愛は正しく殺した。彼女を愛する前の僕を。
【あらすじ】
恋愛を経てから、名前や容姿が変わっていないだけで、自分の中身はほとんど違うものになってしまった——。
浩介は二歳年上の恋人、ゆう子から夏祭り後に突然別れを告げられる。混乱と悲しみの中で気付く自身の未熟さや関係のずれ。浩介は、そんな自分に苛立ち、自己嫌悪に陥るが......。次第に恋愛の本質や別れで得たものを見つけ、ゆう子へ手紙を書くことで思いを整理しようと決意する。愛により一度死に、新たな自分として生まれ変わったことを認識した浩介の成長と再生を、手紙の行方とともに描き出す物語。
好きだけじゃ一緒にいられない。大人の恋愛から生み出される結婚、子供、愛情の赤裸々な現実の姿が浮かび上がる。
車の窓を開けると蝉の音が車内を満たした。
「人いっぱいいるかな」
隣に座るゆう子が口紅を引き直しながら、言った。オレンジの香りがほのかに漂うそれは、浩介がゆう子と交際する前に誕生日プレゼントとして渡したものだ。
「どうやろう」
短い橋を渡り、住宅街を抜けると、もう屋台通りが始まっていた。重く湿った夏の夕刻に、木々と土、そして食べ物のにおいがする。
この時間なら、と会場からほど近い駐車場を目指して車を走らせてきたが、すでに道路は混雑を見せ、今にも動きを止めそうだった。
「やっぱり混んでるなあ」
体を左右に揺らし、駐車場の入り口を探しながら浩介は言った。
一六時過ぎ。カーナビには真っ赤な道路が目的地付近まで続いている。
「だから言ったじゃん。さっきのとこ停めた方がよかったんじゃないの」
口調とは裏腹に、ゆう子の手が浩介のハンドルを握った左手に伸びてくる。いくら冷房を効かせたって、運転していると自然と手は汗ばんでくる。横に恋人を乗せているとなると、なおさらに。
くぅー。
車が完全に止まると、浩介はハンドルから手を離し、片方の腕を上げ、伸びをする。車高が低いため窮屈な体勢ではあったが、それでも少しは体がほぐれた。と、同時にあくびが出る。幸福な未来を感じさせる穏やかな生活の気配が揺蕩う車内の空気に、浩介はしばし癒される。
「引き返した方がいいんじゃない」
ゆう子の声色には苛立ちが微塵も含まれていない。四方を仕切られた空間では、その人の本性が出やすいと聞いたことがあるが、ゆう子はどこにいても同じ調子で浩介に接する。まるで、ゆう子を中心に透明な壁ができていくみたいに。
「そうしよかあ」
浩介がハンドルに左手をかけようとする前に、ゆう子が握っていた手を離す。一気に体温が下がったような解放感と侘しさとが入り混じり、浩介は意味もなく左手を開いては閉じてを繰り返しながら、対向車線を注視し、ゆっくりとハンドルを右側に切った。
五分ほど走っただろうか。所狭しと家が立ち並ぶ中、ふいに不自然に空いたスペースが現れる。どうやら穴場らしい。思ったよりも近くにあった二台分のみの駐車場に車を辷らせる。
「着いたよ」
「ありがとう」
短い言葉を交わし、車を降りると、ゆう子が「はい」と言いながら浩介に手を差し出す。母親が小さな子供に危ないからと手を差し伸べる時と同じようにして。
いつだってそうだった。ゆう子は浩介の意図を先回りして汲み取ってくれる。出会った当初から交際して三年が過ぎようとした今までずっと。浩介はそれに甘えている。彼女に対する愛情を忠実に理解し、自分から積極的に行動をとったことがあっただろうか。ゆう子の奥でぼんやりと遠慮がちに照らされた割高な料金表を横目に、浩介は小さな白い手をとった。
「私、夏祭りなんていつぶりだろう」
「僕もや」
駐車場から徒歩で会場まで向かっていると、客引きやら子供やらの喧騒の隙間から、太鼓や笛などの和楽器の音がノイズ混じりに遠くの方から聞こえてくる。日本特有の夏の音。
「祭りって、夏の終わりって感じがしない?」
「せやなあ。帰りのなんや、虚しい感じとかいまだに覚えとるもんなあ」
なんなんそれ、とゆう子は笑いつつ浩介にもたれかかる。その柔らかな体の熱さを浩介は、はっきりと覚えている。三年前、初めて手を繋いだ時に感じた熱さ。女性独特の、というよりかはゆう子だけのその温度。
祭りの会場は、先ほど車から眺めた時よりも、混雑を極めているように見えた。大きな朱色の鳥居から真っ直ぐに伸びた道の左右には屋台がずらりと並び、人々の熱気が立ちこめる中、誘導棒を持った警備員が何人も練り歩き、車道にはみ出した人たちに注意を促す。
「なに食べようかな」
焼きそば。からあげ。焼き鳥。かき氷。いちご飴。他にもたくさん。目移りしていると、選べそうにない。
「とりあえず、ご飯ものでも食べようか。お腹空いたやろ」
「そうしよう。それじゃあ焼きそばと、あと、ビールも欲しいかなあ」
今日は祭りがあるから、と昼過ぎに行った喫茶店ではなにも食べなかった。浩介はゆう子に手を引かれるまま、一番近くの焼きそばを売る屋台まで向かう。
「へいらっしゃい、何人前しましょ」
「二人前で!」
「お嬢ちゃんかわいいから多めにサービスや」
「ありがとう!」
「おじさん、ビールってどこで売ってるか知ってますか?」
「お、ビールそこにあるやん」
「あ、ほんとですね、見えてませんでした。んじゃビールも二つください」
浩介はそのやりとりを横目に、お金——焼きそばが二人前で九百円、ビールが二缶で四百円の祭り価格分——を用意する。
じゃん、とゆう子が二つ分のフードパックを両手に、こぼれんばかりの笑顔で振り向く。
浩介はその笑顔に対し、曖昧に口角を上げたあと、店主にお金を支払い、ビールを受け取った。
「どこで食べようか」
とりあえずビールをバッグに詰め込み、ゆう子からフードパックを一つ受け取りながら、座れそうな場所を探す。
「あそこ」
指を差しながら、すでに歩き出すゆう子の先には、祭り用に簡易的な白い机と椅子が雑多に並べられていた。ずんずん進んでいくその後ろ姿に浩介は半ば感心しつつ、見惚れてしまう。そのせいでゆう子の後を追おうとするが、たちまち人々が浩介の前方を埋め、うまくいかない。
やっとの思いで、浩介が人々の流れを抜けるとゆう子はすでに椅子に荷物を置いたところだった。すぐ近くで子連れの女性が憎々しくその席を睨んでいる姿が目に入る。
「置いてかんとってえな」
遅すぎ、とゆう子は白い歯を見せながら言った。まったく悪意のない調子で。
浩介は鞄からビールを取り出しながら、以前交際していた女性に、
「もう遅いよ」
と言われたことをいやでも思い出してしまう。
「取り戻せんよ。だって私に興味ないやん」
女性はそんなことも言った。
浩介はその女性を確かに愛していた。ただ愛情表現が苦手だっただけで。それでも、女性は別の男へと逃げるように、浩介のもとを去っていった。憎しみ。怒り。気づいた時には、どの感情もぶつける場所が自分にしかなく、仕事に打ち込むことで無理やりに忘れようとした。そして、ようやく立ち直ったと自覚し始めた時、浩介はゆう子と和歌山で開かれていたレザーのクラフト体験で出会った。参加者が二人しかいなかったこともあったが、職人の男性が終始笑いを交えながら話し続けたため、体験が終了した時には、二人は自然と距離が縮まっていた。そして、お互いに作ったものを見せ合い、談笑する中で、和歌山には一人で旅行に来たことや、住んでいる場所がかなり近いことなど、共通点が多く見つかり、どちらからともなく連絡先を交換したのだった。
「革はねえ、ちゃんと手入れすれば、一生もんなんだよね。これは人間関係も一緒やねえ。ぜひ、今日参加していただいた皆さんにも、覚えていって欲しいな。皆さんと言っても二人やけど」
職人の男性が締め括りとして告げたその言葉はことあるごとに、二人の距離感を確かめる良い材料となっている。
「はやく、はやく」
ビールを手にふくれっ面でゆう子が待っていた。
