The Trouble from Saying ‘You are mine’.--わがままから来た病
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[F mix]
§研究の終わりを目指して正しく判断しよう
諸々の研究には終わりがあるにちがいない、という我々の気持ちを導くことで、堅固で真なる判断がもたらされるはずだ。
§もつれなければ、操作はすぐ終わる
というのも、我々がこのために要求される操作は四つのみなのであって、何かがむやみにもつれることのないようにすれば、これらの操作が完了されるだろうし、このことはのちに比較的容易にできるからである。
§完成したら設計どおりかどうか調べて纏めよう
そして、完成したものを知識にする際に適しているのは、我々によって設定なり設計なりされたものに関連する諸々のものを精査して包括するこ とだ。
*****
§家系は樹木のごとく示される--学問も私を養ってくれた--発明する場合は分岐点が必ずある--生活に耐えて、発明しよう
なるほど樹木のようなものが誰かさんの家系を詳らかにしているが、その一方で、私の幼少期から、しかも文字やら人文学やらでもって、養われてきたのは、私だ。また、とりわけ方程式のような等分をして発明する場合は、いつでも割り算の如く分岐する位置があるだろう。
のみならず、この生活に留まる時間が我々にはあるはずだし、自分自身で発明して事物を有用にする気質や精神もあるにちがいない。
§緊張だらけの生活は、煩わしい
しかしながら他方で、緊張によって倦怠なり疲弊なりさせられてうんざりしたのは、私の精神なり気質なりである。そうした緊張を要求する生活は煩わしいし、そのかぎりにおいて、私がそうした発明のための時間をそこで用いても、それほど有益にはできないだろう。
【Father's Further with Money.
--傲慢な父親は、金銭[かね]とともに去りぬ】
§宮廷や法廷もどきの世界になじめない私
ポリアンドルも私も、もし知らなければ私の親どもの過誤なり 誤謬なりを容赦するかもしれないが、この親どもの送り込んだところは、少なくともとても幼い私にとっては、ほとんど宮廷か法廷かのようだった。
*****
§守銭奴のまま消えた父親
我々が自分たちで嘲るのはけちくさい奴のことである。すなわち、おのれの宝について執着したり妬んだりしているときにもそいつはそこから決して遠ざからないが、その一方で、それほど配慮されて守られているにも拘わらずその苦労に値しないのが、その金銭なのである。
§平穏なのに敢えて警戒する輩--自分が威張るという目的で家族を従えた
我々や皆が軽蔑するのは、夫としての男についてであるが、この夫はその仕方でその妻を愛さないほうがよい。というのも、この夫自身について、あるいはその妻について、この夫のもっている意見が悪いからである。
そこで私は云う。すなわち、この夫は何もなくても、その妻についてみずから挑んでは警戒するという傾向をもつはずだ。そして、その夫の想像することが成り立つかぎり、この夫はその妻について単なる所有だけをもっていることになる。
残念ながら、その善にふさわしくないのがその夫であるか、あるいはともかく誠実でないのがこの人の妻なる女である。
§諸君の世話なんか焼きたくない私--恐怖を露骨に示すと、却って危ない--身内を警戒する義務ならある
もし必要なことがあるとしたら、それは、どうやらあなたがたを更に世話 するのが私のはずだ、ということらしいが、あいにくそのことについて信ずるのは私では ない。とはいえ自分でも、それこそ見張りをつけるくらいに、もっぱら気をつけることだけはするにちがいない。
充分に知っている人々ならば懸念すべき雪崩が、谷のなかには在るが、たとえば我々が咳払いをするように、みずからの恐れから来る声は騒音になるのであって、これが雪山を動かすのではないか 。
となると、このように敵たちが家や国などの身内である場合に、我々にとって義理なり義務なりがあるのは、絶えず警戒するべく自分で見張っているということであり、これは敵なる彼らが害してこないようにするためだ。
*****
§酒と煙草で八つ当たり
連中が嗅ぎ煙草で陶酔させようとしたり、あるいは、連中がワインのなかに耽溺させようとしたりするものについて、もしそれが、そうした連中自身にとっての 諸々の不快だ、ということであれば、私が是認するのは、そんな連中の粗暴たることなのかもしれない。
§罵声は万人に響く
諸々の発声法に関して云えば、なるほど叩いてくるものをとおして、我々は感覚するが、それほど我々を叩く人ならば、その人の放つ音声は、きっとあらゆる言語に類似しているはずだ。
§民衆が隷属するわけないだろう/幼稚な話を聴くほうは苦労する
改めて云うと可笑しなことがある。すなわち、まるで民衆がみずから隷属するよう求められていたかのように云う奴も居る、ということだ。しかし勿論、このことはとても幼稚であり、しかもそれを聴いている人は、もっぱら苦労するだけだ。
§或る記憶から指図される筋合いのない別の記憶
真に、そして一般的に観察されるべきことがある。すなわち、そもそも記憶は継続的な注意 を要求してこないはずなのであって、したがって、そういう記憶からいつでも委任や指令をされうるような記憶は、何もないのである。なるほど我々の気持ちは、対象化されたり表象されて再現されたりするが、とはいえ、そのうち の何らかの部分を認識において、余計な想い出がさっぱりとかっさらうはずはない。
§考察されない精神は腐る/将来の私がおこなうことで怪物は打倒される
ここで私は告白しておきたい。すなわち、考察されないとそうした精神なり気質なりが邪悪になる、ということだ。なお私がたぶんいつの日かおこなうかもしれないことでもって、そういう怪物たちが打倒されたり貶められたりするが、このことで充分であるはずだ。
【論争/財産分与--人情の町で、危うく刃傷沙汰に...】
§言葉尻をあげつらうだけでは役に立たない
さて、人々に関して云えば、ただ一字一句だけを 論うことにかまけているうちにおそらく多くの点で機会を見つけだしては嘲るだろう が、そのようにして何かを反論したところで、それが緊要であるか、もしくは答弁に値するようなことは容易には起こらないだろう。
§逃した財運は誰の手に?
