ヘッセ『デーミアン』
ラテン語学校に通う10歳の私、シンクレールは、不良少年ににらまれまいとして言った心にもない嘘によって、不幸な事件を招いてしまう。私をその苦境から救ってくれた友人のデーミアンは、明るく正しい父母の世界とは別の、私自身が漠然と憧れていた第二の暗い世界をより印象づけた。主人公シンクレールが、明暗二つの世界を揺れ動きながら、真の自己を求めていく過程を描く。
ヘッセの作品2回目は『デミアン』です。年表では1919年ジンクレールの匿名で発表され、当時の青年世代に電撃的な反響を巻き起こしたとされています。この1919年は気になる年です。第一次世界大戦が終結しベルサイユ条約が結ばれました。ドイツは戦後の混乱期だったわけです。
ヘッセは精神的に不安定な時期があり、ユングの弟子でもある精神科医ラングから二度の治療を受けています。『デーミアン』は最初の治療から数年後に上梓されました。そのため、ユングの分析心理学がいたるところに影響を与えており、ユングの心理学概念をわかりやすく反映させた文学作品としてたいへん貴重な作品となっています。
■主な登場人物(※中央公論社版の名称による)
ジンクレール
主人公はヘッセ自身の姿として描かれています。ジンクレールの少年時代、学生時代を通して、彼が外部の規範から離れ、徐々に自己の内なる声に耳を傾け、意識と無意識を統合して真の自己へと向かう過程を描いています。このような過程はユングの「個性化の過程」にあたります。
デーミアン
ジンクレールより年長者のデーミアンは彼を導く存在、ユングの「元型」でいう老賢者を象徴する存在として描かれています。
エヴァ夫人
エヴァ夫人はデーミアンの母であり、 ジンクレールの理想の女性像でもあります。彼女は彼の無意識にある太母やアニマとしての元型を具現化した存在です。
ピストーリウス
教会のオルガン奏者であり、 ジンクレールにとって老賢者の元型の役割を果たします。ジンクレールはデーミアンと同様に彼から精神的な導きを得ます。
ここで一般にはなじみのうすい用語の説明をしたいと思います。
■元型
元型とは、無意識の中に存在する人類共通の普遍的な心的パターンやイメージのことです。これは特定の具体的なイメージそのものではなく、イメージを生み出す可能性を持った、共通した基本的なの型のようなものです。元型の例としては、次のようなものがあります。
アニマ
男性の無意識に存在する女性的側面
アニムス
女性の無意識に存在する男性的側面
老賢者
知識、叡智、導きを与える存在
太母
養育、保護、創造の源
英雄
困難を乗り越え、自己を実現しようとする存在
自己
意識と無意識の全体性を統合する全人格の中心
■自我と自己
ユングは自我が意識の中心であるのに対して、自己(self)は意識と無意識とを含んだ心の全体の中心であると考えました。

『デーミアン』の中ではイメージやシンボルがよく出てきます。このイメージとシンボルの理解はとても重要なので少し説明したいと思います。
イメージは、心の目に映る具体的な表象を指します。これは、意識的にも無意識的にも生じる可能性があります。感覚的な経験や概念が心の中で形づくられたものであり、それは言葉によって表現することができます。
シンボルは、未知の、あるいは隠された意味を示すイメージですが、具体的なイメージを超え、多層的な意味や無意識のメッセージを伝えます。言葉や合理的な思考では完全に捉えきれない、無意識の奥にあるものです。それは、意識と無意識をつなぐ架け橋のような役割を果たしています。
『デーミアン』に出てくる「アブラクサス」は、古代の神の名前ですが、これは自己の奥深くにある、善悪を超越した創造的な力、そして、殻を破って真の自己として生まれ変わろうとする人間の内なる衝動を象徴したシンボルとして機能しています。シンボルは「生きた力」を持つと考えられます。それは見る人の心に働きかけ、感情や直感を呼び起こし、精神的な成長を促す力として作用します。

そのほかに「灰鷹」は、単なる鳥ではなく、ジンクレールの精神的な成長と自己の目覚めにおける大変重要なシンボルとして描かれています。
第五章でジンクレールは、導き役である賢者デーミアンからメモを受け取ります。

