Signed, Sealed, Delivered: I TRY to CARTESnize...



Signed, Sealed, Delivered:

I TRY to CARTESnize...

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拙稿は、虎井 まさ衛・著『ある性転換者の幸福論』(十月舎、2001)を、 当方なりに解釈し、デカルトの『方法叙説』および『省察』の如くに改造したものである。 2009年に試みに制作した原案を、若干直して、今回、改めて公開するべく収録した。

※ HPML版です。F版は下方にございます。

[HPML Mix]

DM.1. 方法叙説-第一部

なにも「性」を「転換」することに限らず、もし自分が「あらゆるバランスのとれた」「人間 になって」いくことで「幸せ」になり、さらには「心の余裕ができた」ことによって、「その幸 せを」周りに「分けて歩きたくなるまで」になったとしたら、みずから引き受けたその試練は、 「私にとって」きっと「意義深かった」ものなのだろう(TORAI 2001,p.147)。

それはともかく、「人生」が「色々」なのは「本当」であり、「抱えて」いる「悩み」が「同じ 」なのは「確か」「である」(TORAI 2001,p.128)。 とはいえ、窺い「知れるところでは」、どう やら「私よりもずっと丈夫で裕福な人」たち「ばかり」らしい(TORAI 2001,pp.126-127)。

なお、「この中で私は」あくまで「私」自身の場合「についてのみ話して」いるので、きっとま だ「配慮は足りていないことだろう」(TORAI 2001,p.128)。 しかも、たとえば「何か疾病が」あ るせいで「性同一性障害の身体的な治療にどうしても進めない人々」とか、あるいは、「たとえ 全ての手術を終え」たにしても、期待されて「いたような外観」を得られずに、周囲から「冷た い視線を浴びてしまう人々」とかは、一層の「悩み」や「苦しみを募らせるかもしれない」(ibid.) というのに、「こういった人々について」、自分では「具体的に何をしたらよいのか」、まだ「 模索中である」(TORAI 2001,p.129)。ただ、「そういう人々のためにも」、ここでは、もっぱら「治療」での「体制や法」的な「体制だけ」というの「ではなく」、いわゆる「マイノリティ」と か少数派とかの「全般に対」して、「世間一般の」もつ「見方を正しいものにするべく」我々が「働きかけていければ」よい「と思う」(TORAI 2001,pp.128-129)。

ところで、「治療前」なら特にそうだが、以前の「私は」、もしかしたら「自分の悩みなんて実 は贅沢なのかも」しれない、など「と考えてみようとすることで、一息つけたものだった 」(TORAI 2001,p.125)。が、今にして思えば、これは「あまり前向きな方法ではない」(ibid.)。

DM.2. 方法叙説-第二部

やはり、こうした類いの「自己満足」は、力としては「幻」の如く「虚しい」(TORAI 2001,p.85) 。

だが、それにしても、さすがに「甘ったれと異常者」とに対しては、当方からは「どうしても尽 くし切れない」し、しかもこうした「人々」というか連中「が」、「いずれも一人や二人では ない」となれば、なおさら「である」(TORAI 2001,p.85)。「どうして」なの「だろう」か、それはともかく、何せ、連中は「自分でやろうとしない」のだ(ibid.)。

もし「自分の変化も、周囲の戸惑いも目に入らなかった日々」をとおして、「ゴールまでがむし ゃらに突っ走った」とすれば、それは、当方および「私」のはずだ(TORAI 2001,p.128)。また、「 どこに行って誰に頼めばよいかすぐにわかり、仲間も見つけやすい」のが、「今」のはず だ(TORAI 2001,p.126)。 そのせいなの「かもしれない」が、たかが「性のことなんかで死にたい なんて」思うのはまったく「甘ったれてるよ、と」云う「人もいる」(TORAI 2001,p.125)ようだ。

ただ、「性について本当に悩んだこと」の「ある人は、あまりそういうことは」云わ「ない」も のだ(TORAI 2001,p.125)。何せ「我々の人生」は、やれ「試験」だの「病気」だの「仕事」だの「 恋愛云々」だの「といった」、「通常」の「事柄に絡む苦労に加え」、「それら」すべてに「性同一性障害」という「苦い」ものが「満遍なく」降りかかって「できている」のだ(TORAI 2001,p.123)。

DM.3. 方法叙説-第三部

そこで、「先のことなど」について思い煩って「くよくよせずに、目の前のことを見据えてこな して」いき、その一方で、たとえば「自分よりひどい人がこの世には大勢いるのだ」、と「考え るなどして一息」ついておけば、いつの間にか「死にたくなくなる」、という「こともあろう 」(TORAI 2001,p.125)。 なにも「性」を「転換」せざるを得ない「者」たちに限ったことではな いのだが、どうやら「日本」で「は明るく生きられそうにもないから」、いっそのこと、他の某 国にでも「移住しようか」「と」思いつつ、「かなり長い間」、自分で「真剣に悩んで色々調 べた」ところ、その国で生きるほうが、むしろ「全ての性的少数者にとって、命を落とす危険」 は「高い」という(TORAI 2001,pp.96-97)。そのことが「よく」判ったので、「安堵」はしたも のの、「移住を断念した時」は、何だか少し「寂しいような」「感」じもした(TORAI 2001,p.97) 。