ごめん、ごめん。そう言いながら乾杯を交わす。清涼感が喉を流れ、空っぽの胃に注ぎ込まれていく。暑さも相まってか、きりきりとした弾ける感覚がいつもに増して、長く尾を引く。浩介は、胃が急なアルコールの摂取で驚いてしまう前に、急いで焼きそばを啜る。すると、たちまち、異様な脂っこさがその感覚を絡めとっていった。
食べ終えると、駆け足でビールを呷ったこともあり、胃もたれとともに瞼が急速に重くなってくる。血液が隅々まで行き渡らず、思考が体を離れようとし始めている。だから、「あれやってみようよ」と言ったゆう子の声を耳ではなく、心臓の方が早く捉えた。
浩介は慌てて座り直し、ゆう子の視線の先へと目を向ける。そこには、射的の屋台があり、走ってきたのか、肩で息をする浴衣姿の子供らが前ではしゃいでいた。皆それぞれヨーヨーや仮面を持ち、覚えたての夏を満喫している。
「あれって。射的? なんか欲しいもんあった?」
浩介はやや驚いて尋ねた。
「ううん、ただやりたいなっておもっただけ」
ゆう子は自分から言い出した割にどこか上の空で、浩介もそれに狼狽えてしまい、間ができてしまう。
「じゃあやろっか」
浩介が答えると、ゆう子はそそくさと無言でフードパックや割り箸のごみをまとめて、近くのごみ箱に投げ捨てる。
何か気に障ったのだろうか。
浩介にはゆう子が機嫌を損ねたように見え、その理由を聞こうとしたが、どうにも祭りの浮かれた雰囲気を壊してしまいそうで、喉元すんでのところで堪えた。
射的の屋台では、さまざまな景品が用意されていた。どれもこれも子供用のおもちゃの類だったが、ゆう子は構わずお金を払う。浩介の分も。
「一緒にやろ」
浩介は木製の銃を受け取り、ゆう子の隣で景品に的を合わせる。バスッ、バスッと浩介の射った弾が景品の後ろにかけられた幕に当たる中、ちりんちりんと隣でハンドベルの乾いた音が何度か聞こえた。
結局、浩介の射った弾はどれもこれも見当違いのところへと飛んでいき、一度も並べられた景品にかすりさえしなかった。一方で、ゆう子はゲームなどの大きな景品こそとれなかったものの、見事、バスボムと知育菓子を手に入れていた。
「やるやん」と浩介が微笑みながら言うと、ゆう子が悪巧みするような顔で、へへへと笑う。その笑顔に浩介は安堵する。
それからは、いちご飴を食べたり、かき氷を食べたり、またもう一度買ったビールを歩きながら飲んだりして、祭りを大人なりの楽しみ方で楽しんだ。
「楽しいなあ」
祭り会場を後にする道中で、浩介がゆう子に微笑んでみせると、ふいに浩介の視界が暗くなった。ゆう子がキスしてきたのだと気づき、目を閉じる。消えそうに薄いオレンジの香りが鼻腔を通過していった。
交際の申し出はゆう子からだった。浩介は、二歳年上のゆう子の包容力に居心地の良さを感じていたとは言え、以前の交際相手とのこともあり、何ヶ月か答えを保留にしたあとで、そのおもいを受け取った。そのときも、ゆう子はふいにキスしてきたのだった。言葉の代わりみたいに。
外でキスを軽々としてしまうことに、いささかの抵抗はあったものの、気にするほどのことではなかった。というより、むしろ、浩介はゆう子のそういう邪気のない行動に惹かれていた。
唇が離れ、浩介が目を開けると、ゆう子はすでに、すたすたと先に歩いていってしまっていた。いつも、そうだった。外でキスをするときは決まって、何も言わずに一人先を歩いていく。照れ隠しなのか、余韻を味わうこともせず。浩介はその度に、ゆう子の、その後ろ姿だけが現実のような錯覚を覚える。彼女はどんな感情を抱いているのだろうか。今に至るまで一度だって尋ねたことはないその問いをまたしても頭に思い浮かべる。
浩介はゆう子に追いついて、何も言わずに横を歩く。
湿った夜気と川を流れる水の音が静かに二人の周りを満たしていった。
駐車場に着くまで、人通りが多かったこともあってか、思いの外時間がかかった。二人とも車に乗り込むなり、道中で買った飲料水をがぶがぶと飲み干し、長い息を吐く。
「料金払ってくるわ」
エンジンをかけ、冷房を最大風量に設定したあと、浩介はすばやく支払いを済ませた。たった四時間ほど停めただけで、ニ千五百円と表示される機械に向かって、ぼったくりやろ、とひとりごちながら。
浩介が車に戻ると、すかさず。
「何円だった? お金払うね」とゆう子が訊ねてきたので、「気にせんでええ」と浩介は答えたが、はっきりとした意思で、先ほどの祭りで使った分と駐車場代の分を手渡され、拒否しようにもできなかった。
そのお金は感謝よりも、浩介に対する一方的な気遣いのように思えた。そのため、浩介はお金を受け取ったとはいえ、心にそげが刺さった感覚がいつまでもとれそうになく、小銭と紙幣をぐちゃぐちゃにポケットの中に突っ込む。
その間、ゆう子は顔をくっつきそうなほど窓に寄せ、遠くの山の方を見つめていた。
「今日泊まってくやろ」
土曜日の夜。永遠に『いま』が続くような時間帯。なおも遠くを見つめるゆう子に、浩介が尋ねる。
「いや、今日はいいや」
ゆう子はこちらを見ず、右手だけを浩介の左手に重ねたまま、告げた。
時刻は午後八時を過ぎたところ。浩介はふいに居心地の悪さを感じ、車を発進させる。
ゆう子の一人暮らしのマンションまでは車で一時間弱のところにある。そこにたどり着くまでに浩介は自分の家を通り過ぎなければならない。ガソリンの残量を確認しながら、窓の外に目をやると、たくさんの人々が町を闊歩し、おもいおもいの『いま』の中に閉じこもろうとしている。その中を、ゆっくりと進む。ラジオにチャンネルを合わせたカーステレオからはジャズ調の曲が流れ、車内を一気に小洒落た雰囲気に仕立て上げていく。
疲れていたのだろう。ゆう子は駐車場を出て、十分ほどで寝息を立て始めた。射的で獲得した景品を大事に抱えるようにして。
浩介は、赤信号で止まるたびにその寝顔を確認し、もちもちとした腕——エアコンの風量は絞ったものの、ずっと風があたっている部分はやや冷たくなっている——を理由なく撫でる。そうしているうちに、信号が変わり、手を離す。すると、突然、視界に入るファミレスや商業施設がひどく自分からかけ離れたところにあるような気がしたと同時に、ゆう子を家に送っていくという、この行動そのものが、とても単調的なつまらないもののように感じられた。ゆう子に施してもらったあれこれを都合よく忘れ、自分の労力だけに目を向ける浅ましさに、自己嫌悪を抱く。だが、一度思ってしまうと、外出先で洋服についたシミを発見し、何度も確認してしまうように、繰り返しその類の思考が脳内を支配していく。隣にいる恋人を愛しているはずなのに。
結局、マンションの前に着くまで、ゆう子は起きなかった。
「あれ寝ちゃってた。もう着いたの?」
ゆう子はまだ寝足りなそうに二、三度我慢した表情でさりげなくあくびをする。
「ずっと寝てたな。疲れてるん」
浩介はゆう子の顔色を窺ったが、それに対する返事はなく、
「ちょっと家でゆっくりしてから帰る?」とゆう子はそう言った。
浩介は目の前にいる恋人の行動について、理解することができなかった。何を考えているのか、何を求めているのか。一年をともに過ごしてきて、それがゆう子の気まぐれだということを知っていてもなお。
「うん喉も乾いたし寄ってこうかな」
浩介はそう嘯いてみたものの、体の中心がにわかに熱くなり、動悸がやや早まっていることに気付く。
ゆう子はセキュリティのしっかりとした、一二階建てマンションの八階に住んでいて、浩介も何度か訪れたことがある。花火大会が廊下から見えるんだ、とはじめて訪れた時にゆう子が嬉々と話していたことを思い出す。そういえば、花火大会はいつなんだろうか。
「お邪魔しまあす」
ゆう子の後に続いて広めの玄関に入り込み、靴を脱ぐ。金木犀の香りがふわっと浩介の鼻をかすめる。いつものゆう子のにおい。
浩介は入るなり洗面台に向かい、手洗いうがいを終えた後、風呂場で靴下を脱ぎ、足をシャワーで洗う。ゆう子に言われたからではなく、自分自身の決まりとして。