当代百年間に臨んで眺めるような慎重さである、というこのことに関して、そうした財運の周囲に皆が留まっているにも拘わらずその家 からそうした財運がいわば失踪していた場合、その家の人々はそうした財運を見いだすことができるかどうか 。たとえそのうちの皆ではないとはいえ、誰かが そうした財運に遭遇するはずだ。
§何も無駄にしない人は悪くない
どんなものからでも同じように何らかの利益を引き当てることのできる者に悪はないのであって、この人はよい感じがしている、と私は信じる。
*****
§物体よりも神--不完全なものはいつか分離する
多くのものが在るのはもちろんのことだが、我々が差し押さえるにも拘わらずそれらは何だか不完全で、あるいは限界づけられているところからすると、それらに含まれているものは分割や分離をされうる。 確実に存在するのは、神であって、決して物体でも身体でもない。
【命拾いして満足】
§過去のものでも、偶然によって感じてしまう
このようにして思惟されているなかで何度か戻って蘇る諸々の事物は過去のものだが、なんと偶然によって、どんな対象が触れてきても、諸々に感覚されてしまう。
§知解する我々は、残念ながら感覚してしまう/悪を欲せずすべてをひたすら知解するのは神だ
このように、いくら完全な何かがあるとはいえ、我々においては、やはりそれは受動になったら、あらゆる感覚になるのであって、単に知解するという様態だけではない。
一方、神自身は、常に同一で能動的であり、あらゆるものを同時に知解するはずだ。但し、あらゆるものとはいえ、なるほど過ちとか罪とかになった邪悪を欲しないのが、神である。
§疑惑も執着もなしに悪を避けるのが正当だ
となると、嫉妬とか羨望とか執着心とかいうこの情念そのものが戻らない場合、諸々の疑惑だけで執着や嫉妬をしているということが、そもそもないのであって、そこで、何らかの悪を努めて避けることになるのである。そのときには、何らかの悪を懸念するという主題をもっている人が正当なのだ。
§幾何学で黙らせよう、妨げよう
幾何学があるうえに、私が妨げるかぎり、少なくともロブやその同類たちは混乱するし、この連中が中傷できないというそのことは、変わることもない。
*****
§取り越し苦労で済んでよかった
なるほど、私は落ち着いて省察しているし、偽なるものには、私は同意しないつもり でいるし、私をひっかける者に対して、私は用心して いるが、このようにして私に気配りしてきたのが私であるからこそ、慎重になりながらではあったものの、私の費やす暇は安泰だった 。
§健康なときも、完全な者に甘えよう
そのなかで、エリザベト殿下の場合に限らず、健康を有することで完全になったのは今のあなたであるが、そのことについては、完全たることを対象として愛するというのが真なのである。
§真は神に在り
今見ていることは、何らかの途として、私には見えるが、この途をとおして、 真なる神について、御存じのとおり観想したり瞑想したりすることから他の事物を認識するほうへ、この途は到着されるはずだ。
§信じれば満たされる
対象のみをめぐってそうした対象についての認識が確実で疑いえないとなれば、我々の気持ちは充足すると思われる。
§満足--やはり、いい感じ
これこそ、よい感じのする情念だ。
§物体や身体に依存しようがしまいが、充たされるのはいつも心だけ
とにかく諸々の充足が有るが、それらは、身体なり物体なりに依存する場合であれ、あるいは少しも身体や物体に依存しない場合であれ、いずれにせよ精神なり気質なりのなかだけにある。
*****
§完全たることそのものは劣らずに我々によって知解される
なるほど我々の捉えるのがいかに完全でないとはいえ、完全たることそのものは何も劣らないので、それを明晰に且つ判明に我々は知解することができる。
§傲慢な空気は雪崩の後も...
同じ仕方で私が自分で想い起こすのは、かつてアルプスのなかで見たことのある ものであり、空気なり雰囲気なりが動揺して最も劣ったまま充たして傲慢になっていたのだが、それは私にとってはどうやら、雪崩がかなりよく模倣していたという、あの轟きという騒音であるらしい。
【Mother Starts to Gather Money.--自惚れた母親は、金銭[かね]の向くまま、気の向くまま...】
§守銭奴に化けた母親
けちくさい奴を嘲る人みずからにとっては、なるほど苦労に値するとはいえ、それ ほど配慮されて守られているわけではないのが、金銭なのである。
§人を道具にして善を愛する輩--家族を大事にしようとする自分が大好き
我々や皆が軽蔑するところによれば、夫としての男に証拠が一つあって、それはすなわち、この夫自身について、あるいはその妻について、この夫のもっているのが悪い意見だ、ということである。
ここで云うのは私だが 、この夫がその妻に対してもっていた愛というものは、はたして真なのかどうか。この夫が愛するのはそもそもこの妻ではないのである。が、そこに存在するのがもっぱらその善のみとして、その夫によって想像されて成り立つかぎり、この夫がその妻についてもっているのは単なる所有だけになる。
もしそうではないとこの夫が判断していたならばあるいはともかく、誠実でないのはこの人の妻なる女のほうである。
§家畜としても役立たず[?]な私
まず、私の最も嫌悪したことを私が主題化して信じるところによれば、べつにゾウやヒョウのような事物としては少しも有益ではないが、そこには何かがある、ということだが、ここで、私の精神に古くからこびりついてしまっている或る意見によれば、神によってこのようにいつも欺かれて誤るべく創造されたものが私であるという。
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時々欺かれて誤るのは私のほうだが、それを容赦している神は、最終的には善である。
§親からもらったのは体質だけ/学問も、私を養ってくれた
べつに咳が乾いているわけでもなく、また生彩のない顔色をしていたわけでもないのだが、私が自分の母親から継承した ものを、20歳以上という年齢まで抱え込んできたのが私だ。しかしその一方で、そんな私の幼少期から、文字やら人文学やらでもって、養われてきたのも、私だ。
§よそはよそ、うちはうち、で二十年
私には想像することが何もないとはいっても、それはあくまでもあなたの居るところについてなのであっ て、いわば旅行に匹敵することを20年来した私には、もはや何も残っていない 。そんな私が道において出くわすことになる盗賊なり剽窃者なりとか難破とかは、私から生命を取り去るだろう。
§家庭の包容力は、なかなか乏しい/母なる海なんて、所詮...
ついに私が云うことのできるのは、これ以外に何もない。すなわち、それを大きな 海として見たことが一度もないのは私であり、しかもそうした海のようなものについて私がもっている のは、あいにくひどく不完全な関係とか連絡とか陳述とかしかない、ということだ。
§もはやここで休めないのが私だ
私の要素となるべき拠点とかなわばりとかをここにして居るのは、もはや私ではないのであって、なるほど安静にしたり休止したりするのは善いことであるが、そうした善いことを知らずに自分たち自身で取っている連中がいる。なるほど私がたいてい睡眠中に偲ぶものすべてを同じくそうした人々は目覚めていながら偲ぶ。とはいえ、やはり私もここに居て、炉辺に座っていて 、私の揺らしているこの頭は、まどろんでいない...。
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§考察されない精神は腐る/将来の私がおこなうことで怪物は打倒される
ここでもう一度私は告白しておきたい。すなわち、考察されないとそうした精神なり気質なりが邪悪になる、ということだ。なお私がたぶんいつの日かおこなうかもしれないことでもって、そういう怪物たちが打倒されたり貶められたりするが、このことで充分であるはずだ。
【備えて行動すれば誇らしい】
§運動の原因を探すのに立ち止まらないのが私だが、運動そのものは主題をごまかせない
なるほど私が、私自身を停止させることなく探求するのは、それらの様々 な運動の原因だが、この原因がおのずと動き始めたら、私の理性やら根拠やらでもって諸々の運動が主題をそれ以外に換えて別様にするということになり、これはまさしくありえないことだ。
§死に備えよう
反対に何らかの力をもっていようが、あるいは何か健全であろうが、とにかく我々はやはり備えて覚悟しているにちがいない。何しろ、いつでもやって来るのが死であろうし、また、我々の行動は、いかに能動的になっても、死を許容できないどころか、むしろその死の原因になっているはずなのだ。
*****
§絶対に善いものは何?