DM.4. 方法叙説-第四部

med.praef. 省察-読者への序言

---ところで、べつに「少し」助けるくらい「なら構わない」(TORAI 2001,p.85)のだが、実際のと ころは、自分が「どんなに尽くそうと」も、「何も買ってもらえない」まま、ただ「一通」の「 御礼の手紙」だけ「で終わって」しまう「ことの」ほう「が多い」(TORAI 2001,p.84)。 さすが に「そういう時」には、「見返りもない」にも拘わらず「こんなにも他人に尽くして」いる「 自己」についての「満足に浸ることにする」しかなかろう(ibid.)。

med.1. 第一省察

思うに、或るときは「虚弱」だったり、「基本的に怠け者」だったり、また或るときは「金も なかっ」たりするのが、「私」だ(TORAI 2001,p.126)。その一方で、「情報も皆無に等しかった」「時代」も、あった(ibid.)。

「もしも」自分でも充分に「生きた」と「確信できるようになるため」だけだったら、べつにいわゆる「性転換者ではなかったとしても」、それこそ充分に「この境地に至ること」くらい「は」自分でも「できたかもしれない」、というか、できるはずだ(TORAI 2001,p.141)。但し、「そういう場合」には、そのように確信するまでに、「もっとずっと年」齢を「重ねなくてはならない 」だろう(ibid.)。となると、「性」を「転換」せざるを得ない「者である」ということは、少なくとも筆者および「私には」充分に「意味があった」、ということになる(ibid.)。 じつに、「性の問題とは、何とも大きなものなのだ」(TORAI 2001,p.148)。

「もちろん」、「性同一性障害も我々を死に至らしめる」要素と「なり得ることは」、自分で も「よくわかっている」(TORAI 2001,p.125)。ただ、「それほどまでに火急ではないというだけ」 のことだ(ibid.)。

さて、「夜が深まり人々が寝静まった安全な部屋で」(TORAI 2001,pp.106-107)、筆者が「小さな達成感」をもつのは、たとえば、「辞書を引いたり頭を抱えたりし」ながら、遣う「言葉に」 も「気をつけ、急がず丁寧にじっくりと」「手紙を」「したため」て、それを「封に入れ、切手 を貼り終えた」ときだろうか(TORAI 2001,p.107)。こういうときは、自分で「手間をかけた分」 だけ、「相手と深く結びつけ」られる「感じ」も「する」し、また、自分でも「ひたひたと幸福 な気持ちに満たされる気がする」(ibid.)。

そんな中、甘ったれた「連中」について、我々が「実に気にくわない」のは、そうした連中が、 「全てを人任せにするか、金でカタをつけ」るかし「ようとしているところ」だ(TORAI 2001,p.85)。なるほど「私」も「貧乏」だし「金」も「欲しいが」、それにしても、これについて は連中の云う「ことを聞く気に」はならない(ibid.)。となると、やはり「お断りします」「といっ たような短い返事を送って」、「そこで」「終わりにしてしまう」のがよかろう(TORAI 2001,pp.85-86)。

また、いわゆる「異常者」となると、「もっとずっとタチ」が「悪い」(TORAI 2001,p.86)。この 人たちは、なぜか「たいてい」がみずからの「住所」や「氏名を明記してくる」のだが、もしか したら「自分たちが悪いことをしているという自覚が」、この人たちには「ない」のかもしれな い(ibid.)。「最初の頃」こそは、「こういった人々にさえも、何回か親切めかした手紙を送ったり したこともあった」「私」「だが」、「とにかく何を書いても」先方に「悪く取られる」という ことで、「逆効果だった」ようだ(ibid.)。 なにも、「下手」[したて]「に出ればいいというものでもない」のだ(TORAI 2001,p.63)。 「あまりにしつこく嫌がらせを受けていた時」、「そういう手合い」を「無視」してみたところ 、「なるほど鎮静化した」(TORAI 2001,p.86)。なお、「そのとき」筆者が「煩わされた」という、その「相手は、矛先を別のサポートグループに向けていった」ようだが、「次々と新手」も「 出てくる」(TORAI 2001,pp.86-87)らしい。 とはいえ、「それから」は、「こういった人々から何 を送られてきても」、「私は」なるべく、あるいは一切、「気に留めないようにしている 」(TORAI 2001,p.87)。「果てしなく依存してくる人々、あるいは金を払えば何でもしてもらえる と思っている人々に対して」さえも「書い」た、その「返事」でもって、まずは御「自分の甘っ たれ加減に」ついて「相手に」「気づいてもらうこと」が、「成功」し、そうすれば、「相手が 」御「自分でやる気を出すように」なり、また「相手の力」が「引き出」される「よう」になる だろう(TORAI 2001,p.88)。