「なにか飲む? なにもないけど」と、もう部屋着に着替えたゆう子が冷蔵庫を開けながら浩介に聞く。やや黄みがかった光に照らされたゆう子の横顔に艶かしさを浩介は感じる。
「お茶かコーヒーがあれば」
そういえば、とゆう子はキッチンの上の棚からコーヒー豆を取り出す。それは福岡で有名な喫茶店が出す限定ものの豆で、以前テレビの特集で浩介がみたのと同じものだった。
「それ、こないだテレビでみたやつや。いつもすぐ売り切れるって噂の」
「そうそう。よく知ってるね。これすごくおいしいんだよね」
ゆう子は辿々しく、豆を中細挽きにしていく。ごりごりと豆を砕く音が部屋に響き渡る。
「なんで急に」
浩介の声は豆を挽く音でうまく伝わらず、少し間を空けて、ゆう子に近づく。
「なんで急に豆から? いつもコーヒーは市販のペットボトルやったやん」
「うん?」
「いや、まあどっちでもいいんやけど、珍しいなと思って」
「ああ、まあね。私もどっちでもいいんだけどさ、時間をかけた方が長くいれるでしょ?」
ゆう子はこちらを振り返ることなく、シンクに頬杖を立て、コーヒーの出来上がる過程を真剣な眼差しで眺めている。
「ま、嘘なんだけどね」
浩介はこういう時の恋人としての対処法がわからなかった。笑って抱きしめればいいのか、拗ねたふりをすればいいのか。そんなことを考えているうちに、ゆう子はきまってひとりで答えを出してしまう。
そういえば、以前の彼女は、間ができるたびに「どうして」「なんで」と何度も聞いてきていた。「どうして何も言わないの?」と。対して、ゆう子は何も聞いてこない。本当に何も。怖いくらいに。
気が付くと、コップを手にしたゆう子が覗き込むように浩介の顔を見つめていた。並々に注がれた黒茶色の液体に自分の顔が歪んでは消えてを繰り返している。
「さっ、飲も」
ゆう子は押し付けるようにコップを浩介に手渡し、リビングに向かう。間接照明でやや暗めの、夜の中に別の夜を作ったような空間に。
部屋は十二畳のワンルームにウォークインクローゼットがついた形で、かなりゆとりのあるつくりだ。おまけに、ほとんどない家具も背丈の低いもので統一されているため、広々と感じる。
浩介とゆう子は中央に置かれたローテーブルにコップを置き、隣り合うように絨毯——二人で訪れたアンティーク店で購入したもので、浩介がかついで持って帰ってきた——の敷かれた床に腰を下ろす。前方に設置されたテレビに二人の姿がぼやけて映り込んでいる。
「コーヒーどう? 美味しい?」
ゆう子の軽い頭の重みを浩介は左肩に感じる。あれだけ汗をかいたのに、相変わらず金木犀の香りがする。
浩介は味について美味しいとだけ答えた後、素っ気ないなと思い直し、一泊置いてからコクがあってと付け足した。正直、市販のもののほうが口にはあっていたが、言わなかった。
「よかった、もう一度買ってこないとね」
最近ゆう子は九州に行ったのだったか。キッチンに置かれたコーヒー豆が入った袋をなんとなしに視界に入れ、考える。どこで、どうやって購入したのだろうか。聞くことのない質問が頭に浮かぶ。
トイレ、と一言だけ告げ、ゆう子の体が浩介から離れる。と、途端に浩介をとてつもない睡魔が襲う。朝から晩まで恋人といるなんて学生みたいだな、と浩介は思った。
ゆう子がトイレから帰ってきて、またさっきと同じような体勢に戻ると、なんとなく会話はおさまり、互いに黙って、ただ壁を見つめていた。
遠くの方でパトカーのサイレンが聞こえる。
そんな中、浩介はこの家に最初にやってきた日のことを思い出していた。手を洗い、足を洗い、ゆう子は部屋着に着替え、どちらも無言のまま、惹かれ合うように隣に座り、そして、体温を報せ合うように唇を重ねた、あの日のこと。机に置かれたショッパーからいつの間に出したのか、濃く強くオレンジの口紅の香りのした、あの日のこと。大人の恋だ。浩介はあのとき、そう思った。交際していなくても、唇を重ね、体を重ね、果ててなお、抱き合い続け。わたし離さないから、というゆう子の耳元での囁きは一生忘れないような気がする。
部屋はいつまでも静かで、物音なく、ただ二人の息づかいが一定のリズムで繰り返されているだけだった。祭りの喧騒と対極にあるこの空間に浩介は胸騒ぎを感じる。祭りも、この部屋も、隣にいる恋人と過ごした土曜日も、すべては地続きに繋がっているのに、この静けさだけがどこか切り離されたように現実味を帯びている。
「ねえ、わたしのこと好き?」
この部屋の現実味に息苦しさを感じていたこと、それが見透かされているような錯覚に陥る。だから、ゆう子の口から不意に出た一言に反応が遅れた。
浩介が、え? と返すと、ゆう子はより大きな声で繰り返し聞いてくる。
風が窓を叩き、一瞬の間、静寂が壊れる。
うん、とやや長めの沈黙のあとに浩介が答えると、ゆう子はテレビに映る二人に向かって、独り言のように話し出した。
「私ね、浩介のこと好きだよ。でも、好きだけじゃ一緒にいられないことってあるの。それはわかるでしょ? 私はもう今年で三十になるし」
「どういうこと? 好きやから一緒にいるんやろ?」
浩介はゆう子の言いたいことが手に取るようにわかって、あえてはぐらかすように答えた。ずっと避けていた二人の行く末のこと。三年という今の二人にとってはとても貴重で長い時間のこと。
「だからね、好きだけじゃ一緒にいられないの」ゆう子は何度もその部分を繰り返し主張する。
じゃあ好きでなくても、一緒にいれるのか。浩介はそう聞きたくなる気持ちを抑え込み、「うん」と一言だけ答える。
浩介とゆう子の好きが違うこと。それを浩介が感じ始めたのは交際して一年が経過した頃だった。ゆう子はいつも身なりに気を遣い、流行り物にはすぐ乗っかり、雑誌で見たどこそこやテレビで見たあれこれをなんでも試したがる性格があった。浩介も交際当初はそんな生活がとても楽しかった。自分が多方面に無頓着な分、恋人とする新しい経験が自分の中に積み上がっていく気持ちよさも感じていた。だが、気が付くと、一年間で急速に恋の甘い部分だけを消費し尽くしてしまったように思えた。そこからはずっと平行線のまま、ただゆう子に言われるまま恋人としての役割をこなし続けてきただけだった。
「結婚なんて最初がピークや。あとは情でもってるようなもんやで」
浩介の周りで一番はやく結婚した友人はいつもそう言うのだった。そう口にしつつも、その後には、幸せそうに家族のことについて話す。奥さんの寝言がどうとか、子供が今度幼稚園のお遊戯会で主役を張るから色々用意しないといけないだとか。愚痴に似た惚気を所々に混ぜながら。
そして、友人は別れ際にきまって「結婚はせん方がええよ。あそべあそべ」と笑顔で締めくくるのだった。まるで、空高く飛ぶ鳥が鶏に向かって、飛べないほうが楽だよと高みの見物でも決めるみたいに。
帰る家と安定した職があって、そして家族がいる。何不自由なく暮らしているからこそ、そういうことが軽々と口にできるのだ、と浩介は友人と話すたびに思う。別に遊びたいわけではない。ただ、ゆう子と家族になることと、それは同じ問題ではないのだ。ゆう子と交際した三年もの月日の間、一度もゆう子とともに歩む未来を想像しなかったわけではない。だが、どうしても、浩介には家庭を持つという言葉が意味を伴って染み込んではこなかった。それは、交際前にゆう子にも告げていたことだった。
「結婚はあまんり考えてへんねんな」
三年前、ゆう子に告白の返事をする際、前提として、浩介は告げたのだった。
「それでもええん?」
浩介が続けてそう言った際、ゆう子は「うん、気楽に付き合おう」とはっきり答えたはずだった。
だから、浩介はゆう子との交際を始めたのだ。
「私ね、夢があるの」
