The Terrible Table--仲違いは疑いから
※ 投げ銭方式です。無料で閲覧できます。
[F mix]
なるほど、生き残ってきた当事者たちや私の免れてきたのは、たまたま災害や事故や飢餓や内戦だ。しかし、その一方で、下手をすると、もしや暗殺されたかもしれないという可能性がデカルトおよび当事者にはあるので あって、このことは、アイケ・ピースに限らず著者が喧伝してきたことだ。
当事者ともども、我々も日々明け暮れたのは、論争に継ぐ論争だった。そこにはただ敵意だけで仕掛けられ、そして敵意のみに基づいているものがあった。要するにそれは、いわば感情的に、そして個人的に発した、憎しみや妬みだった 。我々は、ここでは一切省くことにするが、或る要因を誰がどのように持ち込んだのかによって、この要因は不純なだけでなく、瑣末にもなる。
*****
今でも思い出すのは、相手のさして悪気とも思えぬ振る舞いが、自他の関係の断絶にまで導いたことであり、この種の事件を我々は前にしたわけだが、このとき、彼デカルトおよび当事者は、まず平凡とみえた人間関係の裏に潜む異常な厳しさに戦慄するのであって、それとともに、他人との関係において自分がいかに誠実であろうと、相手がそれに応じなければ、その関係は決して滑らかには回転しえないということをも、知ったはずだ。
まずデカルトや当事者は、みずからの人間関係を限定する際に、その相手ともちうる関係が相互に論理的になる場合だけを真であるとしてしまったのだ。が、勿論そのような相手の多かろうはずはない。
それだけでなく、相手の不幸をすらりと自分の目下の関心事と結びつけ、その途端相手を忘れてしまうところからすると、どうやら彼デカルトおよび当事者は、たとえば親友の丹毒などには大して驚きも心配もしていないようだ。となると、エリザベトや我々だけでなく、みずからを頑固と称している者は、まるで逆にことごとく異を立てている節があるかのようになってしまうのだが、じつはただ、デカルトおよび当事者の考え方に満足しなかっただけにすぎない。この点で私の嫌いなのが、ルネ・デカルトである。
ただ、それにしても、デカルトにとって誠に苦々しきことであったのは、ユトレヒトで最初に起こった論難が、学問的でなくしてむしろ感情的、対人的な性質のものであり、しかもそれが極めて卑劣なる手段をもっておこなわれたことだ。
なにもユトレヒト市教会の初代牧師に限ったことではないが、一方で、連中が策して追放しようとしたその人とは、デカルトを含む当事者のことであり、他方で、その連中が禁圧したのは、デカルト哲学だった。
そればかりか、みずから訴えた手段ですら、政治-司法的な域を踏み越え、いわば戦いに よる言論にしたのは、フーティウス等の連中であった、としか実際には思われない。しかも、如何せん信憑性に乏しいうえ、辻褄の合わない箇所も含まれているのが、連中のその陳述書だった。
当事者や我々にとって可能なのは、せいぜい、それに黙って耐えることあるいはその相手に微笑みでもって応 ずることだった。そして、疑いのないこととして支えていた、という我々自身および支援者の姿勢でもって、なんとか当事者たちは保たれていたし、このことは決して稀ではなかった。
しかしそのような場合も、主な当事者および我々が現れるや否や、応酬となって連中の敵意があからさまになった。生々しくもそのまま連中の一念で、当事者も我々も打倒すべき論敵とされた。その際に、連中にとって可能なのは、その相手なるものを、すなわち当事者や支援者や我々を殴ったり蹴ったり罵倒したりして応酬することだったのである。
どうやらその感情として、憎悪ないしは嫉妬あるいは反感が、そして個人的なものが それにもまして、動機づけていたせいで、そうした言動をフーティウス等の連中に余儀なくさせたようだ。
§和解
もし連中がデカルトおよび当事者とこのように和解したと云ってよいときならば、両者とも摩滅しつくしたはずだが、それでも敵意で論争が長期にわたると思う。その場合にも、我々が当事者とともにその一員として従わねばならぬのは風習だが、はたしてその風習は、 どこまで社会化し、そしてどういう理由によって社会的になるのか。
