デカルト『音楽提要』のブリーフィング・ドキュメント

デカルト『音楽提要(音楽要綱)』(The Musical Compendium of René Descartes)のラテン語原典を典拠にして、NotebookLM にて、
《ブリーフィング・ドキュメント》を生成してもらった。

以下、NotebookLM による生成結果である。

なお、NotebookLM は不正確な場合がありますので、ご了承願います。

※ 文中における引用元の原典はAT版です。
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.

【ブリーフィング・ドキュメント】デカルト『音楽提要』精解

デカルト著『音楽提要』主要テーマと重要概念に関する詳細ブリーフィング文書

このブリーフィング文書は、ルネ・デカルトの『音楽提要(Compendium Musicae)』の出版経緯、内容、そしてその音楽理論の根幹をなす主要テーマと概念を詳細にレビューする。提供された資料に基づき、特に重要なアイデアや事実には原典からの引用を含める。

  1. 『音楽提要』の出版経緯と文献学的考察
    デカルトの『音楽提要』は、彼の死後すぐ、1650年にオランダで最初の版が出版された。この初版は『RENATI DES-CARTES Musicae Compendium』と題され、ブレダで書かれたものであることが編集者の序文「Typographi Lectori S. P.」に記されている。彼らはデカルトの弟子が浄書した写本を入手し、急いで印刷したと述べている(p. 89)。3年後の1653年にはアムステルダムで第2版が出版され、いずれもパリの国立図書館に所蔵されている。
    フランスでは1668年に「N. P. P. D. L.」ことN. ポワソン神父によるフランス語訳が、デカルトの『力学論』とともに「Traité de la Mechanique... L'Abrégé de Musique du mesme Autheur mis en François」として出版された(p. 89)。ポワソン神父は序文で、彼が担当したのは先行する印刷の誤りの修正、原典に照らして不要と判断された部分の削除、そして翻訳であり、彼が追加した「Elucidationes(解説)」は「detâchées(独立した)」部分であり、「il y a de plus difficile & obscur(最も難解で不明瞭な点)」を説明するものではないと明言している(p. 81)。
    ポワソン神父の翻訳は、クラーセリエ(Clerselier)が彼に提供した写本に基づいて行われた(p. 81)。この写本は、デカルトのストックホルムの遺品目録(1650年2月14日)に「Huit feuillets in-8° escrits de la Musique, 1618」として記録されているものと一致する(p. 82)。バイエ(Baillet)も後にこのラテン語写本を参照し、その最後の数行を彼の『デカルトの生涯(Vie de Monsieur Des-Cartes)』に引用している(p. 82)。
    しかし、この原典だけが『音楽提要』の唯一の写本ではなかった。1650年版に使われた写本とは別に、コンスタンティン・ホイヘンス父の論文の中にもう一つの写本が見つかっている(ライデン大学図書館所蔵、Hug. 29. a.)(p. 82)。ホイヘンスは音楽愛好家であり、デカルトにこの論文について尋ねたことが知られている(1637年9月8日付書簡)。
    最も重要な発見は、1878年にミデルブルフの州立図書館が取得し、20世紀初頭にC. ド・ヴァールによってその重要性が指摘された、長く失われていたベークマンの日記に挟まれていた写本である(p. 83)。この写本には、「R. des Chartes [sic] Isaaco Beeckmanno」宛てであることが明記されており、日付も「Bradas [sic] Brabantinorum, pridie Calendas Januarias. Anno MDCXVIII completo」(1618年12月31日)と記されている。これらの貴重な情報は1650年版や1668年フランス語訳には欠けていた(p. 82)。
    デカルトの書簡によれば、彼はこの『音楽提要』の写本をベークマンに贈与したが、自分用の写しは持っていなかった。ベークマンが「en faisoit parade & en escrivoit çà & là comme de chose qui estoit sienne(まるで自分の作品であるかのようにあちこちで披露し、書き送っていた)」ため、デカルトは強硬に返還を要求した(p. 82-83)。ベークマンは1629年末に返却したが、その際に写しを取り、自身の「Journal」に挟んで大切に保管していた(p. 83)。
    これらの経緯から、現在『音楽提要』のテキストを構成する4つの主要な資料が存在する:ミデルブルフ写本、ライデン写本、ユトレヒトの1650年印刷版、そしてN. ポワソンの1668年フランス語訳である。編集者は、ユトレヒトの1650年版が最も完全かつ正確であると判断し、これを主要テキストとして採用し、他の資料の差異を異文として末尾に記している(p. 85)。
    ポワソン神父の翻訳の結びの文章は、デカルトの『音楽提要』が彼の最初の著作ではないという誤解を生んだ(p. 85-86)。しかし、バイエは後にこの解釈に異議を唱え、デカルト自身が「cet avorton de mon esprit(私の精神のこの未熟児)」と謙遜して表現したのは、この作品自体の不完全さを指しており、他の「pièces plus achevées(より完成された作品)」を意味するものではないと説明している。デカルトは、この作品が「à la haste, pour plaire à vous seul(急いで、あなただけを喜ばせるために)」「dans un temps où je ne pensois à rien moins qu'à écrire de cette matière, & où je menois une vie fainéante & peu retirée, à laquelle l'ignorance & la conversation des gens de guerre sembloit me convier(私がこの主題について書くことなど全く考えていなかった時期に、怠惰で隠遁的でない生活を送っており、無知や兵士との会話が私を誘っているように見えた時期に)」書かれたことを強調している(p. 86)。バイエは、デカルトが他の「cahiers ou memoires(手記や覚え書き)」を書き残していた可能性は認めるものの、それらが『音楽提要』より完成度が高いとは考えていなかったと結論付けている(p. 87-88)。