「今」でこそ、「朝」に「目を覚ましただけで、何となく嬉しいほどなのだが」、「昔」はそう ではなく、傍から「どんなに楽しげに見える」ような「ことをしていても」、自分の「心の底か ら喜んだことは一度もなかった」(TORAI 2001,p.111)。

med.2. 第二省察

「我々のような人種」で、「しかも治療前の人々」ともなれば、その「多くは」「たいてい」、 いわゆる「やる気を失っている」ものだが、ここまで「うちひしがれて」いるならば、そのせい で「魂」も「くたびれて」いる「こと」も「多い」(TORAI 2001,p.85)だろう。

とはいえ、「決して自分で望んでそうなったわけではない」にしろ、つまり、「そうあることを 選べなかった」にしろ、また、自分で敢えて「望んだり選んだりしてそうなった」にしろ、いず れにせよ、「私」も、「そして多くの仲間たち」も、「そうあるべく」して「生まれた」、「と いうことで」あり、少なくともこの点においては、「差別される」謂われは「全くない」(TORAI 2001,p.116)。

もちろん、「幸せの理由」ならば、多々「あるかもしれない」(TORAI 2001,p.138)。

ただ、「とにかくこの」ように「幸せ」だという、みずからにおけるいわば「核」心めいた確信 については、「何」も「誰」も「壊せない」はずだし、また、それが「壊されない」という「自 信が」、筆者には「ある」(TORAI 2001,pp.138-139)。たとえば「治療前から」「変わっていない 」ところがおそらく「根本的」な「私の性格」および「気質」なのだろう(TORAI 2001,p.142)が、 このように「じっくりと恩寵を感じつつ」、自分や周囲の「変化のプロセスを」「楽しめばよか ったと」自分で「思える」ようになったのも、「今だから」こそなのである(TORAI 2001,p.128)。

med.3. 第三省察

一方で、誰かに云われて「初めて神」「のことを考えてみた」、「という人もいる」(TORAI 2001,p.117)。また、自分に「こんな苦労を押しつけ」やがった奴がもし居る「としたら」、そい つのことを自分はきっと「恨む」だろうから、そんな奴のことを「神」としては「信じ」たく「ない」、「という当事者」もいる(ibid.)。

他方で、別の「日の夜、布団に入ってからそれまでの自分の人生のことを思い出してみた時」、 「人生で味わえるだけの幸せを」、なんだか「もうその時点で」早くも「味わい尽くした気がし てしまった」(TORAI 2001,p.141)のは、筆者だけではないようだ。そして、「そんな感じをもった ことに」ついても、「恐怖というか感激というか」判らぬが、何せ「自分でもビックリしてしま ったことがあった」(TORAI 2001,p.141)。

そういえば、「神への冒涜云々」「という悩みを突き抜けた人たち」によれば、「神と私」との あいだに「問題はない」という(TORAI 2001,p.102)。

med.4. 第四省察

なるほど、「これほど多く、古今東西に」わたって「出現する」ことが、もし端的な「間違い」 とされる「ならば」、そしてまた、「創り出されてくればよい」とされるのが、もし、もっぱ ら「心身ともにはっきり男である、または女である」という「人々だけ」ならば、おそらく、「 間違っ」て「存在」するのは「我々」「である」、ということになる「だろう」(TORAI 2001,p.124)。

しかも「家族や友人」などから、自分のことについて、「神」に対する「冒涜だ」と云われた 人は、なるほど「深く傷ついている」という点では、「一様だ」(TORAI 2001,pp.116-117)。こう した「冒涜」云々という「発言に」よって「真面目に切り刻まれて、血を流す人々も多いので ある」(TORAI 2001,p.117)。

しかし、「そもそも」、巷で云われている以上に「偉大で完璧」なのが「神」なのである(TORAI 2001,p.124)。

med.5. 第五省察

もちろん、我々としても「何とか乗り越えていくしかない」のだが、それにしても、「そのよう に意図」か何かを「されてこの世に送り出されてしまった」というのは、いったい「どういうわ けか」(TORAI 2001,p.123)。

「神」と「私」とのあいだ「には何の問題もない」のだけれど、その私と神とのあいだに、他の 被造物なる「人間」が介入して「いる」、となると、なかなか(TORAI 2001,p.102)厄介だ。

とはいえ、たとえ「親が拒ん」だ者であっても、そうした者のことを「拒まない」のが、「神」 である(TORAI 2001,p.127)。また、自分のところからたとえ「友人」が「去っていっても」、それ でも自分と「共にある」のが、「宇宙」だ(ibid.)。なるほど「ゆっくりとではあるが」、「自分と人々」との「出ている」「元」が由来として「 同じ」なのは「本当」であり、また、そのことが筆者に「実感される」という、そうした「瞬間 」も、「増えている」(TORAI 2001,p.149)。

また、「身体と心」とのあいだ「の性を一致させることで」、自分にも「心の余裕ができ」た ので、ようやく晴れて「自分以外の存在を気にかける」ようになった(TORAI 2001,p.148)。

