苦しみの中で神の救いを願うこと:ヨナ書・ローマ書・マタイ福音書から考える
今度、聖書の分かち合いがあります。
聖書箇所は、ヨナ書、ローマ書、マタイによる福音書です。この三つの箇所から、どのようなことが読めるのでしょうか。
ここでは、結論を出すというわけではなく、分かち合いに向けて考えるための材料として、三つの箇所を並べてみたいと思います。
旧約聖書
言った、
「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、
主はわたしに答えられた。
わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、
あなたはわたしの声を聞かれた。
あなたはわたしを淵の中、
海のまん中に投げ入れられた。
大水はわたしをめぐり、
あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。
わたしは言った、
『わたしはあなたの前から追われてしまった、
どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか』。
水がわたしをめぐって魂にまでおよび、
淵はわたしを取り囲み、
海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。
わたしは地に下り、
地の貫の木はいつもわたしの上にあった。
しかしわが神、主よ、
あなたはわが命を穴から救いあげられた。
わが魂がわたしのうちに弱っているとき、
わたしは主をおぼえ、
わたしの祈はあなたに至り、
あなたの聖なる宮に達した。
むなしい偶像に心を寄せる者は、
そのまことの忠節を捨てる。
しかしわたしは感謝の声をもって、
あなたに犠牲をささげ、
わたしの誓いをはたす。
救は主にある」。
ヨナ書には、異邦人の町ニネベに行き、人々に悔い改めを呼びかけるよう命じられた預言者ヨナの姿が描かれています。
しかしヨナは、イスラエルではない異邦人が神の憐れみを受けることを受け入れられず、神の命令に抵抗します。その結果、ヨナは海に投げ込まれ、大きな魚にのみ込まれることになりました。
今回の箇所は、その魚の腹の中でヨナが神に祈る場面です。
ヨナは、水に囲まれ、深い淵に沈み、神の前から追われてしまったように感じています。それでも、命が弱り果てようとするとき、ヨナは主を思い出し、祈ります。
そして最後には、「救は主にある」と言います。
使徒書
わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。
ローマ書は、使徒パウロが、キリストによる救いについて詳しく論じた書簡です。
パウロは、特に異邦人への宣教を任された使徒でした。しかしこの箇所では、同胞であるイスラエル人のことを思い、深い悲しみと痛みを語っています。
イスラエルには、神の子とされる身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束が与えられてきたものと考え、父祖たちもイスラエルに属し、キリストも肉(人種)によればイスラエル人の中から出ていました。
それほど多くのものを与えられてきたイスラエルの人々が、なぜキリストを受け入れないのか。パウロは、その現実に苦しんでいたと考えることできます。
自分がキリストの救いから離されることになっても構わないとさえ語るほど、パウロが同胞の救いを願う箇所です。
福音書
それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。
マタイ福音書は、古い伝承では十二使徒の一人であるマタイによって書かれたとされてきました。少なくとも、ユダヤ人やユダヤ的な背景を強く意識して書かれた福音書であるとは言えるでしょう。
この箇所では、弟子たちが舟に乗り、逆風と波に苦しんでいます。
夜明け前の暗闇の中、イエスが水の上を歩いて近づいて来られます。弟子たちはそれがイエスだと分からず、「幽霊だ」と言って恐れました。
しかしイエスは、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と語られます。
ペテロは、イエスであると分かると、自分にも水の上を歩かせてほしいと願います。イエスが「おいでなさい」と言われると、ペテロは舟から降り、水の上を歩き始めました。
ところが、風を見て恐ろしくなり、おぼれかけます。
そのときペテロは、「主よ、お助けください」と叫びます。イエスはすぐに手を伸ばし、ペテロをつかんで助けられました。
三つの箇所の共通点
この三つの箇所には、それぞれ強いイスラエル意識、あるいはユダヤ的な背景があります。
ヨナ書では、イスラエルの預言者であるヨナと、異邦人であるニネベの人々との関係が問題になります。ローマ書では、異邦人への使徒であるパウロが、同胞イスラエルの救いを願っています。マタイ福音書のこの場面にはイスラエルの問題が直接書かれているわけではありませんが、福音書全体がユダヤ的な背景を強く意識していることは考慮できるでしょう。
また、三つの箇所には、苦しみの中で神の救いを求める姿が描かれているとも言えます。
ヨナは、海に投げ込まれ、魚の腹の中から神に祈りました。そして、「救は主にある」と告白します。
パウロは、自分自身がおぼれているわけではないと考えることできます。しかし、同胞イスラエルの救いを願い、「大きな悲しみ」と「絶えざる痛み」を抱えています。異邦人にキリストを受け入れて救いが広がる一方で、イスラエルの多くがキリストを受け入れていない現実に苦しんでいたと考えることができます。
ペテロは、実際に水の上でおぼれかけ、「主よ、お助けください」と叫びます。するとイエスは、すぐに手を伸ばしてペテロをつかまれました。
ヨナは自分自身の救いを願いました。パウロは同胞の救いを願いました。ペテロはおぼれかけた瞬間に、キリストの助けを求めました。
置かれている状況は異なります。しかし、苦しみや恐れ、悲しみの中で、神に向かって叫び、神の救いを待つという点では、三つの箇所はつながっているように思います。
ヨナは、「救は主にある」と告白しました。ペテロは自分で水から抜け出したのではなく、イエスに手をつかまれて助けられました。パウロもまた、イスラエルの救いを自分の力で実現できないからこそ、深い悲しみを抱えながら神の救いを願っていたと考えることができます。
この三つの箇所を通して読まれることの一つは、苦しみの中から神を呼び求める人間の姿と、その声を聞き、手を伸ばしてくださる神の姿なのかもしれないと考えます。