  2. 音楽の目的と手段
    デカルトの音楽理論は、音をその主要な対象とする。 「HUIUS OBJECTUM EST SONUS. Finis, ut delectet, variosque in nobis moveat affectus. (その目的は、私たちを喜ばせ、様々な感情を呼び起こすことである。)」(p. 89) 彼は、悲しい歌が同時に心地よいこともあり得るとして、悲劇や哀歌がより大きな喜びを引き起こすのと同じ原理だと述べる。
    音楽をその目的に導く手段、すなわち音の主要な性質は2つある。

  3. 持続、または時間(durationis vel temporis):音の長さやリズムに関する差異。

  4. 強弱、または高低(intensionis circa acutum aut grave):音の高さ(ピッチ)に関する差異。 音自体の質、例えば「どの物体から、どのような方法でより心地よい音が出るか」は物理学者の領域であると区別している(p. 89)。彼は人間の声が最も心地よいのは、それが「nostris spiritibus(私たちの精神)」に最も合致しているからだと推測し、動物の皮で作られた太鼓の反響の例を挙げ、共感と反感の感情と関連付けて説明する(p. 90)。

  5. 音楽知覚の基礎となる「予備知識」(Prænotanda)
    デカルトは、音が心地よいと感じられるための一般的な知覚原理を提示する。

  6. すべての感覚は快感を享受しうる(Senfus omnes alicuius delectationis funt capaces.)。(p. 91)

  7. 快感には、対象と感覚の間に何らかの「割合(proportio)」が必要(Ad hanc delectationem requiritur proportio quædam objecti cum ipfo senfu.)。例えば、銃声や雷鳴は耳を傷つけるため音楽には適さない。(p. 91)

  8. 対象は感覚に「難なく混乱なく(non nimis difficulter & confuse)」届くものでなければならない(Tale objectum esse debet, ut non nimis difficulter & confuse cadat in sensum,)。複雑すぎる図形が視覚に不快であるのと同様。(p. 91)

  9. 部分の差異が少ないほど、対象は感覚によって容易に知覚される(Illud objectum facilius sensu percipitur, in quo minor est differentia partium.)。(p. 91)

  10. 部分の差異が少ないとは、それらの間に「より大きな比例(maior proportio)」があること(Partes totius objecti minus inter se differentes esse dicimus, inter quas est maior proportio.)。(p. 91)

  11. この比例は「算術的(Arithmetica)」であるべきで、「幾何学的(Geometrica)」であってはならない(Illa proportio Arithmetica esse debet, non Geometrica.)。その理由は、算術的比例では常に差異が等しいため、感覚が全体を明確に知覚するために「疲れすぎる(non tantopere sensus fatigetur)」ことがないからである。幾何学的比例(例えば不可算な部分を持つ線)では、感覚は常に欺かれる(p. 91-92)。

  12. 最も心地よい対象は、感覚によって「最も容易に(facillime)」知覚されるものでも、「最も困難に(difficillime)」知覚されるものでもない(Inter objecta sensûs, illud non animo gratissimum est, quod facillime sensu percipitur, neque etiam quod difficillime ; sed quod non tam facile, ut naturale desiderium, quo sensus feruntur in objecta, plane non impleat, neque etiam tam difficultas, ut sensum fatiget.)。感覚が対象へと向かう自然な欲求を完全に満たさないほど容易すぎず、かといって感覚を疲れさせるほど困難すぎないものが最適である。(p. 92)

  13. 最後に、あらゆるものにおいて「多様性(varietas)」が最も心地よいことに注意すべきである(Denique notandum est varietatem omnibus in rebus esse gratissimam.)。(p. 92)