「鳥は、卵から抜け出用途努力する。その卵は、世界だ。生まれようとするものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は、神のところへ飛んで行く。その神の名は、アブラクサスという。」
彼はこの言葉に強く惹かれます。灰鷹は、アブラクサスという善悪を統合する神へと向かって飛んでいく鳥として描かれています。
アブラクサスは、外界である物質世界と内界である精神世界、善と悪といったあらゆる二元的な対立(二項対立)を内在する神です。灰鷹は、このアブラクサス的な力、すなわち既存の境界を打ち破り、自己(self)の全体性を求めようとする生命力のシンボルとして描かれています。
■ヘッセのメッセージ
二つの世界の統合
ジンクレールは、幼少期から「光の世界」と「闇の世界」という二つの世界の間で苦悩します。ヘッセは善悪という二元論的な対立を超えて、両方を受け入れ、統合することが重要であることを示します。真の自己とは二項対立するものを全て内包した全体性を重要と考えます。
自己の内面の探求
社会の常識や親、教師、教会などが示す道徳や真理は、個人にとっての真実ではありません。ヘッセは、外的な世界ではなく、自分の心の奥にこそ真の答えがありそれを問うことが大切だと考えました。
破壊と変容
前にも出てきましたが、「鳥は、卵から抜け出用途努力する。その卵は、世界だ。生まれようとするものは、一つの世界を破壊しなければならない。」という言葉は、人が成長し、真の自己となるためには、現状維持の殻を破り、苦痛を伴う生まれ変わりを経験する必要があることを強調しています。
他者依存からの離脱と自立
少年時代からジンクレールはデーミアン、ピスト―リウス、エヴァ夫人という導き手を頼りに精神的に成長してきました。
最後の章でヘッセは真の自己を発見するとは、他者への依存から卒業し、自分自身の内なるデーミアンと一体化することで示そうとしました。これは自己の運命と責任は自ら引き受けることが必要だからです。
これはブッダの教えにある自燈明にも通じる思想だと思います。
自由と孤独
ヘッセ自身がそうであったように真の自己を探究する道を歩む者は、社会からの孤立や孤独を伴います。世間の評価や他者の期待に流されることなく、自分の価値観や信念に基づいて生きることが大切です。このような個人の自由と、孤独を受け入れることの重要性をこの物語の中で示そうとしました。
『デーミアン』は、単なる青春小説ではありません。「どう生きるべきか」「真の自己とは何か」という、普遍的な問い(人生哲学)をテーマとした物語です。ヘッセは、誰もがジンクレールのように、自分自身の内なる世界を探求し、真の自己を発見して生きることを読者に知ってほしかったのだと思います。
■東洋思想の影響
本作品には東洋思想の影響が随所に見られます。第二章では「義」といった概念が出てきます。義とは私利私欲を捨て道理や人としての正しい筋道に従って行動することです。
第三章のデーミアンの瞑想シーンは「禅定」を髣髴とさせます。第五章のピストーリウスの説明のなかの、
「僕たちの魂も、人間の魂がこれまでにしてきた全部の経験を含んでいるのだ。・・・」
という言葉には「輪廻」の思想がはっきりとうかがえます。
■最後に
『デーミアン』の中には他にも夢分析や共時性などユングの重要な概念が出てきます。ヘッセの作品を読まれる前にユング心理学の基本的な部分についての予備知識があればより深く理解できるのではないでしょうか。
私も学生の頃にこの本を読んだとしてもほとんど理解できなかったと思います。前回読んだ『車輪の下』からはかなりレベルが上がっている印象を受けました。個人的な感想になりますが、『デーミアン』はこれまで読んだ文学作品の中では傑出した作品だと思います。
いろいろと書いてきましたがこの作品は読んでみないと分からないことが多いと思います。
新潮社刊の『デミアン』は223ページの比較的薄い本です。皆さんご一読されることをお薦めします。
参考図書
世界の文学37 ヘッセ 中央公論社
ユング心理学入門 河合隼雄 培風館
無意識の構造 改版 河合隼雄 中央公論新社
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