そういえば、法律その他すべての制度がもっていた目的は、ただ一つしかなかった。しかもそれがもし兵士を養成することによって完全になるとしたら、一切が奉仕するのは、どうせ国家に対してなのであろう。教育と云われているものについては、その本来の意義を忘れた者がただ実例と慣習とを代弁するだけになってしまった。
結局、論争は他日に和解として終始したが、ずっと後にそれは成り立つことになった。
§加害者に対する責任追及
ところで、彼デカルトや当事者の不安がいかに強烈であり深刻であったかを、如実に物語るものは、おそらくデカルトや当事者が、空しく終わった追求に、ほぼ十年を棒に振って空費したという事実であろう。これは、我々が忘れてはならないことのあった歳月である。なにもエリザベト王女に限らず、当事者の一家に不幸が襲ったときには、デカルトではないにしても、誰かしら他 人が来訪してくれて、我々も当事者ともども、安堵したので、それを心から謝している。但し、 べつにゴルディウスの結び目ではないが、このように絡まった空しさをみずから解かねばならなかったのは、デカルトを用いた我々自身なのだ。
なにもデカルトの親族に限ったことではないが、デカルトの場合はこのような父親に対してだけではなく兄弟たちに対しても冷酷な感情しかもちえなかったという。だが、それはデカルトの場合で云えば、のちにデカルトの父と姉とが続けて死んでも、デカルトの兄弟たちが、知らせすらよこさなかったせいであるから、当然だろう。
また、なにもデカルトの先祖に限ったことではないが、デカルトの場合、実母について正確な死亡日を知らず、まして、その直接の死因となったはずの人なり事柄なり、すなわち、デカルトの実母が亡弟を出産したことであるが、その事柄の存在など知る由もなかったというのは、いくら奇妙だとはいえ事実なのだ。ちなみに、デカルトの母親はジャーヌ・ブロシャールといい、母の死因はおそらくこのときのお産であり、赤ん坊も母の死後三日目に死んだという。
§情報不足による孤立
元来先祖の家風を重んじたはずの父の家族のうちには、結局、デカルトおよび当事者自身に真実を明かしてくれた者は、誰ひとりとしていなかったわけだ 。それだけではなく、彼デカルトや当事者が最後まで真実を知らずに死んでしまったであろうことも、充分にありうる 。
いずれにせよ、なにも彼デカルトの場合に限ったことではないが、第一に、何のためにその必要があるのかはともかく、どうしても当事者に真実を告げようとした者が、残念ながら、家系を重んずるはずの親戚のなかに誰ひとりいなかったということ、そして第二に、誤りの事柄をあたかも真実であるかのように思い込ませていたの が、当事者の親族のなかに何人もいたということ、これら二つのことは事実である。ちなみにデカルトの場合は、その父親や兄、父方の祖母や可愛がってくれた母方の祖母、やはり愛してくれたらしい姉などであった。
§親から子へ
さて、このように決して幸せだったとは云えないまま、ハーグでのエリザベト王女と同じく、我々も関係者として、二十年を過ごしたが 、犬に対してではあるまいし、母がいわば溺愛するので、結局、自分の母とは性格が合わずその愛情に浴することが少なかったことになる。要するに、彼デカルトおよびこの親の愛情の厚さも異様なほどだし、それを裏返しにした憎悪感の深さも異常なのだ。
何しろ、相手の不幸をすらりと自分の目下の関心事と結びつけ、その途端相手を忘れてしまうくらいだから、どうせ彼デカルトの如きこの親は、たとえば親友の丹毒などには大して驚きも心配もしていないだろう。こうして、エリザベトや我々だけでなく、みずからを頑固と称している者は、まるで逆にことごとく異を立てている節があるかのようになってしまうのだが、じつはただ、デカルトの如きこの母親の考え方に満足しなかっただけにすぎない。
フェリエがデカルトのこのような態度に反撥したかどうかについては我々は知らぬが、もうオランダに移って いたデカルトおよび我々の血縁者から一緒に仕事をしようという申し出があったときに、フェリエと我々は躊躇を重ね、結局この話は不調に終わったのである。