  14. 音の時間的性質:リズムと拍子(De Numero vel Tempore in Sonis Observando)
    音における時間は、等しい部分(最も容易に知覚される)から構成されるか、あるいは二重または三重の比例を持つ部分から構成されるべきである。これ以上進むべきではない、と彼は主張する。 「Tempus in sonis debet constare aequalibus partibus, quia illae sunt quae omnium facillime sensu percipiuntur, ex 4° praenotato ; vel partibus quae sunt in proportione duplâ vel tripla, nec ulterius sit progressio ; quia hae omnium facillime auditu distinguuntur, ex 5° & 6° praenotatis.」(p. 92-93) もし拍子がもっと不均等であれば、耳はその差異を労なくして認識できないだろう。彼は、例えば1つの音符に対して5つの等しい音符を置くことは非常に困難であると例を挙げる。4つや8つの音符は可能だが、それらは「互いに素(primi inter se)」ではなく、新しい比例を生み出すのではなく、二重の比例を単に「増殖(multiplicare)」させるだけであると説明する。
    音楽における2つの主要な拍子記号(測り方)は、この二重または三重の比例から生じる。これは「percufsione, vel battutâ(打撃、またはバットゥータ)」によって示され、これは「imaginationem nostram(私たちの想像力)」を助け、歌のすべての部分を容易に知覚し、そこにあるべき比例を楽しむことを可能にする(p. 93-94)。 歌全体の小節数が8、16、32、64など、常に二重比例で分割される場合に、この比例が最もよく保たれる。これにより、想像力は歌全体を「unum quid ex multis aequalibus membris conflatum(多くの等しい部分から構成される一つのもの)」として捉えることができる(p. 94)。
    拍子の提示方法は、声楽では精神の「ある種の緊張(quâdam spiritûs intensione)」によって、楽器では「触覚(tactûs)」によって、各拍子の開始時に音をよりはっきりと出すことによって行われる。デカルトは、これが歌手や演奏家、特に舞踏の音楽において自然に観察される現象であると指摘し、その理由を音波が周囲の物体を振動させる物理的現象に帰する。彼は、動物でさえも訓練されればリズムに合わせて踊ることができるのは、それが単なる自然な衝動だからだと主張する(p. 94-95)。
    様々な拍子が喚起する感情については、一般に遅い拍子は「languor, tristitia, metus, superbia(倦怠感、悲しみ、恐れ、傲慢さ)」のようなゆっくりとした動きを、速い拍子は「laetitia(喜び)」のような速い感情を引き起こす、と述べる(p. 95)。 また、2拍子の拍子記号(quadrata)は3拍子の拍子記号(tertiata)よりも遅いと説明する。これは、3拍子が2拍子よりも感覚を多く占有し、3つの部分を認識する必要があるのに対し、2拍子では2つで済むためである(p. 95)。 デカルトは、リズムの力が音楽において非常に大きく、それ自体で快感をもたらすことができると強調する。軍事楽器である太鼓が良い例で、そこでは拍子だけが重要視される。拍子は2つや3つの部分だけでなく、5つや7つの部分から構成されることもあり、これは感覚をより多く占有するためである(p. 95-96)。

  15. 音の高低の多様性:協和音と不協和音(De Sonorum diversitate circa acutum & grave)
    音の高低の多様性は主に3つの方法で考察される。

  16. 同時に発される音:ここから「Consonantiae(協和音)」が生じる。

  17. 同じ声によって連続的に発される音:ここから「Gradus(音程)」が生じる。

  18. 異なる声または楽器によって連続的に発される音:ここから「Dissonantiae(不協和音)」が生じ、これらは協和音に近い。 同時に発される音(協和音)においては、連続的に発される音(音程)よりも音の多様性が少ないべきである。なぜなら、同時に発される音における過度な多様性は、耳をより疲れさせるからである(p. 96)。
    5.1. 協和音(De Consonantijs)

  19. ユニゾンは協和音ではない:ユニゾンは高低において音の差異がないため、協和音に対する単一性のようなものである(p. 96)。

  20. 低い音の優先性:協和音に必要な2つの音のうち、低い方がはるかに力強く、ある意味で高い音を含んでいる。これはリュートの弦の実験で確認される:ある弦を弾くと、それよりもオクターブまたは5度高い弦は自然に振動し、共鳴するが、低い弦はそうではない(p. 97)。 この理由は、弦が短くなるほど音が高くなること、そして弦の分割が算術的であるべきことから説明される。デカルトは、低い音の弦を分割することによって高い音の弦が導き出されると主張する。 例えば、最も低い音の弦ABを最初の数である2で分割すると、オクターブ(diapasson)であるACが生じる。さらにABを3つの等しい部分に分割すると、AD(12度)とAE(5度)の2つの協和音が生じる。同様に4、5、6で分割できるが、これ以上は耳の弱さにより困難である(p. 97-98)。

  21. 協和音の種類:最初の分割からは1つの協和音(オクターブ)、2番目からは2つ、3番目からは3つが生じると彼は表で示す(p. 98)。 オクターブは、弦が通常よりも強く吹かれたときに、すぐに1オクターブ高い音を出すフルートの実験によっても確認される。これはオクターブが最も最初の協和音であり、ユニゾンと最も差異が少ないためである。彼はさらに、どんな音も、その1オクターブ高い音が耳に何らかの形で共鳴して聞こえると推測する(p. 99)。

  22. オクターブの包摂性:オクターブはすべての協和音の中で最も大きく、他のすべての協和音をその中に含み、またはそれから構成される。これは、すべての協和音が等しい部分から構成されることから証明される(p. 99)。 オクターブは他の協和音のように比例の数を増やさず、唯一倍化できる協和音である。例えば、5度が倍化すると9倍になるが、オクターブは4倍または8倍にしかならない。これは、最初の6つの数にすべての協和音を含めた範囲を超えるからである(p. 100)。 これより、いかなる協和音にも3つの種類があると結論される。

    1. 単純協和音(simplex)

    2. 単純協和音とオクターブの複合(composita à simplici & octavâ)

    3. **単純協和音と2つのオクターブの複合(composita à simplici & duabus octavis)**これ以上は比例の数が多すぎるため追加されない。これにより、すべての協和音の一般的な目録が作成される(p. 100)。

  23. 算術的分割:彼は、協和音が算術的分割によって見出されるべきであることを繰り返す。彼は弦の例を用いて、オクターブの空間が2つの等しい部分に分割される方法を説明し、そこから主要な協和音である5度(quinta)と、偶然的な協和音である4度(quarta)が生じることを示す(p. 102)。 この「主要な(proprie)」協和音と「偶然的な(per accidens)」協和音の区別は、リュートの弦の実験によっても裏付けられる。弦を弾くと、5度や長3度(ditonus)の音程にある高い弦は振動するが、4度などではそうならない(p. 103)。 デカルトは、すべての単純協和音がオクターブの中に含まれるという彼の以前の主張を確認するため、オクターブを円として表現する図を用いる。この図は、オクターブ(diapasson)が他のすべての協和音の音程を包含していることを示している(p. 103-104)。 結論として、すべての協和音は3つの種類に分類される。