もはや「一人ではない」(TORAI 2001,p.127)。それどころか、「ここに」居るのが「もし」「私 」や「仲間」でなければ、むしろきっと「嫌」がるだろうに(ibid.)。

med.6. 第六省察

綺麗なものを綺麗とみなし、可愛いものを可愛いと思えるのは仕方ない、みずから「微笑みたい 時には微笑んでよい」、というのが当然なのであって、「自分が心地よいと思うことをする」に あたって、一切「関係ない」のは、たとえば「性別なんて」ものだが、この度、筆者は、「や っと」「心から」「そう思えるようになった」次第である(TORAI 2001,pp.143-144)。

自他による「呼び方はどう」であれ、《そう生まれて 》 、「そしてそれを克服していく過程で、 こんなにも幸せになった」のが「私」だ(TORAI 2001,p.148)。

それでも、自分が「苦しかったら」そのように「苦しいまま生きる」べしと決め込み、あたかも そのことが「神を冒涜しないこと」であるかのように「思い」込んで、たとえば、「身体にメス を入れない、あるいはホルモン剤に頼らない」とか、いわゆる「異性」としての「装」い「をし ない」とか、自分で「決心」したところ、却ってその後に欝な状態になった「人もいるようだ 」(TORAI 2001,p.127)。

せっかく「金があって」「仲間が」居るのだから、自分のもつ「その内なる葛藤を何とか解消す るために」も、何らかの「努力を」して「ほしい」ところである(ibid.)。

実際に、「身体が心に合わせて」「いくにつれて」、かつての「そのいきがっていた気持ちが徐 々に消え」ていくと、例の、《それ「らしくあらねば」ならぬ 》 「というこだわりが」、今とな っては「すっかり」「なくなってしまった」(TORAI 2001,p.143)。

「暗い顔で日々を呪い、胃を痛くしてノイローゼ」か何か「になりつつ」付き「従ってくる」 のは、まるで「幽霊」のようだ(TORAI 2001,p.127)。

それ「よりも、現実に可能な治療を」するとか何とかして「サッパリとして、月や星や太陽や花に明るい顔を向けつつ、人生に感謝しながら張り切って生きていく」者たちのことを、「気に入 って下さる」のが、筆者にとっては、何だか「神」の「ような気がして仕方がないのだけ れど」...(ibid.)。

《「あらゆるプロセスもまた」当時としては「それなりに完璧なのだ」 》 、とみなせるのは、 あくまで「希望」のある者のみなのだが、「あの頃は」まだ、そのことに自分では「気づかなか ったのだ」(TORAI 2001,p.128)。

今でこそ、自分の「肩から力が抜けて、ゆらゆらとバランスをとっている」ので「気持ち」が「 良い」(TORAI 2001,p.144)。

しかし、なにも「手術前」に限ったことではないのだが、「表面上は何の不自由もなかった」よ うな「日々のことなど」、自分でも「思い出したくもない」(TORAI 2001,p.111)、というのが、正 直なところだ。---

DM.5. 方法叙説-第五部

たとえば「性同一性障害を抱える人々」について、たとえ「そのように生まれた何らかの理由が ある」にしても、その「意図」されたことそのものについては、我々には「全くどういうことな んだか」解ら「ない」(TORAI 2001,pp.123-124)。

「今」となっては、「季節の息吹や自然の甘美に」対して「一瞬にして同調できる」くらいの「 心のゆとりが」筆者には「ある」のであって、だからこそ「わざわざ瞑想などしなく」なっ た(TORAI 2001,p.145)と云えよう。

単に「この境地に至れる」というだけなら、なにも「性転換などしなくとも、普段の心構えで、 あるいは瞑想や自己啓発で」もってすれば充分だ、という「人は多いであろう」(ibid.)。また「性 」の「同一」たることについて「障害」をもつという点では「同じ」であっても、「精神的」な 面からこうした境地「に至る」にあたっては、「ホルモン」で「治療」していこうとする「人も あろう」(ibid.)。もしそうでなければ、「ホルモン」での「治療」および「手術が」、「私には必 要だった」、ということになろう(ibid.)。

「男女がどこまで同じで、どこが違うか」については、たとえば「両方の性を生きた」ということを、「本来」的ではないことであり「ながらも」「経験」し、そこ「から」「身にしみて」解 ったことがあり、そして、「真」に「平等」である「とはいかなる」ことなの「かについて深々 と理解し」、さらに、そこで何か「使命を感じ」て、「その考えを広めていく」、という「のも よいだろう」(TORAI 2001,pp.147-148)。いずれにせよ、「各々が」みずからの試練において「見出せた」のが、各々自身「にとっての 」「意味」や「意義」として「最高」であれば、それは「素晴らしい」ことだ(TORAI 2001,p.148)。