のみならずデカルトの場合は母方の祖母、姉、乳母などのいずれもいわば母親側の女性たちなのだが、我々の家族や親族のなかにいるのは、せいぜい我々を僅かに愛してくれたらしいという者ばかりだったということも、事実だ。読者のなかには、14歳のときのエリザベトの如く、父を病で失っている者もいるだろう。
*****
こうして、最も早い論争から引き続いて約十年間、主な当事者ともども、じつは我々も、そのように悩まされ続けたのであった。我々は、決して三木 清のように多忙な売文に追われてよく歎いていたわけではなかった。なるほど一家の不運から来ているのは、エリザベトおよび我々の身体の不調だ、としているが、却って現場が生々しいからこそ、集中力と緊張とでもって我々は精神的に強くなったようだ。とはいえ、我々もなんとか打開しないといけないし、また、落ち着いて勉強もできぬままだった。となれば、周囲の勧める勉強をやめて風物を愛でることのほうが我々にとっては、却って自然であり、また、 我々が不参加をみずから貫くことにして、物事を突き放して眺めたところ、まるで悲劇の上演でも見るかのようになった。このようにして、考えるのをやめるところが、適当なのだ。
なるほど、誰かのした言い方がもし頭ごなしだったとしても、それが馬鹿にされるのはデカルト研究会においてだけであるという。しかし、ただでさえ1996年がデカルト生誕400年に当たることなど知らなかった我々である。ましてや、まさかその頃デカルト研究会が発足して二十年近くにわたっていたとは、我々も知る由もない。ということで、このようなすれ違いは、我々にとって不幸なことだというべきである。
Produced and arranged by K. masamix as the SHYNAMITES,2006-2020.
初出:"What a cool believes"[blog],Oct.10,2006.
再掲:"What a cool believes-II: the SHYNAMITES' official blog", Dec.23,2008.
引用・参考文献
KOIZUMI 1996:小泉 義之『デカルト=哲学のすすめ』(講談社現代新書、1996)
MITOH 1998:美頭 千不美「デカルトと心身問題」
(湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998、pp.128-137)
MURAKAMI,K.1979/2004:村上 勝三「科学の光・光の科学」
(村上 勝三『観念と存在 デカルト研究1』所収、知泉書館、2004、pp.21-40、
初出:日本ブリタニカ『レンズ・マジック』、1979,pp.61-74)
MURAKAMI,K.1984/2004:村上 勝三
「デカルト哲学における「本有観念」と「観念」の本有性」
(村上 勝三『観念と存在 デカルト研究1』所収、知泉書館、2004、pp.173-193、
初出:『哲学雑誌』Vol.99/No.771,1984,pp.26-45)
MURAKAMI,K.1996-c:村上 勝三「まえがき」
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集I フランス篇』所収、勁草書房、1996、pp.i-iv)
MURAKAMI,K.2004-b:村上 勝三「あとがき」
(村上 勝三『観念と存在 デカルト研究1』所収、知泉書館、2004、pp.250-252)
OCHIAI 1948/49:落合 太郎「後記」(1948年記)
(三木 清 訳『省察』所収、岩波文庫、1949、pp.159-167)
OCHIAI 1953/67-b:落合 太郎「訳者註解」
(落合 太郎 訳『方法序説』所収、岩波文庫、1953初版、1967改版、pp.95-230)
SAITOH,Y.2003:斎藤 慶典
『シリーズ 哲学のエッセンス デカルト 「われ思う」のは誰か』
(日本放送出版協会、2003)
TAKEDA 1965/76:竹田 篤司『デカルトの青春--思想と実生活--』
(勁草書房、1965初版、1976新装版)
TOKORO 1967/96:所 雄章『デカルトI』(勁草書房、1967初版、1996新装版)
TOMONAGA 1925/49:朝永 三十郎『デカルト』(岩波書店、1949、初版『デカート』1925)