ところで、善と名付けられて絶対的になりうる何らかのものを題材として私が選んでみて考えたところ、それは自分にとって容易 だった。
§忠告で縛られても運を取り戻せ
まず、最良の忠告によって頻繁に拘束された者に在るのが、‘運’なのだ。そしてそのように私が敢えて信じるのも、‘運’をみずから取り戻すことで、その運を比較的好都合なものにするためだ。
§指図されなくても自分で行動したい
私が少しも疑わないかぎり、殿下エリザベトに限らず、あなたがたが提示しているそれらの格率は 比較的よいものに値するのであって、経験なり実験なりに基づいて推論できるや否や完全になる人格を備えた人々がおこなうことだろうが、それについては、そもそも、そうし た人々がみずからおこなうはずのことなのかもしれない。
§自分で祈ったからこそ神に導かれた
はたしてそれが唯一であるかどうかはともかく、あたかも欲したのが神であるかのように獲得されているのは、あくまで我々の祈りによるのだ。
§事物で満足させるのは難しい
ところで最も困難なのは、情念以外の他の事物すべてにおいて人々を満足させることなのであって、情念のほうはあまり困難ではないように思われる。
§何よりもまず、神が居る
いかにも神が在るということは、それらの事物のうちで第一に原理的である。
§欲のほかに悲しみは?--明晰な経験が現れると情念になる
必ずしも欲望の類いのすべてではないとはいえ、それらの欲望以外に有る悲しみから、これが最も困難だ、ということは 詳らかになった。ここにそれほどに明晰な経験が在る。そして、あの経験が 現れると、諸々の情念などになる。
§誇らしいから好き勝手に書いた
経験なり実験なりをとおして、誇りとか栄誉とかを数に入れて置いて情念として感受するということについては、判断を好都合に見ながらそれについて書いたのが私だ。
その私が称賛するのは、神である。
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§いくら不完全な我々でも、完全さそのものくらいは知解できる
なるほど我々の捉えるのがいかに完全でないとはいえ、完全たることそのものは何も劣らないので、それを明晰に且つ判明に我々は知解することができる。
【This Prism May Be Like A Prison.】
あのとき既に砕かれているせいもあって、その牢獄のようなものは小さい。
【いつも広い心で...】
§親や国だけに善いことをするな
我々自身がもっぱら自分の両親に、あるいは自分の国に対してだけ、善を削りだすのは、小さいことだ。
§偉大な魂は善かれ悪しかれ最大
むしろ美徳も悪徳も同じく最大にできる魂こそが、最も偉大であることになろう。
§皆から依存されても、決して偽でないのが神である
但し、神の存在することが知覚というより知得されるのがいかに後であったかはともか く、その神に依存しているのは、神以外のあらゆるものなのである。その一方で偽なることのな いのが、そうした神である。
*****
しかしながら、神という観念も魂という観念も、決して感覚にはならなかった、ということは確実である。
§もう誰にも騙されない
結局、旧来真なるものと私が考えていたからといって、なにもそれを私が余儀なく認容することはないのだ。
しかも、私の根拠を知解すれば、真で堅固な 反駁を、諸々の意見に対しておこなうことができる。そして、これらのことは、私をひっかける者がいかに巧みでも異なることがない。
*****
§非常事態でも充たされる人がもつ理性
真なる教えというのは、諸々の事件や不測の事態のうちでさえも常に充足しているこ とのできる人にこそ、備わっているのであって、そういう人が知っているの は、理性を使用することだ。
§事物を発見できる機会が増える/幾何学
また、‘幾何学’をとおして私が主張していたところによれば、発見できる事物はほかにもなお数々ある、と信じる者に機会を与えるべく用いられるのがそれだ、ということである。
§小説のように読むべし--説明しなくてもできる人
私が望むのは、この書物の全体を一瞥していた人がまずはそのすべてを小説の如くもっぱら大まかに知ることだけなのであって、私が取り扱った諸々の題材は、なるほど原理的であるが、これらの ‘原理’の成果は最後になるだろうから、できる人ならば、私が少しも説明したことのない真理を幾つも用いて、 昇るので、この人は比較的程度が高くて賢明なはずだ。
*****
§当時の説明は、あまり詳しくなかった
しかし人々に関して云えば、私の根拠の連鎖と脈絡とを把握することに気を配らないうちは、この著作を読んでも大きな成果を収めるようにはならないだろう。
§興味本位なだけの奴らは助けてくれない
それどころか、わざわざユードクスに云わせるまでもないことだが、あなたがたは、妨害やら支 障やら障害やらを第一に発見どころか暴露する際に、強かによくもまあ、比喩でもって対比させる ばかりだ。そこで、あなたがたが付け加えていないような手段でもって、そうした妨害などから みずからを守るのが我々だ。
§討論にならないことが主題になる/続けて読もう
前述のそのことのあとに見いだす人が、もし好奇心をもってそれらの題材についての原因を認識する場合、その人が指摘するのは、あくまで理由を連ねて 列にする私に関してなのであって、もしそうした列を充分に認識することのできない人の場合は、どこからでも筆で線引きをして、そうした箇所をもっぱら特徴づけるにちがいない。
が、いずれにせよ、続けて読むことで終わりにするまでには、きっと、諸々の真理が討論から除去するものは、すべて主題になるだろうし、和合もするだろう、ということである。反対に、学校での諸々の論争が戻ってきているのに感じえないほどの人々は、比較的辛辣で、しかも比較的片意地なのであるが、そこから異端になったり決裂したりするものが、世間に対して今はたらきかけている。
§私にとって論争は不便だ/いかに短く説明するか
なるほど、私が切に望むかぎり、それらの論争から私が断言したり主張したりす ることは何もないだろう。しかしその一方で、理性に納得させることのできる他のものを見積もるのも、また私だ。では、どうすれば最も短く私は説明することができるだろうか 。きっとそれは私によって設定されたものに対してもきわめて有用なはずである。
Produced and arranged by K. masamix as the SHYNAMITES,2006-2020.
初出:"What a cool believes"[blog],Nov.10,2006.
再掲:"What a cool believes-II: the SHYNAMITES' official blog", Jan.10,2009.
引用・参考文献
avec Burman:Descartes et Burman.(AT.V)(『ビュルマンとの対話』)
DM.:Discours de la Methode.(AT.VI)(『方法叙説』)
Hom.:(Le Monde-)l'Homme.(AT.XI)(『人間論』)
LA.-Trad.:Lettre de l'autheur a celuy qui a traduit le livre.(AT.IX-ii)(『仏訳者への書簡』)
Med.:Meditationes de Prima Philosophia.(AT.VII)(『省察』)
Meteor.:Les Meteores.(AT.VI)(『気象学』)
Monde-Lum.:Le Monde-Traité de la Lumiere.(AT.XI)(『世界論/光論』)
PA.:Passions de l'Ame.(AT.XI)(『情念論』)
PP.:Principia Philosophiae.(AT.VIII-i)(『哲学の原理』)
Praef.:Praefatio ad Lectorem.(AT.VII)(「読者への序言」)
Regul.:Regulae ad Directionem Ingenii.(AT.X)(『精神指導の規則』)
RV.:Recherche de la Verite.(AT.X)(『真理の探究』)
&
à Brégy,Stockholm,15 janvier 1650,(デカルトからブレジー宛の書簡、於ストックホルム、1650年1月15日)
à Chanut,Egmond,31 mars 1649,(デカルトからシャニュ宛の書簡、於エフモント、1649年3月31日)
à Elisabeth,28 juin 1643,(デカルトからエリザベト宛の書簡、1643年6月28日)
à Elisabeth,Egmond,mai ou juin 1645,(デカルトからエリザベト宛の書簡、於エフモント、1645年5月か6月)
à Elisabeth,juin 1645,(デカルトからエリザベト宛の書簡、1645年6月)
à Elisabeth,Egmond,4 août 1645,(デカルトからエリザベト宛の書簡、於エフモント、1645年8月4日)
à Elisabeth,Egmond,18 août 1645,(デカルトからエリザベト宛の書簡、於エフモント、1645年8月18日)
à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645,(デカルトからエリザベト宛の書簡、於エフモント、1645年9月15日)
à Elisabeth,Egmond,6 octobre 1645,(デカルトからエリザベト宛の書簡、於エフモント、1645年10月6日)
à Elisabeth,Egmond,janvier 1646,(デカルトからエリザベト宛の書簡、於エフモント、1646年1月)
à Elisabeth,mai 1646,(デカルトからエリザベト宛の書簡、1646年5月)
à Elisabeth,novembre 1646,(デカルトからエリザベト宛の書簡、1646年11月)
à Elisabeth,La Haye,mars 1647,(デカルトからエリザベト宛の書簡、於ラ・エー、1647年3月)
à Mersenne,Amsterdam,18 décembre 1629,(デカルトからメルセンヌ宛の書簡、於アムステルダム、1629年12月18日)
à Mersenne,Amsterdam,janvier 1630,(デカルトからメルセンヌ宛の書簡、於アムステルダム、1630年1月)
à Mersenne,Egmond,4 avril 1648,(デカルトからメルセンヌ宛の書簡、於エフモント、1648年4月4日)
à Pollot?,1648?.(デカルトからポロ宛?の書簡、1648年?)