DM.6. 方法叙説-第六部

それでも、もし一層の「悩み」や「苦しみを募らせる」とすれば、それは、たとえば、「何か疾 病が」あるせいで「性同一性障害の身体的な治療にどうしても進めない人々」とか、あるいは、 「たとえ全ての手術を終え」たにしても、期待されて「いたような外観」を得られずに、周囲か ら「冷たい視線を浴びてしまう人々」とかなの「かもしれない」(TORAI 2001,p.128)。いくら「模 索中である」とはいえ、「こういった人々について」、自分では「具体的に何をしたらよいのか 」(TORAI 2001,p.129)、というと、やはり、もっぱら「治療」での「体制や法」的な「体制だけ」 というの「ではなく」、いわゆる「マイノリティ」とか少数派とかの「全般に対」して、「世間 一般の」もつ「見方を正しいものにするべく」我々が「働きかけて」いくことであり、それはき っと、「そういう人々のためにも」よい「と思う」(TORAI 2001,pp.128-129)。

差し当たり「私」の場合「についてのみ話して」いるのは「私」自身だが、「この中で」「足り ていないこと」については、これからきっと「配慮」される「だろう」(TORAI 2001,p.128)。

まず、とりわけ「ビギナーのため」の「サポートなど」については「全く苦にならないし、その くらいのことは顧客サービス云々という意識」がなくても「できる」、ということで、「最初 のキッカケになり得るような情報や資料を送付してきた」(TORAI 2001,p.85)、というような人が 、少なくとも居るはずだ。

それでも、せっかく或る「精神科医を訪ねた」のに自分の「思うような治療が受けられ」なか った、ということで、筆者および「私あたりを逆恨みする」という事例は、残念ながら「多い 」(TORAI 2001,p.87)ようだが、かといって、なにも「性同一性障害を抱える人々の中に」だけ、 とくに「異常者が多い」という「わけではない」(ibid.)。

その「一方で」、「大して悩まずに性」を「転換」し「終え、その後もスムーズに暮らしている 人も」いる(TORAI 2001,p.128)。「願わくば」、皆があまり悩むことなく生活して「いきますよ うに」(ibid.)。

自分の「性別」に何か「強い」「違和」を有することは、「時として」その「人を死に向かわせ るほど」だが、もし、自分の「精神力や強い信仰を頼りに」して、そうした違和「を克服できた 人がいた」ならば、「もちろん」「私は」、「その人」のこと「を尊敬」するし、その人自身 が「もう二度とそのことで再び悩み出すこと」の「ないように」、「お祈り」も「しようと」「 思う」(TORAI 2001,p.127)。

reserved in 2003, produced and arranged in 2009/2012 by K.-masamix as the SHYNAMITES.

※ HPML版は、ここまで。

引用・参考文献

虎井 まさ衛『ある性転換者の幸福論』(十月舎、2001) =TORAI 2001

ルネ・デカルト 著/山田 弘明 訳『省察』(ちくま学芸文庫、2006)

谷川 多佳子 訳『方法序説』(岩波文庫、1997)

村上 勝三『デカルト形而上学の成立』(勁草書房、1990)

Stevie Wonder "Signed, Sealed, Delivered I'm Yours" (released in 1970, Stevie Wonder 《the definitive collection》, [UICZ-1070〜1] 所収、 Motown/Universal International, 2002/2007)

※ F版は、ここから↓

[F Mix]

DM.1. 方法叙説-第一部

なにも性を転換することに限らず、もし自分があらゆるバランスのとれた人間 になっていくことで幸せになり、さらには心の余裕ができたことによって、その幸 せを周りに分けて歩きたくなるまでになったとしたら、みずから引き受けたその試練は、 私にとってきっと意義深かったものなのだろう。

それはともかく、人生が色々なのは本当であり、抱えている悩みが同じ なのは確かである。 とはいえ、窺い知れるところでは、どう やら私よりもずっと丈夫で裕福な人たちばかりらしい。

なお、この中で私はあくまで私自身の場合についてのみ話しているので、きっとま だ配慮は足りていないことだろう。 しかも、たとえば何か疾病があるせいで性同一性障害の身体的な治療にどうしても進めない人々とか、あるいは、たとえ 全ての手術を終えたにしても、期待されていたような外観を得られずに、周囲から冷た い視線を浴びてしまう人々とかは、一層の悩みや苦しみを募らせるかもしれない というのに、こういった人々について、自分では具体的に何をしたらよいのか、まだ 模索中である。ただ、そういう人々のためにも、ここでは、もっぱら 治療での体制や法的な体制だけというのではなく、いわゆるマイノリティと か少数派とかの全般に対して、世間一般のもつ見方を正しいものにするべく我々 が働きかけていければよいと思う。

ところで、治療前なら特にそうだが、以前の私は、もしかしたら自分の悩みなんて実 は贅沢なのかもしれない、などと考えてみようとすることで、一息つけたものだった 。が、今にして思えば、これはあまり前向きな方法ではない。

DM.2. 方法叙説-第二部

やはり、こうした類いの自己満足は、力としては幻の如く虚しい 。

だが、それにしても、さすがに甘ったれと異常者とに対しては、当方からはどうしても尽 くし切れないし、しかもこうした人々というか連中が、いずれも一人や二人では ないとなれば、なおさらである。どうしてなのだろうか、それはともかく、何せ、連中は自分でやろうとしないのだ。