YAMADA,H.2001-a:山田 弘明「解説」
(山田 弘明 訳『デカルト=エリザベト往復書簡』所収、講談社学術文庫、2001、pp.298-330)
YAMADA,H.2001-b:山田 弘明「あとがき」
(山田 弘明 訳『デカルト=エリザベト往復書簡』所収、講談社学術文庫、2001、pp.331-333)
YAMAGUCHI,N.2004:山口 信夫
『疎まれし者デカルト --十八世紀フランスにおけるデカルト神話の生成と展開--』
(世界思想社、2004)
YAMAUCHI,S.1999/2000:山内 志朗「訳者あとがき」
(アイケ・ピース 著/山内 志朗 訳『デカルト暗殺』所収、大修館書店、2000、pp.168-171)
YOHROH 1991:養老 孟司「解説=テキストを読む 脳の機能のきわめて明晰な表現」
(三宅 徳嘉・小池 健男・所 雄章 訳『デカルト 方法序説/省察』所収、白水社イデー選書、1991、pp.227-233)
YUKAWA & KOBAYASHI,M.1998:湯川 佳一郎・小林 道夫「まえがき」
(湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998、pp.1-2)
[HPML mix]
なるほど、「生き残ってきた」当事者「たち」や「私」の「免れてきた」のは、「たまたま災害や事故」や「飢餓や内戦」だ(KOIZUMI 1996,p.8)。しかし、その一方で、下手をすると、もしや「暗殺された」かもしれないという「可能性が」「デカルト」および当事者には「ある」ので あって、この「こと」は、アイケ・ピース(PIES,Eike)に限らず「著者」が「喧伝してきた」ことだ(YAMAUCHI,S.1999/2000, p.170)。
当事者ともども、我々も「日々」「明け暮れた」のは、「論争」に継ぐ「論争」だった(TOKORO 1967/96,p.178)。「そこには」「ただ敵意だけ」で「仕掛けられ」、そして敵意「のみ」に基づいている(TOKORO 1967/96,p.180)ものがあった。「要するに」それは、いわば「感情的」に、そして「個人的」に「発し」た、「憎しみ」や「妬み」だった (ibid.)。我々は、ここでは「一切省くことにする」が、或る「要因」を「誰がどのように持ち込んだのか」によって、「この」要因は「不純な」だけでなく、「瑣末に」も「なる」(MURAKAMI,K.1984/2004,p.190)。
*****
「今でも思い出す」(YAMADA,H.2001-b,p.333)のは、「相手のさして悪気とも思えぬ」振る舞いが、自他の「関係の断絶にまで」導いたことであり、「この種の事件」を我々は前にしたわけだが、このとき、「彼」デカルトおよび当事者は、まず「平凡とみえた人間関係の」裏に潜む「異常な」厳しさに「戦慄する」のであって、それ「とともに」、「他人との関係において自分がいかに誠実であろうと、相手がそれに応じなければ、その関係は」決して滑らかには「回転し」えないということをも、知った(TAKEDA 1965/76,pp.97-98)はずだ。
「まず」デカルトや当事者は、「みずからの人間関係を」「限定」する際に、その「相手と」「もち」うる「関係」が「相互に論理的」になる場合「だけ」を「真」であると「してしまった」のだ(TAKEDA 1965/76,p.98)。が、勿論「そのような相手の多かろうはずは」ない(ibid.)。
それだけでなく、「相手の不幸をすらりと自分の目下の関心事と結びつけ、その」途端「相手を忘れてしまう」ところからすると、どうやら「彼」デカルトおよび当事者は、たとえば「親友の丹毒などに」は「大して驚きも心配もして」「いない」(TAKEDA 1965/76,p.108)ようだ。となると、「エリザベト」や我々だけでなく、みずからを「頑固」と「称している」者は、まるで「逆にことごとく異を立てている節がある」かのようになってしまうのだが、じつはただ、「デカルト」および当事者の「考え方に」「満足」しなかっただけ(YAMADA, H.2001-a,p.315)にすぎない。この点で「私」の「嫌い」なのが、「ルネ・デカルト」「である」(YAMAUCHI, S.1999/2000,p.168)。
