静涼
「今年の夏は記録的な猛暑になるでしょう。熱中症対策をしてお過ごしください。」
ー遠くテレビから流れてくる微かな音。
耳元で慌ただしくなるモーター音にかき消されそうになりながらも亮二にははっきりとうるさいくらいに入り込んだ。
はぁ、とため息をつくと身体の力がいっそう抜けるのに気付き姿勢を正した。
「行きたく無いなぁ。」
そう呟くと乾いた身体にワイシャツを通していく。
行き先はわかっている。
やることも決まっている。
いつまで同じことを繰り返すのだろうか。
なんて歌詞のような気持ちが芽生えることがあったりするが、
何も変わらないのは分かっているから繰り返すしかないのだと、革靴に入れる親指に力を込める。
陽の光を浴びて心の気を引き締めるフリをした。
通勤は電車で20分。朝が弱いから家賃が高くても職場の近くに住むほうがいい。
「おはようございます。」
「おはよう。」
デスクにつくと上司の岡さんがこちらを見ずに返事を返してくれる。
「今日、暑いですよね。電車の中みんなべとべとしてキツかったっすわ。」
「これ今週ずっとみたいだぞ。俺も小さい扇風機買おうかな。」
と、岡さんは斜め前でハンディーファンを片手にパソコンの電源を入れようとしている石上を見ながら答えた。
「あーじゃあ俺の分も宜しくお願いします。石上さんのやつどこのメーカーのです?」
「これー?去年のフェス行く前に彼氏に貰ったやつなんだけど、メーカーどこだろ?えーっとなんか英語で書いてあるから分かんないかも。」
「でもメイドインチャイナだってさ。」
石上さんにそっかー。と気のない返事と会釈をする。
「そしたらランキング1位のやつでいいんで調べてURL送っておきますね部長。」
「俺クレジットカード持って無いから買えないぞ。」
岡さんはパソコンの画面から目線を離さず、表情一つ変えずに答える。
「クレカ無かったら電子マネーとか使えなくないですか?」
石上が振り返り尋ねる。
「コンビニとかの買い物でもポイントつくのに勿体なーい。」
彼女は電子マネーのポイント画面を見せて自慢げに目を輝かせて岡さんのデスクまで椅子を転がせる。
「それに最近現金使えない店増えてきてますよね。」
亮二が畳みかけ、石上もそうそうと言って顔を見合わせいたずらに笑う。
「そういえば、ここの近くに新しい韓国料理屋が出来たけど、昼買いに行ってみない?電子マネーしか使えないけど。」
石上が親指をあっち方向に指して亮二の承諾と岡さんの反応を待っている。
「今日は午後一の会議があるから、棚橋は時間ないぞ。」
亮二が指でバツを作るのと同時に、岡さんが返事をする。
石上は唇をすぼませ、自分のデスクに帰っていった。
亮二の働く印刷会社は小さな規模で従業員も少ないが、交代制で24時間稼働の工場を持ち比較的仕事が多く遅い日は朝方に帰る場合もある。
岡さんを部長とした生産管理部は翌月までの印刷スケジュールを調整したり、下版データの追いかけや印刷物の色校チェックなどをおこなう。
「昨日、落丁トラブルがあったから製本機の生産ズレてるぞ。営業さんに連絡しておいたが、直接スケジュールの確認もしとけよー。」
「まじっすか。暑くて機械壊れちゃったかなー。ありがとうございます。」
と言って亮二は電話をしに廊下へと消えていく。
伸びをしながら今年のお盆は何日休めるだろうかと、岡さんは自分のデスクの後ろにあるカレンダーを見る。
保険会社から送られたカレンダーには海をバックに麦わら帽子を被ったキャンペーンガールの眩しい笑顔と『鈴華麦』という名前が書かれていた。
ー「むぎの友達の片山っているだろ?あの子ってどんなん?」
買ったばかりの慣れないスマートフォンで音楽を検索しながら亮二が尋ねる。
「なんだろ、天然?」と言って前の席の麦が体を後ろに向けてふふっと笑う。
「それじゃ分かんねぇよ。」
「本人は長女でしっかりしていると思っているけど、時々抜けてるところあって構ってあげたくなっちゃうんだよね。」
「そういやあいつ、むぎとしか喋ってるの見たことないかも。」
「そんなことないって。」
ふーんと亮二は指先を動かしながら返事をする。
「そんじゃ、部活行ってくるわ。」
「私も。」
教室の扉を開け、二人は入道雲がくっきりと反射して映るガラスを反対方向に歩きだす。
途端にあたりは静まり返り、またしばらくして蝉の鳴く声と吹奏楽部のトロンボーンの長く伸びる音が上の階から響き始める。
ガララッー
教室の後ろの扉が開く。
帽子を被ったその影は、亮二と麦の座っていた机の前に移動し、
その机に両手をつけながらグラウンドが見える窓に頭を向けた。
「むかつく。」
静寂の流れる教室の中で自分だけが聞こえるほどの言葉がうるさい程にこぼれ落ちる。
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