    1. ユニゾンの最初の分割から生じるもの(オクターブ)

    2. オクターブの等分割から生じるもの(5度と4度)

    3. 5度の分割から生じるもの(長3度、短3度など) 彼はまた、2, 3, 5の3つだけが「鳴る数(numeros sonoros)」であるとし、4と6はそれらから構成されるため、単に偶然的に鳴る数であると述べる(p. 105)。
      5.2. 5度(De Quinta)
      5度は「consonantiarum omnium gratissima atque auribus acceptissima(すべての協和音の中で最も心地よく、耳に最も受け入れられる)」協和音であり、すべての歌においてある意味で支配的な位置を占める(p. 105)。これは、デカルトの7番目の予備知識、すなわち「容易すぎず、困難すぎない」という快感の原則に合致するためである(p. 105-106)。 彼は、5度には3つの種類があることを図(p. 101参照)から示し、その中で12度(duodecima)が最も完璧な5度であると述べる。 オクターブは、2つの声がユニゾンで歌うように、単独で用いられることがあるが、5度ではそうではない。これは、オクターブがユニゾンを包含し、2つの声が1つとして聞こえるためである。5度の音は互いに大きく異なり、耳を完全に占めるため、もし単独で繰り返し用いられればすぐに「faftidium(退屈)」が生じるだろうと説明する。彼はこれを味覚の例で説明する:パンだけでは飽きないが、砂糖のような非常に繊細な食べ物だけではすぐに飽きてしまう(p. 106)。
      5.3. 4度(De Quarta)
      4度は「infelicissima est consonantiarum omnium(すべての協和音の中で最も不運なもの)」であり、歌の中で偶然的に、他の協和音の助けなしには決して用いられない。 「nec unquam in cantilenis adhibetur, nisi per accidens & cum aliarum adiumento. Non quidem quôd magis imperfecta sit, quam tertia minor aut sexta ; sed quia tam vicina est quintae, vt coram huius suavitate tota illius gratia evanefcat. (それは短3度や6度よりも不完全であるからではなく、5度に非常に近いため、5度の甘美さの前ではその魅力が完全に消え去るからである。)」(p. 107) これは、ユニゾンでオクターブの高い音が共鳴するように、音楽においては5度が聞こえるたびに、何らかの形で4度の高い音が同時に聞こえているからだと説明される。そのため、4度は5度の「umbra(影)」と呼ぶことができる。 4度が最も低い部分(バス)と他のパートとの間に「primo & per se(まず第一に、それ自体で)」置くことができないのは、このためである。なぜなら、他の協和音は5度を多様化させるために役立つが、4度は5度を多様化させないからである。もし4度が低いパートに置かれたら、常に高い5度が共鳴し、耳は4度が本来の位置から「deturbatam(追い出された)」ことを察知し、影が本体の代わりに提示されたように感じて不快に思うだろう(p. 107-108)。
      5.4. 長3度、短3度、6度(De Ditono, Tertia minore, & Sextis)
      **長3度(ditonum)**は多くの点で4度よりも完全である。協和音の完成度は、それが単純である時だけでなく、その複合形すべてを考慮して判断されるべきである。長3度は、4度よりも小さな数で構成されているため、より完全である。そのため、デカルトは図(p. 101参照)において長3度を4度よりも前に配置している(p. 108)。 デカルトは、長3度の第3の種類が最も完全であり、リュートの弦で視覚的に知覚できる振動を引き起こす理由を、それが「multiplici proportione(多重比例)」に存在することに帰する(p. 109)。 長3度と短3度、6度は、その性質を共有する。短3度(tertia minor)は長3度から、6度(sexta major)は長3度から派生する。短3度は4度よりも不完全であるため、音楽で禁止されるべきではない。なぜなら、それは5度を多様化させるために必要不可欠だからである。オクターブは常にユニゾンで聞こえるため多様性をもたらさず、長3度だけでは多様性には不十分である。そのため、短3度が長3度と組み合わされることで、異なる歌の多様性が生まれる(p. 110)。 長6度(sexta major)は長3度から派生し、その性質を共有する。彼は、数4(15度、オクターブ、4度を含む)が合成された最初の数であり、オクターブを表す2によって単位まで還元されるため、そこから生じるすべての協和音は構成に適していると述べる。4度が「オクターブの怪物(monstrum octavae)」または「欠陥のあるオクターブ(defectivam octavam)」であると以前述べたが、それは構成においては無用ではない。なぜなら、そこでは補足によって完全化され、もはや5度に従属しないからである(p. 110-111)。 短6度(sexta minor)も同様に短3度から派生し、その性質と感情を共有する。デカルトは、これらの協和音が感情を動かす力について語るべきだとしながらも、それはこの提要の範囲を超えるとして割愛する。彼は、長3度と長6度が短3度と短6度よりも心地よく、喜ばしいと述べる。これは実践家によっても観察されていることであり、短3度が長3度から偶然的に生じ、長6度がそれ自体で生じる(長3度が複合されたものに過ぎない)ことから容易に導き出される(p. 111)。