浩介がいまだ煮え切らない態度で黙りこくっている様に痺れを切らしたのか、ゆう子が話し出す。虚を見つめるその瞳には二人の未来が描けているのだろうか。浩介はテレビ越しにゆう子を見つめながら耳を傾ける。
「夢、なんだと思う?」
どんな時でもそうだった。真剣な話をする時やけんかをしている時でさえ、ゆう子は明るく振る舞った。それが、浩介にとってはなによりの救いであることを、いまはっきりと浩介は感じる。
「うーん。そやなあ。結婚......すること?」
交際してから初めて、浩介は結婚の二文字をゆう子との会話の中で口に出す。
「うん、まあ半分正解だけど、それだと三角だね。私ね、結婚はしたいよ、もちろん」
「じゃあ結婚やないってこと?」
「いや結婚も含まれるかな。まあ言ってしまうと、私子供が欲しいんだよね」
浩介はもう聞かずとも知っていた。ゆう子が子供を、そして家庭を持つことを夢見ていたこと。向き合うことが怖くて、蓋をしてきただけで。でも、それを実際にゆう子の口から聞くのとでは、意味が異なってくる。カメラでピントを合わせた時のように、ぼやけた被写体がしっかりと映し出される感覚。ゆう子の言った言葉だけにピントを合わせなければならない感覚。
「付き合う前に浩介が言ったこと、結婚は考えてないって言ったことは忘れてないよ。でもね、それでもね......。私、実はね、浩介に告白したときね、もう無理だろうなって思ってたんだよね。いつまで経っても返事くれないし」
「それは、ごめん」
「いや、いいんだよ。あの時の浩介はなんか大変そうだったから。だからね、付き合うってなった時、本当に嬉しかったんだ」
どちらから出る言葉も一つの未来に集約され、吸い込まれていく。浩介は、遠い昔に田舎で乗った列車の車窓を思い出す。レールがずっとまっすぐに果てしなく伸び、列車の行手を阻むように前方には大きな山が広がるあの車窓。浩介が降りない限り、ポイントを切り替えない限り、また。別の列車に乗り換えない限り、永遠に続く同じ景色。
「でも、浩介と付き合うことができて。私その時、思ったの。浩介は別に私のこと好きじゃなかったのに、変わったんだ、私が変えたんだって。だから、結婚とか子供とか、私との未来についても、考え方が変わるのかもって」
浩介はいたたまれない気持ちになり、ぬるくなったコーヒーを眺め、ひと啜りして、また眺める。縁の方で泡がひとつひとつ音もなく消えていく。
「淡い期待だったね。ごめんね。私のわがままで」
ゆう子は吹っ切れたように顔をあげ、立ち上がり、キッチンへと向かう。
浩介は初めて、ゆう子の背中越しに、ゆう子の気持ちを理解する。追いかけることも、後ろから抱きしめることもできなかった。それをしてしまうと、浩介みずからポイントを切り替えることになってしまうから。
ゆう子は飲み終えたコーヒーのコップの縁を丹念に泡のついたスポンジで洗っている。
「別れよっか」
唐突だった。きゅっと蛇口を捻る音が鳴ったのと同時で、浩介は一瞬聞き取ることができなかったが、脳内で再度、数秒前の光景を思い出し、ゆう子の告げた言葉を認識し直す。
「えっ、なんで。急すぎひん? まだ、何も言ってないやん」
ゆう子は鼻を啜って、キッチン横の洗面所へと消えていく。
「待ってや。どういうこと?」
浩介は自分が思いも寄らず動揺していることに気付く。自分自身でもわからなかった。どうしたいのか。どうするべきなのか。結婚したくない、子供は欲しくないと身勝手を散々振り撒いた末、こうなることは簡単に予想できたはずだったのにもかかわらず、どこかで、隣にゆう子のいる当たり前が壊れないと、高を括っていた。だから、突飛に出たあっけない終わりの報せを呑み込むことができていなかった。
「なあ、どういうことなん?」
浩介が追い縋るように洗面所へ向かうと、風呂場の前に敷かれたマットの上で、ゆう子が小さな体を丸めるようにうずくまり、静かにしゃくりあげながら、泣いていた。真っ暗な部屋でも容易く分かるほどに顔をぐしゃぐしゃにして。
「だって、もう」ゆう子は言葉を紡ごうとするが、ヒックヒックとしゃくりが邪魔をする。
浩介が次の言葉をじっと待っていると、ゆう子は目一杯の力で「全部好きだったからあ」と声をあげた後、浩介にしがみつくようにして、より一層と強く声をあげて泣いた。等間隔に並べられた長方形の積み木が、指一本触れただけで倒れ始め、やがて一枚のモザイク画を作るように、ゆう子の中で何かが連鎖し続けている。彼女の中の積み木を倒したきっかけが、自分自身だと知りながらも、浩介はもはやその流れを断ち切る術を持っておらず、放心状態のまま呆然と小さく丸くなった恋人を眺めることしかできなかった。
ゆう子から、過去形となり果てた毒素なき愛情が涙とともに流れていく。この涙を流し切れば、もうともにはいられない。浩介はそう直感するが、どうすることもできず、ただただ、しがみついてくるゆう子の上半身を中腰になって、支えていた。
Tシャツの裾がやんわりと温かな湿り気を帯びていく。
「こうすけえ」
依然として、泣きじゃくるゆう子が必死に息を吸い、合間に浩介の名を呼ぶ。こんなゆう子は初めてだった。天真爛漫で子供っぽいところは多くあったが、それでも年の数分の落ち着きが少なからず芯の部分には根付いていた、はずだった。しかし、それはもしかすると、浩介が勝手な理想像としてゆう子を思い描いてきただけだったのかもしれない。この子はずっと我慢し、守って欲しかったのだ、と浩介はようやく悟る。だが、どうしても同じ目線で結婚や子供についてを考えることはできなかった。たとえ、いまこの女性をどうしようもなく愛おしく感じ、守りたいと願っても。それほどまでに、浩介は自分の未来を優先していたのだった。
浩介には、音楽で食べていくというゆう子に言っていない目標があった。三年もの間ゆう子に話さなかったのは、その目標に対し、本格的に動いていたわけではなかったからだった。ただ、漠然とした絵空事。それでも、天秤がゆう子とともに歩む未来へと傾くことはなかった。傲慢で狡く、ただ無益に彼女の貴重な時間を奪ってしまったことへの罪悪感が沸騰し、溢れそうになる。だが、一方で頭の隅では、もう少し時間をくれてもいいんじゃないか、といまだに口にしようとしている自分に気づく。これほど傷つけたことを知ってなお、さらに不確定な未来を押し付けようとしているのだ。
浩介はいつも恋人との別れ際に冷静な自分を見つける。告白する際、またはされる際は少なからず冷静ではなかった。そもそも、恋は冷静ではできないものなのだ、と過去の経験から浩介は思う。でも、どうしてか、最後の最後には冷静な自分が無慈悲に決断を下すのだった。それで、浩介は本当の自分がどちらなのかが、わからなくなる。
「ごめん、取り乱してしまったわ」
ゆう子は目を腫らし、鼻水を光らせながら、笑顔で浩介を見上げる。自分はいまどんな顔をしているのだろう、と浩介は考える。笑顔か困り顔か、はたまた無表情か。祭りの時に子どもらがつけていた仮面を思い出す。目標を達成するまで生涯外すことのできない、いや自らの意思では外すことのない薄く、重たい仮面。
「僕はゆう子のこと好きやで。だから別れたくない。今日話聞いて、今日答え出すってやっぱ厳しいし。もうちょっとだけ時間くれへんかな」
その場を凌ぐための取ってつけたようセリフに自分でも虫唾が走る。ゆう子は自分のどこを好きになったのだろうか。ひたすらに、ついていくだけの、プライドだけいやに高い、扱いにくい男のどこに魅力を感じたのだろうか。浩介は次に言うべき言葉を探す。少しでも現実的な『今日聞いた話』の答えを先延ばしにできるような言葉を。いや、先延ばしにした末が今だった、と浩介は思い改める。わかっていたはずだった。前触れは幾度となく確かにあった。そこらじゅうに。それを見て見ぬふりをしてきたのは、間違いなく自分で、今もゆう子の涙にそれを感じ取ることができなかったことを愚かだと思った。