ただ、それにしても、「デカルトに」とって「誠に苦々しきことで」あったのは、ユトレヒトで「最初に」起こった「論」難が、学「問的でなくして」むしろ感情的、対「人的」な「性質のもので」あり、しかもそれが「極めて」卑劣「なる手段を」もっておこなわれたことだ(TOMONAGA 1925/49,p.89)。
なにも「ユトレヒト市教会の初代牧師」に限ったことではないが、一方で、連中が「策し」て「追放」しようとした「その人」とは、「デカルト」を含む当事者のことであり、他方で、その連中が「禁圧」したのは、「デカルト哲学」だった(TOKORO 1967/96,p.184)。
「そればかりか」、みずから「訴え」た「手段」で「すら」、「政治-司法的な」「域を踏み越え」、いわば「戦い」「に よる」「言論」にしたのは、「フーティウス」等の連中「であった、としか」「実際」には「思われない」(TOKORO 1967/96,p.184)。しかも、「如何せん」「信憑性に乏しい」うえ、「辻褄の合わない箇所」も「含まれて」いるのが、連中の「その陳述書」だった(MURAKAMI,K.1979/2004,pp.25-26)。
当事者や我々にとって「可能な」のは、せいぜい、「それに黙って耐えること」「あるいはその相手に微笑み」でもって「応 ずること」だった(MITOH 1998,p.135)。そして、「疑い」の「ない」「こと」として「支えていた」、という我々自身および支援者の「姿勢」でもって、なんとか「当事者たち」は「保たれて」いた(TOKORO 1967/96,p.180)し、このことは決して「稀ではなかった」(ibid.)。
しかしその「ような場合も」、主な当事者および我々が現れるや否や、「応酬となって」連中の「敵意」があからさまになった(TOKORO 1967/96,p.180)。「生々しくも」「そのまま」連中の「一念」で、当事者も我々も「打倒」すべき「論敵」とされた(ibid.)。「その際に」、連中にとって「可能」なのは、その「相手」なるものを、すなわち当事者や支援者や我々を「殴ったり蹴ったり罵倒したりして応酬すること」だったの「である」(MITOH 1998,p.135)。
どうやらその「感情」として、「憎悪」「ないしは」「嫉妬」「あるいは」「反感」が、そして「個人的な」「もの」が 「それにもまして」、「動機づけていた」せいで、そうした「言動を」「フーティウス」等の連中に「余儀なくさせた」(TOKORO 1967/96,p.184)ようだ。
§和解
もし連中が「デカルト」および当事者と「この」ように「和解」したと云ってよいときならば、両者とも「摩滅しつくした」はずだが、それでも「敵意」で「論争」が「長期にわたる」と「思う」(TOKORO 1967/96,p.180)。その場合にも、我々が当事者とともにその「一員として」「従わねばならぬ」のは「風習」だが、はたして「その」風習は、 「どこまで」「社会」化し、「そしてどういう理由によって」「社会」的になるの「か」(OCHIAI 1953/67-b,p.135)。
そういえば、「法律その他すべての制度が」「もって」いた「目的」は、「ただ一つ」「しか」「なかった」(OCHIAI 1953/67-b,p.132)。しかも「それ」がもし「兵士を養成することに」よって「完全」になるとしたら、「一切が」「奉仕」するのは、どうせ「国家」に対してなのであろう(ibid.)。「教育と」云われて「いるもの」については、「その本来の意義を」忘れた「者」がただ「実例と慣習」とを「代弁」するだけ「になってしまった」(OCHIAI 1953/67-b,p.125)。
結局、論争は「他日」に「和解」として「終始した」(TOKORO 1967/96,p.180)が、「ずっと後」に「それは」成り立つ(ibid.)ことになった。
§加害者に対する責任追及