cf.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
[HPML mix]
§研究の終わりを目指して正しく判断しよう
「諸々の研究」には「終わり」が「ある」「にちがいない」、という我々の「気持ち ingenij を導くこと」で(Regul.1:AT.X,359.05)、「堅固で真なる」(ibid.:AT.X,359.05-06)「判断」が「もたらされるはず」だ(ibid.:AT.X,359.06-07)。
§もつれなければ、操作はすぐ終わる
というのも、我々が「このために」「要求される」「操作」は「四つのみ」なのであって(Regul.18:AT.X,461.12)、「何かがむやみにもつれる」ことの「ない」ようにすれば(ibid.:AT.X,461.14-15)、これらの操作が「完了される」だろうし、このことは「のちに」「比較的容易に」「できる」「から」である(ibid.:AT.X,461.15)。
§完成したら設計どおりかどうか調べて纏めよう
そして、「完成したもの」を「知識」にする際に「適している」のは(Regul.7:AT.X,387.10)、「我々」によって「設定なり設計なりされたものに関連する」諸々のものを(ibid.:AT.X,387.11)「精査して」(ibid.:AT.X,387.12)「包括すること」(ibid.:AT.X,387.13)だ。
*****
§家系は樹木のごとく示される--学問も私を養ってくれた--発明する場合は分岐点が必ずある--生活に耐えて、発明しよう
なるほど「樹木」のようなものが「誰かさんの家系を詳らかにしている」(Regul.14:AT.X,450.20-451.01)が、その一方で、「私の幼少期から」、しかも「文字」やら人文学やらでもって、「養われてきた」のは、「私」だ(DM.1:AT.VI,4.21)。また、とりわけ「方程式」のような等分をして「発明」する(Regul.20:AT.X,469.02)場合は、「いつでも」「割り算」の如く分岐する「位置」が「あるだろう」(ibid.:AT.X,469.03-04)。
のみならず、「この生活に留まる」時間が「我々にはある」はずだし、「自分自身で発明して」事物を有用にする「気質」や精神もあるにちがいない(RV.:AT.X,498.02&04-05)。
§緊張だらけの生活は、煩わしい
しかしながら他方で、「緊張 l'attention」によって「倦怠なり疲弊なりさせられ」てうんざりしたのは、「私の精神」なり気質なりである(à Elisabeth,28 juin 1643:AT.III,693.09-10)。そうした緊張を「要求する」「生活」は「煩わし」いし(ibid.:AT.III,693.10- 11)、そのかぎりにおいて、「私が」「そうした」発明のための時間を「そこで」「用いて」も、「それほど」「有益に」は「できない」(ibid.: AT.III,693.08-09)だろう。
【Father's Further with Money.
--傲慢な父親は、金銭[かね]とともに去りぬ】
§宮廷や法廷もどきの世界になじめない私
「ポリアンドル POLIANDRE」も(RV.:AT.X,499.12)「私」も、もし「知らなければ」(RV.:AT.X,499.16)「私の親どもの過誤」なり 誤謬なりを「容赦する」(RV.:AT.X,499.17)かもしれないが、この親どもの「送り込んだ」ところは、少なくとも「とても幼い」「私」にとっては(RV.:AT.X,499.19)、ほとんど「宮廷 la Cour」か法廷か(RV.:AT.X,499.19)のようだった。
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§守銭奴のまま消えた父親
我々が「自分」たちで「嘲る」のは「けちくさい奴」のこと(PA.§169:AT.XI,458.16)である。すなわち、「おのれの宝について執着したり妬んだりしているときに」も「そいつは il」(ibid.:AT.XI,458.16-17)「そこから決して遠ざからない」が(ibid.:AT.XI,458.18)、その一方で、「それほど配慮」されて「守られている」にも拘わらず「その苦労に値しない」のが、「その金銭」なのである(ibid.:AT.XI,458.19-20)。
§平穏なのに敢えて警戒する輩--自分が威張るという目的で家族を従えた
我々や皆(on)が「軽蔑する」のは、「夫」としての男について(PA.§169:AT.XI,458.20)であるが、この夫は「その仕方で」その妻を「愛さない」ほうが「よい」(ibid.:AT.XI,458.22)。というのも、この夫「自身について、あるいは」その妻について、この夫の「もっている意見」が「悪い」(ibid.:AT.XI,458.22-23)からである。
そこで「私は云う」(PA.§169:AT.XI,458.23)。すなわち、この夫は「何もなく」ても、その妻についてみずから挑んでは「警戒する」という「傾向をもつはず」だ(ibid.:AT.XI,458.25-26)。そして、その夫の「想像する」ことが(ibid.:AT.XI,459.01)「成り立つ」かぎり、この夫はその妻について「単なる所有 la possession」だけを「もっている」(ibid.:AT.XI,459.01-02)ことになる。
残念ながら、その善に「ふさわしくない」のがその夫「である」(PA.§169:AT.XI,459.03)か、「あるいはともかく」「誠実でない」のがこの人の「妻」なる女「である」(ibid.:AT.XI,459.03-04)。
§諸君の世話なんか焼きたくない私--恐怖を露骨に示すと、却って危ない--身内を警戒する義務ならある
もし「必要な」ことが「ある」としたら(Meteor.10:AT.VI,366.24)、それは、どうやら「あなた」がたを「更に」「世話 する」のが「私」の「はずだ」(ibid.:AT.VI,366.24)、ということらしいが、あいにく「そのことについて」「信ずる」のは「私」では 「ない」(ibid.:AT.VI,366.23)。とはいえ自分でも、それこそ「見張りをつける」くらいに、「もっぱら」気をつけることだけはする「にちがいない」(RV.:AT.X,503.05)。
「充分に」「知っている」「人々」(Meteor.7:AT.VI,320.29)ならば「懸念すべき」「雪崩」が、谷のなかには「在る」が(ibid,:AT.VI,320.30-31)、たとえば我々が「咳払いをする」(ibid.:AT.VI,321.01)ように、みずからの「恐れから」(ibid.:AT.VI,321.01)来る「声」は「騒音」になるのであって、これが「雪山を動かす」のでは「ないか」 (ibid.:AT.VI,321.01-02)。
となると、このように「敵たち」が家や国などの「身内で domestique ある」(à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645:AT.IV,218.11)場合に、我々にとって「義理」なり義務なりが「ある」のは、「絶えず」警戒するべく「自分で見張っているということ」(ibid.:AT.IV,218.12-13)であり、これは敵なる「彼らが害してこない」ように(ibid.:AT.IV,218.14)するためだ。
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§酒と煙草で八つ当たり
連中が「嗅ぎ煙草で陶酔させ」ようとしたり、「あるいは」(à Elisabeth,Egmond,6 octobre 1645:AT.IV,305.10-11)、連中が「ワインのなかに耽溺させ」ようとしたりするものについて、もしそれが、そうした連中自身にとっての 「諸々の不快」だ(ibid.:AT.IV,305.09-10)、ということであれば、「私」が「是認する」のは、そんな連中(ceux)の「粗暴たること」なの「かもしれない」(ibid.:AT.IV,305.09)。
§罵声は万人に響く
「諸々の発声法に関して」(à Mersenne,Amsterdam,18 décembre 1629:AT.I,103.04)云えば、なるほど「叩いて」くる「もの」をとおして、「我々」は「感覚」するが、「それほど」(ibid.: AT.I,103.05-06)「我々を叩く」「人」(on)「ならば」(ibid.:AT.I,103.07)、その「人」(on)の「放つ」音声は(ibid.:AT.I,103.09)、きっと「あらゆる言語に類似している」(ibid.:AT.I,103.09-10)はずだ。