「いや、もう決めたことだよ」
泣き止んだゆう子は、もう別人のようにすんとしていて、脱皮した爬虫類のような滑らかさときらきらと光る瑞々しさを持っていた。そこに、天真爛漫な子どもっぽさは見る影もなく消え去っていて、ただ三十手前の女性がいるだけだった。
「ほんまに今日お別れなん?」
浩介が再度聞くも、ゆう子は無言で立ち上がり、リビングの机に置かれた浩介のコーヒーが入ったコップに手を伸ばす。もうこの話はおしまいとでも言いたげなふうに、残ったコーヒーをシンクに流し、雑に洗ったあと、ステンレスの乾かし台に置いた。
ゆう子はすでに現在の中を生きていて、浩介だけが過去に取り残されたまま、コップから滴る雫を眺めている。
外からやたらとカラスの鳴く声が聞こえた。
浩介がようやく、ゆう子と別れるのだという事実を自覚し始めたのは、ベッドの上で二人で寝ている時だった。
「今日はもう遅いから泊まって行きなよ。けんかして別れたわけじゃないからさ。私そこまで鬼じゃないし。その代わり変な気起こさないでよね。土壇場になって一回だけとかいうような男と付き合ってたんだって思うと、後味悪いし。しかも、私はそんな人を選んだ覚えはないし」
ゆう子は一続きに明るく言い放ったのだった。そして、電気を消し、二人で布団の中に入る時、虫の音のような小さな声で「後悔のないようにね。おやすみ」と告げた。
浩介は、真っ暗な部屋の中で、思い出を振り返った。過去の膨大な、それらの中から編集したものだけを脳内で再生していく。だが、そのどれもが、ゆう子が見ていた過去とはおそらく異なっているのだ、と殊更に知り、苦しくなる。素材は全て同じだというのに。編集点が、視点が、違うだけで、こんなにも二人の共通の思い出は違う一本となってしまうのか、と否応なしに身に沁みる。
あれはいつだったか。ふざけて掛け布団をかぶったゆう子が「ねえ、ベールみたいでしょ。浩介あれやってよ、あれ」とベールアップの真似事をして遊んだことを思い出す。楽しそうに笑うゆう子は、あの時から結婚のことを仄かに示していたのだろう。いまになって浩介はそのことに気づく。そして、一つ気づくと、次から次へと、あれもこれもといった具合に、浩介に向けられたささやかなゆう子の意思を過去に見つけるのだった。クロスワードパズルの最後のような、わかりきった答えへと向かう虚しさが込み上げる。もはや、どう足掻いてみたって、最後の答え以外のマス目を埋めた、変えることのできない過去に対し、無用な長考を重ねる。果たして、何をしても取り戻せないのだろうか。抱きしめて、キスをすれば。そんなことを浩介は考える。だが、同時に、考える前に行動してしまえない自分をひどく恨む。
夜はいっそう深まり、ゆう子が寝静まった後、ひとりでにため息が何度も出てしまう。頭の中では二人で勧めあった音楽が流れている。ゆう子はポップソングを、浩介はロックソングを、それぞれの良さを伝え合い、有名な曲を何曲か教え合った。情景とともに流れていくその音楽たちが哀しみの色に染まっていく。
浩介は背に恋人だった女性を感じる。もう触れることのできなくなったさらりとした髪の毛や滑らかな頬、弓矢のように緩やかな弧を描く腰周り。順番に一つひとつを思い出していく。そして、その彼女に触れられた自分のことを思い出す。小さな手で乱暴に包み込まれた顔や首、オレンジの香りが残った湿った唇のこと。思い出し、彼女を確かに愛していたのだということを再確認する。自分の中だけで。もう共有することが何もないであろう未来に思いを馳せる。そうして、何度も何度も事実を復唱する。
朝になった。いや朝は浩介のもとにずっと前から訪れていた。朝と夜の境目はいつなのか。明確な線引きのないその相反する事象を、ゆう子との関係に照らし合わせる。約三十分前に家を出たゆう子のかすかな香りと片方が捲られた掛け布団の残るベッドの上で。
ゆう子が起きて、ベッドを出る際、浩介は眠っているふりをした。執拗に固く目を閉じていたことに、ゆう子はきっと気づいているはずであろうことを理解しつつ。なぜ起きなかったのか、声をかけなかったのか、わからなかった。ただ会話をしなければ、土曜日の夜のように、永遠にも感じられる自分たちの時間軸の中で、関係を続けていけるのではないか、と意識していたのかもしれない。
だが、目を閉じ続けた浩介にゆう子が声をかけることなかった。
がちゃりと扉の閉まる音が聞こえた後、ゆう子の気配が消えたことを、浩介は目を細めて確認しようとしたが、視界が滲み、よく見えなかった。呆けながらテレビを見ていた時のような、どろりとした視野が広がるのみだ。それで、浩介は勢いをつけ、がばりと起き上がった。すると、途端、溜めに溜めた涙が頬を伝うことなく、白い掛け布団に染みを拵えていく。昨日のゆう子の涙が脳裏に浮かび、二人のずれを反すうする。浩介は、もはや漏れ出てくる声を堪えることはできなかった。
やがて、浩介は涙を流すことさえ、煩わしくなり、少し体勢を変えながら、かつて同じ程度の重みの愛情があったとは思えないほどに、がらんとしている部屋を眺めた。浩介の気持ちに寄り添うようなその伽藍堂さに嫌気がさし、足の先でカーテンを少し開けると、陽の光が隙間から線になって部屋を分断するように入り込んできた。だが、その眩しさがやけに腹立たしく、浩介は、また自分だけの悲しみを抱きながら眠りについた。
遠く近くで学校のチャイムらしき音が鈍く聞こえ、浩介は目を覚ます。異様な喉の渇きと蒸し暑さが、浩介の体にまとわりつくように薄い膜を張っていて、ひどく息苦しさを覚える。ついさっき、散々涙を流したせいだろうか。目がごわごわとして開かず、半目のままベッドを後にする。エアコンをつけ、扇風機をつけ、キッチンで顔を洗う。コップが水で一杯になる暇さえ惜しく、半分ほど注いだところで、一息に飲み干す。口の隅から滴る水に鬱陶しさを感じ、その場で顔をもう一度豪快に洗う。皮脂を洗い流し、すっきりとした顔でリビングの方へと目をやる。途端、涙が出そうになるのを唇を噛んで堪える。いまは何時なのだろうか。
カーテンを開け放つと、ぼんやりと、それでいて刺すような太陽の光が目をつき、思わず下方向へと視線を動かす。マンション下の道路では、色彩豊かな車や日傘をさした女性、配達の車から出てくる男性が忙しなく動き回っている。微小だが確かな動きで、街に溶け込んでいる様はジオラマ模型のように見えた。
目を覚ませば、外を見れば、現実の空気が色濃く漂うこの部屋が変わるのではないか。そんな淡い幻想を抱きながら、自分が起こす一つひとつの行動の節目にゆう子を思い出す。
「無用心やな」
口をついて出た言葉が、別れたという現実を受け入れ始めていることを気づかせる。
元恋人を家に泊め、寝かしておけるゆう子の配慮がわからなかった。と、同時に、この優しさを踏みにじんできた結果が今なんだと悟る。
この部屋を出たくない。が、出なければならない。浩介は、その矛盾にしばし呆然としていた。太陽は依然として、酸化した部分だけを削ぎ落とした果実のごとく、歪な形でありながら真っ白な光を地面に届けている。
その光から逃げるように部屋の中に視線を戻すと、ふと、昨晩は何もなかったはずの机の上に一枚の紙があるのを浩介は見つけた。急いで駆け寄り、その紙を掴み取る。足早に読んだせいで内容が理解できず、二度三度読み直す。
浩介へ
大好きだったよ。いままでありがとうね。
私はもう後悔せず、前を向いているから、浩介も前を向いてね。幸せになってね。
エアコンとか電気とかは消して、鍵はポストに入れておいてね。さようなら。
ゆう子
淡白だ、と浩介は思った。三年もの月日をともにした恋人との別れがたったのこれだけだなんて。もう一生会えないことを本当にゆう子は理解しているのだろうか。