もし自分の変化も、周囲の戸惑いも目に入らなかった日々をとおして、ゴールまでがむし ゃらに突っ走ったとすれば、それは、当方および私のはずだ。また、 どこに行って誰に頼めばよいかすぐにわかり、仲間も見つけやすいのが、今のはず だ。 そのせいなのかもしれないが、たかが性のことなんかで死にたい なんて思うのはまったく甘ったれてるよ、と云う人もいるようだ。

ただ、性について本当に悩んだことのある人は、あまりそういうことは云わないも のだ。何せ我々の人生は、やれ試験だの病気だの仕事だの 恋愛云々だのといった、通常の事柄に絡む苦労に加え、それらすべてに性同一性障害という苦いものが満遍なく降りかかってできているのだ。

DM.3. 方法叙説-第三部

そこで、先のことなどについて思い煩ってくよくよせずに、目の前のことを見据えてこな していき、その一方で、たとえば自分よりひどい人がこの世には大勢いるのだ、と考え るなどして一息ついておけば、いつの間にか死にたくなくなる、ということもあろう 。 なにも性を転換せざるを得ない者たちに限ったことではな いのだが、どうやら日本では明るく生きられそうにもないから、いっそのこと、他の某 国にでも移住しようかと思いつつ、かなり長い間、自分で真剣に悩んで色々調 べたところ、その国で生きるほうが、むしろ全ての性的少数者にとって、命を落とす危険 は高いという。そのことがよく判ったので、安堵はしたも のの、移住を断念した時は、何だか少し寂しいような感じもした 。

DM.4. 方法叙説-第四部

med.praef. 省察-読者への序言

---ところで、べつに少し助けるくらいなら構わないのだが、実際のと ころは、自分がどんなに尽くそうとも、何も買ってもらえないまま、ただ一通の 御礼の手紙だけで終わってしまうことのほうが多い。 さすが にそういう時には、見返りもないにも拘わらずこんなにも他人に尽くしている 自己についての満足に浸ることにするしかなかろう。

med.1. 第一省察

思うに、或るときは虚弱だったり、基本的に怠け者だったり、また或るときは金も なかったりするのが、私だ。その一方で、情報も皆無に等しかった時代も、あった。

もしも自分でも充分に生きたと確信できるようになるためだけだったら、べつにい わゆる性転換者ではなかったとしても、それこそ充分にこの境地に至ることくらいは 自分でもできたかもしれない、というか、できるはずだ。但し、そう いう場合には、そのように確信するまでに、もっとずっと年齢を重ねなくてはならない だろう。となると、性を転換せざるを得ない者であるということは、少なく とも筆者および私には充分に意味があった、ということになる。 じつに、性の問 題とは、何とも大きなものなのだ。

もちろん、性同一性障害も我々を死に至らしめる要素となり得ることは、自分で もよくわかっている。ただ、それほどまでに火急ではないというだけ のことだ。

さて、夜が深まり人々が寝静まった安全な部屋で、筆者が小さな達成感をもつのは、たとえば、辞書を引いたり頭を抱えたりしながら、遣う言葉に も気をつけ、急がず丁寧にじっくりと手紙をしたためて、それを封に入れ、切手 を貼り終えたときだろうか。こういうときは、自分で手間をかけた分 だけ、相手と深く結びつけられる感じもするし、また、自分でもひたひたと幸福 な気持ちに満たされる気がする。

そんな中、甘ったれた連中について、我々が実に気にくわないのは、そうした連中が、 全てを人任せにするか、金でカタをつけるかしようとしているところだ。なるほど私も貧乏だし金も欲しいが、それにしても、これについて は連中の云うことを聞く気にはならない。となると、やはりお断りしますといっ たような短い返事を送って、そこで終わりにしてしまうのがよかろう。

また、いわゆる異常者となると、もっとずっとタチが悪い。この 人たちは、なぜかたいていがみずからの住所や氏名を明記してくるのだが、もしか したら自分たちが悪いことをしているという自覚が、この人たちにはないのかもしれな い。最初の頃こそは、こういった人々にさえも、何回か親切めかした手紙を送ったり したこともあった私だが、とにかく何を書いても先方に悪く取られるという ことで、逆効果だったようだ。 なにも、下手[したて]に出ればいいというものでもないのだ。 あまりにしつこく嫌がらせを受けていた時、そういう手合いを無視してみたところ 、なるほど鎮静化した。なお、そのとき筆者が煩わされたという、その相手は、矛先を別のサポートグループに向けていったようだが、次々と新手も 出てくるらしい。 とはいえ、それからは、こういった人々から何 を送られてきても、私はなるべく、あるいは一切、気に留めないようにしている 。果てしなく依存してくる人々、あるいは金を払えば何でもしてもらえる と思っている人々に対してさえも書いた、その返事でもって、まずは御自分の甘っ たれ加減について相手に気づいてもらうことが、成功し、そうすれば、相手が 御自分でやる気を出すようになり、また相手の力が引き出されるようになる だろう。