§民衆が隷属するわけないだろう/幼稚な話を聴くほうは苦労する
改めて「云う」と「可笑しな ridicule」ことが「ある」(à Mersenne,Amsterdam,janvier 1630:AT.I,112.21)。すなわち、「まるで民衆が」(ibid.:AT.I,112.23-24)「みずから隷属する」よう「求められていた」(ibid.:AT.I,112.24-25)かのように云う奴も居る、ということだ。しかし勿論、「このことはとても幼稚であり」(ibid.: AT.I,112.25)、しかもそれを「聴いている」人(on)は、「もっぱら苦労する」だけだ(ibid.:AT.I,112.26-27)。
§或る記憶から指図される筋合いのない別の記憶
「真に verò」、そして「一般的に」「観察されるべき」ことが「ある」(Regul.16:AT.X,458.09)。すなわち、そもそも記憶は継続的な注意 を要求してこないはずなのであって、したがって、そういう記憶から「いつでも委任や指令をされうる」ような「記憶」は、「何もない」ので「ある」 (ibid.:AT.X,458.09-10)。なるほど「我々の気持ち」は、「対象化された」り「表象されて再現された」りするが、とはいえ、そのうち の「何らかの部分を」「認識に」おいて、「余計な想い出が」「さっぱりと」「かっさらうはず」は「ない」(ibid.:AT.X,458.12-13)。
§考察されない精神は腐る/将来の私がおこなうことで怪物は打倒される
ここで「私は告白して」おき「たい」(à Mersenne,Egmond,4 avril 1648:AT.V,142.30)。すなわち、「考察」され「ない」と「そうした精神なり気質なり」が「邪悪」になる(ibid.:AT.V, 142.31)、ということだ。「なお」「私」が「たぶん peutestre」「いつの日か quelque jour」「おこなう」かもしれない「こと」でもって(ibid.:AT.V,143.02-03)、「そういう怪物たちが」「打倒されたり貶められたり」するが、このことで「充分で」「あるはず」だ(ibid.:AT.V,143.03)。
【論争/財産分与--人情の町で、危うく刃傷沙汰に...】
§言葉尻をあげつらうだけでは役に立たない
さて、人々に「関して」云えば(Praef.:AT.VII,9.28)、「ただ一字一句だけ」を(ibid.:AT.VII,9.30) 「論うことに」かまけているうちに(ibid.:AT.VII,10.01)「おそらく多くの点で機会を見つけだして」は「嘲る」だろう (ibid.:AT.VII,10.02-04)が、そのようにして「何か」を「反論」したところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容易には」起こらないだろう(ibid.:AT.VII,10.04-05)。
§逃した財運は誰の手に?
「当代」百年間に臨んで「眺める」ような「慎重さ」である、という「この」こと「に関して」(à Elisabeth,Egmond,janvier 1646:AT.IV,352.09)、「そうした」財運の「周囲に皆が留まっている」にも拘わらず(ibid.:AT.IV,352.11)「その」家 から「そうした」財運がいわば「失踪していた estre fugitive」場合(ibid.:AT.IV,352.13)、その家の人々は「そうした」財運を「見いだすことができる」「かどうか」 (ibid.:AT.IV,352.15-16)。たとえそのうちの「皆」では「ない」とはいえ(ibid.:AT.IV,352.15-16)、誰かが 「そうした」財運に「遭遇する」(ibid.:AT.IV,352.16)はずだ。
§何も無駄にしない人は悪くない
「どんな」ものからでも「同じように」「何らかの利益を引き当てることのできる」者に「悪はない」のであって、この人は「よい感じ」がしている、と「私は信じる」(à Elisabeth,juin 1645:AT.IV,237.21&23-24)。
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§物体よりも神--不完全なものはいつか分離する
「多くのものが在る」のは「もちろん」のことだが(PP.1 §23:AT.VIII-i,13.24)、「我々が差し押さえる deprehendimus」「にも拘わらず」それらは「何だか」「不完全」で、「あるいは」「限界」づけられている(ibid.:AT.VIII-i, 13.25-26)ところからすると、それらに「含まれている」ものは「分割や分離をされうる」(ibid.:AT.VIII-i,13.28-29)。 「確実」に「存在する」のは(ibid.:AT.VIII-i,13.29)、「神であって」、決して「物体」でも身体でも「ない」(ibid.: AT.VIII-i,13.30)。
【命拾いして満足】
§過去のものでも、偶然によって感じてしまう
「このようにして」「思惟されて」いるなかで「何度か」「戻って」蘇る「諸々の事物」は「過去の」もの(Hom.:AT.XI,184.17 -18)だが、「なんと」「偶然によって」(Hom.:AT.XI,184.19)、どんな対象が「触れて」きても、諸々に「感覚」されて(Hom.: AT.XI,184.20)しまう。
§知解する我々は、残念ながら感覚してしまう/悪を欲せずすべてをひたすら知解するのは神だ
このように、いくら「完全」な「何か」が「ある」とはいえ、「我々において」は(PP.1 §23:AT.VIII-i,13.30-31)、「やはり tamen」それは「受動になった」ら、「あらゆる感覚に」(ibid.:AT.VIII-i,13.31-14.01)なるのであって、「単に tantum-」「知解する」という「様態だけで modo」は(ibid.:AT.VIII-i,14.02-03)「ない」(ibid.:AT.VIII-i,14.03)。
一方、神「自身」は(PP.1 §23:AT.VIII-i,14.03)、「常に同一」で(ibid.:AT.VIII-i,14.05)「能動 actionem」的(ibid.:AT.VIII-i,14.05)であり、「あらゆるものを同時に知解するはず」だ(ibid.:AT.VIII- i,14.05-06)。但し、「あらゆるもの」(PP.1 §23:AT.VIII-i,14.06)とはいえ、「なるほど enim」「過ちとか罪とかになった邪悪」を「欲し」「ない」(ibid.:AT.VIII-i,14.07)のが、神である。
§疑惑も執着もなしに悪を避けるのが正当だ
となると、嫉妬とか羨望とか執着心とかいう「この情念」「そのもの」が「戻らない」場合(PA.§169:AT.XI,459.04-05)、「諸々の疑惑」だけで(ibid.:AT.XI,459.05)「執着」や嫉妬を「しているということが」、「そもそも」「ない」のであって、そこで、何らかの悪を努めて避けることになるの「である」(ibid.:AT.XI,459.05-06)。「そのとき」には、何らかの悪を「懸念する」という「主題をもっている」人(on)が「正当な」のだ(ibid.:AT.XI,459.07-08)。
§幾何学で黙らせよう、妨げよう
「幾何学がある」うえに、「私」が(à Mersenne,Egmond,4 avril 1648:AT.V,142.24)「妨げる」かぎり(ibid.:AT.V,142.25)、少なくともロブやその同類たちは(le Rob.& ses semblables)「混乱」するし、この連中が中傷できないという「そのことは」、「変わる」ことも「ない」(ibid.:AT.V, 142.26)。
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§取り越し苦労で済んでよかった