ところで、「彼」デカルトや当事者の「不安がいかに強烈であり深刻であったかを、如実に物語るもの」は、「おそらく」デカルトや当事者が、「空しく」終わった「追求に、ほぼ十年を棒に」振って空費したという「事実」であろう(TAKEDA 1965/76,p.77)。これは、我々が「忘れてはならない」「こと」の「あった」「歳月」である(TOKORO 1967/96,p.178)。なにもエリザベト「王女」に限らず、当事者の「一家に不幸が襲ったときには」、「デカルト」ではないにしても、誰かしら他 人が「来訪」してくれて、我々も当事者ともども、「安堵し」たので、「それを心から謝している」(YAMADA,H.2001-a,p.305)。但し、 べつに「ゴルディウスの結び目」ではないが、「この」ように「絡まった」空しさをみずから「解かねばならなかった」のは、「デカルト」を用いた我々「自身」なのだ(MURAKAMI,K.1979/2004,p.23)。
なにもデカルトの親族に限ったことではないが、デカルトの場合は「このような父親」に対してだけではなく「兄弟たちに対して」も「冷酷な感情しかもち」えなかったという(TAKEDA 1965/76,p.91)。だが、それはデカルトの場合で云えば、「のちに」デカルトの「父と姉とが」続けて「死んでも」、デカルトの兄弟たちが、「知らせすらよこさなかった」せいであるから、「当然」だろう(ibid.)。
また、なにもデカルトの先祖に限ったことではないが、デカルトの場合、「実母」について「正確な死亡日を知らず、まして」、その「直接の死因となったはず」の人なり事柄なり、すなわち、デカルトの実母が「亡弟」を出産したことであるが、その事柄の「存在など知る由もなかったという」のは、いくら「奇妙」だとはいえ「事実」なのだ(TAKEDA 1965/76,p.92)。ちなみに、デカルトの「母親」は「ジャーヌ・ブロシャール」(BROCHARD,Jeanne)といい、「母の死因はおそらくこのときのお産で」あり、「赤ん坊も母の死後三日目に」死んだ(ibid.)という。
§情報不足による孤立
元来先祖の「家風を重んじた」はずの「父」(TOMONAGA 1925/49,p.13)の「家族のうち」には、結局、デカルトおよび当事者自身に「真実を明かしてくれた者」は、誰ひとりとして「いなかったわけ」だ (TAKEDA 1965/76,p.93)。それだけではなく、「彼」デカルトや当事者が「最後まで真実を知らずに死んでしまったであろうことも」、「充分にあり」うる (ibid.)。
いずれにせよ、なにも「彼」デカルトの場合に限ったことではないが、第一に、何のために「その必要が」あるのかはともかく、「どうして」も当事者に「真実を告げようと」した者が(TAKEDA 1965/76,p.93?)、残念ながら、「家系を重んずる」はずの「親戚」(TOMONAGA 1925/49,p.74)のなかに誰ひとりいなかったということ、そして第二に、誤りの事柄をあたかも「真実」であるかのように「思い」込ませていたの が、当事者の親族のなかに何人もいたということ、これら二つのことは「事実」である(TAKEDA 1965/76,p.93?)。ちなみにデカルトの場合は、その「父親や兄、父方の祖母や」可愛がってくれた「母方の祖母、やはり愛してくれたらしい姉など」であった(ibid.)。
§親から子へ
さて、このように「決して幸せだったとは」云え「ない」まま、「ハーグで」のエリザベト「王女」と同じく、我々も関係者として、二十年を「過ごしたが」 (YAMADA,H.2001-a,p.301)、「犬」に対してではあるまいし、「母」がいわば「溺愛する」(YAMADA,H.2001-a, p.302)ので、結局、自分の「母とは性格が合わずその愛情に浴することが少なかった」(YAMADA,H.2001-a,p.301)ことになる。要するに、「彼」デカルトおよびこの親の「愛情」の「厚さ」も「異様なほど」だし、「それを裏」返しにした「憎悪感」の「深さ」も「異常な」のだ(TAKEDA 1965/76,p.97)。