紙にセロファンテープで貼り付けられた鍵を慎重に爪で剥がしとり、その紙を鞄にしまい込んだ後、浩介は無性に机ごとひっくり返したくなるような衝動に駆られる。水と油が分離しながらも、同じ空間に存在し続けるように、事実と感情がいつまで経ってもまとまらない。浩介はそのことに気持ち悪さを覚え、急いでゆう子の部屋を後にした。
外はうだるような暑さで、空気にこもった熱がじりじりと体の露出した部分を焦がしていく。それなりに風が吹いているにもかかわらず、全身から汗が吹き出してくる。
ゆう子は浩介のいなくなった部屋を見て、どう思うのだろう。最後に二人で共有した感情が悲しみな分、浩介は身勝手にも、ゆう子に同程度の悲しみを背負っていて欲しかった。
そんなことを考えながらひたすら歩き続けた。約二十分は歩いただろうか。次第に足が疲れ始め、いまどこにいるのか、とふと顔を上げると、いつもゆう子を家まで送る際に使用する駅の方面へと足を動かしていた。そういえば、車を止めていたんだった、と来た道を戻ろうとすると、爽やかな川の流れや囁きあうような葉ずれの音をさせる木々が織りなす景色が、くすんだ灰色がかって見え、何度も通ったはずの道に強烈な違和感を抱いた。浩介はやがて、この道をゆう子の家の方に向かって、一人で歩いたことはなかったことに気が付く。一歩ずつ踏み締めるたびに、ゆう子への思いが増幅していき、際限なく脳内で言葉が木霊する。「もう遅いよ」「遅すぎ」波打つそれらの言葉が知らぬうちに、自分の声で再生され、自身を責め立ててくる。ずっと、ゆう子もこんな思いをしていたのだろう、と浩介は理解した。何を言っても反応のない恋人に向けて、恋人という壁を使って、ゆう子はひたすらに自分自身と会話を重ねてきたのだろう。浩介は、荒地の上で届くはずがないことを知りながらも叫び続けるような、無益さと途方のなさを味わった。
あれから一日、二日と経ち、夏はしつこい暑さを、崖っぷちに手をかけた時のように執念深く残したまま、月日だけをいたずらに進めていった。人間には忘れるという便利な機能が備わっている。が、忘れる事柄は忘れるべくして忘れるのだ。浩介は欲にだけ従うような自堕落な生活を過ごしながら、いまだに粘っこく記憶の淵から顔を覗かせるゆう子とのあの三年間を思い出していた。エアコンも扇風機も付けっぱなしにして出てきたあの部屋を、いつでも訪れることができるような気軽さとともに頭の中で描く。あれから、ゆう子からの連絡は手書きの一枚の紙を最後に、来ることはなかった。
「不幸で居続けることが幸福への布石となるわけないよね。じゃ、はやくそんな不幸とおさらばしよ」
ゆう子が告白してきた後、二人で公園のベンチに座っていた際にゆう子が言った一言がメビウスの輪のような表裏のなさを持って、訴えかけてくる。だが、幸福でいる時よりも、不幸でいる時の方が浩介にとっては居心地が良かった。幸福でいればいるほど、それがなくなった時に途轍もない痛みに駆られることを知っていたから。そして、不幸に首輪をつけられた状態であてもなく彷徨い続けることの安易さを体感してしまえば、いつのまにかそこを抜け出す方法は手のひらからするりと落ちているのである。
そうして、浩介は自分が不幸だと認識しつつ、その状況を静観し続けていた。砂時計を、一方の砂が流れ落ちる直前にひっくり返すように、同じ時間の中で右往左往する。ゆう子と出会ったあの日から今までを辿り、時間が経てば反対の方から時間を見つめ直す。そんな風にして、いつまで経っても風化することのない時間という概念に一人取り残されていった。
それでも、浩介は生活というものだけはいかようにしても、手放すことができなかった。食事をし、排便を済ませ、体を洗い、眠りにつく。そして、起きて、働き、また食事をして、たまに性処理を行い、眠る。どれだけ荒みきった心体であっても、機械じみた動きでこなしていく。日常に異変が生じる時といえば、国で何か大きな動きがあったとか、災害が起こったとか、犯罪に巻き込まれたとか、すべては外部要因によってもたらされる時だけなのだろう。
だが、化粧の塩梅を間違え、頬を真っ赤にするように木々が色づき始めた秋口、あれから、触っていなかった鞄が突如部屋の一部を無駄に支配している印象を受け、片そうとした。その最中、浩介は鞄の奥底に挟まったビニール袋の感触に違和感を覚える。徐にそれを引き抜くと、あの夏祭りでゆう子が射的で射抜いたバスボムと知育菓子が引っ付き一つの塊として出てきた。あの時、ゆう子が床に置いたままにしていたものを、咄嗟に鞄に突っ込んでいたのかもしれない。あの時の行動を再度思い出そうとするが、どうにも記憶からすっぽりと抜け落ちている。浩介はもう一度、入念にその袋に目を通す。知育菓子は封がきっちりされていたことが幸いして、異臭などは特に感じられず、虫も湧いていなかったものの、当初は一粒ずつ分離していたグミのようなものが一個体のゼリー状に変容していて、所々が変色してしまっている。浩介は、双方が破れないように慎重に慎重を重ね、二つの袋の引っ付きを剥がしていく。靴裏で踏んだガムのように伸びきった後、それらがようやく引き剥がされる。浩介は知育菓子を机の上に放ったあと、バスボムを丹念に確かめた。裏面の説明を読むに、卵形の全五種類のバスボムに、それぞれ香りがついており、一種類が無作為に入れられているとのことだった。また、そのどれもが浴槽に沈めると、中から子供用の玩具——内容は伏せられている——が出てくるという仕掛けが施されているようだった。
片手に収まるバスボムは、確かな手応えをもって、浩介とゆう子の繋がっていたものを教えてくれている気がした。今思えば、交際するだのしないだのなんて、ただの口約束でしかないのに、どうして、人間はつがいになるために、煩瑣な契約ごとをつぶさに用意しなければならないのだろうか。
いずれ痛みを忘れ、跡だけを残していく擦り傷のように、記憶の淵にこびりついていたゆう子との繋がり。浩介はバスボムを握りしめ、ふと、これを使い切れば、きれいさっぱりゆう子のことを忘れられるような気がした。そして、しばらく、湯に浸かっていないことを思い出し、リビングを後にした。
湯を溜めている間、埃のかぶってしまったギターケースからギターを捻り出し、思いつくままにフレーズを奏でた。久しぶりだったため、技術は鈍っていたものの、ギターを始めたころの純粋な気持ちが心に芽吹く。春に咲いた花が一年を通して、また同じ形状の別の花を咲かすようだった。浩介は咄嗟にノートに音符を書き込んでいく。手が追いつかないほどに、脳にフレーズや歌詞が次から次へと浮かんでくる。散らばったその一つひとつを逃さないように、捕まえて、並べていく。
ようやく、一曲が完成に近づいた頃、ひと区切りかのように風呂が沸いた合図が聞こえた。浩介は汗でへばりついたノートを手から剥がし、ギターをそっと床に置いた後、バスボムを手に風呂場へと向かった。
頭からつま先まで、上から順に洗っていき、湯船に浸かる前にリンスをつける。こうしたら、髪の毛がさらさらになるんだよとゆう子が言っていたのをいまだに信じ、続けている。湯船に浸かると、今までの自分の怠惰な部分がするすると体から抜け落ちていく気がした。
ゆう子との恋愛を経てから、名前や容姿が変わっていないだけで、自分の中身はほとんど違うものになってしまった、と浩介は感じる。
ゆう子に出会う前の自分を思い出そうとするが、どうにも違う人のような気がして、うまくいかなかった。ゆう子は愛をもって浩介を正しく殺し、そしてもう一度新しく産んだのだ。その奇妙な感覚が浩介を納得させていく。恋愛とは、互いに影響を与え合い、新たなアイデンティティを生み出す共同作業なのかもしれない。浩介の中で、あの三年間の残滓がしっかりと根を張り、息吹き始めていた。
浩介は顔の半分を湯に沈め、ぶくぶくと泡を出してみる。ゆう子といる時にしか決してしないような子供じみたお遊びを、一人でしてみる。もう前を向かないといけないと自分に言い聞かせるみたいに。