なるほど、「私は」「落ち着いて」「省察」して(Med.1:AT.VII,23.04)いるし、「偽なるものには、私は同意しないつもり で」(ibid.:AT.VII,23.06-07)いるし、「私」をひっかける者(Med.1:AT.VII,23.07)に対して、「私は用心して」 (ibid.:AT.VII,23.08-09)いるが、このようにして「私に気配りしてきた」のが「私」である(ibid.:AT.VII, 18.01)からこそ、「慎重になりながら」ではあったものの、「私の費やす」(ibid.:AT.VII,17.12-13)「暇」は「安泰」だった (ibid.:AT.VII,18.01)。
§健康なときも、完全な者に甘えよう
そのなかで、エリザベト殿下の場合に限らず、「健康を有する」ことで「完全」になったのは「今」の「あなた」であるが、「その」こと「について」は(à Elisabeth,La Haye,mars 1647:AT.IV,624.15-625.01)、「完全たること」を「対象」として「愛」するというのが「真な」の「である」(à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645:AT.IV,291.26-27)。
§真は神に在り
「今」「見ていること」は、「何らかの途」として、「私には見える」が(Med.4:AT.VII,53.18)、この途「をとおして」、 「真なる」「神」について、「御存じの」とおり「観想」したり瞑想したりすること「から」(Med.4:AT.VII,53.19)「他の事物」を「認識」する「ほうへ」、この途は「到着されるはず」だ(Med.4:AT.VII,53.21-22)。
§信じれば満たされる
「対象のみをめぐって」「そうした」対象(Regul.2:AT.X,362.02)「についての」「認識」が「確実で疑いえない」となれば (ibid.:AT.X,362.02-03)、「我々の気持ちは充足すると思われる」(ibid.:AT.X,362.03-04)。
§満足--やはり、いい感じ
「これ」こそ(PA.§1:AT.XI,327.11)、「よい感じ」(DM.1:AT.VI,1.17)のする「情念」(PA.§1:AT.XI,327.12)だ。
§物体や身体に依存しようがしまいが、充たされるのはいつも心だけ
「とにかく諸々の充足が有る」が(à Elisabeth,Egmond,18 août 1645:AT.IV,277.17-18)、それらは、「身体なり物体なりに依存する」(ibid.:AT.IV,277.18)場合であれ、あるいは 「少しも」身体や物体に「依存しない」(ibid.:AT.IV,277.19)場合であれ、いずれにせよ「精神なり気質なりのなかだけ」(ibid.: AT.IV,277.20)にある。
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§完全たることそのものは劣らずに我々によって知解される
「なるほど」「我々の捉える comprehendamus」のが「いかに」完全で「ない」とはいえ(PP.1 §19:AT.VIII-i,12.12-13)、完全たること「そのもの」は「何も劣らない」ので、それを「明晰に且つ判明に」(ibid.: AT.VIII-i,12.14-15)「我々は知解することができる」(ibid.:AT.VIII-i,12.16)。
§傲慢な空気は雪崩の後も...
「同じ仕方で」「私が自分で想い起こす」のは(Meteor.7:AT.VI,316.15)、「かつてアルプスのなかで見た」ことのある (ibid.:AT.VI,316.16)ものであり、「空気」なり雰囲気なりが「動揺」して「最も劣った」まま「充たして」傲慢になって「いた」 (ibid.:AT.VI,316.18-19)のだが、「それは私にとってはどうやら」(ibid.:AT.VI,316.20)、雪崩が「かなりよく模倣していた」という、あの「轟きという騒音」(ibid.:AT.VI,316.21-22)であるらしい。
【Mother Starts to Gather Money.--自惚れた母親は、金銭[かね]の向くまま、気の向くまま...】
§守銭奴に化けた母親
「けちくさい奴を嘲る」人「みずから」(PA.§169:AT.XI,458.16)にとっては、なるほど「苦労に値する」とはいえ、「それ ほど配慮」されて「守られている」わけでは「ない」のが、「金銭」なのである(ibid.:AT.XI,458.19-20)。
§人を道具にして善を愛する輩--家族を大事にしようとする自分が大好き
我々や皆(on)が「軽蔑する」ところによれば、「夫」としての男に(PA.§169:AT.XI,458.20)「証拠」が「一つ」「あって」、「それ」は(ibid.:AT.XI,458.21-22)すなわち、この夫「自身について、あるいは」その妻について、この夫の「もっている」のが「悪い意見」だ(ibid.:AT.XI,458.22-23)、ということである。
ここで「云う」のは「私」だが (PA.§169:AT.XI,458.23)、この夫がその妻「に対してもっていた」「愛というもの une Amour」は、はたして「真な」の「かどうか」(ibid.:AT.XI,458.24-25)。この夫が愛するのは「そもそも proprement」この妻では「ない」の「である」(ibid.:AT.XI,458.26)。が、そこに「存在する」のが「もっぱらその善のみ」と して、その夫によって想像されて(ibid.:AT.XI,459.01)「成り立つ」かぎり、この夫がその妻について「もっている」のは「単なる所有 la possession」だけになる(ibid.:AT.XI,459.01-02)。
「もし」そうでは「ない」とこの夫が「判断していた」ならば(PA.§169:AT.XI,459.03)「あるいはともかく」、「誠実でない」のはこの人の「妻」なる女のほう「である」(ibid.:AT.XI,459.03-04)。
§家畜としても役立たず[?]な私
まず、「私」の「最も嫌悪した」「こと」(à Chanut,Egmond,31 mars 1649:AT.V,328.29)を「私が主題化して」「信じる」(ibid.:AT.V,329.01-02)ところによれば、べつに「ゾウやヒョウのような」(ibid.:AT.V,329.03)「事物」「として」は「少しも」「有益で」は「ない」が、「そこに」は「何か」が「ある」 (ibid.:AT.V,329.04-05)、ということだが、ここで、「私の精神に」「古くから」「こびりついてしまっている」「或る意見」(Med.1:AT.VII,21.01-02)によれば、神によって「このように」(ibid.:AT.VII,21.02)いつも欺かれて誤るべく 「創造されたもの」が「私である」(ibid.:AT.VII,21.03)という。
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時々欺かれて誤るのは「私」のほうだが、それを容赦している神は、「最終的に」は善である(Med.1:AT.VII,21.15-16)。
§親からもらったのは体質だけ/学問も、私を養ってくれた
べつに「咳」が「乾いて」いるわけでもなく、また「生彩のない」顔「色」をしていたわけでもないのだが、「私」が自分の母親から「継承した」 ものを、「20歳以上という年齢まで」抱え込んできたのが「私」だ(à Elisabeth,Egmond,mai ou juin 1645:AT.IV,221.01-03)。しかしその一方で、そんな「私の幼少期から」、「文字」やら人文学やらでもって、「養われてきた」のも、「私」だ(DM.1:AT.VI,4.21)。
§よそはよそ、うちはうち、で二十年
「私」には「想像する」ことが「何もない」(à Chanut,Egmond,31 mars 1649:AT.V,329.06)とはいっても、それはあくまでも「あなたの居る」ところ(ibid.:AT.V,329.06)についてなのであって、いわば旅行に匹敵することを「20年来」「した」「私」には(ibid.:AT.V,329.07-08)、「もはや」何も「残っていない」 (ibid.:AT.V,329.08-09)。そんな「私」が(ibid.:AT.V,329.08)「道において」「出くわすこと」になる「盗賊なり剽窃者なり」とか(ibid.:AT.V,329.09-10)難破とかは、「私」から「生命を」「取り去る」(ibid.:AT.V,329.10- 11)だろう。
§家庭の包容力は、なかなか乏しい/母なる海なんて、所詮...