  24. 音の連続的性質:音階(De Gradibus sive Tonis Musicis)
    音楽における音階(Gradus)は、主に2つの理由から必要とされる。

  25. 協和音間の移行を可能にするため:協和音自体だけでは、音楽にとって非常に心地よい多様性をもって移行することはできない。

  26. 音の空間を特定の間隔に分割するため:これにより、歌は協和音だけを用いるよりも、常に快適に進むことができる(p. 112)。
    第一の観点から見ると、音階は4つの種類しかない。それは協和音間の不均等から導かれる。協和音は互いに1/2、1/3、1/4、1/5、または1/6の差しかなく、それ以外の間隔は他の協和音を形成する。したがって、すべての音階はこれらの数から成り立ち、最初の2つは全音(tones)(長全音と短全音)、残りの2つは半音(semitonia)(長半音と短半音)と呼ばれる(p. 112)。 音階は協和音間の不均等から生じることを証明するため、デカルトは例えばAからBへが5度で、AからCへが短6度であれば、BからCへは必ず5度と短6度の差である1/8が存在するという例を挙げる。彼は、音は同時に発されるだけでなく連続的に発される際にも、できるだけ先行する音と協和すべきであると強調する。これは音階が協和音の不均等から生じる場合にのみ起こる(p. 113)。
    第二の観点から、音階が音の全空間(オクターブ)でどのように配置されるべきかを見ると、そこには「正当な(legitimi)」音階しかなく、それらは協和音を直接分割する。すべての音の空間はオクターブに分割され、各オクターブは同一であるため、1オクターブの空間が分割されれば、すべての音階が得られる。このオクターブはすでに長3度、短3度、4度に分割されている(p. 114)。 音階は、長3度、短3度、4度を分割することによってのみ、オクターブ全体を分割できる。具体的には、長3度は長全音と短全音に、短3度は長全音と長半音に、4度は短3度と短全音に分割される。さらに短3度は長全音と長半音に分割される。したがって、完全なオクターブは3つの長全音、2つの短全音、2つの長半音から構成される(p. 114)。 ここには3つの音階の種類しかなく、短半音は協和音を直接分割せず、短全音を分割するだけであるため除外される(p. 114)。 デカルトは、短半音のような音階がなぜ認められないのかという反論に対し、まずそのような細かな分割では声が動くのが困難であること、そして短半音が長全音と結合すると「非常に不快な不協和音(valde ingratam dissonantiam)」を生み出すためだと答える。彼はその例として64と75の数値を挙げている(p. 114-115)。
    彼は、鋭い音は鈍い音よりも強い「spiritu(精神)」または「tâctu five pulsu(触覚または打撃)」を必要とするという観察から、音階が発明された主要な理由を提示する。これは、音を出すために弦をより強く張る必要があることや、空気をより強く分割して鋭い音を出す必要があることから経験的に確認される。また、鋭い音ほど耳を強く打つ(p. 115)。 したがって、音階は、もし声が協和音の音程だけを進むと、強弱の比率において「過度な不釣り合い(nimia... disproportio)」が生じ、聴衆と歌手の両方を疲れさせるため、協和音の音程間の「médium quid(中間的なもの)」として発明された。音階それ自体は耳を満足させるほどの甘美さを持たず、協和音との関連でのみ考慮されるべきである。そのため、一つの音階を進んでも、次の音階に到達するまで耳は満足せず、次の音階は先行する音階と協和音を形成する必要がある(p. 115-116)。
    デカルトは、音階がオクターブ全体にわたってどのように配置されるべきかについて議論する。彼は、長半音は常に両側に長全音を持ち、短全音も同様に長3度を構成する長全音を持つべきであると述べる。しかし、オクターブが2つの半音と2つの短全音しか含まないため、4つの長全音が必要になる代わりに3つしか含まれていないため、「schisma(スキスマ)」と呼ばれる長全音と短全音の間の差異を用いる必要が生じる。これにより、長全音はある意味で「可動的(mobilis)」になり、2つの機能を持つことができる(p. 116-117)。彼は、オクターブの空間を円に巻きつけた図を用いてこれを説明する(p. 117)。 彼は、この可動性が聴覚に知覚できる不協和音を生じさせないほどわずかであることを指摘する(p. 117)。
    彼は、実践家が「manus(手)」と呼ぶ音階の順序が、音階を配置できるすべての方法を包含していると述べる。彼はこの「手」を円として表現し、最も低い音であるFから始まると説明する。オクターブの分割は、最初に2つの全音を置き、次に半音、そして最後に3つの全音を置くか、または最初に3つの全音を置き、最後に2つを置くかのいずれかの方法でしか開始できない(p. 119-120)。
    この図から、オクターブ全体には、技術的に見出された「mobilis terminus(可動的な音程)」なしには、声が自然に進むことのできる空間が5つしかないことがわかる。これが、これらの5つの間隔を自然な声に割り当て、それらを表現するために「6つの音(sex tantum voces)」:ut, re, mi, fa, sol, la が発明された理由である(p. 121)。 彼は、utからreへは常に短全音、reからmiへは常に長全音、miからfaへは常に長半音、faからsolへは常に長全音、solからlaへは常に短全音であると続ける。 また、人工的な声には[?](B molle)と[tl](B quadratum)の2つの種類しかない。これは、自然な声では分割されないAとCの間の空間が、半音を最初か2番目に置くかの2つの方法でしか分割できないためである。また、これらの人工的な声で再びut, re, mi, fa, sol, laという音符が繰り返される理由も説明する。これは、長半音を表す音符がmiとfa以外にないためである。これら以外の音符を新たに発明しても、同じ音程を表すだけであり、音符の多さは音楽家を混乱させるため不便である(p. 121)。
    デカルトは、声が互いにどう異なるか、そして[?](B molle)が最も低い声であり、[tl](B quadratum)が最も高い声である理由を述べる。なぜなら、[tl]はオクターブを増4度(tritonum)と減5度(falsam quintam)に分割するため、[?]よりも心地よくないからである(p. 122)。 彼は、実践家がしばしば用いる「diese(増音程)」や「b molle(減音程)」によって説明されるような音程について、なぜそれが「手」に含まれないのかという反論に対し、そのような方法では無限に進んでしまうと答える。彼は、1つの歌における変化は3つの順序内に含まれると主張する。各順序には6つの音程が含まれ、次の順序に移行すると2つが変化し、4つが残る。さらに3番目の順序に移行すると、2つがさらに変化し、2つが残る。彼は、なぜこの変化が起こるのか、またなぜラの音符の後に1つの音符が上がると[?]が付属するのかについては、もはや思い出せないと述べるが、実践を通して容易に導き出せるだろうと示唆する(p. 122-124)。 最後に、彼はut, re, mi, fa, sol, laの6つの声が過剰であり、3つの異なる音程しかないため4つで十分だという反論に答える。彼は、確かにそう歌うことは可能だが、音程の低い音と高い音の間には大きな違いがあり、低い音の方が主要であるため、同じ音符を高いパートと低いパートで使い回すよりも、異なる音符を使う方が良いと述べる(p. 124)。
    彼は実践家が音楽を5線譜に記す方法を説明し、線と線の間のスペースは2つの音階の距離を持つ。彼らは音符の間の等しい距離を示すために、[?]と[tl]の2つの記号を発明した。また、歌がしばしば複数のパートで構成されるため、それらのパートのどちらが高いか低いかを示すために、ト音記号、ヘ音記号、ハ音記号の3つの記号が発明された(p. 124-125)。 彼は、すべての弦を表現した図を提示し、弦が表す空間の大小に応じてそれらを互いに近づけたり離したりする。また、[?]と[tl]の違いを示すために、この図を二重にしている。彼は、これ以上進まないと述べ、これは3つのオクターブを分割し、その中にすべての協和音が含まれているからである。これは実践家の用法とも一致し、彼らはほとんどこの空間を超えることはない(p. 126-127)。 これらの数値の目的は、歌のすべての部分に含まれる各音符が互いにどのような比率を持っているかを正確に知るためである。例えば、弦を540の等しい部分に分割し、その音が最も低い音Fを表す場合、同じ弦の480の部分はGの音を出す、というように続く(p. 127)。