浩介の中では、ゆう子が確かに息づいている。一方、ゆう子の中ではどうなのだろうか。いや、息づいていないわけがない、と浩介は確信する。もう確認する手立てはないが、ゆう子もまた今回の恋愛を経て、浩介の影響を受けた違う人間になっているはずだ。浩介は、そう自分に言い聞かせ、バスボムを湯船におとす。淡い黄色と緑色とが入り混じった卵形のそれは、煙を出しながら底の方へと沈んでいく。柑橘系の爽やかな香りがふわっと風呂場を包み込み、浩介が湯をかき混ぜると、俄然香りが強くなる。そして、湯全体が黄色味を帯びてくると、底の方からぷかぷかとなにかが浮かんできた。それは、指人形だった。何かのマスコットのようでもあるし、赤ん坊のようでもあった。浩介は、それを指にはめてみたり、浴槽の縁に置いてみたりして、ひととおり眺めてみた。ふいに笑顔が込み上げてきて、ゆう子とこの人形を二人で見た時のことを想像してみる。「二人の赤ちゃんだね」とゆう子はきっとそう言うのだろう。笑いながらも、ちらちらと浩介の反応を窺うようにして。
湯から上がると、浩介はとても清々しい気持ちになっていた。指人形をリビングの棚に置き、髪を乾かす。髪に指を通すと、湯船では落ちきらなかった過去の自分が溶け出していくような感覚がした。
その中で、浩介はあることを思い出し、鞄の中から一枚のくしゃくしゃになった紙を取り出す。あの時、ゆう子が浩介に託した一枚の紙だ。
そうだ。手紙を書こう。浩介は突然思い立ち、いてもたってもいられず、棚の奥の方から一度だけゆう子の誕生日の時に使った便箋をつまみ出し、ペンを走らせた。今までの謝罪や本当に愛していたこと、さまざまなことを思うがままに綴っていく。いくらか書き終え、見返してみると、あまりにも稚拙に思えるその言葉の数々が神経毒のようにゆるりと視界を濁らす。それでも、浩介は書き終えた。
終わった。と大の字になり、床に寝転がる。ゼンマイの外された玩具のように、もう二度と動くことのない過去に触れながら、浩介はそのまま眠りについた。
翌日、浩介は寝ぼけ眼の状態で、もう一度手紙に目を通した。自分で書いたとは思えない、その小っ恥ずかしさに途中で読むのを諦め、さすがにゆう子に宛てて出すことはできないな、と目を背ける。だが、この宛先なき手紙をどうにかしてしまわないと、折り合いがつきそうにもなく、しばらく悩んでいると、ふと、浩介がゆう子と交際する以前、失恋して落ち込んでいた時に、友人がとあるお寺について語っていたことを思い出した。
「浩介、お手紙参りって知ってるか? 亡くなった人とか、もう会うことが叶わん人とかに手紙を書いて、それをポストに入れたら、そのお寺が届けてくれるらしいんや」
居酒屋でひそひそと声量を落としながら友人が語ったその話。浩介は焼き鳥をつまみながら、面倒そうに聞いていたが、そのあとに続く話に興味を持ったのだった。
「でもな、そのお寺にはな、他の効果もあってな。とあるお札を買って、その手紙の宛先の人を思って、ポストに手紙と一緒に入れたらな、思いを一つ叶えてくれるんやて。まあ、大体の人は、亡くなった人に向けて手紙を書いてるわけやから、もう一度会いたいとか思うんやろうな。だから、思いが叶ったかどうかというよりかは、自分の中でその人との関係にしっかりけじめをつけることが重要なんやろうな」
浩介は占いや迷信の類を信じてはこなかったが、どうしても、その話が頭から消えてくれそうになく、友人に電話をかけることにした。
「お、もしもし、浩介か。なんや急に」
久しぶりの友人は相変わらず、軽い口調で電話に出る。
「久しぶり。あん時居酒屋で言うてた、お手紙参りの話やねんけども、あれもっかい詳しく聞かせてくれへんか」
「ん? ああ、あれなあ。ちょっと待ってや、がきんちょとゲーム中やから、そのままにしといて、すぐ戻るし」
父ちゃんはよー、と言う子供の声と騒騒しいテレビの音が電話口から聞こえてくる。
その後、約五分間、きゃっきゃ言う家族にしか出すことのできない家庭の響きを感じながら、浩介はじっと待った。
「あーもしもし、すまん終わったわ」
依然としてもっかいもっかいと子供が駄々をこねる声が聞こえてくるが、友人は気に留めることなく話を続ける。
「ほんで、なんや? あのお寺の話やろ? 手紙でも書いたんか?」
「あ、いやまあ書いてんけど、もう出せへんから。そのお寺持って行きたいなって」
「え、なんや、もしかして誰か亡くなってしもたんか」
「いや、そうやないねんけどな」
浩介はそのやりとりがもどかしく、話を進める。
「あれって、亡くなった人やなくてもええ言うてたやろ?」
「お、確かそうや。ってもしかして、彼女と別れたんか?」
「うん、まあそんなとこやな」
友人の勘が鋭く、浩介はなぜか後ろめたさを感じてしまう。
「そうかあ、それは残念やな。でも、まあその内、新しい縁があるやろ。あんまり気にしすぎやんようにな」
「うん、それで手紙の事なんやけど、ポストはお寺の中にあんねんな?」
「うん、そうや。なんか赤いの置いてあるはずやわ。あ、ちょっと待ってや」
そやなあ、と友人が妻に向かって、確かめる声が大きく聞こえた。どちらかがかつて訪れたことがあるのだろうか。
「あ、もしもし、そうやって」
「ありがとう、ようわかったわ。でもさ、それ、住所とかは書いた方がええんかな?あと、お札を買ったら思いを叶えてくれる言うてたけど、それはどこで買えるんや?」
友人が首を捻って考えるのが、電話越しにでもわかる。すると、ざざっと何かが擦れる音がした直後、女性の声が電話口から聞こえた。
「あ、もしもし浩介くん? ごめんな曖昧な説明して」
友人の妻の声だった。
「あ、もしもし、いやぜんぜん。行ったことあんの?」
「うん、昔学生の頃に、おばあちゃん亡くして、そん時に行ってんけどな、そのお寺行ってから、肩がすっと軽くなって、おばあちゃんが夢によう出てくるようになってん。あ、怖い話やなくてな、幸せな夢やで。だから、効果は保証するよ。それと、住所のことなんやけどな」
浩介は合間に相槌を挟みながら、熱心にその話を聞いた。
「まずお手紙参りについての話をすると、元々はな、供養も兼ねて亡くなった人のことしか手紙は書けへんかったんよ」
「それは、いまは違うってことやんな?」
「うん、そう。お寺の人に聞いたんやけど、今は亡くなった人だけやなくて、もう会えへん人、例えば浩介くんの場合、別れた恋人やな。そういう人にも手紙を出すことはできるんやって。だから、なんか縁起が悪いとか、亡くなった人みたいとか思うことなく、気軽に手紙出してねってことやったわ。ただ、ポストの色だけは違うみたいやから、そこは注意して。私は赤色やったけど、浩介くんの場合はちょっとわからんし、向こうで聞いてみて。ほんで、住所のことやねんけどな、基本は何も書かへん方がいいらしいよ」
「ポストの色は違うねんな。覚えとくわ。ほんで、住所は、それはなんでなん?」
「ん、まあ、お寺が手紙に込められた魂を届けるみたいな考えやねんけど。それで、住所を書いてしまったら、もしその人が違うところにいてたら一生届けられへんやろ? そういうこともあって空白にしてる人がほとんどやって、説明に書いてあったよ。まあもう一度会いたいとかを思って、自分の住んでる住所書く人もいるってお寺の人は言うてたけど。まあ、実際にそのお寺が手紙を配達することはないから安心して」
「なるほどなあ。それで、その手紙は配達されへんのやったら、どこにいくん?」
「保管されてから、一定期間経ったら、お焚き上げされるよ」
「そういうことなんやなあ。あ、あと、お札はどこで買うん?」
「ああ、ごめんごめん、お札は寺務所に言うたら出してくれるよ」
「ありがとう、よう理解できたわ」
「ううん。なんのこれしきやで。ほんじゃ、またうちにも遊びにきてよ。無事にお手紙出せることを祈ってる」