「ついに」「私が云うことのできる」のは、これ「以外に何もない」(Meteor.7:AT.VI,315.23)。すなわち、それを大きな 海として「見たことが一度もない」のは「私」であり(ibid.:AT.VI,315.25)、しかもそうした海のようなものについて「私がもっている」 のは、あいにく「ひどく不完全な関係とか連絡とか陳述とか des relations しかない」(ibid.:AT.VI,315.25-26)、ということだ。
§もはやここで休めないのが私だ
「私の要素 mon element」となるべき拠点とかなわばりとかを「ここに」して「居る」のは、もはや「私」では「ない」(à Brégy,Stockholm,15 janvier 1650:AT.V,467.19-20)のであって、なるほど安静にしたり休止したりするのは「善いこと」「である」が(ibid.:AT.V, 467.21)、そうした善いことを「知らずに自分たち自身で取っている」連中がいる(ibid.:AT.V,467.22-23)。なるほど「私」がたいてい「睡眠中に偲ぶ」もの「すべて」を「同じく」(Med.1:AT.VII,19.09)「そうした人々は目覚めていながら」(Med.1: AT.VII,19.10-11)偲ぶ。とはいえ、やはり「私」も「ここに居て」(Med.1:AT.VII,19.11)、「炉辺に座っていて」 (Med.1:AT.VII,19.12)、「私の揺らしているこの頭」は、「まどろんでいない」(Med.1:AT.VII,19.15)...。
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§考察されない精神は腐る/将来の私がおこなうことで怪物は打倒される
ここでもう一度「私は告白して」おき「たい」(à Mersenne,Egmond,4 avril 1648:AT.V,142.30)。すなわち、「考察」され「ない」と「そうした精神なり気質なり」が「邪悪」になる(ibid.:AT.V, 142.31)、ということだ。「なお」「私」が「たぶん peutestre」「いつの日か quelque jour」「おこなう」かもしれない「こと」でもって(ibid.:AT.V,143.02-03)、「そういう怪物たちが」「打倒されたり貶められたり」するが、このことで「充分で」「あるはず」だ(ibid.:AT.V,143.03)。
【備えて行動すれば誇らしい】
§運動の原因を探すのに立ち止まらないのが私だが、運動そのものは主題をごまかせない
なるほど「私が、私自身を停止させる」こと「なく」(Monde-Lum.3:AT.XI,11.13)「探求する」のは、「それらの」様々 な「運動」の「原因」だが(ibid.:AT.XI,11.13-14)、この原因が「おのずと動き始めた」ら(ibid.:AT.XI,11.14- 15)、「私の理性やら根拠やらでもって」(ibid.:AT.XI,11.16-17)諸々の運動が「主題を」それ「以外に」「換えて」「別様に autrement」するということになり、これは「まさしく」ありえ「ない」ことだ(ibid.:AT.XI,11.18-19)。
§死に備えよう
「反対に」「何らかの力」をもっていようが、「あるいは何か健全」であろうが、「とにかく」(à Pollot?,1648?:AT.V,557.29)「我々はやはり備えて」覚悟して「いるにちがいない」(ibid.:AT.V,557.30)。何しろ、「いつ」でもやって「来る」のが死で「あろう」(ibid.:AT.V,557.31)し、また、我々の行動は、いかに能動的になっても、死を「許 容できない」どころか、むしろその死の「原因になって」「いるはず」なのだ(ibid.:AT.V,558.02-03)。
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§絶対に善いものは何?
ところで、「善と名付け」られて「絶対的に」なりうる(à Elisabeth,juin 1645:AT.IV,237.22-23)「何らかの」ものを「題材」として「私」が「選んで」みて「考えた」ところ、それは「自分にとって」「容易」 だった(DM.6:AT.VI,75.14-15)。
§忠告で縛られても運を取り戻せ
まず、「最良の忠告」によって「頻繁に」(à Elisabeth,mai 1646:AT.IV,412.12-13)「拘束され」た者に「在る」(ibid.:AT.IV,412.14)のが、「‘運’」なのだ(ibid.: AT.IV,412.15)。そしてそのように「私が敢えて信じる」(à Elisabeth,novembre 1646:AT.IV,529.18)のも、「‘運’をみずから取り戻すこと」で、その運を「比較的好都合な」ものにする「ため」だ(ibid.: AT.IV,529.19-20)。
§指図されなくても自分で行動したい
「私が少しも疑わない」(à Elisabeth,mai 1646:AT.IV,412.05)かぎり、「殿下」エリザベトに限らず、「あなたがた」が「提示している」「それら」の格率(maximes)は (ibid.:AT.IV,412.06,cf.412.04)「比較的よい」ものに「値する」(ibid.:AT.IV,412.07)のであって、「経験」なり実験なり「に基づいて」(ibid.:AT.IV,412.08)「推論できる」や否や「完全に」なる「人格」を備えた(ibid.: AT.IV,412.09-10)人々が「おこなう」「こと」「だろう」が(ibid.:AT.IV,412.11)、それについては、そもそも、そうし た人々がみずから「おこなうはず」のことなの「かもしれない」(ibid.:AT.IV,412.12)。
§自分で祈ったからこそ神に導かれた
はたして「それが唯一である」(à Elisabeth,Egmond,6 octobre 1645:AT.IV,316.10)かどうかはともかく、あたかも「欲した」のが神である(ibid.:AT.IV,316.11)かのように「獲得さ れている」のは、あくまで「我々の祈りによる」のだ(ibid.:AT.IV,316.11-12)。
§事物で満足させるのは難しい
ところで「最も困難な」のは、情念以外の「他の事物すべてにおいて」「人々を満足させること」(DM.1:AT.VI,1.18-2.02)なのであって、情念のほうは「あまり困難ではないように思われる」(PA.§1:AT.XI,327.13-14)。
§何よりもまず、神が居る
「いかにも un」「神が在るということ」は、「それらの」事物の「うちで」「第一」に「原理的」「である」(à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645:AT.IV,291.20-21)。
§欲のほかに悲しみは?--明晰な経験が現れると情念になる
必ずしも「欲望の類い」の「すべて」(à Elisabeth,Egmond,4 août 1645:AT.IV,266.22)では「ない」とはいえ、それらの欲望「以外に有る il y a que」(ibid.:AT.IV,266.23)「悲しみから」(ibid.:AT.IV,266.24)、「これが」「最も困難」だ、ということは 「詳らかになった」(avec Burman:AT.V,163.24)。「ここ」に「それほどに明晰な」経験が「在る」(ibid.:AT.V,163.25)。そして、あの経験「が現れる」と、「諸々の情念などに」なる(ibid.:AT.V,163.25-26)。
§誇らしいから好き勝手に書いた
「経験」なり実験なりをとおして(à Elisabeth,mai 1646:AT.IV,407.02)、「誇り」とか栄誉とかを「数に」入れて「置いて」「情念」として感受するということ「について」は(ibid.: AT.IV,407.02-03)、「判断を」「好都合」に「見ながら」(ibid.:AT.IV,407.04-05)「それについて書いた」のが 「私」だ(ibid.:AT.IV,407.06)。
その「私が称賛する」のは、「神」である(à Elisabeth,La Haye,mars 1647:AT.IV,624.15)。
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§いくら不完全な我々でも、完全さそのものくらいは知解できる
「なるほど」「我々の捉える comprehendamus」のが「いかに」完全で「ない」とはいえ(PP.1 §19:AT.VIII-i,12.12-13)、完全たること「そのもの」は「何も劣らない」ので、それを「明晰に且つ判明に」(ibid.: AT.VIII-i,12.14-15)「我々は知解することができる」(ibid.:AT.VIII-i,12.16)。