  27. 不協和音(De Dissonantijs)
    デカルトは、これまでに議論した音程以外のすべての音程を不協和音と呼ぶ。彼は、説明された音階の順序に必然的に見出される不協和音、すなわち歌の中で避けられないものだけを扱う。 不協和音には3つの種類がある。

  28. 音階とオクターブからのみ生じるもの:7度(septimae)と9度(nonae)、または16度(decimae sextae)が含まれる。これらは複合9度であり、9度自体はオクターブから複合された音階に過ぎない。7度はオクターブから何らかの音階が引かれた残りの音程である。したがって、音階には3つの種類があるため、3種類の9度と3種類の7度が存在する(p. 128)。彼は、これらの不協和音の音程が音階そのものよりも大きな数で表現されるため、聴覚にとってより心地よいと思われると疑問を呈する(p. 128-129)。 この疑問に対し、彼は音階が、協和音の低い音と高い音の間の「不均等(inaequalitas)」を和らげる「中間的なもの(medii)」として発明されたという彼の以前の主張を繰り返す。7度や9度では、その音程の幅が協和音の音程よりも広いため、より大きな不均等な緊張をもって発せられる必要があり、同じことは達成できないと説明する(p. 129)。

  29. 長全音と短全音の間の差異(スキスマ)から生じるもの:スキスマによって1つの音程が可動的になるため、音階の系列全体において、そのような不協和音が連続的に発せられる音の中で(関係において)存在することは避けられない。これには、1つのスキスマ分短い短3度と5度、および1つのスキスマ分長い4度と長6度が含まれる(p. 129)。 これらの不協和音の数は「nimis magni(大きすぎる)」ため、耳に不快な音程を表現するのに適していない。また、先行する協和音のように非常に近い協和音を持たず、そこから甘美さを借りることもできない。そのため、これらの不協和音は、特にゆっくりとした、装飾のない音楽では避けるべきである。しかし、非常に速く演奏される音楽では、耳はこれらの不協和音の欠陥に気づくほど余裕がない。その欠陥は、5度に近いため、耳がそれらを5度と比較し、5度の主要な甘美さからそれらの不完全さをより明確に認識するため、より明白である(p. 131)。
    最後に、彼は音のすべての高低の多様性は、2, 3, 5の数からのみ生じるという彼の主張を繰り返す。音階も不協和音もすべて、これらの3つの数から構成され、それらによって分割されると最終的に単位に還元されると述べる(p. 131)。

  30. 作曲の原理と旋法(De ratione componendi ET MODIS)
    デカルトは、音楽を構成する上で大きな誤りや文法誤りを犯さずに済む3つの主要な原則を提示する。