何しろ、「相手の不幸をすらりと自分の目下の関心事と結びつけ、その」途端「相手を忘れてしまう」くらいだから、どうせ「彼」デカルトの如きこの親は、たとえば「親友の丹毒などに」は「大して驚きも心配もして」「いない」(TAKEDA 1965/76,p.108)だろう。こうして、「エリザベト」や我々だけでなく、みずからを「頑固」と「称している」者は、まるで「逆にことごとく異を立てている節がある」かのようになってしまうのだが、じつはただ、「デカルト」の如きこの母親の「考え方に」「満足」しなかっただけ(YAMADA, H.2001-a,p.315)にすぎない。
フェリエが「デカルトの」「このような」「態度に反撥したかどうか」については我々は「知らぬが、もうオランダに移っていたデカルト」および我々の血縁者から「一緒に仕事をしようという申し出」があったときに、「フェリエ」と我々は「躊躇を重ね、結局この話は不調に終わったのである」(MURAKAMI,K.1979/2004,p.31)。
のみならずデカルトの場合は「母方の祖母、姉、乳母などのいずれもいわば母親側の」女性たちなのだが、我々の「家族」や 親族の「なか」にいるのは、せいぜい我々を僅かに「愛してくれたらしい」という者「ばかりだった」ということも、「事実」だ(TAKEDA 1965/76,p.93?)。読者のなかには、14歳の「とき」のエリザベトの如く、「父を病で失っている」(YAMADA,H.2001-a, p.301)者もいるだろう。
*****
こうして、「最も」早い「論争」から「引き」続いて「約十年間」、主な当事者ともども、じつは我々も、「そのよう」に「悩まされ」続けたのであった(TOKORO 1967/96,p.179)。我々は、決して三木 清のように「多忙な」売文に追われて「よく」歎いていたわけではなかった(OCHIAI 1948/49,p.161)。なるほど「一家の不運から来ている」のは、「エリザベト」および我々の「身体の不調」だ、「としている」(YAMADA, H.2001-a,pp.317-318)が、却って「現場」が「生々しい」からこそ、「集中力」と「緊張」とでもって我々は「精神的」に強くなった(SAITOH,Y.2003,p.122)ようだ。とはいえ、我々も「なんとか打開しないといけない」し、また、「落ち」着いて勉強も「できぬ」ままだった(OCHIAI 1948/49,p.161)。となれば、周囲の「勧める」「勉強をやめ」て「風物を愛でること」のほうが我々にとっては、却って「自然」であり、また、 我々が「不参加」をみずから「貫くこと」にして、物事を「突き放して眺め」たところ、まるで「悲劇の上演」でも「見る」かの「ように」なった(YAMADA,H.2001-a,p.318)。このようにして、「考えるのを」やめる「ところ」が、「適当な」のだ(YOHROH 1991,p.229)。
なるほど、「誰か」の「した」「言い方」が「もし」「頭ごなし」だった「としても」、それが「馬鹿にされる」のは「デカルト研究会」において「だけである」(MURAKAMI,K.2004,p.252)という。しかし、ただでさえ1996年が「デカルト生誕」400年に当たることなど(YUKAWA & KOBAYASHI,M.1998,p.1)知らなかった我々である。ましてや、まさかその頃「デカルト研究会」が「発足し」て二十年「近くにわたって」いた(MURAKAMI,K.1996-c,p.ii)とは、我々も知る由もない。ということで、このような「すれ違い」は、我々にとって「不幸な」ことだ「というべきである」(YAMAGUCHI,N.2004,p.82)。
Produced and arranged by K. masamix as the SHYNAMITES,2006-2020.
初出:"What a cool believes"[blog],Oct.10,2006.
再掲:"What a cool believes-II: the SHYNAMITES' official blog", Dec.23,2008.
※ 投げ銭方式です。閲覧ありがとうございます。
ここから先は
¥ 200
当方はク◯エイターです🤗 さて◯の中に入るのは何でせう? 「リ」だと思ったらサポート宜しくです(少額支援歓迎)☺️ 「ソ」だと思ったら即、退場せよ🥺 ※1: 記事のシェア歓迎。 ※2: 只今100円玉と壱萬圓札が不足しております🙏