「はいはいー、わかった」
電話を切ると、浩介は次に取る行動が自然と決まり、ゆう子が最後に残していった紙とゆう子に宛てた手紙を持って、家を飛び出した。
外では、もう秋だというのに、まだ蝉が鳴いている。命の儚さなど、あえて忘れてしまったように鳴き続ける姿に、浩介は気力を与えられる。
お寺までは電車とバスを乗り継いだ後、徒歩で二〇分程かかる見込みだった。その道すがら浩介は、ずっとゆう子の置いていった紙とゆう子向けて綴った手紙を交互に見比べた。顕著なほどに、浩介の書いた文章は自分のことばかりだった。自分を広告することばかりに気を取られ、内実、薄っぺらな内容を売りつけようとしているだけで、そこに、誰が価値を感じるのだろうか。
落ち葉が駆けていくように風に乗る中、バスが目的の停留所に停車する。
降車すると、前方に架かる大きな橋を多くの人々が行き交っている様子が目に入る。そのほとんどがカメラを同じ方向に構えている。浩介は、その無数のカメラのモニターに映る景色を見て、思わず立ち止まった。さらさらと流れる川を挟むように日本家屋がどこまでも続き、その奥には、川とは対照的にどっぷりと絵の具の原液を塗りつけたような色づいた山が町を守るように聳え立っていた。色彩豊かなその景色を、浩介は立ちすくんで眺めた。
五分ほど、その景色を目に焼き付けた後、浩介はようやくお寺の方面へと続く道へと歩を進めた。お寺までは、この橋を渡り切ってから、まっすぐ突き当たりまで進み、右に曲がれば着くようだった。足音や車の走行音、店から聞こえる接客の声、人々の談笑。どれも耳に残らないそれらの断片的な音が、心地よく浩介の耳を通過していく。しかし、次第にそれらの音を掻き分けるように、がさつな歌声とアコースティックギターを乱暴に弾く音が聞こえた。しばらくして、その音の輪郭がはっきりし始めると、大学生の男の子が一人で自作の曲を歌っている姿が見えた。浩介は学生時代に組んでいたバンドで何度か路上で演奏をしたことをぼんやりと追想する。とても一人ではできなかったことをやっている男の子に少し尊敬の念を込め、曲を聞くともなしに聞く。おおよそ若気の至りのような歌詞だった。大きな声を出せば良いってもんじゃないと浩介は自分のことを棚に上げ、思う。浩介が学生の時は、小さな音と声で、ただ町の片隅で息を潜めるように音楽をしていた。そのせいで、通りがかりのおじさんから「しゃんと歌わんのやったらやめちまえ」と罵声を浴びせられたこともあった。それを思うと、あの男の子はとても立派だった。自分の中の小さな世界を他人の生きる大きな世界に向けて、審らかにすることは、恥ずかしく勇気のいることだが、それゆえに気持ちいいことを浩介もわずかながらに知っている。
帰ったらあの曲を完成させよう。羨望と嫉妬の入り混じる感情がむくむくと育ち始めている中、浩介は決心した。
ほどなくして、人々が駅に吸い込まれて行き、視界が開けると、徐々に町の活気もなくなりつつあった。そして、お寺の手前まで来ると、もうほとんど自然の音だけが周辺を満たしていた。
浩介は山門をくぐり、階段を登る。『お手紙参り右へ』と簡素に書かれた案内板に従い、右に抜けると、すぐに寺務所が見えた。そこに向かう前に、手水舎で清める。
「すみません、参拝なんですが......」
声をかけると、女性が中から答えた。
「参拝ですね、はじめてでしょうか」
「はい」
「では、こちらの紙に参拝の方法が載っておりますので、お渡ししておきます。参拝は無料なんですけども、お手紙を出される方は一律で二百円頂戴しております」
「あ、すみません。お札ってここで買えますか?」
浩介は案内の紙を受け取りながら、問い掛ける。
「はい。お札は、二種類ございまして、お手紙を出されるお相手によってどちらかをお選びいただけます」
二種類のお札が入った箱を女性は下から取り出し、見せてくれる。お札は中身がわからないよう紙に入れられていたが、その上に説明書きが記されていて、浩介は『お相手がご存命の方』の方を指差す。
「はい。では、参拝料が二百円とお札が百円ですので、計三百円頂戴いたします」
浩介は小銭で三百円を支払う。
「では、あちら、奥に見える本堂の方までお進みください」
浩介は終始にこやかに対応してくれた女性に礼をしながら、本堂の方まで歩いていく。
人々はちらほらいるものの、皆一人で来ているようで、砂利を踏み締める個々の足音だけが不揃いに聞こえてくる。浩介は再度、参拝方法の書かれた紙に目を通した。友人と友人の妻が言っていた通りのことが説明されている。そして、肝心なポストの色については、亡くなった人に向けて書いた手紙は赤色のポストへ、それ以外は白色のポストへ入れる仕組みになっているようだった。
浩介は紙に書かれている手順通り、まずは本堂にて、お賽銭を入れて、合掌する。一礼を終え、本堂を見渡すと、荘厳さが伺えた。
そして、浩介は自分の書いた手紙だけを取り出して、白色のポストに向かう。途中、『書き処』と書かれた看板が立てかけられた建造物が目に入る。紙の説明を見るに、どうやらそこでは便箋を販売していて、その場で手紙を書くことができるようだった。浩介が中の様子をちらりと窺うと、数人が紙と真剣に向き合っているのが見え、その中の一人が涙を流していることに遠目からでも気がついた。
連絡が気軽に取れる現代だからこそ、血の通った字に魂がこもっていくのだろう。浩介はここなら、真剣にゆう子に対して、そして、ゆう子を思う自分に対して、素直になれると直感する。
白色のポストは、手紙の宛先の相手と真剣に向き合えるように配慮されているのか、『書き処』をぐるりと回った裏手に設置されていた。ゆう子の部屋で感じた静寂とはまた違った種類の静寂がずっと続いている。
浩介はポストの前まで来ると、きっちり手紙に糊を貼り、ゆう子に対して思うことを一つだけ頭に浮かべた後、お札とともにポストに投函した。
底でカタンと音が鳴ったことを確かめ、浩介はお寺を後にした。
家に着くと、すでに日は傾き、ひんやりと濡れたような空気が部屋の中を充満していた。何かが今日から変わったということは決してない。だが、変わるという決心をすれば、自ずと状況は好転していくものだ。浩介はそう信じ、帰るなり、ギターを持って、曲を完成に近づけていった。磁石のように一つの思いが、頭の中で散らばった思いを束ねていく。それらを、丁寧に組み上げる。今までは少しの風で崩れてしまうような脆いものだったはずが、今や何があってもびくともしない頑丈さを誇り始めている。気持ち一つが道標となり、常に浩介の未来を照らし続けている。
夜通し、作り続けただろうか。曲が完成した時には、既に夜が明けていた。その間、隣人が壁を叩いたかもしれなかったが、それにさえ気が付く余裕もなかった。
浩介はノートを見返して、最後に完成したものを弾き、口ずさんでみる。素朴なメロディと芯のある歌詞は、まるで自分から離れた誰か見知らぬ人間が書いたかのような錯覚を覚えた。
歌い終えると、過去の様々なことが、顔の見えない亡霊のように薄い姿で、浩介の奥深くへと消えていくのを感じる。
人は簡単にくっつき、そして、別れてしまう。その砂で作った城のような儚さに人々はまた惹かれていく。何度水で流されようが、何度も作りあげる。一見無駄に思えるその行為の一つひとつに教訓が隠されていて、過去の自分が見つけ、引き継いできたそれらを、現在の自分が体現していかなければならない。浩介は、あえてゆう子のことを忘れないでおこうと心に決め、ギターをそっとケースにしまいこんだ。
翌年の春、ゆう子が結婚した。
久々にレザークラフト体験で作ったキーケースの手入れをしていた浩介は、友人からの電話で、そのことを知った。
「あの手紙届いたみたいやね」
浩介はひとり、そう呟き、新しい春の訪れに向かって、外へと駆けていった。