  31. **同時に発せられるすべての音は、4度を除いて、何らかの協和音によって互いに異なっているべきである。**4度はバスに対して最も低い音として聞こえるべきではない。(p. 131-132)

  32. 同じ声は、連続的に音階または協和音によってのみ動くべきである。(p. 132)

  33. 増4度や減5度は、関係においても決して認めるべきではない。(p. 132)
    より優れた優雅さと調和のために、以下の追加の原則が守られるべきである。

  34. **最も完璧な協和音の一つから始めるべきである。**これにより、冷たい協和音が最初に聞こえるよりも注意が喚起される。あるいは、一つの声の休符や沈黙から始めるのも良い。なぜなら、予期せぬ声が最初に耳に届くと、その新規性が注意を最大限に引きつけるからである。(p. 132)

  35. **2つのオクターブや2つの5度が直接連続してはならない。**これは、これらの協和音が最も完璧であるため、一つが聞こえると耳は完全に満足する。もしすぐに他の協和音によって注意が更新されなければ、多様性が少なく、ある意味で冷たい響きに耳が囚われてしまう。これは3度や他の協和音では起こらない。むしろ、それらが繰り返されると注意が持続し、より完璧な協和音を期待する欲求が高まる。(p. 132)

  36. **可能な限り、パートは「反対の動き(motibus contrarijs)」で進むべきである。**これにより、多様性が増し、各声の動きが反対の声とは異なり、協和音も隣接する協和音とは異なるものになる。また、各声は「跳躍(saltus)」よりも「音階(gradus)」で進む頻度が高いべきである。(p. 133)

  37. **不完全な協和音からより完璧な協和音へと進む場合、常に遠いものよりも近いものへと移行すべきである。**例えば、長6度からオクターブへ、短6度から5度へ、などである。ユニゾンや最も完璧な協和音についても同様である。これは、不完全な協和音を聞いている間、耳はより完璧な協和音を期待し、そこに安らぎを見いだそうとする自然な衝動があるためである。対照的に、完璧な協和音が聞こえている場合、不完全なものは期待されないため、どちらが置かれても構わない。しかし、この規則は頻繁に変化し、デカルトはどの協和音からどの動きで到達すべきかをすべて記憶しているわけではないと述べている。(p. 133)

  38. **歌の終わりには、聴衆がもはや何も期待せず、歌が完璧であると認識するように耳を満足させるべきである。**これは、常に最も完璧な協和音で終わる特定の音階の順序(実践家が「cadentias(終止)」と呼ぶもの)によって最適に達成される。(p. 133-134)

  39. **最後に、歌全体および各声は個別に、特定の限界内に収められるべきであり、これを「Modos(旋法)」と呼ぶ。**これについては後述する。(p. 134)
    これらの原則は、2つ以上の声で構成される対位法において正確に守られるべきだが、速い(diminuta)または装飾された(figurata)歌では多くが緩和される。 デカルトは、歌で通常用いられる4つのパート(声部)について説明する。

  40. バス(Bassum):最も低く、最も重い声部で、主要である。他のすべての声部が主にこれに依拠する。バスはしばしば音階ではなく跳躍で進むが、これは協和音の音程の不均等による不快感が、バスにおいてはより少ないためである。また、バスは主要であるため、よりはっきりと聞こえるべきであり、跳躍で進むことによってそれが達成される。(p. 135)

  41. テノール(Tenorem):バスに次ぐ声部で、その種類において主要である。これは全体の旋律の主題を含み、歌全体の身体の中央の神経のようなもので、他の部分を支え、結合する。そのため、可能な限り音階で進むべきである。(p. 135-136)

  42. コントラテノール(Contratenor):テノールに対立し、反対の動きで進むことで多様性をもたらすために用いられる。バスと同様に跳躍で進むが、これは単に便宜と多様性のために行われる。実践家は時々テノールよりも下に置くこともある。(p. 136)

  43. ソプラノ(Superius):最も高い声部で、バスに対立する。そのため、しばしば互いに反対の動きで出会う。ソプラノは最も高い声であるため、音程の差異が大きいと不快感が大きくなるため、可能な限り音階で進むべきである。ソプラノは速い音楽では最も速く動き、バスは最も遅く動く。(p. 136)
    これらの歌において、不協和音は協和音の代わりに頻繁に用いられる。これは主に2つの方法で行われる。

  44. Diminutio(ディミヌティオ):あるパートの1つの音符に対して、別のパートで2つ、4つ、またはそれ以上の音符が置かれる場合。この場合、最初の音符は他のパートの音符と協和すべきであり、2番目の音符がもし前の音符と音階でしか異ならない場合、たとえ増4度や減5度であっても不協和音となることができる。これは、2番目の音符が単に偶然的に置かれ、最初の音符から3番目の音符(その最初の音符と反対側のパートの音符と協和すべきもの)への通過点として見なされるからである。しかし、もし2番目の音符が跳躍で進む場合、すなわち最初の音符と協和音の間隔で異なる場合、それは反対側のパートとも協和すべきである。(p. 137)