今でこそ、朝に目を覚ましただけで、何となく嬉しいほどなのだが、昔はそう ではなく、傍からどんなに楽しげに見えるようなことをしていても、自分の心の底か ら喜んだことは一度もなかった。

med.2. 第二省察

我々のような人種で、しかも治療前の人々ともなれば、その多くはたいてい、 いわゆるやる気を失っているものだが、ここまでうちひしがれているならば、そのせい で魂もくたびれていることも多いだろう。

とはいえ、決して自分で望んでそうなったわけではないにしろ、つまり、そうあることを 選べなかったにしろ、また、自分で敢えて望んだり選んだりしてそうなったにしろ、いず れにせよ、私も、そして多くの仲間たちも、そうあるべくして生まれた、と いうことであり、少なくともこの点においては、差別される謂われは全くない。

もちろん、幸せの理由ならば、多々あるかもしれない。

ただ、とにかくこのように幸せだという、みずからにおけるいわば核心めいた確信 については、何も誰も壊せないはずだし、また、それが壊されないという自 信が、筆者にはある。たとえば治療前から変わっていない ところがおそらく根本的な私の性格および気質なのだろうが、 このようにじっくりと恩寵を感じつつ、自分や周囲の変化のプロセスを楽しめばよか ったと自分で思えるようになったのも、今だからこそなのである。

med.3. 第三省察

一方で、誰かに云われて初めて神のことを考えてみた、という人もいる。また、自分にこんな苦労を押しつけやがった奴がもし居るとしたら、そい つのことを自分はきっと恨むだろうから、そんな奴のことを神としては信じたくない、という当事者もいる。

他方で、別の日の夜、布団に入ってからそれまでの自分の人生のことを思い出してみた時、 人生で味わえるだけの幸せを、なんだかもうその時点で早くも味わい尽くした気がし てしまったのは、筆者だけではないようだ。そして、そんな感じをもった ことについても、恐怖というか感激というか判らぬが、何せ自分でもビックリしてしま ったことがあった。

そういえば、神への冒涜云々という悩みを突き抜けた人たちによれば、神と私との あいだに問題はないという。

med.4. 第四省察

なるほど、これほど多く、古今東西にわたって出現することが、もし端的な間違い とされるならば、そしてまた、創り出されてくればよいとされるのが、もし、もっぱ ら心身ともにはっきり男である、または女であるという人々だけならば、おそらく、 間違って存在するのは我々である、ということになるだろう。

しかも家族や友人などから、自分のことについて、神に対する冒涜だと云われた 人は、なるほど深く傷ついているという点では、一様だ。こう した冒涜云々という発言によって真面目に切り刻まれて、血を流す人々も多いので ある。

しかし、そもそも、巷で云われている以上に偉大で完璧なのが神なのである。

med.5. 第五省察

もちろん、我々としても何とか乗り越えていくしかないのだが、それにしても、そのよう に意図か何かをされてこの世に送り出されてしまったというのは、いったいどういうわ けか。

神と私とのあいだには何の問題もないのだけれど、その私と神とのあいだに、他の 被造物なる人間が介入している、となると、なかなか厄介だ。

とはいえ、たとえ親が拒んだ者であっても、そうした者のことを拒まないのが、神 である。また、自分のところからたとえ友人が去っていっても、それ でも自分と共にあるのが、宇宙だ。なるほどゆっくりとではあるが、自分と人々との出ている元が由来として 同じなのは本当であり、また、そのことが筆者に実感されるという、そうした瞬間 も、増えている。

また、身体と心とのあいだの性を一致させることで、自分にも心の余裕ができた ので、ようやく晴れて自分以外の存在を気にかけるようになった。

もはや一人ではない。それどころか、ここに居るのがもし私 や仲間でなければ、むしろきっと嫌がるだろうに。

med.6. 第六省察

綺麗なものを綺麗とみなし、可愛いものを可愛いと思えるのは仕方ない、みずから微笑みたい 時には微笑んでよい、というのが当然なのであって、自分が心地よいと思うことをするに あたって、一切関係ないのは、たとえば性別なんてものだが、この度、筆者は、や っと心からそう思えるようになった次第である。

自他による呼び方はどうであれ、《そう生まれて 》 、そしてそれを克服していく過程で、 こんなにも幸せになったのが私だ。

それでも、自分が苦しかったらそのように苦しいまま生きるべしと決め込み、あたかも そのことが神を冒涜しないことであるかのように思い込んで、たとえば、身体にメス を入れない、あるいはホルモン剤に頼らないとか、いわゆる異性としての装いをし ないとか、自分で決心したところ、却ってその後に欝な状態になった人もいるようだ 。

せっかく金があって仲間が居るのだから、自分のもつその内なる葛藤を何とか解消す るためにも、何らかの努力をしてほしいところである。

実際に、身体が心に合わせていくにつれて、かつてのそのいきがっていた気持ちが徐 々に消えていくと、例の、《それらしくあらねばならぬ 》 というこだわりが、今とな ってはすっかりなくなってしまった。