【This Prism May Be Like A Prison.】
「あのとき」「既に砕かれている」せいもあって、「その」「牢獄」のようなものは「小さい」(Meteor.3:AT.VI,262.20-21)。
【いつも広い心で...】
§親や国だけに善いことをするな
我々自身が「もっぱら」「自分の両親に、あるいは自分の国に」対してだけ、「善を」「削りだす procurer」のは、「小さい」(à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645:AT.IV,293.15-16)ことだ。
§偉大な魂は善かれ悪しかれ最大
むしろ「美徳も悪徳も」「同じく」「最大にできる」「魂」こそが、「最も偉大である」ことになろう(DM.1:AT.VI,2.14-15)。
§皆から依存されても、決して偽でないのが神である
但し、「神の存在すること」が知覚というより「知得される」のが「いかに後で」あったか(Med.5:AT.VII,70.10)はともか く、「その」神「に依存している」のは、神「以外のあらゆるもの」なのである(Med.5:AT.VII,70.11)。その一方で「偽なる」ことの「ない」のが、「そうした」神「である」(Med.5:AT.VII,70.11-12)。
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「しかしながら」、「神という」「観念」も「魂という」観念も、「決して」「感覚に」は「ならなかった」、ということは「確実である」(DM.4:AT.VI,37.12-14)。
§もう誰にも騙されない
「結局」、「旧来真なるものと私が考えていた」からといって、なにもそれを「私が余儀なく認容する」ことは「ない」のだ(Med.1:AT.VII,21.27-28)。
しかも、「私の根拠」を「知解」すれば(Praef.:AT.VII,9.03)、「真で堅固な」(ibid.:AT.VII,9.06) 「反駁」を、諸々の意見に対して(ibid.:AT.VII,9.07)おこなうことができる。そして、これらのことは、「私」をひっかける者が「いかに巧みで」も(Med.1:AT.VII,23.08)「異なることがない」(Med.1:AT.VII,23.11)。
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§非常事態でも充たされる人がもつ理性
「真なる教え」というのは(à Elisabeth,Egmond,6 octobre 1645:AT.IV,315.07)、「諸々の事件」や不測の事態「のうちでさえも」(ibid.:AT.IV,315.08)「常に充足していること」の「できる」人(on)にこそ(ibid.:AT.IV,315.09-10)、「備わって」いるのであって、そういう人(on)が「知っている」の は、「理性を使用すること」だ(ibid.:AT.IV,315.10)。
§事物を発見できる機会が増える/幾何学
また、「‘幾何学’をとおして」「私が主張していた」(LA.-Trad.:AT.IX,15.27-28)ところによれば、「発見できる事物はほかにもなお数々」ある、と「信じる」者に「機会を与える」べく用いられる(ibid.:AT.IX,15.29-31)のがそれだ、ということであ る。
§小説のように読むべし--説明しなくてもできる人
「私が望む vouloir」のは(LA.-Trad.:AT.IX-ii,11.30)、この書物の「全体」を「一瞥していた」人が「まずは」その「すべて」を「小説の如く」(ibid.:AT.IX-ii,11.30-31)「もっぱら大まかに知ることだけ」なのであって(ibid.:AT.IX-ii, 12.02-03)、「私」が「取り扱った」諸々の題材は(ibid.:AT.IX-ii,12.03)、なるほど「原理的」で「ある」が、「これらの ‘原理’」の「成果」は「最後」(ibid.:AT.IX-ii,18.16-17)になる「だろう」から、「できる」人(on)(ibid.:AT.IX-ii,18.17)ならば、「私が少しも説明した」ことの「ない」真理を幾つも(ibid.:AT.IX-ii,18.18-19)用いて、 「昇る」ので、この人は(on)「比較的」「程度」が「高く」て「賢明」な(ibid.:AT.IX-ii,18.21-22)はずだ。
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§当時の説明は、あまり詳しくなかった
「しかし」人々に「関して」云えば(Praef.:AT.VII,9.28)、「私の根拠の連鎖と脈絡とを把握することに気を配らない」うちは(ibid.:AT.VII,9.29-30)、「この著作を」読んでも「大きな成果」を「収める」ようにはならないだろう(ibid.:AT.VII,10.01-02)。
§興味本位なだけの奴らは助けてくれない
それどころか、わざわざ「ユードクス」(RV.:AT.X,508.10)に云わせるまでもないことだが、「あなた」がたは、「妨害」やら支 障やら障害やらを「第一」に発見どころか「暴露する」際に、「強かによく」もまあ、「比喩」でもって対比させる(RV.:AT.X,508.10-11) ばかりだ。そこで、「あなた」がたが「付け加え」てい「ない」ような「手段」でもって(RV.:AT.X,508.11-12)、そうした妨害などから 「みずからを守る」(RV.:AT.X,508.12-13)のが我々だ。
§討論にならないことが主題になる/続けて読もう
前述の「そのことのあとに」「見いだす」人(on)が、「もし」(LA.-Trad.:AT.IX-ii,12.04)「好奇心をもって」それらの題材についての「原因を認識する」場合(ibid.:AT.IX-ii,12.05-06)、その人が「指摘する」のは、あくまで「理由」を連ねて 「列」にする「私」に関してなのであって(ibid.:AT.IX-ii,12.06-07)、「もし」「そうした」列を「充分に認識すること」の「できない」人(on)の場合は、「どこからでも」(ibid.:AT.IX-ii,12.08-09)「筆で線引き」をして、そうした「箇所」を「もっぱら」 「特徴づけるにちがいない」(ibid.:AT.IX-ii,12.09-10)。
が、いずれにせよ、「続けて」「読むこと」で(LA.-Trad.:AT.IX-ii,12.11)「終わり」にする 「まで」には(ibid.:AT.IX-ii,12.12)、きっと、「諸々の真理」が(ibid.:AT.IX-ii,18.09)「討論 dispute から」「除去する」ものは、「すべて」「主題」になる「だろう」し(ibid.:AT.IX-ii,18.10-11)、「和合 la concorde」も(ibid.:AT.IX-ii,18.12)するだろう、ということである。「反対に」(ibid.:AT.IX-ii, 18.12)、学校での諸々の論争が「戻って」きているのに「感じえないほど」の「人々」は(ibid.:AT.IX-ii,18.13)、「比較的辛辣で、しかも比較的片意地なのである」(ibid.:AT.IX-ii,18.14)が、そこから異端になったり決裂したりするものが、「世間に」対して 「今」「はたらきかけている」(ibid.:AT.IX-ii,18.16)。
§私にとって論争は不便だ/いかに短く説明するか
「なるほど」、「私が切に望む」かぎり(Regul.12:AT.X,411.24)、「それら」の論争から「私が断言したり主張したりす る」ことは「何もない」「だろう」(ibid.:AT.X,411.24)。しかしその一方で、理性に「納得させること」の「できる」「他の」ものを「見積もる」のも、「また」「私」だ(ibid.:AT.X,412.01-02)。では、「どうすれば」「最も短く」「私は説明することができるだろう」か (ibid.:AT.X,412.03-04)。きっとそれは「私」によって「設定されたもの」「に対して」も「きわめて有用な」「はずである」 (ibid.:AT.X,412.06)。
Produced and arranged by K. masamix as the SHYNAMITES,2006-2020.
初出:"What a cool believes"[blog],Nov.10,2006.
再掲:"What a cool believes-II: the SHYNAMITES' official blog", Jan.10,2009.
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