  45. Syncopa(シンコパ):ある声部の音符の終わりが、反対側のパートの音符の始まりと同時に聞こえる場合。これは、先行する音符の記憶が耳に残っているため許容され、不協和音は関係においてのみ許容される。不協和音の多様性は、それが位置する協和音をより良く聞こえさせ、注意を喚起する。不協和音BCが聞こえるとき、期待感が高まり、シンフォニーの甘美さに関する判断は一時的に保留される。そしてDの音符に到達すると耳はより満足し、Eの音符ではさらに完璧に満足する。これらのシンコパは、終止で用いられることが多い。なぜなら、長く待たされたものがようやくやって来るとより心地よく、不協和音が聞こえた後の音が完璧な協和音やユニゾンで安らぎを得るからである。(p. 137-138)
    彼は、終止において5度よりもオクターブによって耳がより満足し、ユニゾンが最も完璧であると強調する。これは、5度が協和の面で最も心地よいからではなく、終止においては「quietem(安らぎ)」を求めるべきであり、それは差異が少ない、または全くない音(ユニゾン)において最も大きく見出されるからである。(p. 138) この安らぎ(終止)は終わりだけでなく、歌の途中でも役立つ。一方のパートが休止を望むように見え、もう一方のパートがさらに進むような場合に、大きな快感をもたらす。これは音楽における修辞的表現であり、consequentia(模倣)、imitatio(模倣)、類似の技法も同様である。これらは2つのパートが連続的に(異なる時間に)全く同じものを歌うか、全く反対のものを歌う場合に起こる。(p. 138-139) 彼は、常にそのような技巧を最初から最後まで維持する「人工的な対位法(contrapunda illa artificiosa)」は、デカルトの音楽と同様に感情を喚起するために発明された詩におけるアクロスティックや回文歌のように、音楽に属するものではないと考える。(p. 139)
    8.1. 旋法(De Modis)
    旋法は実践家にとって重要な主題であり、誰もがそれを知っているとデカルトは述べるため、ここでは詳しく説明しない。旋法は、オクターブが等しい音階に分割されていないことから生じる。時には全音が、時には半音が含まれるからである。また、旋法は5度から生じる。なぜなら、5度が耳に最も受け入れられ、すべての歌が5度のためだけに作られているように見えるからである。 オクターブは7つの異なる旋法で音階に分割できる。各旋法はさらに5度によって2つの方法で分割できる。ただし、そのうち2つでは5度の代わりに減5度が見出される。 これにより、合計12の旋法が派生するが、そのうち4つは「あまり優雅ではない(minus elegantes)」。これは、これらの旋法の5度に増4度が含まれているため、主要な5度(それによって歌全体が構成されているように見える)から音階を上がったり下がったりすると、必然的に増4度や減5度という「誤った関係(falsa relatio)」に遭遇するからである。(p. 139) どの旋法にも3つの主要な音程があり、そこから始めるべきであり、特にそこで終わるべきであると彼は述べる。旋法は、歌のパートが「適度な範囲を逸脱しないように(ne vitra modum... divagentur)」歌を抑制するため、また特に、旋法の多様性に応じて私たちに異なる影響を与える様々な歌を「contenendum(包含する)」(おそらくcompendiumの誤記で、componendum「作曲する」の意?)のに適しているため、旋法と呼ばれる。(p. 140) 実践家は経験によってのみこれを知るが、その理由は彼の述べたことから多く導き出される。彼は、いくつかの旋法には長3度や短3度が多く含まれ、また主要な位置かそうでないかにかかわらず見出されることが確かであり、それらから音楽のほとんどすべての多様性が生じると以前示したと述べる。(p. 140) さらに、音階自体についても同様のことが言える。長全音は最初の音階であり、協和音に最も近く、長3度の分割によってそれ自体で生じ、他のものは偶然的に生じるからである。彼は、個々の感情が音楽によってどのように引き起こされるべきかについて、音階、協和音、時間などを通して個別に論じるべきだが、この提要の目的を超えるとしている。(p. 140)
    結論
    デカルトは、この提要を「iamque terram video, festino ad littus(もう陸が見える、岸辺に急ぐ)」と述べ、簡潔さのため、忘却のため、そして何よりも「無知(ignorantia)」のため、多くのことを省略したと謙遜する。彼はこの作品を「ingenij mei partum, ita informem, & quasi ursae foetum nuper editum(私の精神の生み出した、かくも形をなさない、まるで最近生まれた熊の仔のようなもの)」と表現し、これをベークマンとの友情の証として受け取ってくれることを願う。ただし、それは彼の書斎の隅に埋もれて、彼以外の誰の判断も受けないという条件付きである。なぜなら、他の人々はデカルトのように彼に「benevolos oculos(好意的な眼差し)」を向けて、その「truncis partibus(未完成な部分)」から目を背け、彼が確かに自身の精神の活き活きとした線を描いたと考える「pièces plus achevées(より完成された作品)」に目を向けることはないだろうからである。また、彼らはこの作品が「inter ignorantiam militarem ab homine desidioso & libero, penitúsque diversa cogitante & agente, tumultuosè tui solius gratiâ esse compositum(兵士たちの無知の中で、怠惰で自由な、そして全く異なることを考え、行動している人間によって、ただあなたのためだけに無秩序に書かれたもの)」であることを知らないだろうからである。(p. 140-141) この謙遜の言葉は、デカルトが自身の初期の作品に対する自己評価を示すと同時に、彼の厳格な学問的基準と、彼が後に目指すことになる体系的な哲学の予兆を示している。


※ 以上、NotebookLM の生成結果です。内容は不正確な場合があります。ご了承くださいませ。

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