暗い顔で日々を呪い、胃を痛くしてノイローゼか何かになりつつ付き従ってくる のは、まるで幽霊のようだ。

それよりも、現実に可能な治療をするとか何とかしてサッパリとして、月や星や太陽や花に明るい顔を向けつつ、人生に感謝しながら張り切って生きていく者たちのことを、気に入 って下さるのが、筆者にとっては、何だか神のような気がして仕方がないのだけ れど...。

《あらゆるプロセスもまた当時としてはそれなりに完璧なのだ 》 、とみなせるのは、 あくまで希望のある者のみなのだが、あの頃はまだ、そのことに自分では気づかなか ったのだ。

今でこそ、自分の肩から力が抜けて、ゆらゆらとバランスをとっているので気持ちが 良い。

しかし、なにも手術前に限ったことではないのだが、表面上は何の不自由もなかったよ うな日々のことなど、自分でも思い出したくもない、というのが、正 直なところだ。---

DM.5. 方法叙説-第五部

たとえば性同一性障害を抱える人々について、たとえそのように生まれた何らかの理由があるにしても、その意図されたことそのものについては、我々には全くどういうことなんだか解らない。

今となっては、季節の息吹や自然の甘美に対して一瞬にして同調できるくらいの 心のゆとりが筆者にはあるのであって、だからこそわざわざ瞑想などしなくなっ たと云えよう。

単にこの境地に至れるというだけなら、なにも性転換などしなくとも、普段の心構えで、 あるいは瞑想や自己啓発でもってすれば充分だ、という人は多いであろう。また性 の同一たることについて障害をもつという点では同じであっても、精神的な 面からこうした境地に至るにあたっては、ホルモンで治療していこうとする人も あろう。もしそうでなければ、ホルモンでの治療および手術が、私には必要だった、ということになろう。

男女がどこまで同じで、どこが違うかについては、たとえば両方の性を生きたというこ とを、本来的ではないことでありながらも経験し、そこから身にしみて解 ったことがあり、そして、真に平等であるとはいかなることなのかについて深々 と理解し、さらに、そこで何か使命を感じて、その考えを広めていく、というのもよいだろう。いずれにせよ、各々がみずからの試練において見出せたのが、各々自身にとっての意味や意義として最高であれば、それは素晴らしいことだ。

DM.6. 方法叙説-第六部

それでも、もし一層の悩みや苦しみを募らせるとすれば、それは、たとえば、何か疾 病があるせいで性同一性障害の身体的な治療にどうしても進めない人々とか、あるいは、 たとえ全ての手術を終えたにしても、期待されていたような外観を得られずに、周囲から冷たい視線を浴びてしまう人々とかなのかもしれない。いくら模 索中であるとはいえ、こういった人々について、自分では具体的に何をしたらよいのか 、というと、やはり、もっぱら治療での体制や法的な体制だけ というのではなく、いわゆるマイノリティとか少数派とかの全般に対して、世間 一般のもつ見方を正しいものにするべく我々が働きかけていくことであり、それはきっと、そういう人々のためにもよいと思う。

差し当たり私の場合についてのみ話しているのは私自身だが、この中で足り ていないことについては、これからきっと配慮されるだろう。

まず、とりわけビギナーのためのサポートなどについては全く苦にならないし、その くらいのことは顧客サービス云々という意識がなくてもできる、ということで、最初 のキッカケになり得るような情報や資料を送付してきた、というような人が 、少なくとも居るはずだ。

それでも、せっかく或る精神科医を訪ねたのに自分の思うような治療が受けられなか った、ということで、筆者および私あたりを逆恨みするという事例は、残念ながら多いようだが、かといって、なにも性同一性障害を抱える人々の中にだけ、 とくに異常者が多いというわけではない。

その一方で、大して悩まずに性を転換し終え、その後もスムーズに暮らしている 人もいる。願わくば、皆があまり悩むことなく生活していきますように。

自分の性別に何か強い違和を有することは、時としてその人を死に向かわせ るほどだが、もし、自分の精神力や強い信仰を頼りにして、そうした違和を克服できた 人がいたならば、もちろん私は、その人のことを尊敬するし、その人自身 がもう二度とそのことで再び悩み出すことのないように、お祈りもしようと 思う。

reserved in 2003, produced and arranged in 2009/2012 by K.-masamix as the SHYNAMITES.

※ F版は、ここまで。

奥付

Signed, Sealed, Delivered:

I TRY to CARTESnize...

produced, arranged and CARTES-nized by the SHYNAMITES, 2009/2013.

初出:" What a cool believes-II" (blog),2009年4月12日.

Copyright(C)2013 La CHENAMITOJ/the SHYNAMITES/La Chaînamite/ Das Scheunamit/ダーシャイノマイ/謝意乃舞, All Rights Reserved. 

※ 著作権者に無断で改変・転載・複製することを禁じます。



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