んでいった。


あとがき

社長という肩書きを持っても、実感はなかなか伴いませんでした。
ましてや、それを揺るがす存在が、身内である「父」だった時――
どこに怒りをぶつけていいのかも分からず、ただ呆然とするしかありませんでした。

父が「代表取締役会長」と名乗り出したのは、ある得意先の社長に
「代表取締役は2人いてもいいんだよ」と言われたのがきっかけでした。
名詞だけ肩書を変えても意味がないのに。
でも、そのひと言が、“誰が代表か”という現場の空気を揺るがすには十分すぎたのです。

名刺一枚、言葉一つで、周囲の認識がねじれていく。
どこかで「父のほうがまだ上なんじゃないか」と思わせてしまう。

それでも、やるしかなかった。
誰かが責任を引き受けなければ、工場が止まってしまうから。

“世代交代”は、ただ役職を変えることではなく、
静かに、長く続く綱引きだったのだと、今なら思います。

父もまた、自分が守ってきた工場に、強い愛着を持っていたのだと思います。
限界を超えて体がボロボロになっても、工場に立ち続けようとする姿に、
父・鉄男の想いの深さを感じずにはいられませんでした。


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